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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
三章
52/70

52.あなたと私のライウス






「シャーリー、今日も王女様とお茶会?」

「ええ……」

「シャーリー?」

「え? あ……そうね、この後はお茶会ね。ごめんなさい、ジャスミン。少しぼんやりしていたの」

「んーん、いいよ。きっと疲れてるんだよ。大変だね、毎日お茶会だもん」


 しみじみ頷くジャスミンの横で、サムアもどこか疲れた顔で頷いている。私は窓に向けていた意識をきちんと二人の元へと戻した。


 窓の外は少し強めの雨が降っている。だから、ライウスへの帰還が遅れていた。

 王から、結婚の許しを頂けた今、私達が王都に残る理由はない。まだ忙しない故郷へ早く領主を帰してあげなければならないのに、この雨だ。無理を押してまで急ぐ理由がないのもまた事実で、せっかくだからとアジェーレア様が毎日誘ってくださる何かしらへ参加しながら過ごしている。


 今はその合間だ。まだお茶会までは少し時間があり、昼食からもほどよく時が過ぎている。だから、カロン達に休憩してもらっているのだ。二人は疲れていたこともあり早めに休憩に入ってもらったので、今の時間は私についてくれている。

 雨が降っていることもあり、城の中はいつもより薄暗く、静かだ。普段も静かな場所であるが、今日は一段と顕著である。




「…………静かだねぇ」


 いつもは元気いっぱいなジャスミンも、ここ数日続く雨と、慣れない環境に少し参っているようだ。


「私、王都って楽しいこと一杯だと思ってたんだけど、あ、お店とかは楽しかったよ! ……でもね、お城はちょっと、苦手かな」

「俺も。……城ってさ、人数多いのに、何か誰もいないみたいだよな。人の気配がないって感じだ。まあ、ここが王族様の居住区域周辺だからってのもあるんだろうけど」


 口を閉ざせば、閉めきった窓に雨粒が当たって弾ける音だけが部屋に響く。ここだけではない。今だけでもない。王族の居住区域に近いこの場所は、いつもそうだ。使用人は己の存在を示さないよう最低限の音しか発さず、物音も丁寧にしまわれる。音も声も、基本的に主である王族が発する物だけが存在を主張していた。

 いつもは楽しそうに話している二人も、その雰囲気に飲まれたのか、私に宛がわれた部屋の中だというのに、そっと声を殺している。最初は緊張からそうしているのかと思っていたけれど、大切にしているティムからの贈り物をこっそり身につけ始めて違うと気がついた。きっとお守り代わりにしているのだろう。


「そうね……私も少し、苦手だわ」

「え? そうなの?」

「ちょっと意外だな。シャーリーって、静かな場所が似合う印象があるから。むしろ、ジャスミンが横でぎゃあぎゃあ言ってるほうが違和感ある」

「ぎゃあぎゃあなんて言ってないもん! ぎゃんぎゃんだもん!」

「そっちのほうが悪くないか!?」


 いつもの元気な二人が戻ってきてほっとすると同時に、扉を叩く音がした。二人はぱっと反応し、顔を合わせ、どちらが出るか一瞬で判断をつける。結果としてどちらも判断がつけられなかったらしく、競い合うように押し合いへし合いし、扉へと向かった。



 入ってきたのはカイドだった。カイドはさっきまで仕事をしていたため、葉巻の匂いが強い。カイド自身は、苦い、高い、匂いで場所がばれるから狙われた際不利になると吸わないが、男性同士の話し合いの場では当たり前のように皆が吸うので匂いが移ってしまうのだ。

 窓が閉め切られ匂いが籠もってしまう雨の日は尚更だ。空いた時間にこうして会いに来てくれるカイドは、時々この匂いを纏わせている。とても、懐かしい匂いだ。


 ジャスミンとサムアは、どっちの対応が早かったのかと言い合っている。いつもの雰囲気に戻っている二人を見たらほっとする。




 私は少し、変なのだ。心も身体も、ふわふわと浮いてしまうような感覚にふと襲われる。浮き足立っているわけでも浮ついているわけでもない。どちらかというと、心許ない不安が纏わり付いていた。

 結婚の許しも頂けた。アジェーレア様が抱いていたカイドへの憂いもなくなった。不安なことなど何もないはずなのに。


「お嬢様、お疲れではありませんか?」


 さっきまでジャスミンとサムアが座っていた椅子があるのに、カイドは私の前に立っている。この後用事があるのだろう。長居することは出来ないようだ。


「平気よ。毎晩夜会があるわけではないもの」

「ですが……ご気分が優れないのではと、カロリーナも心配していました」

「そう、かしら」


 襲撃事件の後、大規模な集会は控えられている。だから、私は毎日、決まった人と顔を合わせ、お茶をしているだけだ。そんなに疲れるはずもないのに、何故だろう。ずっと眠っていたいと思うほど、身体も思考も鈍く重い。

 雨のせいだろうか。往生際悪くそう思い、自嘲する。本当は分かっているのだ。夢を見た理由も、痛みに鈍くなっていく気怠さも、思考の重さも、吐き気がするような懐かしさの理由も、分かっている。分かっていて、考えたくなかった。


「ライウスに、帰りたいわ」

「……お嬢様?」

「ここは、ライウスに似ているから」


 とても、似ているから。





 続けた声は、意図せず囁くような音となった。けれどそれ以上声を張り上げることなど出来はしない。震えもせず、掠れもせず、ふっと吐き出された小さな吐息に似た言葉に、カイドは息を呑んだ。


 望んでいない。こんな静寂、望んでなどいないのに、懐かしい。

 郷愁の念が、まさかこんな静寂に湧くだなんて思ってもみなかった。決して郷愁の念など抱いてはいけない、あのライウスの悪夢そのものであった私達一家だけの楽園と、ここは似ている。私が生まれ育った悪夢と、よく、似ているのだ。


「カイド、私、ライウスに帰りたい。あなたのライウスに、帰りたいの……ごめんなさい」


 戻りたいと願ったことは真実一度もない。それなのに意識が引き摺られる。一瞬、ここがどこだか、今がいつだか、私が誰なのか、分からなくなる。


「……ええ、帰りましょう。お嬢様。皆で一緒に、俺達のライウスへ帰りましょう。王には今日許可を取ります。どうせ、襲撃の目撃者として城に止められていたに過ぎません。許可はすぐに下りるでしょう。そうしたら、雨でも出立しましょう。幸いにも我々はライウスの民。少々の天候不順など、もっと荒れた時代に馬車を走らせた者からすれば小雨も同然です」


 私の頬を軽く撫で、額に小さな口づけを落としていったカイドが退出していく様子をぼんやり見送る。ああ、駄目だ。椅子から立って見送るべきだったのに。


 声が聞きたい。音が聞きたい。ここは『あの日のライウス』ではないとの証明が欲しい。





「……シャーリー、本当に大丈夫? 具合が悪いんじゃないの?」


 心配そうにそぉっと覗き込んでくるジャスミンに、私はうまく笑えているだろうか。子どもを心配させるなんて。私のせいで、ライウスの宝の笑顔が曇ってしまった。気ばかり焦って、うまく言葉を発せない。


「あ、分かった。あれじゃないのか?」

「あれじゃ分かんないよっ」

「女の人が、結婚前に情緒不安定になるやつ」

「それだ! サムア賢い! よかったぁ。私、赤ちゃん出来たのかと思った」


 ちょうどお茶を飲もうとしていたサムアが盛大に噴き出した。私も咽せそうになった空気をぐっと堪える。


「赤ちゃん出来たら、道中の馬車がしんどいもんね。あー、よかったぁ。びっくりしたぁ」

「お、れがびっくりしたぞ!?」

「えー、なんでぇ? あ、そうだシャーリー」


 噴き出した後始末を必死につけているサムアを放って、ジャスミンはくるりと私を向き直す。そして、両手で私の手をすくい取った。ぎゅっと握りしめるジャスミンの手は、驚くほど温かいのに心地よい。まるで春の日だまりだ。


「あのね、これ、お婆ちゃんの受け売りなんだけどさ。皆ね、手探り中なんだよ。全部初めてなの。子どもも大人も、誰だって今日は初めてでしょ? その中でも、結婚は初めての中の初めてなんだもん。手探りも念入りにしなきゃ! 旦那様だってきっとそうだよ。新しい関係作る時っていつも手探りだもん。手探りして、だんだん物の位置とか分かってくるんだよ。それまではふらふらしちゃったり、よろよろしちゃったり、あちこちぶつかっちゃったりもそりゃするよ。でも、手探りでいろいろ分かってきたら、真っ暗な部屋でも明かりつけないで歩けるようになるよ! 油代節約! しかもお手軽!」


 後始末を終えたサムアが首を傾げた。


「何の話してたんだっけ?」

「…………早番で夜明け前に起きた時の油代節約?」


 自分で言っていてよく分からなくなったのか、ジャスミンも首を傾げる。どうやら勢い込み過ぎたらしい。

 その様子がおかしくて、少し笑う。すると、ジャスミンもサムアもほっとした顔になった。どうやら、思っていたより心配をかけてしまっていたようだ。



 サムアは椅子に座り直し、何故か背筋を正して私をじっと見る。


「あの、さ。旦那様とかカロリーナさんに話しづらいんなら、俺らに話せばいいと思うんだ。……誰かにいじめられたりしたのか?」

「い、いえ? どうしてそう思ったの?」

「いや……だって、俺達は本来城にいれる身分じゃないし。シャーリーは旦那様の婚約者だし俺らもそう思ってるけど、ここは城だし、身分にうるさい奴はいるだろ」

「……待って。あなた達、何か言われたの?」

「俺らのことはいいんだよ。多かれ少なかれ、そういうことは必ずあるもんだって、俺もジャスミンも分かってる。むしろ、ライウスの屋敷が、旦那様がおかしいんだ。身分差があっても当たり前に人として扱ってくださるなんて、そっちのほうが珍しいってことくらい、俺らは分かってる。ここでもいつも守ってくださる。だから、俺らのことは気にしなくていい。問題は、シャーリーだよ。シャーリーは、大丈夫か?」


 本当に、私が思っていた以上の何倍もの心配をかけていたようだ。真剣に、けれど慎重に問うてくれるサムアに、ゆるく首を振る。

 つらいことも恐ろしいことも、外部から与えられてはいない。本当に、悲しいことは何もないのだ。


「皆、よくしてくださるわ……問題は、私の中にしかないのだから」


 私の中の楽園が、私を育んだ幸福が、私を苛む。



 今まで忙しくて忘れていた。あまりに穏やかで幸せで、優しい時間だけが流れていたから、忘れてしまっていたのだ。静寂は私の罪を呼び起こすのだと。

 けれどそんなこと、この子達に言えるはずもない。

 ジャスミンとサムアは、私の返答にぎゅっと眉を寄せた。最低限嘘にならない言葉を選んだつもりだったが、それは彼らに勘違いを与えてしまったらしい。私は本当に、お喋りが下手だ。



「他人に完璧な倫理を求める人間には近づかないほうが勿論いいし、自分もなったら駄目だ。自分に対してもだ。シャーリーは、何だか少し、自分に厳しい気が、俺はする」


 サムアは、静かに言う。


「自分の理解力が足りないのかと疑う前に相手を罵倒する人間にも、近づいちゃ駄目だ。そんな人間が自分の基準しか通さない理解で発した言葉なんて、気にするだけ無駄だ。だけど、そんな奴らが嫌だなと、嫌いだって、あっち行けって思う自分を責める必要もないんだ。負の感情なんて誰にだってある。そんな感情、抱かない人間のほうが怖いし、歪だ。馬鹿にされたら悔しいし、裏切られたらこの野郎って思うし、意地の悪いことされたらあいつやな奴だなって思う。そんなのは当たり前のことだ。それは悪いことじゃない。それを悪いって思うような奴は、加害者くらいだ」

「いいんだよ。迷ったって、手探りしたって。立ち止まったって、ぶれたって、いいんだよ。大事なものを置き去りにしなきゃ、それでいいんだよ。でも、もし忘れちゃっても、取りに帰ればいいんだよ。何だっていいの。ねえ、シャーリー、どんなシャーリーでも、いいの。いい子じゃなくても、いいの。怒ったって、悪いこと考えたって、いいんだよ。シャーリーはいつも自分のこと二の次三の次……十の次くらいにしちゃうから、私達、いつも心配なの」


 サムアもジャスミンも、何か勘違いしている。だって私は誰にも何も言われていない。自分を犠牲にしているつもりも、ない。

 けれど私の話せなかった言葉を汲んで、考えて、その上で私が生きやすいよう必死に考えて言葉を尽くしてくれているのだと、分かった。


 事情を何も知らない子ども達は、そうして私を助けようとしてくれているのだ。言葉を選んでいるだろうに、あまり淀みがないのは、ずっと考えていたからかもしれない。


 優しい子ども達。ライウスの宝。この子達は、ライウスの未来であり、私の宝だ。大切で可愛く愛おしい子ども達。

 薄暗く灰色の景色を作る雨の中でも、日向のような明るさで未来を示す、光の子だ。


「えーと、だから……どんなシャーリーでもいけないってことはないんだよ。もし、もしもね、シャーリーが間違えたら旦那様が教えてくださるし、私達もいるんだから、あまりむずかしーく考えないほうがいいよ。前は前、今は今、これからはこれから、手探りは一生続くんだから」

「何かあったら、言える人に言えばいいと、俺は思うんだ。旦那様でも、カロリーナさんでも、イザドル様でも、勿論俺達でも、誰でも。シャーリーは、別に一人じゃないんだから、一人で結論出す必要もないし………………あいつにも、そう言ってやればよかったって、俺はずっと思ってるんだ」


 自分が描いている、あるべき姿。元領主の娘として、大罪人としてあるべきだと定められる形がある。そして、己に課したものがあった。それをどこまで忠実に守れるか。ウィルフレッドも、己に課した何かがあった。

 分かっている。どうしても捨てられない。捨てた方が余程楽だと分かっているのに、大罪を纏って死んだ私達にはもはやその選択は与えられないのだ。死人に罪は償えない。私達は一生許されることはない。許されることがない以上、私達に課せられたもの、私達が課したものは変わることはない。


 だけどきっと、出来たことは、あったのだろう。今から出来ることも、きっと、ある。過去の罪の光景に引っ張られ、呆然としている間に、今の私に出来ることはあるはずだ。



「ありがとう、ジャスミン、サムア……あのね、私、あなた達に話したいことがあるの」

「うん」

「おう」


 短く答えた二人の身体がそわりと動く。けれどすぐに表情を引き締めてぴたりと動きを止める。そわそわした期待を表に出さないように頑張っているのだと分かって、思わず笑ってしまう。


「ライウスに帰ったら、聞いてくれる?」

「うん!」

「おう!」


 ちょっとそわそわを隠しきれなくなったらしい。前のめりになってしまった二人に、私はやっぱり笑ってしまった。



 本当は彼らが成人したらと思っていた。けれど、聞いてほしい。私のことも、ウィルフレッドのことも。当事者として知っているからではない。知っていなければならないからでもない。知らないから、聞いてほしい。この子達に聞いてほしい。許されたいからでも、助けてほしいからでもない。ただ聞いてほしい。

 だから。


「早くライウスに帰りたいね!」

「そうだな!」

「そうね」


 私達はそう約束した。何の憂いもなく簡単に叶えられる、明日の予定を確認するほどの難しさしかない約束をした。

 はずだった。






「ねえ、シャーリー。カイド・ファルアをわたくしにくれないかしら。大丈夫、あなたにはお兄様をあげるわ。ね? いいでしょう?」


 約束が、そんな愛らしい声に切り裂かれるとは思いもせずに。










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