50.あなたと私の王城Ⅺ
「あの方が生きているだけでいいと思いました。あの方と生きていくことが出来たらと思いました。あの方が幸せであればいいと思いました。あの方と幸せになりたいと思いました。いろいろなことがありすぎて、気持ちが追いつかない部分も確かにあります。だからいま、一つ一つ確かめているように思うのです。元から抱いていた想いも、新たに抱いた想いも、一つ一つ確かめて、育て、重ねている途中なのではと、時々、思うのです」
「好きと、そう思ったらそれでお終いではないの?」
きょとんと返された問いに、私も困る。
「私も、そう思っていました。好きと、確固たるただ一つの感情があれば、やがて穏やかな愛になるのだと思っていたのです……けれど、違いました。あの方、とても可愛いのです」
「はい?」
「カイド様は、とても可愛らしい方なのです。可愛らしい部分を見つける度に、好きになってしまうのです」
「ま、待って? シャーリー、貴女いま、ライウス領主カイド・ファルアのことを言っているのよね?」
「はい」
アジェーレア様は酷く狼狽えた。宝石のような瞳が忙しなく動き、記憶を整理している。だが、思い当たるカイドはどうやら可愛いという感想が当てはまらなかったようだ。最大の混乱を浮かべた顔になってしまった。
「まるで子どものような顔をすることもあれば、男の方にしか見えない顔をすることもあります。一つ一つ知る度に、好きになってしまうのです。知っていたはずのことでさえ、改めて好きだと思えば、また一つ。そうして積み重なるのに、見えなくなってしまえば恋しくて、淋しいのです。それなのに、また見つければはしゃいでしまいそうなほど嬉しくなるのです。私はもうずっと、あの方を好きだと思い続けているのでしょう。そして、様々な顔を私に向けてくれることが、幸せでならないのです」
「……あの強さで守ってくれるから、そういった所を好いたのだと、思っていたわ。そういう所に惹かれるものが、恋なのだと思っていたのだけれど……違うの?」
「そういった面も好きです。あの方の強さも、苛烈さも、私にはない力を丁寧に振る舞うあのしなやかさを、好ましく思います。けれど、私が好きだと言った何でもない物を覚えていてくれたり、とても歩くのが速い人なのに私に歩調を合わせてくれたり、遠くから見つめていても私に気がつけばその速い足で会いに来てくれるのです。呼べば、振り向いて笑ってくれるのです。手を伸ばせば繋いでくれるのです。裾を引けば背を折ってくれ、私が傷を負えばそれが些細なものであれ、とても……本当にとても、心配してくれるのです。同じ物を見て、言葉などなくても笑ってくれる、そんな日々の繰り返しが、私は心から愛おしい」
一人でも、恋は出来る。
けれど私はもう、それでは足りないのだ。
「私は、あの方と恋がしたいのです。そうしたいと思える相手に向ける感情が、恋なのではと、私は思うのです。だから、それが私の恋なのでしょう」
一人では嫌なのだ。他の誰かでも嫌なのだ。強欲な私は、もう思い出だけでは飢えてしまう。
私の恋心はもう、自分一人分の恋では満たされない。
「私と恋をしてほしい。この浅ましくも分不相応な願いをあの方は受け取ってくれました。……私は、本当に幸せな女です。私はもうずっと、あの方が恋しいのです。その手も、その声も、その感情も、彼が世界に放つ全てが恋しくて堪らない。そんな、強欲な女なのです」
「…………それなら、愛は? 貴女にとっての愛とは、どんなものなの?」
それなら簡単だ。家族へ向けるものとの区別をつけることは難しい。だって、愛の形は私の中に既に定まっていたのだ。
「幸せになってほしいと願う気持ちを、私は愛と呼んでいます」
心を望むならば、それはきっと恋だろう。対等に生きるためには、望み望まれるのは正しい形だ。どちらかに偏りがあれば、対等には生きられない。同じ物を返せずとも、相手が等価だと思う物を差し出せばそれは対等だ。
けれど、何も望まぬならば、それはきっと愛なのだと思うのだ。
「大切にしたいのです。あの方が私を大切にしてくれるように、それ以上に、大切にしたいのです。けれどあの人は私とは違って優しすぎるので、私では追いつけないほどの速度で私を守ってくれるのです。それが悔しくてなりません。次こそは、せめて何か一つでも私がカイドを守りたいといつも…………」
じっと、一瞬もぶれずに私を見つめていたアジェーレア様の瞳が、一瞬右に逸れた。私から見て右、それは部屋の方向だ。嫌な予感がして、まさかと思いつつ視線を向ける。
いつの間にか増えている侍女と、彼女達の中心に立っている人を見て、私の頭は真っ白になった。
「いやぁ……ライウス領主が婚約したとの話の際は大人しいご令嬢だと聞いていましたが、なかなかどうして情熱的な方だ。聞いている私まで照れてしまいました。流れ矢の私でこれなのですが、大丈夫ですか?」
カイド・ファルア。
笑いを堪えているマーシュ様が腕を軽く叩いた相手、首まで真っ赤に染めたカイドと目が合った瞬間、私の顔も耳も首も、全てカイドと同じ色に染まった。
一気に茹で上がった頭も顔も、身体全てが真っ赤に染まったのではないだろうか。高熱が出たってこんなに熱くはないだろう。
反射的に椅子を蹴倒して立ち上がる。椅子が大きな音を立ててしまったけれど、今は構っていられない。
確かにここは置いてある家具からしてアジェーレア様の私室には見えないので、来客があることは考えていた。話している内容が内容だったため、羞恥のあまり倒れてしまいそうだ。
恥ずかしくて目眩がする。あまりに熱くて、目の前が真っ赤になってしまうほどだ。
「だ、黙って聞いているなんて、ひどいわカイド!」
「……………………」
「一言声を掛けてくれたなら私だってこんなこと……カ、カイドったら!」
「…………………………」
胸も頭も目尻も全て熱が籠もってしまった私は、とても熱い。今すぐ水に飛び込みたいくらいだ。そして、穴があったら入りたい。頭から布団を被り、ベッドに籠もってしまいたい。
だってもう、とにかく恥ずかしくてならない。自分の中でもうまく言葉に出来ず、取り留めなく紡いだだけの言葉を、よりにもよってカイドに聞かれていただなんて。
「あら、まあ……お兄様、とてもいい時間にいらっしゃったのね」
「……いやぁ、よかれのつもりでカイド・ファルアを連れて来たつもりだったのだけどね」
とても恥ずかしいのは私のほうなのにカイドは自分こそが恥ずかしいと言わんばかりに無言を貫いていた。しかも、その大きな片手で自分の口元を覆って隠している。それなのに瞳はじっと私を見つめ続けているのだ。
そんなの、ずるいではないか。耳も首も真っ赤に染まっているので私と同じほど羞恥を感じているらしいが、実際は私のほうがその何倍も恥ずかしいと思うのである。
「私こんな、恥ずかしい……ひどいわ、カイド」
あまりに恥ずかしすぎて、涙が滲んできた。熱で茹だりきった瞳が勝手に滲ませた涙に、カイドはぎょっとした顔をした。
「も、申し訳ございません」
「知らないわっ。カイドなんて、カイドなんてっ……」
私の肩に触れるか触れないかの位置で手を彷徨わせるカイドを、真っ赤な顔で睨み上げる。胸元でぎゅっと握りしめたドレスはきっと皺になっているけれど、構っていられない。
必死に紡ごうとした言葉は、恥ずかしさのあまり震えてしまい、それすらも羞恥を煽る。これ以上熱くならないと思っていた頬と目元を、さらなる朱が重ねられたと自分でも分かってしまえば、もう本当に堪えられなくなった。
「カロンに言いつけてしまうんだからぁ!」
「本当に申し訳ございませんっ!」
人の気配の薄い、静かな朝食の場は一転して騒がしくなった。一旦落ち着けば、取り乱してしまった事こそ穴を掘って入りたい所業だ。私はもう、どれに落ち込めばいいのかも分からず、ただただ頭を下げた。
「…………申し訳ございません。大変、取り乱しました」
「謁見、次は貴女の番ですよとお知らせに来たのですが、とんだ惚気を聞いてしまいました」
「……本当にお見苦しいものをご覧に入れてしまって、どのようにお詫び申し上げればよいのか」
「いえ、まさか。とてもよい言葉を聞かせて頂きました。貴女のようにお美しい方にそれほどまでに愛されるカイド・ファルアは幸せな男ですね。そうでしょう? カイド・ファルア」
「は……」
くすくす笑いながら紡がれるマーシュ様の言葉に、カイドは弱々しく答えた。もうマーシュ様の顔もアジェーレア様の顔も、勿論カイドの顔も見られない。
今すぐ駆けだして逃げてしまいたいくらいだ。かといって、これ以上の無礼を重ねるわけにはいかなかった。もう本当に穴があったら入ってしまいたい。カイドはきちんと責任を取り、その穴にしっかり蓋をしてほしい。
羞恥に身も心も捩っていたが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。何故マーシュ様が伝聞役を務めてくださったのかは分からないが、私の番が巡ってきたのなら早く行かなければならない。
「…………それでは、私はこれで失礼致します」
「お父様にわたくしのお友達を取られてしまったわ。残念」
残念そうに仰るアジェーレア様は、私の手を取り、にこりと微笑んだ。
「今日は本当にありがとう。またお茶をしましょうね」
「はい」
「それに……カイド・ファルア」
静かな声で呼ばれ、私の隣に立つカイドが身体に力をこめたことが分かった。
アジェーレア様は手を離し、一歩引いて距離を取った。少し躊躇った後、きゅっと唇を噛みしめ、まっすぐにカイドを見つめる。
「わたくしの身勝手な都合で、長きに渡りライウス領主を蔑ろにしてしまい、本当にごめんなさい」
「そのようなことは」
「いいえ、分かっているもの。わたくしが貴方を避けてしまっていたせいで、王城で肩身の狭い思いをしたことでしょう。謝罪致します。……身勝手な言い分と分かっていますし、今更とお思いでしょうが、どうかこれから今までの分も償わせてちょうだい」
どうしても緊張は残るのだろう。掌は握りしめられた力が目に見えて分かった。けれど姿勢を崩さず、目を逸らさず、ひたすらにカイドを見つめる様は誠実さの証明以外の何物でもない。
マーシュ様はそんなアジェーレア様を黙って見守っている。その様子を見て、この場にカイドを連れてきたということは、私の迎え以外に、二人を会わせようとしたのではないかと気がついた。
アジェーレア様が変わろうとなさっている事への手助けとして。
ふっと小さな息がカイドから零れた。途端にアジェーレア様が不安そうな顔になる。けれど、すぐに目を見張った。
カイドは柔らかく微笑んだのだ。
「償いなど必要はありません。私はこの見た目ですので、年若い王女殿下にはさぞや恐ろしかったことでしょう。地元では狼領主と呼ばれているほどです」
避けられていた事情は、それが主ではないとカイドだって分かっているのだろう。けれどそれには一切触れず、丁寧に揃えた掌を自らの胸に当てた。
「ですが、殿下はこのような私に対し、誠実な対応をしてくださいました。見た目を変えることはできませんので、殿下を煩わせてしまいましたこと、大変申し訳なく。ですが、とても感謝しております。ありがとうございます、殿下」
「――いいえ、わたくしのほうこそありがとう、カイド・ファルア」
さらりと笑ったカイドに、アジェーレア様は心の底からほっとしたようだ。マーシュ様も小さく息を吐いている。その最中、私と目が合い、両手を揺らした。やったよと言っているようで、思わず笑ってしまう。
マーシュ様もずっと気にされていたのだろう。今はまだ公の場にあまり出ていなくとも、いずれはそうもいかなくなる。そうなったとき、ライウスとの間にこれ以上禍根を残したくはないだろう。それはライウスも同じだ。カイドも、どこかほっとしている。
「お詫びとお礼を兼ねて、何かさせてほしいの。シャーリーも。何か、ないかしら」
自分の名が聞こえ、視線を戻す。欲しいものは、特にない。けれどそれを言うのは憚られた。何か落とし所がないと収まらないものはある。場や、気持ちの置き所の問題だ。
ちらりとカイドを見上げると、ちょうど金色の瞳も私を見た所だった。お互い、小さくうなずき合う。
「ではどうか、ライウスの未来を祈ってください」
「私からもお願い申し上げます、アジェーレア様。どうぞライウスの幸いを祈ってくださいませ。そうしてくださったのならば、私もカイド様も、そしてライウスの民も、皆幸せでございます」
アジェーレア様は、とても困った顔をマーシュ様へと向けた。マーシュ様も、妹からの視線を受け止めつつ、少し弱った顔で頬を掻く。
「ライウス夫妻は領主夫婦の鑑だね。これから君達を手本にしろと言われる未来の若夫婦達が苦労しそうだ」
そう、心から思っているらしい気の毒そうな声で言った。私とカイドは顔を見合わせてそっと笑う。そして、深く礼をして退出した。




