48.あなたと私の王城Ⅸ
『――』
声がして振り向いた。私を呼ぶその人達を見て、私は笑った。
何か、幸せな夢を見ていたように思う。何も覚えていないのに、夢の余韻にぼんやり浸る。
いつもとは違うベッドで眠ったのに、やけに深く眠っていた。
緩慢な動作で起き上がり、ふっと息をつく。顔にかかった髪を耳にかけても、すくい損ねた数本が頬をくすぐる。もう一度耳にかけようとして頬に触れた指が、肌とは違う感触を捉えた。
薬を塗った傷口にガーゼが当てられている。
ああ、そうかと思い出し、何となく両手へと視線を落とせば、同じようにガーゼが点在していた。
昨夜、薔薇の棘に引っかけたのだ。肘から上の傷の方が深いのは、手には手袋を着用していたからだろう。だが、それでも守り切れなかったらしく、手袋下も無傷とはいかなかったようだ。
大したことはないと言っても、皆から泣き出しそうな顔で説得されれば、大袈裟な手当も拒めるはずがない。実際、カイドは酷く傷ついた顔をしていたし、イザドルとカロンにも詰め寄られた。その上ジャスミンは大泣きし、サムアに悲痛な顔をされたのがとどめだった。
肌が出ていた部分は大抵何かしらの傷があった。足もドレスを掴み上げていたので傷ついたようだ。無傷なのは首だけで、こんな守り方をして貰うつもりではなかったのにと苦笑してしまった。
ちりちりとした小さな痛みはあれど、本当に大したことはない。冬の洗濯後、あかぎれで指が割れたほうが余程痛かったものだ。手荒れと呼ぶことも躊躇うほどの損傷だったなと、そろそろ冬を迎えようとしている少し寒さを感じる部屋の温度と共に思い出す。
割れた手をそのままに、寒さで痛くなった鼻で吸った空気を口から吐き、白く凍り付いた息が世界に放たれる様を見ていた。
「お嬢様、お休みのところ申し訳ございません。カロリーナにございます」
小さなノックの音に、扉へと視線を向ける。
「平気よ、もう起きているわ。入ってきてカロン」
「失礼致します。お早いお目覚めでございますね……もしかして、寝付けませんでしたか?」
心配そうな様子に、昨日の出来事や傷を心配されていると分かった。
「いいえ、ぐっすり眠ったわ。夢を見ていたと思うのだけど……よく、覚えていないの」
「左様でございましたか」
何の夢だったのかしらと首を傾げた所で、己の中に残っていない夢を思い出すことなど不可能だ。ただ、酷く幸せな、冷たく凍り付くような不思議な夢だった。
益のない夢の話は思考の端へと追いやり、私に早い目覚めと言いながら既にきちんと身支度を整えているカロンににこりと笑う。
「おはよう、カロン」
「はい、おはようございます、お嬢様」
同じようににこりと笑ってくれたカロンに嬉しくなって、笑ったままになってしまった頬を直そうとは思わない。
けれど、すぐにカロンはちょっと困った顔になってしまった。
「お嬢様、お疲れとは存じますが、ご準備を願えますでしょうか」
「どうしたの? 何かあったの?」
足をベッドから出しながら問えば、カロンはさっと履き物を用意してくれた。お礼を言えば、申し訳なさそうに眉を下げている。
「王女様の名で、朝食をご一緒できないかとのお誘いがございまして……」
「まあ……」
何とも急な話だ。だが、昨日の今日だ。誰か事情を知っている人と話したいこともあるだろう。
昨日の襲撃は、一応は調査中の名目で秘されている。そうはいっても目撃者が多すぎる上に、元々人の口に戸など立てられない。きっと城中の、下手をすれば城下中が知っているだろう。
だが、名目上秘されている事柄について、当事者以外が語ることは難しい。さらに、立場のある人間で、尚且つ襲撃の目的だったと思われる王女様では尚のことだろう。
私はベッドから立ち上がった。
「すぐに参りますと伝えてちょうだい。カロン、支度をお願い。それとカイドにも伝えないと駄目ね……少しだけ遅れて伝えてもらえるかしら。まだ寝ているだろうし、申し訳ないわ……」
「……少し遅らせて伝えることに異論はございませんが、昨日の今日ですし、知らされないほうが旦那様が受ける傷は深いものと思われます。致命傷でございます」
何やら朝から物騒な単語が聞こえてきた。そんな話だっただろうか。
「旦那様は、通常で人が当たり前に死ぬ出来事にはお強いですが、お嬢様に関する事柄に限り、大抵致命傷にございます」
「そ、そうなの?」
「はい。ことお嬢様に関してましては、旦那様の辞書にかすり傷の文字はございません」
物騒どころの話ではないのかもしれない。事は一刻を争うほどに恐ろしさを増している。
だが、カロンは私が感じた緊迫感など全く感じていないようだ。一礼した後、寝室の向こうに控えていた皆にてきぱきと指示を出し始めている。ジャスミンの頭が一目で分かるほどに傾いているのを見て、こちらにも申し訳なくなってしまった。
用意して貰った水で顔を洗いながら、ふと気がつく。受け取ったタオルで水を拭いながら聞いてみる。
「そういえばカイドの話は、昨日言っていた男心に関係するの?」
「そうでございますね。関係しているとも申せますし、全く関係していないとも申せます」
「そうなの……」
一所懸命考えてみたけれど、私が男心なるものを理解するにはもう少し時間と経験が必要なようだ。
私が身支度を整え終わり、ジャスミンの頭の傾きが定位置へと戻った頃、部屋の扉がノックされた。
「はい!」
ぱたぱたと扉に走り寄ったジャスミンに、カロンの目が鋭く光る。扉の前で短いやりとりを済ませたジャスミンは、そんなカロンには気づかずにいつも通り元気に扉を開けた。
「おはようございます、旦那様!」
「ああ、おはよう……ジャスミン、カロリーナが凄い顔をしているが、心当たりは?」
「ひ、ひぇ!?」
たった一言でジャスミンを竦み上がらせたカイドは、何やら同情的な目を向けた後、私の前へと歩いてきた。昨日から、座った状態で見上げることが多いなと何となく思う。
カイドは身なりこそ整えてはいたけれど、上着を羽織ってはいないし、髪も結っていない。どうやら慌てて来てくれたらしい。
この人は急ごうと思えばどこまでも急げる人だ。その人が髪も結わずに現れたことで、その慌て具合が分かる。誰が伝言に行ってくれたのかは分からないが、最初のお願い通りすぐではなく少し間を置いて知らせてくれたようだ。
けれど、この慌てようを見れば、すぐに伝えた方がよかったのかもしれないと思い直す。どちらにしても慌てさせてしまったかもしれないことを考えると、一概にどっちがよかったとは言い切れないが。
「おはようございます、お嬢様」
「ええ、おはようカイド。けれど、あなたはまだ寝ていてもいいのよ? 貴方も朝食後は王との謁見を控えているのだし、少しゆっくりしていて」
私もカイドの後に王の召喚を受けている。話の内容は大体予測がつくが、カイドとイザドルは単体での呼び出しに複雑な顔をしていたものだ。今でもしているけれど。
カロン達が一礼して下がっていくのを視線の端に収めながら、カイドの視線を追う。金色の瞳が素早く動き、私の上を撫でていく。腕や足の傷は服で隠れているし、顔の傷はさほど元々酷くなかったので、化粧で隠している。けれどカイドはそれを上手に見つけてしまうようだ。複雑な表情を浮かべていた顔に、痛みが混ざる。
苦笑して手を伸ばす。カイドは首を傾げながらも背を曲げて近づいてくれた。その頭に両手で触れる。落ちてきた髪をかき上げ、自分の手で彼が昨日していた髪型を再現してみるも、やはりうまくいかない。髪を上げている姿も素敵だったが、いつもの彼も素敵だと思う。
いつもは髪を乱してしまうと気が引けて出来ないことも、まだ髪を結わえていない状態なら出来てしまう。不思議そうな顔をしながらもされるがままになり、時折くすぐったそうに目を細める姿が可愛らしい。
「お嬢様?」
髪を乱され遊ばれているというのに、自ら頭を差し出し、したいがままにさせているカイドを見ていると、困ってしまう。
だって、愛おしすぎて、思わずその頭ごと胸に抱きしめてしまいたくなるのだ。部屋には他に人目がないとい言え、せっかくカロン達が身なりを整えてくれた後にそんなことは出来ず、ぐっと堪える。
本当に困った人、と、自分が仕掛けたことを承知の上で身勝手に思う。
あまり可愛らしいことをしては駄目よと言っているのに、この人はちっとも分からず、愛おしくなることばかりをする。
不思議そうな顔はしているのに、まるで嫌がっていないのだから困りものだ。
抱きしめたくなる気持ちをぐっと堪えた分は、手に現れた。手で梳き、流す。指に絡まってしまわないよう気をつけ、丁寧に梳いていく。少しだけ遊んだ後は、そっと撫でつけ、乱れた部分を軽く整える。
「今度、私もあなたの髪を結いたいわ」
「はあ。男の髪など結っても楽しくはないと思うのですが」
「あら、そんなことないわ。好きな人に触れられるんですもの。それに、好いた方の身支度を手伝えて、嬉しくない女がいるかしら」
身支度を手伝えるなんて、それを仕事としているメイド達ならばともかく、そうでないのならとても親しい間柄でなければ許されないことだ。触れることは勿論、部屋に入ることだって出来ないだろう。愛しい人からそれらを許されて、喜ばない人間がいるのだろうか。少なくとも、私はとても嬉しいのだ。
「ふふ、その時は釦も留めさせてね」
「………………お嬢様、今は朝です」
「そうね? ……嫌だわ、ごめんなさい。私、さっきあなたに挨拶し忘れたかしら。いくら朝からあなたに会えて嬉しかったからといって、忘れるなんて……ごめんなさい、カイド」
「…………………………違いますが、おはようございます、お嬢様」
「おはよう、カイド」
気のせいか、さっきも交わしたような気がする挨拶を交わすカイドは、何だか唸り声のようなものを喉奥で上げていた。眠いのだろうか。もう少し寝てほしい。
片手で顔面を押さえて唸っていたカイドは、やがて一つ大きな息をした。身体の動きからそれに気づいたときには、もう顔から手を離し、いつものカイドに戻っている。
「お怪我は痛みませんか?」
「ええ、ちっとも。少し数が多くてびっくりさせてしまったかもしれないけれど、本当に大したことないの。昔した怪我のほうがもっと酷かったわ。けれど、今はもう綺麗に治っているのよ? だから、こんな怪我なんともないわ。怪我の内にも入らないくらいよ。すぐに治って、怪我をしたことも忘れてしまうわ」
「………………は? 怪我? これ以上の? お嬢様が? 何故? いつですか?」
突如瞳だけが鋭いまま表情を失い、平坦な声音で詰め寄ってくるカイドを見て、口にしなくていいことだったと気づいたけれどもう遅い。矢継ぎ早に問われ、渋々白状する。
「……まだほんの小さな頃よ。十にもなっていなかったわ。ちょっと、階段から落ちてしまったの」
「どこの階段ですか」
「学校と養護院の間の……そんなこと聞いてどうするの?」
「どうして落ちたんですか」
「もう、カイドったら。昔のことよ。私が失敗してしまったの。あまり聞いては恥ずかしいわ」
どうしてだかどんどん目が据わっていくカイドに、間違ってもちょっとした意地悪を受けて突き飛ばされたなんていえる雰囲気ではない。
意地悪した子も、突き落とそうとしたわけではなかった。突き飛ばしたに過ぎなかったのに、体勢を戻しそびれて落ちてしまったのは私の失敗だ。
「そんなことより、昨日の話を聞かせて。あの後、王から話を伺ったのでしょう? 王は昨夜のこと、何と仰っていたの?」
王女様との約束の時間まであまりないと分かっているカイドは、さっきの私のように渋々話を進めてくれた。現場にいた当事者の一人として昨夜も召喚されていたカイドとは、結局昨日のうちに会えなかったのだ。
帰りを待っていたかったけれど、カロン達から泣き出しそうな顔で就寝をせがまれては、突っぱねることも出来なかった。本当にかすり傷なのだという私の言い分は、最後まで受け入れてはもらえなかったのである。
カイド曰く、襲撃者は取り逃したようだ。その言葉に思わず眉を寄せてしまう。城の端で起こった事件ならばともかく、中心部、それも警備が最も固い場所で取り逃したというのか。ならば、協力者がいるのだろう。それも国の中枢にいる人間でなければそんなことは不可能だ。
なんとも頭の痛い話である。
ただでさえ政を行っている人間の中には、互いの足を引っ張ることに執念を燃やす人もいるというのに、そんな仮定が立てられる状況では、遅々として調査が進まなくなってしまうのではないだろうか。
政敵と国難は切り分けて考えて頂けたらいいのだけれどと、小さく息を吐く。
「アジェーレア様のご様子は?」
「昨夜の段階では何とも。ただ、周囲が案じているほどには脅えていらっしゃらないようです」
「そう、よかった……でも、犯人の狙いは何だったのかしら」
「それも、何とも。現状、政務にはあまり関わっておられませんし、婚姻話も出ていないようです。城内での人気も高く公の場にはあまりおいでになりませんが、慈善活動にはよく顔を出しておいでのようで、民にも慕われているそうですし」
ますます訳が分からない。王女を殺して得する人間がいるのだろうか。
悩んでいても仕方がない。答えが出ようが出まいが、約束の時間はやってくるのだ。
「教えてくれてありがとう、カイド」
「いえ、お気をつけて。もし具合が悪くなればすぐに知らせてください。お迎えに上がります」
「こんな傷で何の具合が悪くなると言うの」
呆れと愛おしさが同時に胸を満たす。本当に、仕様のない人だ。けれど、そんな仕様の無さで満たされる私の方がもっとどうしようもないのだろう。
「でも」
立ち上がる私の為に差し出してくれた手を引き、首を傾げて身体を折ったカイドの頬に唇を寄せる。
「心配してくれてありがとう」
紅がつかないようそっと掠めるように触れても、ほんの僅かに朱が移ってしまった。指で軽く拭う。
「さあ、行きましょう。あなたはしっかり朝食を頂いてね。カロン、待たせてしまってごめんなさい」
奥へと声をかければ、カロンはすぐに現れた。アジェーレア様の部屋までの付き人は既に選び終えていたようで、城に慣れた面子が揃っている。ジャスミンは選ばれなくてほっとしたのか、奥の部屋で胸を撫で下ろしているのが見えた。
「……お嬢様、何があったか問うても宜しいでしょうか?」
熱がこもった私の頬は、少し赤くなっているのだろう。カロンは、私に手を差し出してくれていた体勢のまま動かなくなってしまったカイドと私を交互に見た。少し気恥ずかしくなって、人差し指を唇に当てる。
「ごめんなさい、内緒よ」
「……畏まりました。お嬢様、好きです」
「え、ええ。私もあなたが大好きよ、カロン」
「はいはいはーい! なんかよく分かんないけど私もシャーリー好きー!」
「ありがとうジャスミン、私もよ」
「わーい!」
唐突な告白に驚いたけれど、嬉しさは変わらない。胸が温かくなった私を見てふわりと笑ったカロンは、カイドに向けてふんっと胸を張った。




