46.あなたと私の王城Ⅶ
「では……失礼致します」
「足元にお気をつけください、シャーリー嬢」
「はい」
差し出された手をそっと取り、彼のエスコートで階段を下りる。カイドの高さにすっかり慣れてしまったせいか、完璧なはずのエスコートに少しの違和感を覚える。そのくすぐったい違和感を大事に仕舞う。些細な場所に感じるカイドへの繋がりは、全て大切な宝物だ。
階段を下りた後、少しだけ歩いた。薔薇の陰で会場からは見えない位置だと、さっきここを見た窓を探して気がつく。けれど、バルコニーまで出てくれば姿を確認できる絶妙な位置だ。こういう位置関係は、登城し慣れている人か城に住んでいる人でないと分からないだろう。
そんなことを考えながら、薔薇の陰からおずおずと現れた美しい令嬢に礼をする。
「お初にお目にかかります、王女様。シャーリー・ヒンスと申します。以後、お見知りおき頂けましたら光栄でございます」
「アジェーレアと申します。急にお呼びだてしてごめんなさい」
金の髪は、夜の闇にもよく映える。幼かった頃の愛らしさを残したまま美しく成長した姫は、ふわりと微笑んだ。形だけ整えた笑みとは違い、心から浮かべた感情による笑みだった。
本当に美しい姫だ。王妃様もそれはお美しかったが、身体の弱かった王妃様はいつも儚さがあった。王妃様の面影を残した姫は、生の光にも溢れている。力強い美しさと、ほろりとした儚さが混ざり合う、まさに奇跡のような姫だ。
花に例えられるのは、彼女のような人でなければならないと思うほど、アジェーレア様はお美しかった。薔薇と同じ色のドレスを上品に纏える女性に成長されている。
お二人とも大きくなられた。お元気そうで喜ばしい。民としての喜びは、そっと胸にしまう。年下の女が、大きくなられましたねなどと言えるはずもないのだ。
アジェーレア様は、スカートを持ち上げ膝を軽く折る私と同じ礼を取った。
「王女様、私のような者にそのような礼を為さらないでください。勿体ないことでございます」
慌てて止めれば、アジェーレア様はいたずらっ子のような顔になる。
「わたくし、この礼が好きなの。だって可愛らしいでしょう? 他の方の目もありませんし、どうか大目に見てくださらない? 女同士の戯れだもの。お兄様も許してくださるわ。ね、お兄様」
可愛らしい声を上げ、人差し指を唇に当てたアジェーレア様に、マーシュ様は軽く肩を竦めた。その様子を見るに、どうやら珍しいことではないらしい。
「そうだね。シャーリー嬢、驚かせて申し訳ありません。妹は少々変わり者でして」
「まあ、お兄様ったら。わたくしは健全な好奇心を持っているだけでしてよ」
ころころと笑い、ふわりとスカートの裾を翻したアジェーレア様は、その勢いのまま私の手を取った。彼女の起こした風が、夜露に濡れた薔薇の濃密な香りを纏っていた。会場内でも沢山の香りが争っていたが、この香りが一番強い。
目眩がするほどの薔薇の香りにのぼせそうになった。こんなに強い花の香りは久しぶりだ。ライウスの屋敷にも庭園はあるけれど、来客から見える範囲を整えている意味合いが強く、あまり香りの強い花は植えられていない。カーイナでは人の手で植えられたものより自然に群生している物が多く思い思いに咲く為、この場のように狭い範囲で一斉に見頃を迎えるということはあまりなかった。
特に大輪の薔薇は、人の手が入らないと育たない。丹精こめて手間をかけなければ咲かない花だ。この場の花も、腕のいい職人達が毎日丹念に手を入れて咲かせたのだろう。
花は鮮やかに咲き誇っているというのに、ここはとても静かだ。王族のお二人がいらっしゃるのだ。当然人払いはされているだろう。耳を澄ませば会場内を流れる音楽も聞こえてくる。
けれど、ここは静かだった。馴染みのある静けさに気づけば、少し寒さを感じた。
「わたくし、貴女とお話ししてみたいと常々思っていたの。どうしても聞いてみたいことがあったから、貴女のことを聞いてから、ずっと会える日を楽しみにしていたわ。本当は明日お茶会にお招きしようと思っていたのだけれど、待ちきれなくなって。お時間を頂いてしまってごめんなさい。許してくださるかしら」
「私などにそのようなお心遣いを頂きましたこと、光栄でございます。私でお答えできることならいいのですが……」
「平気よ。貴女でなければ答えられないことだもの」
アジェーレア様は私の手を柔らかく握り、ふわりと首を傾ける。
「ねえ、貴女は、ライウス領主が怖くはないの?」
夜の闇に負けじと咲き誇る薔薇よりもはっきりとした瞳が、まっすぐに私を見ていた。
薔薇より淡い唇は、夜だというのに輝き、まるで光を紡ぐように言葉を放つ。
「あの方は、十五年前王族の血を引く姫を殺したのよ。貴女より少し年上の……今のわたくしと同じ年の姫よ。その姫の首を刎ねた、恐ろしい方よ。それなのに、どうして恐ろしくはないの?」
「王女様……」
私の手を握る手袋に包まれたほっそりとした指に力がこもる。震えるほどの力がこめられているのに、ちっとも痛くはない。力の入れ方を知らない手だ。重い物を持つ必要も、力を入れて支える必要もなく、穏やかな触れ合いしか知らないた柔らかな手。
「……ごめんなさい、貴女のこと、少し調べたの。大人しくて口数の少ない、口の固い人だと聞いているわ。だから、お願い、秘密にしてね。……王女として、こんなことを言ってはいけないと分かっているわ。知っているでしょうけれど、わたくし、あの方が恐ろしくて、あの方が出席する行事は全て避けていたの。けれど、ずっとそうもいかないでしょう? だからどうにかしなければと思っていた所に、あの方に婚約者が出来たと聞いていてもたってもいられなくなってしまったの……」
「それで、私に」
「ええ……年の近い、同じ女である貴女の言葉を聞いてみたいと思ったの。皆、あれは仕方のなかったことだと言うわ。それがライウスの救いだったのだと。だけど、わたくしは恐ろしいわ。わたくしと同じ年の姫の首を、刎ねたのよ。他の女の首を刎ねないと、どうして言い切れるのかしら……」
伏せられた金の睫毛は、夜の闇の中でもよく映える。その光を震わせる愁いを帯びた瞳に安堵を齎す言葉など、私が吐けようはずもない。アジェーレア様は、私の事実をご存じないとはいえ、世界中で唯一彼女の質問対象になり得ない女を選んでしまった。
口を閉ざしたままの私に、アジェーレア様はその眉根を気遣わしげに寄せた。握っている手を離し、そっと私の頬に触れる。まるで花びらが頬に触れたかのような、軽やかな感触だった。
「何か、恐ろしい思いをしてはいない? わたくし、貴女のことを案じてもいたの。もし、もしも何か断れない事情があったのなら、わたくしはきっと力になれるわ」
「王女様」
緩やかに笑んだ私を見て、宝石のような瞳が丸くなる。
「お気遣いくださり、ありがとうございます。けれど私は、あの方を……カイド様を恐ろしいと思ったことは一度もないのです」
この首が落ちるその瞬間まで、恐れを抱いたことは一秒だってなかった。
「言葉を重ねるご無礼を、どうぞお許しください」
「……ええ、頼んだのはわたくしだもの。どうか、忌憚のない意見を聞かせてちょうだい」
マーシュ様も小さく頷いてくださったので、許可を頂いたと判断していいだろう。お二人とも私より背が高いので、少し見上げる形になる。見上げたお二人の間に、ちょうど月が見えていた。
「私は、ライウスの民なのです」
「ええ、知っているわ」
「ですから、私はどうしても、ライウスの立場からの見方をしてしまうのです。前領主一家は、領主としての能力も人柄もありませんでした。統治能力がなかっただけではなく、人を人とは思わぬ鬼畜の所業を繰り返しました。逆らう者は殺され、ライウスは滅びに瀕するほどに荒廃したのです。……ですから、カイド様の行いは、ライウスの救い以外の何物でもなかったと思っております。それに」
一度言葉を切る。そういえば、彼について誰かに語ったことはあまりなかったと気がついた。そうと気づいた瞬間、言葉を少し躊躇ってしまった。私が彼に想いを抱くことは許されるのかと、今でもふと蘇る瞬間がある。あの優しい人達は許してくれたが、それ以外の人々は私の醜悪さに眉を顰めるのではないかと。そんな弱さとずるさは、未だ私の中に燻っている。
詰まってしまった息を小さく吸う。胸が僅かに膨れ、青い首飾りが澄んだ光を瞳に届けてくれた。この首飾りは、本当に私を守ってくれる強い竜だったようだ。
「私は、あの方を愛しているのです、王女様」
ああ、ここは本当に薔薇の匂いが強い。そうして、とても静かだ。昼間ならば大して気にもならない風の音が、世界の全てを浚っていってしまうかのように聞こえてしまうほどに。
「ですから、恐れながら、王女様は質問をする相手をお間違えでいらっしゃいます。私はあの方を恐れることは今までもこれからも、一度だってないでしょう。私はあの方にならば何をされても構わないのです。それなのに、あの方の何を恐れればいいのか分かりかねます」
「そう……でもそれは、あの方が恐ろしいことをしないから恐れないというわけではないのね」
「理由なき力は振るわれない方です。……それに、図々しいことは承知しておりますが、あの方は私を愛していると言ってくださいました。そして私も、その愛を心から信じていられます。大切に、してくださるのです。自分をまるであの方の宝物のように自惚れてしまえるほどに、大切に、してくださるのです、王女様。私はあの方を愛していて、あの方からの愛を信じている。あの方は、力を守る為に使われる方です。いつも、私を守ってくださいます。身体も、心も、全てを。それなのに、もしもその刃が私を向いたのなら、それは、私に咎があったのです。私を罰するあの方は、きっと、酷く傷つく。私はあの方にそんなことをさせてしまった己を憎みます。一生、憎み続けます。もしもそんなことになったのならば、私はあの方の手を汚させてしまわないよう、自らこの命を絶ちます」
今度こそ。
その言葉は胸の内に刻めつけるに止め、世界に放つことはない。私の死に利用価値がないといい。そうすれば、誰の手も患わせず自分で終わりを作り出せる。けれどどうせならばこの命が彼らの役に立てばいいとも願う。ああ、本当に、王女様は質問の相手をお間違えだ。
「ですので、質問の相手を間違えていらっしゃいますと申し上げました。あの方を愛している女に問うても、意味を成さない問いでございます故」
あの人が好きよ、愛しているの。
その愛に溺れている愚かな女は、彼から与えられるならばどんな物でも喜んでしまうのだから、王女様に正しい答えなど返せようもない。
優しい手も、速い足も、柔らかな声も、鋭い瞳も、甘い言葉も、仕様のない愛らしさも。
断頭台の刃でさえも、きっと私は愛してしまう。
愛と正気の反対は紙一重とはよく言ったものだ。ただの愛を抱ける無知な女は、あの日死んだ。いまここにいるのは、命を失っても彼への想いを消せなかった妄執の塊だ。
ああ、まるで悪魔のようだと自嘲する。笑顔一つで胸は温まり、口づけ一つで胸は早鐘を打ち、刃を向けられても私の胸はときめくのだろう。
恐ろしい、おぞましい。こんなものが愛であるはずがない。
私は毒を孕んでいると、かつての婚約者は言った。その通りだろう。私が彼へと向けるものは、毒に塗れた妄執と怨念にまみれた醜悪な何かだ。それなのに、ならば私が抱く彼への想いは何なのだと考えれば、やはり辿り着く言葉は愛の一言で。
自然と浮かんだ私の笑みに、王族のお二人は息を呑んだ。私は今、どれほどおぞましい笑みを浮かべているのだろう。
最初からライウスの宝花などではなかった私は、首が落ち、徒花でさえなくなった。花は落ち、茎は枯れ、それでも残った物は妄執だろう。ならばこの身は、もはやライウスの魔物だ。




