45.あなたと私の王城Ⅵ
「ライウスの……どちらのご出身ですの? まあ、カーイナ? あら、嫌だわ。私ったら勉強不足でして、お名前を存じ上げませんの。お気を悪くしたかしら。どうぞお許しになって?」
「とても穏やかな地です。王都のような華やかさはございませんが、心安らぐ空気の綺麗な場所です。ライウスはカイド様のおかげで手が行き渡り、遠方の地でも何ら不自由なく暮らせるので、皆喜んでおりますわ」
ありがたいことですと微笑めば、相手の女性もにこりと微笑んだ。
「しかし、青天の霹靂ですな。ライウス領主と言えば堅物の美丈夫。令嬢の視線を集めても見向きもしなかった男です。いつの間に貴女のような可愛らしいご令嬢と出会ったのだろうと皆噂しておりますよ」
「本当に……カイド様は素晴らしい方です。民を思い、民から思われ、ライウスを導いてくださいます。そんなカイド様と肩を並べるなど私には身に余る栄誉だと分かっております。けれど、あの方のお力になれるよう精一杯努めて参りたいと思っております。至らぬ私ではございますが、どうぞ皆様お力添えくださいませ」
小さく緩やかな礼をすれば、相手の男性はこれはこれはと笑った。
「ずっと気になっていたのですけれど、その首飾りはもしかして、フェンネル・ニオンのお品ではなくって?」
「ええ、その通りです。道中に少々縁がございまして」
「まあ! やっぱり! もしかしてあの不思議な問いかけを正しくお答えになられたの? まあ、素敵だわ! わたくしは残念ながら外れてしまったの! 同じように外れてしまった皆様からお話を伺ったのだけれど、今でも正解が分からなくて困っているのよ。よければ教えてくださらないかしら?」
「まあ……是非と申し上げたいのですが、内緒にすると約束してしまいましたの」
「あらあら、残念だわ。ふふ、でもいいわ。次があれば必ず当ててみせるもの。けれど、そうね。フェンネル・ニオンはライウスとも取引を始めるのね。どれも素晴らしいお品でしょう? また競争率が上がってしまうわね。ただでさえ王都から店を移してしまいましたのに。どうしてかしら」
口を噤み、にこりと微笑む。ご婦人は困ったわと微笑んだ。
「つかぬ事を窺うが、君はカイド殿の仕事を手伝っておられるのだろうか?」
「お恥ずかしい話なのですが、私はまだ勉強中の身でございますゆえほとんど何も。いずれはカイド様のお役に立てるようになりたいと考えておりますが、今の私ではご迷惑になってしまいます。カイド様も、お仕事のお話はほとんどされませんわ……難しくて、よく分かりませんの」
微笑めば、男性はにこりと笑った。
「あの……失礼ですがイザドル様とはどういうご関係でいらして?」
「イザドル様はカイド様と古くからの親しいご友人でいらっしゃいますので、よくして頂いております。先日はお二人で夜遅くまでお酒を飲んでおられました。とても仲がよくていらっしゃるのですね。仲のよいご友人がいらっしゃるカイド様がとても羨ましいですわ」
「まあ! お二人で! 夜遅くまで、お二人で! まあ、まあまあまあ! あら、まあ! まあぁー!」
満面の笑顔を向けられて、驚きの顔を返してしまい、慌てて微笑みを浮かべるも引き攣っていたかもしれない。何が彼女を喜ばせたのかは分からないけれど、心から嬉しそうな人を見るのは私も嬉しい。そう思えば、すぐに自然に微笑めた。楽しそうで何よりだ。理由はさっぱり分からないけれど。
「美しい方。私と一曲踊っては頂けませんか?」
「ありがとうございます。けれどどうか、失礼をお許しくださいませ。まだカイド様とも踊っておりませんの。初めてのダンスはあの方と踊りたいと憧れがありまして」
「おや、これは失礼。ご令嬢の憧れを壊すなど紳士の行いではありませんな。では、その後で是非」
「喜んで」
社交辞令を交わし、微笑み合う。
「カイド様とイザドル様はどのような会話をなさっておられるのかしら。シャーリー様はご存じでいらっしゃいますか? シャーリー様とカイド様のご婚約が決まられた際、イザドル様はどのような表情をなさったのでしょう……ああ、いえ、いいの。言わないでくださいませ。わたくし切なくなってきましたわ……きっと、とても悲しくも美しい物語が、そこにはあるのでしょうね……」
先程満面の笑みを浮かべられたご令嬢と話していたはずのご令嬢が、気がつけば目の前に来ていた。よく分からないけれど、答える前によろめきながら戻っていってしまった。二人のご令嬢は手と手を取り目に涙を滲ませ、同じように悲痛な表情を浮かべる数人のご婦人達の中へに迎え入れられる。彼女達は切なげな様子で、人々の中心でひっきりなしに話しかけられているカイドとイザドルを見ていた。
一部よく分からないことはあったけれど、大半は恙なく進んでいく。立場が変わればどうなるのかと思っていたが、何も変わらない。ここは、本当に何も変わらない。
多少言葉選びの変動はあれど、紡がれる意味は変わらない。時と共に人が流れていこうが、齎される意味は変わらない。やるべきことは何一つ変わらないのだ。
交わし合う言葉を笑みで躱し、探りを入れる視線を社交辞令の言葉で遮る。端々を絡め取られぬよう言葉を紡ぎ、笑みを交わし合う。
微笑み、口元を隠して目元で笑い、小さな笑い声を上げる。あちこちでそんな笑みが溢れかえっている。そこに心などないと誰もが分かっていた。けれど笑みは貴族の帯剣だ。鎧であり剣であり、武装となる。戦場へ手ぶらで出向く騎士はいない。鎧を身につけず、寝間着で進軍する騎士もいない。
だからこそ、私はヘルトに欺された。
次いで話しかけてきた青年の話を聞きながら、軽く伏せた視線の先をカイドへと向ける。彼は四十代ほどの男性の話を、静かな笑みを浮かべて聞いていた。
武装としての笑みと、日常に浮かべる笑みは全く違うものだ。だから私は、いま彼が浮かべているものとは全く違う、ヘルトが私に向けてくれる笑みを信じた。それ以外は何も考えず、彼が私に向けてくれる感情だけを見て、それだけを信じてしまった。
愚かなことだ。誰も彼も、感情だけで生きてなどいないというのに。
それを切なく思ったことが全くないとは言わない。けれど今は、それでよかったと思う。だって、あの時ヘルトが私へ向けてくれた笑顔は本当だった。それを嘆く理由などない。嘆き恥じ入るべきは私の愚かさだけなのだから。
男性は少女を連れている。娘だろうか。しきりに少女をカイドの前へと押し出す様子に苦笑する。婚約したばかりの男性へ娘を紹介することは失礼だ。けれど、ずっとそういった話題に上がらないからと諦めていたライウス領主が、突如婚約を発表した。
連れてきたのは、身寄りも後ろ盾もなければ花もない、つまらない女だ。
あれでいいなら自分の娘のほうがと思ってしまうのは親心だろう。
ライウスは大きな領だ。十五年前の荒廃は消え失せ、豊かな土地と活気溢れる民が、伝統を守りながらも流行を取り入れることを躊躇わず、新たな試みも多く成されている。
ライウスは優良な地だ。優良な地へと、カイドが戻した。ライウスと、そのライウスを導いた手腕を持つカイド。どちらも関わりを持っていて損はしない。カイドがまだ若く、独り身であるのなら尚のこと、カイドにそういった話が集中することは何らおかしな話ではない。
今まで完全に断り続けてこられたことが特殊だったのだ。ライウスの状態を理由に断り続け、強行突破でライウスを訪ねてきた人々はカロンの手によって丁重にお帰り頂いたと、メイド時代に聞いたことがある。
そんなことを思い出していると、ふとカイドと目が合った。その事実が嬉しくて思わず笑みが零れる。すると先程まで浮かべられていたカイドの静かな笑みが一瞬で消え失せ、片眉が僅かに下がった。親しい人にしか分からない程度の、弱った顔。
ああ、愛おしいなと思う。本当ならそんな顔をしては駄目よと叱らなければならないのに、目が合っただけでライウス領主から私のカイドになってしまう彼が、心から愛らしく、可愛らしい。
人をかき分けたイザドルがカイドの肩に手を回す。親しげにカイドと話しながら、男性により押し出された少女とも会話を交わしている。手慣れた様子に、こうやって二人は助け合ってきたのだろうと察した。
先程涙ぐんでいた女性の集団から引き攣った悲鳴が聞こえたような気がしたが、そちら側に背の高い男性が集まっていて姿は見えなかった。
初めてのことではないといえ、ひっきりなしに入れ替わる人々との会話は、少し疲れる。経験がなければ目を回してしまいそうだ。話していた青年とにこりと微笑み合って会話を終わらせる。すぐに別の方が入れ替わった。
けれど、ちょうど会話の切れ目に隣の女性が声を上げた。
「あら、皆様、お庭をご覧になって」
窓に近い位置に立っていた女性からの声に、皆の視線が一斉にそちらを向く。周囲を囲まれている私からはよく見えない。押しのけていくわけにも行かず、会話から何が見えるかを推測する。
「……これは、珍しいですな。相変わらずお美しい方だ」
「まあ、本当に仲のお宜しいこと」
「ご兄妹の仲が宜しいと微笑ましいですわね。それに、本当にお美しいわ」
「ええ。城中の殿方に限らず、ご婦人まで心酔してしまうとのお噂は、きっと本当ね。恐ろしいほどお美しいのですもの」
会話を聞きながら、この時間を少しの息抜きに使う。予測できていたとはいえ、ずっと視線を受け続けるのはやはり疲れてしまうのだ。
「シャーリー・ヒンス様」
ふっと力を抜くと同時に声をかけられ、伏せかけていた視線を上げる。前に立っていた青年は私を向いていたけれど、視線は私の後ろへ向けられていた。となると、私を呼んだのは彼ではない。後ろを振り向けば、部屋まで案内してくれた侍女が立っていた。
「わが主より言付けを預かって参りました」
私を囲んでいた人々は、窓の外に向けていた視線をこちらに戻し、彼女の為に場を譲っている。彼女の為に空けられた空間を見ると、彼女に言付けた主はとても身分が高いのだろう。ここは城で、身分が高い代名詞は王族だ。とりあえず、王族が座っていた椅子にそっと視線を向けるとマーシュ様の椅子が空になっていた。窓を見ていた人々の会話を思い出す。仲のよい、ご兄妹。
「主は夜の庭をご案内致したいと仰っております。是非、庭師が丹精こめて作り上げました庭をご覧くださいませ」
深々と頭を下げる侍女から視線を外し、窓へと向ける。さっきは位置をずれなかった人々がさっと割れていく。窓の外には夜の闇が広がっている。けれど視線を下げれば穏やかな明かりがあちこちに灯され、昼ほどとは行かないが夜とは思えない明るさを保っていた。
一際明るい場所に男女が立っている。
周囲に咲き誇っている花は薔薇だろうか。冬を迎えようというこの季節に見事な花を咲かせている。成程、王城の庭師の腕は相当いいらしい。
薔薇の中に立つ男性がマーシュ様だと気づけば、女性が誰なのかは自然と想像がつく。マーシュ様の妹君はお一人しかいらっしゃらない。
珍しいと言った男性の言葉の意味が分かった。アジェーレア様が、ライウスが参加している公の場に出てくるのは珍しい、という意味だろう。ただでさえマーシュ様より表に出られることのない方だ。カイドとイザドルがお目にかかったことがないと言っていたので、よほど珍しいはずだ。
そんな事情に加え、元より王族お二人からのお誘いとなるとお断りすることはできないだろう。
「光栄でございます。すぐに参りますとお伝えください。それと、カイド様にもお伝え願えますか」
「……わが主は、あまり見知らぬ殿方とお会いになることを好まれません」
「存じております。けれど、私の大切な殿方はとても心配性で、私の姿が見えないとすぐに探しに来てしまいますの。ですから先に伝えてくださると、とても助かります」
どちらにとっても。そう、心の中で付け加える。
王族の、それも恐らくはアジェーレア様からのお誘いを断ることはできない。彼女がこの場に姿を現わさず、夜の庭から使いを出したのは、カイド達に会わないようにする為であろう。
だからといって、何も言わずにこの場から離れるわけにはいかないのだ。カイド達とした約束を、私から破るわけにはいかない。
心の中に付け加えた部分は、音に出さずとも伝わった。侍女は少し考え、畏まりましたと小さく礼を取った。すぐに、後ろに控えていた同じ制服の女性に耳打ちする。その女性も小さく礼を取り、すぐにカイドの方へと向かう。
それを確認し、バルコニーへと足を向ける。全てのバルコニーというわけではないが、場所によっては庭へ下りる階段が設置されているのだ。
広いバルコニーから庭へと下りるなだらかな階段は、本来ならば誰かにエスコートして貰って下りるものだ。けれど、カイドとイザドルを呼べない以上一人で下りるしかないだろう。転ばないよう気をつけて足を踏み出そうとすれば、目の前に手が差し出された。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「――ま、あ、王子様」
いつの間にか場を移動していたマーシュ様が階段を上がってきていた。思わずマーシュ様と呼びかけてしまい、そっと王子様へと呼び名を変更する。体勢も、慌てて踏み出していた足を引き、礼の姿勢とした。
「失礼を致しました」
「いいえ、突然呼び出した上に、エスコート役の同行許可を出せなかったこちらに非があります。どうか気にせず、僕を代わりにしてください」
「そんな……どうぞお許しください。私はそのような無礼が許されておりません」
「僕が許しているのだから大丈夫ですよ。それよりも、呼び出した女性にエスコート役もつけず階段を下ろしたとなればフィリアラ王族の名に傷がつきます。どうか助けてくださいませんか?」
そう言われると、断れなくなる。成程、なかなか強かに成長なさったようだ。
とてもお小さかった姿を思えば、目の前にいらっしゃる立派な王子となられたマーシュ様に感動してしまいそうだ。けれど、初対面の女から突然大きくなられましたねと感動されても困ってしまうだろう。




