38.あなたと私と名前のない店Ⅷ
時間が時間なので、着替えは簡単に済ませ、上着を羽織る。髪も緩く結うだけにとどめた。
カロンに手伝ってもらって手早く支度を整え、フェンネルを待たせている部屋へと向かう。ここがライウスの屋敷であれば来客用の部屋へと通すところだが、他領の宿ともなるとそうはいかない。
フェンネルを通した余分に取っている部屋の前では、私の支度を終えた後、先に部屋を出たカロンが姿勢を正して待っていた。少し前にもう休んでと言って下がってもらったのに、何だか申し訳がない。
お手本とされる基本の礼よりも少々深く頭を下げたカロンは、扉を開ける前に片目を瞑って見せた。とても可愛らしくて、思わず微笑んでしまう。
カロンは勿論、ジャスミンもサムアもイザドルも、そしてカイドも。皆とても可愛らしい。己を愛らしく見せようとしての動作ではなく、相手へと感情を向ける、ただその動作が愛らしいのだ。
時々、少し羨ましくなる。私にはきっと一生得ることの出来ない愛らしさだ。これらは、彼らのようにまっすぐで、純真で、優しい生き方を心がけてきた人だけが持てる輝きなのだから。
カロンが扉を開けていく。本来ならば先頭に立つべきカイドは何故か私の横に控えるように立っている。だから、開かれていく扉の先で頭を下げていたフェンネルがゆっくりと顔を上げたとき、真っ先に見たものは私だった。
フェンネルの、澄んだまっすぐな瞳が私を見る。彼らはいつも、こんな瞳で私と向き合ってくれる。彼らが向けてくれるどこまでも真摯でひたむきな、息もできないほど眩しく美しい思いと同じ物を返せたらと思わなかったわけではない。けれどきっと、私には不可能だろう。私は彼らのように美しい性根を持った人間ではない。全てから逃げ出し、全てを投げ出したくせに、間違い続けてしか生きられない愚かな女なのだ。
「ようこそ、おいでくださいました」
「……夜分遅くに失礼致しました。どうしても、もう一度お目にかかりたいと思い、失礼を承知で訪ねてしまいました」
「私も……私も、もう一度あなたと会いたいと思っていました。ですから、会いに来てくださって嬉しく思います。ありがとうございます」
私は、カロン達のように愛らしくは笑えない。沢山素敵な笑顔を教えてもらってきたのに、私の笑い方しか出来ない。きっと薄く小さな微笑みしか浮かべられなかった。なのに、フェンネルは強ばっていた頬をゆるりと小さく緩ませる。
私は彼らと同じにはなれない。同じ美しさで生きることはできない。そんな私が彼らの優しさに返せるものは何なのだろうと、いつも考えている。
「どうぞおかけになってください」
部屋に備え付けられている来客用の椅子を示せば、フェンネルは私の後ろへちらりと視線をやり、無言で腰を下ろした。それを見てから、私の後ろにいるカイドに視線で促す。私と同じ長椅子に座るかと思いきや、カイドは小さく首を振り、一向に座ろうとはしない。それどころか、私の肩に手を置き、流れるように座らせてしまった。
どうやら座る気は無いようだ。困った人だとほんの少し下げてしまった眉根に気づいたのだろう。カイドも少し困った笑みを小さく浮かべた。
フェンネルは、店で見たときと服装が変っている。よく見れば、髪も若干湿っているように見えた。夕立があったとは聞いていないので、彼もきっと湯を使って眠る準備をしていたのかもしれない。用事があったのなら、あの場で私達を引き留めればよかった。それをせずに店から見送ったのだから、やはりあのときはそのまま別れるつもりだったはずなのだ。
けれど、何か心変わりがあったのだろう。だから、彼は今、ここにいる。
僅かの間、部屋には沈黙が落ちた。ふっと小さな息と共に沈黙を破ったのはフェンネルだった。沈黙を破ったといっても言葉を発したわけではない。けれどそれは、確かに何かの言葉だった。
私の前に、青い箱が取り出される。夜の限られた光量の中でも昼と変らぬ美しさを保った青い箱を、驚いて見つめる。
「お納めください」
やっと挨拶以外の言葉を聞いた。けれど、意味が飲み込めない。
「……受け取れません」
「あなたにはその権利があります。元より、問いに答えられた方に売るのではなく、納めるつもりでいました。これは、元から納めるために作成した物ですので。……ですが、納めるにあたり、数点お伺いしたいことがございます。お答え、頂けるでしょうか」
美しく価値ある物を、無償で納めてもらうわけにはいかない。これが王族であれば、民が納めたいというものを突き返す訳にはいかない場合もある。だが、今の私は王家の血を継いでいない。確かにライウス領主であるカイドの婚約者だが、下手に物を受け取るには危うい立場だ。
そう言えばよかったのだ。彼にその気は無くとも、これは賄賂に取られるものだと言ってしまえば、送ろうとしていた側は気分を害すか、浅慮な自分を恥じて引く。そういうものだ。
これがずるいやり方だと分かっているが、時にずるさが正当となることもある。カイドは私をまるで清廉な人間のように扱うが、私は貴族が嗜みとして覚えるずるさを知っている。
今もそのずるさに逃げてしまえばよかった。なのに、そんな卑怯な手段を選ぶには、彼は真摯すぎるのだ。
「私に、お答え、出来るものでしたら」
多少の逃げ道を含んだ返答だったのに、彼はほっとした顔をした。
「あなたは、ライウスの宝花様とお会いしたことがありますか」
「……いいえ」
「あなたは……ライウスの宝花様のご息女である可能性はありますか」
予想だにしていなかった問いに面食らう。ぽかんとして思わずカイドを見てしまう。カイドも面食らったのだろう。何か恐ろしい物を見るかのような視線を私に向け、小刻みに首を振る。
どう答えようかしばし悩んだ。しかし、悩んでいる間にじわじわせり上がってきた奇妙さに、思わず笑ってしまう。
「そんな可能性がほんの僅かにでもあれば、私はカイドと婚約など出来ないわ」
そう答えれば、フェンネルは形容しがたい奇妙な顔に、カイドは酷く困った顔になった。
動かなくなってしまった二人を見つめつつ、止まってしまった会話をどう続けようかと考える。しかし、そんな心配は無用だった。フェンネルが、まだ含みを持たせた顔をしつつも話を続ける素振りを見せたからだ。だが、それも再び止まる。何かを発そうと開けられた唇が開いては閉じ、一度何かを噛みしめるように瞼が閉じられた。
幾度か迷いが見られたが、次に開かれた瞳は、いつものようにまっすぐ私を見ていた。
「では、何故、そんなにも似ておられるのですか」
まっすぐな人だ。まっすぐで、真摯で、ずっと昔の約束を、今なお違えることなく守り続けた人。
青い箱の表面で、蝋燭の光がゆらゆら揺れている。橙色の光と青い光は互いを弾きあうこともなく、まろやかに溶け合う。本来真逆の色のはずなのに、二色はこんなにも穏やかだ。
何をどう、どこまで話せばいいのか、私にはまだ分からない。
カイドが止めないから話していいとは思わなかった。だってこの人は、私がしようとすることを制止しようとはしないだろう。私がしたがることは後押しすらする人に、判断の基準を置くことは出来ない。それはきっと、彼の優しさと愛と、罪悪感から齎されるものだからだ。それに元より、自分の行動の責任を彼に負わせるつもりはない。
けれど、恐ろしいのだ。恐ろしいのはいつだって、自分の行動が齎した結果が、彼を、彼らを傷つけることだ。行動の責任全てが私だけに負わされるのなら、きっと何も怖いことなどない。けれど、私の行動の結果は、ライウス領主へ、引いてはライウスへと齎される。慎重になるなというほうが無理な話だ。
だが、いま私の前にいる人に何も話さず終えるべきだとも思えない。一言一言、言葉を探しながら口を開く。
「……どうしてなのか、私にも理解できていない事を説明することは、難しいわ」
私はどうしてここにいるのか。ライウスの怒りによって終わったはずの私がここにいる理由など、誰にも説明できない。
「だから、私のことは、おかしな女が譫言を言っているのだと、思ってほしいの」
この前置きが、今の私に出来る精一杯だ。
人差し指と中指を握りしめ、ふっと胸の中に滞っていた息を小さく吐き出す。まだ何も話せていないのに、息を忘れてしまいそうなほど緊張している。
「今も、鍛冶職人になりたい?」
フェンネルは劇的に表情を変えはしなかった。その代わり、酷くゆっくりと瞼を閉じた。閉じられた瞼にぎゅっと力がこもった後ゆるりと開き、くしゃりと笑った。
「いえ」
その答えにほっとする。
「よかった。今も一人で淋しそうにしていたら、どうしようかと思ってしまったの」
「流石にこの歳で路地裏で膝を抱えたりしませんし、自分がそれほど嫌っている職で弟子を取ったりしませんよ」
苦笑を返すフェンネルに、そうね、その通りねと笑ってしまう。彼が今、苦しくてなくてよかった。淋しい思いをしていなくてよかった。今、この話をしている今、悲しそうでなくて、よかった。
「……これは、本当に私が頂いてしまっても、いいの?」
「はい」
そっと問うと、フェンネルは静かに頷く。青い箱がゆっくりと開かれていく。その中から現れたのは、青と銀の、優美で、それでいて命の強靱さを思わせる美しい首飾りだ。
名のある名家の方か、それこそ王女様の首を飾るためにあるような、それが相応しいと思えるほど素晴らしい品だ。私が触れるには、少々、美しすぎる。
両手で持ち上げ、目の前に掲げられたそれに触れることも躊躇ってしまう。けれど、フェンネルは一歩も引かなかった。
「あなたに納めるために、作りました。……あのときはまだ設計図しか出来ておらず、せめてそれだけでも墓前に納めようかとも思いましたが、そこの男が場所を秘匿したまま喋りませんでしたので」
じとりと睨まれたカイドは、知らんぷりしてそっぽを向いた。まるで子ども二人が喧嘩しているようで、微笑ましくなる。
「カイドも難しい立場なの。……それはきっと私の所為だから、どうか、怒るなら私に怒ってほしいの」
「あなたに向ける感情に、怒りなど欠片も存在しません。怒りを向ける矛先があるのなら、それは間に合わなかった自分の幼さと、全て独り占めしたその男への嫉妬くらいです」
「まあ……」
どう答えればいいのか分からないフェンネルからの返答に、困ってカイドを見てしまう。カイドはしれっとそっぽ向けていた顔を私に向け、にこりと微笑んだ。これはもしかして、とっても困った人と言わなければならないことなのかもしれないと遅まきながら気がついた。
フェンネルとカイドが見つめ合っている。どうしたものだろうと考えながら、開かれた約束に視線を落とす。
青い宝石の上を、炎のきらめきが命のように通り過ぎていく。
「……私、いま身支度を整えてもいないけれど……つけても、いいかしら」
「勿論です。宜しければ、俺がおつけします」
「じゃあ、お願いするわ。こんな服装で、ごめんなさい」
「いいえ。宝石は、人を輝かせるものです。服装や髪型を押し上げるものではありませんから」
上着を少し下げ、髪を持ち上げて首を晒す。フェンネルは慣れた手つきで首飾りを持ち上げた。カイドは一歩下がったと思うといつの間にか前に回り、どこから持ってきたのか鏡を用意してくれた。
「失礼します」
宝石が溢れる店でも、豪奢な屋敷でもなく、宿屋の一室で合わせるには価値がありすぎる品が、私の胸元に当てられた。
カイドもフェンネルも少し伏し目がちになっている。きっと私もそうだろう。夜は蝋燭しかなく明かりが低いから、光が届く範囲に視線を向けやすくなるのだ。
静かな時間だった。静かでゆっくりとした、夜の空気だ。光はあれど闇が圧倒的な力を持ったこの時間に、長い時間守られ続けた美しい約束が私の首を飾る。
冷たくもどこか温かな温度が首をぐるりと回る。肌へ僅かに触れるフェンネルの指が離れると同時に、ずしりとした重さが訪れた。
とても、重い。けれど不思議と、すぐに慣れてしまうのだ。つけたばかりの頃はこんなにも重たいと思うのに、いつしかこの重さがないと王城に出るには心許なくなる。
この重さに耐えられるよう、顔を上げていようと思う。この重さが光をいっぱいに浴びられるよう、胸を張っていようと思う。この重さに相応しくあれるよう、背を伸ばしていようと思う。この美しさに相応しくあれるよう、笑っていようと思う。
ゆっくりと、閉じていた瞼を開ける。目の前には、呆れるほど不釣り合いな宝石を身につけた私が映っていた。鏡の中の私は、じっと首飾りを見ている。鏡越しにフェンネルが見えた。似合わないとがっかりしただろうかと視線を向ければ、フェンネルは、ほっとしていた。
迷子の子どもが親を見つけたような、帰り道を見つけたような、そんな顔を、しているのだ。そんな顔を見てしまったら、こんな顔を向けてくれるというのなら、私はこの約束を捨ててくれだなんて言えるはずもない。
カイドもカロンも、宝物だと言ってくれた。私にはどうしたって呪いにしか思えないものを、宝物だと、これがあったから越えられた日々があったのだと、言ってくれた。
ああ、本当は、私だってどれだけそう思っていたか。
あなた達との日々を、交わした言葉を、それが例えほんの短い時間だったとしても、どれだけ大切だったか。どれだけ愛していたか。私が持っていたほんの僅かな自由で愛した全てが、どれだけ。
私が愛した時間が彼らを縛り付け、呪いとなっている様を見れば見るほど苦しかった。だけど、彼らが違うと、宝物だと言ってくれるのなら、私はそれを否定してはいけない。せめて、否定だけは、してはいけないのだ。だって私だって本当は、本当に、宝物のように思っていたのだから。
「お嬢様」
そっと、夜の静寂を乱さない静かな声で、カイドが私を呼ぶ。顔を覆って俯く私の指の隙間から溢れ落ちる滴を、柔らかな温度が拭う。
私は本当に、人に、愛に、恵まれた。あれは優しい生だった。多くの偽りに囲まれた中で育まれた私の生は、罪深く醜悪なものだった。だが、優しい時間に彩られた愛しさは、決して偽りではなかった。
涙を拭い、顔を上げる。少し赤くなってしまった目尻と鼻は、青い首飾りと対照的だった。それなのに、フェンネルはふわりと笑う。
「大変よく、お似合いです」
「ありがとう、フェンネル…………約束を守ってくれて、ありがとう。私、あなたと約束できて、よかった」
「俺もです……あなたと約束する機会を頂けましたこと、大変光栄です、お嬢様」
動きに合わせて光が泳ぐ青い石が、鏡の中からもその美しさを送り出してくれる。今日は、酷く静かな青の夢を見るのだろうと妙な確信があった。
「でもやっぱり、こんなに素晴らしいものをただ頂くわけにはいかないわ。それに私はまだ、約束を果たしていないもの」
フェンネルは己の胸元に指先を揃えた右手を添え、優雅な礼をした。
「でしたら、これより先、宝石をご所望の際は優先的に当店をご利用ください。私の持ちうる技術全てを懸け、必ずやご満足頂ける品をご提供致します」
「……まあっ」
突然商売人の顔を覗かせたフェンネルに驚いた後、思わず笑ってしまう。カイドは何故か舌打ちしたように思ったけれど、聞き間違いかもしれない。
「あなた、とっても上手だわ。でも、いいの? 私はライウスとしてあなたに依頼することになるわ」
「勿論です。そもそも、ライウスからの依頼を断っていた理由が晴れた今、お断りする理由がありません。――それに」
私をまっすぐに見る瞳に、本当に変わらないと懐かしさとそこに過ぎ去った時間を思う。進路が気にくわないと膝を抱えていた小さな少年はもういない。ここにいるのは、あの頃の彼より大きな弟子を持った、一人の立派な職人だ。それなのに、あの頃好ましく思った真摯さは変わらないなんて、なんて素敵なことなのだろう。
「店の名前は、今は必要ありません」
「そう……」
きっぱり宣言されて、少し淋しい思いもする。けれど、既に名前のない店として知名度を得ているのだとすれば、今更余計なことなのだろう。
約束を果たせなかった私がいけないのだ。既に破ってしまった約束を、もう一度やり直せると思う方が都合がよすぎるのだから。
「いつか、つけてください。そうすれば、それまであなたとの約束が続くんです。俺は、今ここであなたとの約束が全て終わってしまうことを惜しいと思います。だから、続きをください。俺は今、約束が果たされることより、あなたとの時間が続いていくことが嬉しいと思うんです」
全ての人間と寄り添い合って生きることは不可能だ。家族とだって、道は別たれる。だからこそ、重なった時を奇跡のように感じた。それが大切な人ならばなおのこと。愛しさを感じた相手ならば、言葉にならないほどの喜びが溢れるのだ。
「……私も、あなたとの時間が続いていくことが、とても嬉しいわ…………困ったわ、私、こんなに嬉しいことばかりしてもらったのに、何も返せるものがないの。フェンネル、あなた、何か願いはない? ずっと約束を守ってくれたあなたに何かを返したいの。私、あなたの為に何が出来るかしら」
そう問えば、フェンネルは奇妙な表情になった。そして、ゆっくりとカイドを見る。カイドは、フェンネルと同じほどゆっくりと首を振った。
「……やめろ、俺を見るな」
「………………」
「…………褒美を、与え慣れている方なんだ」
何故か切なそうな瞳で私を見るカイドに首を傾げる。礼を返すことは当たり前のことだ。それが嬉しいことであればなおのこと。彼らが向けてくれた誠意と労力には到底見合わないからこそ、少々の無理であっても惜しんではならない。それが貴族の心得だ。
今の私は貴族の生まれではないけれど、カイドと結婚するのであれば貴族と同等の責任が課せられる。それに、私がそうしたいのだ。ずっとずっと、既に破られてしまった約束を守り続けてくれたこの人に、私も何かを返したい。
それなのに、フェンネルは困った顔で私の前に跪いた。
「俺は、あなたと再び邂逅が叶った以上の喜びを知りません、ですからどうか、お気になさらず」
「そんな……そんなわけにはいかないわ」
「いいえ、本当にそれだけで…………ですが、そうですね。図々しくも願いを述べることが許されるなら、どうか無事に何事もなく、ライウスへお帰りください」
到底彼へのお返しにならないであろうことを口にしたフェンネルに、私とカイドは顔を見合わせた。
確かに私達は明日王城へと召喚されるけれど、王への報告が済めばライウスへ帰る。それは当たり前のことだ。確かに道中は全く危険がないわけではないが、それでも王都への道は他の道よりも危険が少ないものだ。盗賊も夜盗も数が少なく、道だって整備されている。そしてカイドも私も、王城へ出向くことは初めてではない。
「どういう意味だ」
問うたカイドをちらりと見たフェンネルは、すぐに私へと視線を戻した。
「これが不敬であることは重々承知しております。ですので、この不敬を見逃すことを、褒美としてください」
そう前置き、フェンネルは声を潜めた。今までだって決して大きな声ではなく、ともすれば夜の静寂に飲まれてしまいそうな声であったのに、今はもっと意識して顰められた声で話す。
「今の王城は、あり得ないことがあり得てしまう。そんな雰囲気があるのです」
「……何か、あったの?」
「……いいえ、何も。何も、ありません。まだ何もないのです。……貴族とはそういうものだ。それで収まる程度の事ばかりです。ですが、以前の身軽な状態ではなく弟子を持った今は、出向くことを躊躇い王都から離れる決断をする程には、きっと、何かがあるのでしょう」
珍しく要領を得ない喋り方をするフェンネルの手が、握られていることに気づいた。その手の上に私の手を重ねる。少しだけ、震えているのかと思った。ぴくりと僅かに跳ねたその手は、震えてはいなかったけれど、驚くほど固く握りしめられていた。
「フェンネル、私は、何に気をつければいいの?」
フェンネルは何度か躊躇う素振りを見せた。けれど、私を見つめ、口を開く。
「王女に、お気をつけください」
フェンネルはそれ以降、この件について何も話さなかった。だが、ぴたりと口を閉ざしたのではなく、何かを話そうとしては閉ざしてを繰り返していた。それは、何かを話すべき事があるはずなのに、何一つとして明確な形にならない不安を孕んでいた。




