37.あなたと私と名前のない店Ⅶ
小さく手を振って見送った後、閉められた扉の前から動かないカイドの元に歩み寄る。カロンが用意してくれていた上着の襟が肩からずれてしまっていたので、片手で直しながら、ぐったり疲れ切っているカイドの手を取る。
「私もあなたに聞きたいことがあったから、会いに行こうと思っていたの。来てくれてありがとう、カイド。座って」
「……はい、失礼します」
カイドも楽な服に着替えているし、髪も緩くしか結っていない。もうそのままだって寝てしまえる格好になっているから、一日の疲れがどっと出たのだろう。ぐったりしているカイドにお茶を淹れて渡すと、はっとなった顔で慌てて受け取った。
「申し訳ありません、お嬢様」
「私があなたにお茶を淹れたいのに、謝っては嫌よ。でも、先に飲んでもしまっても、嫌よ」
私が淹れたお茶には、嫌、なんて言葉では追いつかないほどの恐ろしい記憶がこびりついてしまっている。だから、先に私が飲んで毒が入っていないことを確認しないと落ち着かない。
カイドもそれが分かっているから、いつも複雑そうな顔をしつつも私のわがままを許してくれていた。それなのに、今日のカイドは違った。
お茶を淹れ終わった私が自分の席に着くや否や、カップのお茶を飲み干してしまったのだ。
「カイド!」
悲鳴を上げた私の前で、カイドは何事もなかったかのように静かな動作でカップを皿へと戻した。そのカップを追い、視線を落としていた私の視界に、中途半端に持ち上げたまま固まっている自分の手が映っている。かたかたと小刻みに震える私の手を、大きな手が握った。
「大丈夫です。というわけで、お嬢様。これからは、お嬢様が毒味をなさるようなこと、絶対にやめてください」
「そんな、無理よ。だってあなた、あんなことが何度もあったら……死んでしまうわ」
「死んでいませんので平気です。ですからお嬢様、俺とも約束をして頂けませんか」
彼の言っている内容は到底受け入れられるはずもない言葉だ。それは確かだった。それなのに。
そんな場合ではないと、誰より私が分かっているはずなのに、思わず笑ってしまう自分を止められなかった。
「あなた、カロンとの話、本当に聞いていたのね」
痛みと悲しみと怒りと、そして抑えきれなかった笑みで、私はきっとおかしな笑みを浮かべているはずだ。こんなに色んな感情が大忙しなのだから、どれか一つの感情だけを表情に出すなんて器用なこと、私には出来なかった。
だけどカイドは、それには一切触れず、困ったように笑う。
「出直そうかと思ったのですが、どうしても伺っておきたいことがありましたので」
それは私も同じだ。ジャスミン達の前では話せなかったから、後でカイドの部屋を訪ねようと思っていた。その前にカイドが訪ねてきてくれたのだ。
「私も、あなたに聞きたいことがあったの……フェンネルとは、どうして?」
どうして会ったの? どうして知り合ったの? どうして、会うことになったの。
そんな同じと言えば同じで、違うと言えば違う言葉を、どうしての一言にこめた私の問いに、カイドは小さく笑った。この人は、よく笑う。今も、昔も、演技であっても、演技でなくても。だけど、その笑みの多くがどこか淋しそうな静かなものだった。
「お嬢様の墓参りをしたいと、訪ねてきました」
「……本当に律儀な方なのね」
何せ、随分昔に一度交わしたきりの約束を今でも待ち続けている人だから。
そう思ったからそう言った。それなのに、カイドは何故かおかしな顔をした。
「……まあ、そういう見方もありますね。ですが、多かったですよ。そういう人間」
「え?」
「カロリーナ達のように、既に身元も分かっており、その後も屋敷にとどまってくれた人間には教えられましたが、それ以外の人間には公に発表されている内容をそのまま伝えて帰していました。それでも、そういう人間はしばらくの間ひっきりなしに訪れていました。断った後も来続けた人間も少なくありません。奴もその一人です」
私や家族は、公にはどこかの山にうち捨てられたことになっている。それは決して非人道的な行いではない。誰もが持ち得る、尊重されるべき尊厳を踏みにじって生きてきた。そんな人間の尊厳が尊重されるはずもない。また、されてはならない。尊重されるべきは、既に踏みにじられてしまった人々の尊厳であり、踏みにじった人間の尊厳ではない。
それは当たり前のことなのに、この優しい人達は、それすらも悼んでくれた。そして、一度会ったきりの相手のために、領をこえて訪ねてくれる人がいるだなんて思ってもみなかった。
「私は本当に……人に恵まれたわ」
それなのに、その事実に気づかなかった。それがどれだけありがたく、得がたいものか。どれだけ得たいと願っても己の努力だけではどうにもならないものか。私は何も知らなかった。気づこうともしなかった、無知であることが当たり前だった己の不甲斐なさは、身悶えるほどの羞恥とやるせなさで私を焼く。
「お嬢様は、いつ奴と会ったんですか?」
「まだご存命でいらした、王妃様の誕生祭で王都へ行ったときよ」
第一子である王女様が誕生なさって数年後、王妃様は身罷られた。元々、身体が強い方ではなかったのだ。正妃である王妃様の子どもは王女様お一人だが、王家には庶子である兄王子様がいる。嫡子である王女様のお立場は盤石なものであるが、王子様のお立場も蔑ろにされているわけではない。
昔、幾度か会ったきりだが、聡明で穏やかな方だったと記憶している。
「フェンネルは、本当は鍛冶職人になりたかったのですって。作る姿も、そうして出来上がった品も、強くて格好いいからと憧れていたそうよ。けれど手先がとても器用だからとご両親が宝石職人に弟子入りさせたのだと言っていたわ」
「あの腕を見れば、先見の明があったのでしょうね」
「そうね。けれど、フェンネルはそれがとても嫌だったそうよ。強くて格好いいものが好きなのに、ここには真逆のものしかないと怒っていたわ。豪快なものが好きなのですって。中でも竜は一等好きなのだそうよ。竜を模った鎧や剣を作りたかったと言っていたわ」
本人にとっては真剣な悩みだったはずだ。けれど、小さな子どもの時分ならばともかくそれなりに大きくなれば道は選べるものだし、今もそれで生計を立てている姿を見た後なので、安心して微笑める。随分可愛らしい理由だと、くすくす笑ってしまう。
「ああ、だからお守り……」
それだけで大体の事情は察したのだろう。カイドは納得したように頷いた。
「ええ。話の中で私はお守りのように思っているわと言ったら、強くて格好いい物を作ると言ってくれた、の……カイド、あなたどうしたの?」
「どう、とは?」
「この話を教えてくれた時のフェンネルのような顔をしているわ」
いじけたような、拗ねたような、どこか怒っているような、どこか情けないような、一言では表せない複雑な顔だ。今の話のどこにこんな顔になってしまう要素があったのか分からず首を傾げる。カイドは、片手で己の口元を覆いながら頬を解すように擦った。
「失礼しました。お嬢様は、出かけられた際は必ず外であったことを俺に教えてくださったのに、この話は初耳だったため、少々拗ねました」
「まあ!」
驚いてしまい、思わず大きな声が出てしまった口を、反射的に両手の指で押さえて隠す。それでも笑いは堪えきれず、くすくす笑ってしまう。
「あなた、本当に可愛らしい人ね。でも、どうか怒らないでカイド。あなたと出会うより何年も前の話なの。だから、内緒にしていたわけではないのよ。あなたがいたら、きっとうるさいくらいたくさん話していたわ。ね?」
だからどうか笑ってと頼んだのに、カイドはせっかく解した頬を更に歪めた上に、目もさっきより据わってしまった。先程までの一言では表せない複雑な表情ではなくなったが、どう見ても怒っているようにしか見えない。
困惑した私を、カイドはじっとりと見つめた。
「………………奴のほうが先に出会ったという事実に、更に拗ねました」
「まあ、カイドったら……本当に、困ってしまうほど可愛らしい人ね。あなた、本当に気をつけなくては駄目よ。あんまり可愛らしいことばかりしていたら、皆あなたのことが好きになってしまうわ。好かれるのはいいことだけれど、あなたのことを独り占めにしたいと思う方が沢山現れたらどうするの。そんなの、駄目よ、いけないわ。そういうあなたを独り占めにしていいのは私だけだもの。恋人って、そういうものでしょう? だから、可愛らしい姿は、他の方の前では控えめにしなくては駄目よ?」
そういうことにはいまいち疎いらしいカイドが心配で、繰り返し釘を刺す。くどくどとお小言を言いたくはないけれど、本当に心配だ。こんなに可愛らしく純粋だなんて、今までどうやってお城で無事でいられたのだろう。きっとカロン達が一所懸命守っていたに違いない。これからは私もしっかりカイドを守らなければならない。
気を引き締めてから気がついたが、カイドは何故か虚ろな目で私を見ている。こういうことに疎いようなので、私の言い方では分かりづらかったのかもしれないと反省したが、すぐに眠いのかもしれないと思い至った。
「カイド、眠いの? ごめんなさい、長話をしてしまったわ。部屋に戻りましょう? 送るわ」
いま眠ってしまうと、私ではカイドを部屋まで運べない。私のベッドを使ってもらってもいいけれど、私のベッドまで運ぶことも出来ないだろう。どちらにしてもカイドの足で歩いてもらわなくてはならないので、もう少し頑張って起きていてほしい。
慌てて立ち上がった私の手が握られ、そのまま元の椅子に座るよう促される。仕方なく座った私に、カイドはゆっくりと微笑んだ。
「いいえ、大丈夫です。お嬢様が仰ることも理解しました。どうやら俺は、そういうことに疎いようです。田舎の貧乏貴族の出ですから、どうしても色事には鈍くて。ですからお嬢様、王都では俺の傍で俺を見張っていては頂けませんか。情けない話ですが、どうにも王都で一人は不安でして」
少し照れたように笑うカイドが可愛らしくて、もっともっと心配になってしまった私は、カイドの手を両手でぎゅっと握った。
「ええ、勿論よ。私、頑張ってあなたを守るわ」
「ありがとうございます、お嬢様。お嬢様はお一人でもしっかりこなせるというのに、情けない限りです」
「そんなことはないわ。誰にだって得手不得手というものはあるもの。安心して、カイド。私、ダンスをお断りするの、とっても上手なの」
ふふっと笑ってみせると、カイドも目を少し細め、「だからです」と薄く笑った。
社交辞令でダンスに誘ってくれる方は大勢いたから、そういう方達を上手にお断りする術は自然と身についた。だからきっと、カイドは私を頼ってくれたのだろう。どんなことであってもカイドに頼ってもらえると、とても嬉しい。
もっと色んな事でカイドを助けられるようになりたい。頼ってもらえるように強くなりたい。そう思っているのに、次にカイドが続けた言葉で感情が揺れてしまうほど、今の私は弱いと思い知る。
「約束ですよ」
「……ええ。約束、ね」
カイドの手は、少し声が震えてしまった私の両手を片手で覆ってしまった。困ったように微笑む瞳の優しいことといったらない。
「お嬢様。あなたとの約束は、俺達の呪いなどではないと、どうか信じてください。……確かに、そこに全くの痛みがなかったと言えば嘘になります。俺にこんなことを言う資格はないと承知しています。ですが、ですがお嬢様。俺達には、俺には、あなたとの約束がなければ進めなかった時間があることだけは、信じて頂けないでしょうか。約束があったから、俺は生きられた。あなたとの時間があったから、何があっても終わることを許せなかったんです。あなたを犠牲にしてまで進んだ道を、こんなところで途絶えさせてなるものかと死に物狂いで生きてこられた……そうして今、生きていてよかったと、思えたんです」
人は、こんなに優しい瞳を出来るのかと驚くほどに、この人は優しい色を浮かべて私を見る。こんな瞳で見てもらえる価値など私にはない。そう分かっているのに、この優しい人達は、いつだって私を甘やかすのだ。
何も答えることの出来ない私を、カイドは静かに待っていた。私が答えを出せるまで、責めも急かしもせず、穏やかな瞳で待っている。
しんっと静まりかえった部屋に、控えめなノックの音が響いた。驚いて身体を震わせてしまった部屋主の私の代わりに、カイドが答えてくれた。
「どうした?」
「カロリーナです。宝石職人を名乗る男が、お嬢様にお目通り願いたいと申しておりますが……如何なさいますか。時間も時間ですし、お引き取り願いましょうか」
もう日も変わる時間だ。非常事態でもない限り、こんな時間に訪ねてくるなんて非常識にも程がある。けれど。
「名は?」
「フェンネル・ニオンと申しておりますが」
「だろうな」
扉越しに交わされる会話を一旦保留にしたカイドが、再び私を見た瞳に、驚きはなかった。
「どうされますか? 会いたくなければ、こちらで対処します」
「……いいえ、会うわ。会いたいの…………あなた、どうしてそんな顔をするの」
「やはり、面白くないものはどんなことであれ面白くないなと思っただけですので、どうかお気になさらないでください。カロリーナ、お会いになるそうだ。準備を」
「畏まりました」
返答から歩き出した足音まで一拍あったので、扉越しでもきっと一礼していったのだろう。屋敷のものとは違う、少し軋む廊下を移動していく音が去って行くのが聞こえた。音が遠ざかってから、そっと息を吐く。
「……本当に、彼は律儀な方ね」
「今回の件に関してはご理解頂かずとも全く問題ありませんが、お嬢様はほんの少しでもご自身の影響力を自覚して頂きたいと思う反面、それはそれで収拾がつかない大惨事ではないかとの懸念もあり、我々は大変複雑な気持ちであることだけは覚えていて頂けましたら助かります」
「ご、ごめんなさい。あなたが言っていることが、よく、分からないの」
「はい」
はい、ではなく、その言葉の意味を教えてほしかったのだけれど、カイドはにこりと微笑んだきり何も教えてはくれなかった。




