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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
第二章
36/70

36.あなたと私と名前のない店Ⅵ







 夜の闇は、嫌いではなかった。普段は日に紛れてしまうほど小さな光に気づける夜を、昔は好んでいたように思う。夜の庭は、昼間より静かで騒がしい。動物の気配が静まった夜は、眠ったはずの草木の気配を濃密にする。音も存在も香りも、昼間より夜のほうが濃いと、庭の森で知った。

 一人で暗闇へ向かうのは、何かが現れはしないかと恐ろしかったけれど、誰かと一緒なら、まるで冒険の始まりのようでわくわくした。いつもと同じ屋敷の庭が、まるで別の場所のような雰囲気になる夜の静けさが楽しかった。


 闇から現れた何かではなく、闇が自分を飲みこむのだと、自分はそんな末路が相応しい存在だと知らなかったからこそ脅えずにいられたのだと知ったのは、全てが終わった後だった。






 宿に戻った私達は、それぞれ食事を取り、明日への準備を整え、湯も終えた。

 通りとの境に植えられた木々が、風に揺れて控えめな音を立てている。けれど、他が静まりかえっているからか、窓を開けたこの部屋まで風と音が届く。

 昔、こんな音を聞き、森の香りを纏った風を受け歩いた夜の森がある。昼間は気づかなかった白い小さな蕾をたくさん見つけた。それがとても嬉しくて、明日の明るい時間に見に来ましょうとわくわくして言えば、これは雑草ですよと可愛らしく笑われてしまった。笑われても、それはちっとも嫌な笑い方ではなかったから、私はずっと嬉しいままで。浮かれたまま、約束ねと言ったのだ。



「お嬢様、どうされましたか?」


 湯を使ってからずっと、開けた窓の外を眺めていた私に、カロンがそっと声をかけた。私はぼんやりしていた自分に気づき、慌ててカロンを向く。カロンだって疲れているのだし、明日の準備だってある。早く下がってもらうべきだったのに、うっかりしていた。


「ごめんなさい、カロン。少し疲れてしまったのかもしれないわ。遠出をするのは久しぶりだからかしら」

「……お嬢様、失礼を申し上げても宜しいでしょうか」

「なぁに?」

「浮かない顔をなさっています。宜しければ、このカロンに話してみませんか?」


 メイド長としてではなく、カロンとして聞いてくれたのだと分かる口調に、思わず口元が綻ぶ。


「ふふ……昔みたいね」

「いいえ、昔はお嬢様が私の話を沢山聞いてくださいましたよ。今度こそ私もお嬢様のお役に立ちたいです」

「そんなこと、ないわ。あなたはいつも私を嬉しくさせてくれたわ。あなたがいてくれて、私、本当に幸せだったのだもの」


 初めてのお友達だと、思っている。昔も、今も、ずっと。大切で、大好きなお友達と一緒にいられる幸せをカロンは私に初めて教えてくれた。


「ねえ、カロン。隣に座ってくれないかしら」

「……ジャスミン達には内緒ですよ?」

「ふふ、ジャスミン達のほうがあなたに内緒にしなければならないことが多いわ、きっと」

「お嬢様……たまには叱ってくださいませね?」


 カロンは隣にあった椅子を少し寄せ、私の隣に腰を下ろしてくれた。立っていても座っていても、目線は彼女のほうが少し上だ。昔は私のほうが高かったのにと思うと、少しだけ寂しいと同時に、そこに彼女が今まで生きてきた時間を見つけて嬉しくなる。




「約束を、思い出していたの」

「……私との約束でございますか? ………………間違っているのなら申し訳ございませんが、もしやあの小さな白い花のことでしょうか」


 カロンの口からその話題が出てきて驚いてしまう。思わずぱちりと瞬きした私に、カロンはくしゃりと表情を歪めた。


「申し訳、ございません。お嬢様と約束をしたのに、私は結局、あの約束を果たすことが出来ませんでした」


 深々と頭を下げたカロンに驚く。確かにあの約束は果たされなかった。約束の日、彼女は実家から結婚が決まった旨を伝えられ、それどころではなくなってしまったのだ。しかし、驚いたのは頭を下げたカロンにではない。カロンの悔恨の表情が、あまりに生々しかったからだ。

 時が、過ぎているのだ。約束を交わしてから、もう長い時間が過ぎ去った。私は死に、そうして生きた。カロンだって、続く生の中で新たな命を産み育て、決して止まった時間にいたわけではないはずだ。

 それなのに、カロンの表情は、長い時間が過ぎたとは思えないほどに生々しく、痛々しい。


「カロン、あなた、ずっと後悔していたの? 駄目よ、そんなの、いけないわ。もうずっと昔の、とても小さなことよ。それに……私は一度終わってしまったのだもの。果たせなかったというのなら、私も同じよ。そんな私との約束で……そんなに悲しい顔をしないで、カロン」


 再会の約束を持ちながらも命を投げ出した私こそが、責められるべきだ。それなのにカロンは、己こそが咎人であるかのような顔をしている。


「どうして捨ててはくれないの。そんな、あなた達を傷つけるだけの約束なんて、果たされないと分かった時点で、捨てて、忘れてしまわなければいけないものなのよ」


 忘却も、時間による癒しも、生きている人間だけが持ち得た権利だと、セシルは言った。その通りだ。生きて時を刻んでいく人にだけ、その権利が与えられる。

 それなのにどうして、カイドもカロンもフェンネルも、ずっと、ずっと、こんな顔をしなければならないのだ。

 私もウィルフレッドも、一度途絶え、時の流れに逆らうかのように歪に生み出された。だけど彼らは違うのだ。彼らはずっと、脈々と紡がれる時の中を生き続けた。それなのに、時は彼らを癒やしてはくれないのか。ずっと昔に交わした些細な約束でさえ、彼らを蝕む種にしてしまったまま、時はただ流れていくだけなのだろうか。


 私が考えなしに交わした約束が、こんなにも長い間、彼らを縛り付ける呪いになるだなんて思ってもみなかったのだ。ほんの一瞬で交わされた約束が、果たされなかったという理由だけで、彼らを蝕み続けるだなんてあんまりではないか。




「どうしてあなた達は、私がかけてしまった呪いから解放されてはくれないの……」

「お嬢様……お嬢様、ああどうか、そんな顔をなさらないでください」


 温かで、私より少し大きくなったカロンの両手が、私の右手を握る。

 声に、表情に、瞳に、その全てに痛みを映した私の大切な友達は、ぎゅっと唇を噛みしめた。そして、ゆるりと口を開く。


「呪いだなんて、どうか、そんな悲しいこと、仰らないでください」


 痛みに満ちた、今にも泣き出しそうな声で、カロンは言った。


「大切なんです。大切な、宝物なんです。お嬢様から頂いた全ての思い出は、私にとって……旦那様にとっても、大切なものなんです。だから、捨てろだなんて、どうか仰らないでください」

「カロン……でも私は、あなた達に悲しい顔をしてほしくはないの……」

「お嬢様が願われるのならば何でも叶えて差し上げたいと願っているのに、どうして、そんな悲しいことだけしか言ってくださらないんですか。大切だから、持ち続けてきたんです。新しいものを抱えても、無くしたくないから抱え続けてきたんです。それが、私達の望みなんです、お嬢様。…………何があったのかは存じません。ですがお嬢様、これだけは絶対にお忘れにならないでください。私達が、己が抱えるお嬢様を失っていれば、ライウスは失われていたでしょう。今のライウス領主派である我々は、お嬢様で繋がっています。あの混迷した時代も、お嬢様で繋ぎ止められていたからこそ、我々は強固な基盤を持ち、体制を維持して進み続けることが出来たのです。お嬢様が私達に下さった記憶を縁にして縋り続けた我々から、それを取り上げないでください。その瞬間、ライウス領主派は散り散りとなって霧散します」


 咄嗟に、そんなことないわと言おうとした。けれど、その言葉を口に出すことは出来なかった。カロンの瞳があまりにまっすぐに私を見ていたからだ。まっすぐ、真摯に、少しのぶれもない瞳で、私を見ている。


「お嬢様、あなたの存在は確かにライウスを、そして私達を救ったのです。どうかそれだけはお忘れにならないでください。そう、お約束、くださいませんか」


 最後の言葉に、思わずカロンと繋がった手に力がこもった。温かな手。私より少し大きな手。少し、お母様に似ている、私の大切なお友達の、手。


 彼女が言っていた内容全てを飲みこみ、受け入れることはとても難しいことだった。私がライウスを、彼らを救っただなんて、そんなこと思えるはずもない。たとえカロンの言葉であっても、到底受け入れられるはずもない言葉だ。けれど。

 私の右手を握るカロンの両手に、私の左手を乗せる。



「……カロン、私ともう一度、約束をしてくれるの?」


 十五年前、全ての約束を置き去りにした私に、全てから逃げ出すように死を選んだ私に、あなたはそう言ってくれるのか。





 私はいま、どんな顔をしているのだろう。私を見たカロンの顔がぐしゃりと歪んだ。それは、今にも泣き出しそうにも、笑顔にも、見えた。


「お嬢様さえ宜しければ、私は、あなたと約束を交わしたいです。その約束が果たされたのならば、また次の約束を、いつでも、何度でも。あなたじゃなければ駄目なんです。あなたと交わす約束だから、意味を持つのです、お嬢様。ですからどうか、約束を、して頂けませんか」

「……約束、するわ。あなたと、約束をするわ、カロン…………本当は、あなたが言っている言葉を飲みこむことは、とても難しいの。私は救いどころか呪いにしかなれないのではないかと、思い続けるのだと思うの」

「お嬢様、それは違いますっ」


 悲しい顔をしたカロンが泣いているような声で叫ぶ言葉を遮って、話を続ける。


「ごめんなさい、カロン。私はそう思う自分を変えることは出来ないのかもしれない……けれど、あなたがそう言ってくれたことを、覚えているわ。忘れたりしないわ。だって、約束だもの。あなたがくれた、約束だもの。私、あなたと約束出来ることが、とても嬉しいの。本当よ。だから、ねえ、カロン。泣かないで」

「………………泣いてなど、おりません。私は、メイド長ですから」


 俯いているカロンから、小さな滴が私の手の上に降ってくる。けれど、カロンが泣いていないというのならきっとそうなのだろう。この雨の存在も、雨粒の温かさも、私だけが知っていればいいのだから。


「カロン、好きよ。私、あなたが大好き」

「……私もお嬢様を愛しております」

「ふふ、嬉しい。私も愛しているわ、カロン。ねえ、カロン。私のカロン。どうか、ずっとお友達でいてね」

「はい、勿論でございます……嬉しいです、お嬢様。光栄なのに、それよりも何よりも、嬉しいです」


 そう言って上げられた顔は、まるであの頃のようで、そしてジャスミンのようで。くしゃりと笑ってくれたカロンは、やっぱりとても可愛らしい。


「私もよ、私も、嬉しくて堪らないの。あなたとお友達になれたことが、そうして今もそうあれることが、とても嬉しいの」

「はい、はい、お嬢様…………」


 カロンは一つ深い息を吐き、それを全て吸い込むように胸を膨らませた。




「お嬢様とあなた様は恋仲であるかもしれませんが、お嬢様からの愛は私も頂いておりますこと、ゆめお忘れ無きよう!」


 突然きっぱり宣言したカロンに首を傾げる。今の言葉は明らかに私に向けてではなかったからだ。部屋の中を見回しても、当然ここには私とカロンしかいない、はずだった。


 なのに、扉がゆっくりと開いていく。開かれた先にいたのは、困った顔をしたカイドだった。




 明日も忙しいからか、今日はきちんと就寝の用意をしているのだろう。既に湯も使い終わったらしく髪が濡れている。明日も忙しいからと自分で就寝の用意に入ったのか、使用人の皆が周囲を取り囲んで就寝に追いやったのかは分からないが。

 部屋には入らず、開いた扉の前で立ち尽くすカイドを見ながら、カロンはすっくと立ち上がった。


「何をしておいでです、旦那様」

「いや、その……お嬢様に伺いたいことが、あったんだが」

「先客がいた上それが私だった為、声をかけることを躊躇った結果盗み聞きになったということですね」

「う……悪かった。それにしても、お前はよく俺がいると分かったな」

「旦那様を風呂に叩き込む指示を出したのは誰だとお思いですか。風呂から上がる時間くらい把握出来ずして、あなた様のメイド長は務まりません。何せ我らがライウスの旦那様は、ご自身のことはとことんまで蔑ろにする、手のかかる方ですので」

「…………ライウスのメイド長は優秀で助かる」

「滅相もございません。まだまだ至らぬ身でございます」


 伸ばした背を少しも揺らさず、きっぱり言い切ったカロンは、声音と目つきからふっと力を抜いて私を向く。


「それではお嬢様、私は下がらせて頂きます。明日は久しぶりの王都となります。出来るだけ早くお休みくださいませ」

「ええ、あなたもお疲れ様。今日もありがとうカロン」

「いいえ、とんでもないことでございます」


 柔らかく綻ばせてくれた目元と口元が嬉しくなって、その手を軽く引きながら腰を浮かせる。可愛らしいそばかすの残る頬にキスを送ると、カロンは目を丸くした。二、三度大きな瞬きをした後、くしゃりと笑い、同じようにキスを送ってくれた。私から送ったのに、くすぐったくて私も笑ってしまう。


「カロン、大好きよ」

「私もでございます、お嬢様」


 くすくす笑いながら、今度は反対の頬へキスを送り合った。

 就寝と親愛の挨拶を終えたカロンは、未だ部屋に入ってこないカイドを部屋へ迎え入れると、今度は自分が先程までカイドが立っていた場所へと移動する。


「それでは失礼致します。――旦那様」


 深々と頭を下げたカロンから呼びかけられたカイドは、何故かびくっと肩を震わせた。そんなカイドを不思議がることもなく、カロンはゆっくりと顔を上げていく。


「お嬢様と町歩き、それはもう羨ましく恨めしく思っておりました、が、今は大変清々しい気分でございます!」

「カロリーナのお嬢様に関しては素直で分かりやすいところ、俺はわりと好きだぞ……」


 ふふんっと胸を張ったカロンは、沢山の自信が溢れていて、とても可愛らしかった。










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