35.あなたと私と名前のない店Ⅴ
視界の端に、鶯色の帽子が見えた。ふと意識を向けたのは、少し退屈していたからもしれない。
宝石に囲まれるとその美しさに心が躍るけれど、母や祖母のような熱を持って時間を忘れるほど没頭することはなかった。
私の分は、既に選んでいる。宝石を選ぶ基準が二人と違うからか、私はいつも一番に買い物を終えてしまうのだ。
二人の様子を見ていると、まだ時間がかかることを分かっていたからこそ、他に意識を向けてしまったのかもしれない。
もうずっと大人しく座っているからか、今は誰の目も私に向いていなかった。母と祖母は時々私を見たし、店員も笑顔を向けてくれる。それに笑みを返す。彼らは常時私を見ているわけではない。
彼らの視線が外れたのを確認してから、さっき視線の端に映った帽子を追う。窓の外を通っていく帽子は、大人がかぶるには小さく見えたのできっと幼い子どものものだろう。
子どもと関わる機会はほとんどない。皆、失礼があってはいけないからと、幼い子どもだけでなく、自身の子どもを仕事の場に連れてくることがほとんどないからだ。私と年の近い人も、少し年上の人も。子どもなのだから、少々のいたずらは仕方がないし、失敗だって可愛いものだろう。なのに、私の周りには子どもがほとんどいない。
本当は、私も友達が欲しかった。私も、もう十三歳だ。十三にもなれば、家族には教えない内緒の話を友達と交わしたりすることも増えると、両親にどうしてもとねだって買ってもらった娯楽小説に書いてあった。それなのに私は、将来の結婚相手はいても友達はいない。
私は、そっとその場を離れた。
家族からも使用人からも離れて一人で行動するなんて、屋敷の中でしかしたことがない。それなのに、その日はそうしてみたいと思った。きっと今しか機会がないと思ったからだ。家族を通さない誰かと、一度くらい話してもいいのではないか。
そう思った私は、こっそり店を抜け出し、ひょこひょこと去っていく帽子を追った。
この宝石店は、仕入れで装飾品を集めては来ない。集めてくるのは宝石だけで、それらを装飾品へと磨き上げる職人達とその工場を店の裏に構えている。店を出てすぐの横道は、その工場に繋がっていた。高価なものを扱っているからか、警備の男性が二人立っていたけれど、見逃して頂けないかしらとお願いしたら、少しだけですよと目を瞑ってくださった。
奥へと向かうと、工場の入り口が見えてきた。けれど、私はそこへは向かわなかった。何故なら、いくつかあった建物の間の小道に、追っていた鶯色が見えたからだ。
「ご機嫌よう」
木箱や樽が重なって置かれているその間に蹲っていた人は、驚いたのか勢いよく顔を上げようとして、ぴたりと止まった。まだほんの子どもだった私より何歳か年下だろう身体は、小さく薄く、なのに少し丸みのある幼い子どものそれだ。
少年は、深く帽子をかぶり直してしまった。
「……何か、ご用ですか。貴族のお嬢様が来るような場所ではないですよ」
そう言われるだろうとは思っていた。普段訪れたことのない場所で誰かに話しかけると、大抵そう言われたからだ。
「突然話しかける失礼を、どうぞ許して。さっき、お店の中からあなたの帽子が見えたの。そうしたら、何故かしら。あなたとお話ししたいと思ったの。もしご迷惑でなければ、少しお話に付き合ってくださったら、私とても嬉しいわ」
断られるだろうかとどきどきしていると、彼は少し驚いたように薄く口を開けた。しばしの沈黙後、さっき深くかぶった帽子をもう一度深くかぶり直し、座っていた場所から身体一つ分奥へとずれた彼の帽子から、銀色の髪が覗いていた。
それが、彼と私の出会い。たった一度だけ出会った、名も知らず、顔も知らない、王都の少年。
「竜?」
不思議そうなジャスミンの声に、はっと意識を戻す。気がつけば、全員の視線が私を向いていた。子ども達は三人とも不思議そうに私を見ていたけれど、カイドとフェンネルだけは、笑いもしなければ困惑もしていない。酷く静かな瞳で、私を見ている。
何かを言わなければ。そう思ったのに、言葉が出てこない。感情が喉を滑り落ちて胸に溜まっていくだけで、何一つとして言葉になど出来なかった。
だから、代わりの言葉を音にする。
「……外れてしまったわ。貴重なお時間を頂いてしまったのに、ごめんなさい。カイド、帰りましょうか。あまり遅くなっては、カロンが怒ってしまうわ」
「お嬢様が宜しいのでしたら」
カイドがそんなことを言うから、困った顔で微笑むしかない。
何を言えと言うのだ。彼に、十九年も昔の約束を、私の死で二度と果たされなくなって十五年も経った約束を、律儀に抱えてしまった彼に、何を。若くして独立し、自分の店を持ったのなら、そんな、塵芥のように散った約束など過去に置き去るべきだったのだ。
店の顔とも呼べるその名を無のまま、私に作ってくれると幼い声で言ったその品を作り上げ、約束を果たした彼に、それを見届けることなく自らの罪で罰されて散った私が、彼と約束を交わしたライウスの前領主の娘ではない私が、何を言えるというのだろう。謝罪も礼も、懺悔も賞賛も、どれもそぐわない。
そして、私はライウスの前領主の娘だと彼に告げるわけにはいかないのだ。どれだけ彼が誠実であろうと、たった一度会っただけの人に、そんなこと告げられない。「ライウスの徒花」は、今やライウスの禁忌と成り果てた。再びライウスへ動乱を齎す種にしかならない存在なのだ。そんなものを、一度しか会ったことのない人に教えるわけにはいかない。
たとえ、たった一度しか会ったことのない相手と交わした約束を、ずっと、ずっと、守り続けてくれた人だとしても。
ライウスの徒花は、もはや誰かの不幸にしかなれないのだと、私はもう知っているのだから。
「残念だったね」
「全然分かんなかったな」
「僕も答えは知らないんだ」
三人は残念そうにもう一度箱の中身を覗き込み、素晴らしい青をその瞳に映した。
「二人は、帰りもこの町による?」
「えっと、どうだろう……サムア分かる?」
「……何で分かると思ったんだよ。俺もお前と同じ初心者だぞ!? だ、旦那様!」
困った顔で視線を向けられたカイドは、少し考え、肩を竦める。
「今の段階では、状況による、としか言い様がない。悪いな」
「とんでもないことでございます。そうですか。お答えくださり、ありがとうございます」
丁寧な返答と礼をしたナモンは、くるりとジャスミンとサムアに向き直った。
「帰りには寄れなくても、また別の機会に会いに来てほしいな! 君達面白いし」
「うん! そうだよね! サムア面白いよね!」
「その時は何かお土産持ってくる。君達って言われたからな!? お前も入ってるからな!? あと、ナモンも面白い方だからな!?」
ジャスミンとサムアの息の合った掛け合いに勢いよく巻き込まれたナモンは、少し驚いた顔をしつつも嬉しそうに笑う。
「うん、じゃあ約束だ! お土産楽しみにしてる! 僕も、次こそはお師様に許可を頂けるような作品作ってお店に並べておくよ!」
「わあ、楽しみ! 約束ね!」
「分かった、約束だな。頑張れよ」
さらりと、本当に簡単に、流れるように交わされた子ども達の約束ほど眩しいものはない。
約束を果たせないかもしれないだなんて、きっと彼らは考えていないのだ。明日をまっすぐに信じられる輝きに、尊さだけを感じられたらどれだけよかっただろう。
あの日私は、齎される死に抗わなかった。伸ばされていた救いの手をそうと分かっていて取らず、背を向けた。それが間違いだったとは思わない。私の死は、ライウスの平和だった。私の死を以て、ライウスの夜は明けた。
けれど私は、ライウスの平和だけを願って死を受け入れたのではない。投げ出したのだ。生を投げ出し、贖罪を投げ出し、泣き叫ぶ全ての感情から逃げ出した。
その結果、沢山の約束も投げ出したのだ。
カイドと交わしたコルキアへの約束も、カロンと交わした再会の約束も、フェンネルと交わした名付けの約束も、何もかもを。いつかまたを、無邪気に無知に傲慢に、信じていられた自分が軽々しく交わした約束を、私が投げ出した後にひたすら背負ってくれた人がいる。ひたすら泣いてくれた人がいる。ひたすら守ってくれた人がいる。
今を生きる人々の陰にしかなれない存在を、それでも抱えて持ってきてくれた彼らに、そんなものどうか捨ててと叫び出したかった。そんなもの持っていなくていいのだと、そんなものであなた方の生を陰らせてはならないのに、どうして誰も捨ててはくれないのだ。
まだ私をじっと見つめているフェンネルが何を考えているのかは分からなかった。
「……素晴らしいお品を見せて頂き、本当に光栄でした。ありがとうございます。これからも、華やかなご活躍を心よりお祈り申し上げます。どうぞ、お元気にお過ごしください」
両手を揃え、深々と頭を下げた私の上に、ぽつりと言葉が振る。
「…………貴女も」
「恐れ入ります」
視界の端で、閉じられていない青い約束が、今も美しく光り続けていた。




