26.あなたと私のお酒
「そりゃあお前は、最終的にはカロリーナのような鉄壁の防壁が阻んでくれただろうけど、俺にカロリーナはいないんだ……なあ、カイド」
「駄目だカロリーナはライウスのカロリーナだ当人がギミーに行きたいと願わない限り断じてやらん」
一息もつかずに言い切ったカイドに、イザドルは肩を竦めた。
「分かってるよ。言ってみただけさ。カロリーナはお嬢様がギミーにいらっしゃらない限り、たとえ天地がひっくり返ろうとライウスを離れないだろうなぁ」
楽しそうに話している二人をじっと見つめる。ぽんぽんと、打てば響く音楽のようになめらかな会話が続いていく。その様子に、私はさっき気づいたことが事実だと確信を持つ。
イザドルが気心知れた間柄ということもあるのだろうけれど、よく考えればカロンにも執事長に、サムアやジャスミンにだって、カイドは会話が下手だと思うような言いよどみ方はしていなかった。
いつだって会話選びと相槌は適切で、受け取るべき箇所は流さず、掬い取る必要のない箇所はするりと流す。彼のことだから無意識ではなく意識してやっているのだろうけれど、意識して行えるということは、それらの正解をきっちり把握しているのだ。
つまり。
「カイド、あなた、今の私にだけお喋りが上手ではないの?」
酒が入った手であろうが揺れもせず、恙なく注がれ続けていた二人のグラスが派手な音を立てた。酒が入り少しとろりとしていた二人分の瞳が、今は大きく見開かれている。イザドルは、酷くぎこちない動作でその瞳をカイドへと向けた。
「お前、気持ちは分からないでもないけど、幾らなんでも初心っ……」
何かを言いかけたイザドルの口に、目にもとまらぬ速さで跳ねあがったカイドの手が張り付く。ばちんと結構な音がしたので絶対痛いと思うのに、イザドルは塞がれた口を押えることも痛みに悶えることもなく、驚愕の目をカイドに向けたままだ。
「あの、お嬢様っ」
「……イザドル、痛くはない?」
「大丈夫です」
イザドルの代わりにきっぱり言い切ったカイドに困り、当人に視線を向ける。当人の方もひらりと掌を振ったので、きっと大丈夫なのだろう。未だ驚愕の目でカイドを見ているけれど。
「ええと……だってあなた、人と会話をすること好きでしょう? 普段のあなたを見ていたら、お喋りが上手ではないなんて思えないわ。私があまり得意ではないから合わせてくれたのね。ありがとう、カイド」
焦ったかのように揺れていた金色の目が何故か痛みを滲ませてぎゅっと細まり、カイドは勢いよく立ちあがった。そのままの勢いで椅子に座ったままの私の足元に膝をつく。弾けるような勢いに今度は私が呆然としてしまった後、はっとなる。
慌ててカイドに立ってもらおうとしたけれど、私よりとても大きくなってしまった彼の身体は、いくら手を引いたところで彼が立とうとしてくれなければちっとも持ち上がらない。ならばと私が床に降りようとしても、そのまま椅子に止められてしまった。
カイドは、彼を立たせようと掴んでいた私の手を両手で握り返し、まっすぐに見上げてきた。
「お嬢様、俺はもう、二度とあなたに嘘はつきません」
息を飲むほど真摯な瞳と声音に、思わずぎょっとしてしまう。
「私、嘘だなんて思っていないわ」
「違うんです、お嬢様! 俺はあなたを騙すなんて、二度と、そんなことっ」
「カイドったら!」
必死に言い募るカイドの瞳が酷く揺れていて、私は自分の迂闊さを叱り飛ばしたくなった。私に真実を告げられなかったことは、私などより余程、彼の中に傷を残したのだ。私は、自業自得だった。
そうと分かっているから私は彼の正しさを恨めしく思えなかったのに、他でもない彼が、誰よりその過去を許せずにいる。
「カイド、ごめんなさい。おかしな言い方をしてしまったわ。そうではないの。私、そんなことをあなたに言いたかったのではないの」
「違うんです、お嬢様。あなたとうまく話せないのは、本当で、その……恥ずかしくてですね」
「恥ずかしい?」
さっきまで必死の形相で言い募っていた人とは思えないほど言いよどんだカイドは、予想だにしていなかった言葉を出してきて首を傾げる。どこまでも通っていく張りのある声を口籠らせる様子が珍しくて、思わずまじまじと凝視してしまう。
彼が床に膝をついたままなのはとても気になるけれど、珍しい様子のカイドのほうが気になってしまうのだ。
「どうして? だってあなた、昔は普通に話せていたでしょう?」
「……それは、その……自分を律する必要があった上にこうまでこじらせてはいなかったので…………こうなったら失礼を承知で言わせて頂きますが、お嬢様、見過ぎです」
言いよどんでいた唇をぐっと引き、困ったように揺らしていた瞳に力を篭めたカイドは、意を決したように口を開いた。
そのカイドから放たれた言葉を頭の中で反芻する。見過ぎ。そうだろうかとは思わない、その自覚はあった。
「そうね……ごめんなさい。昔もそう言われたことがあったけれど、最近またそう言われてしまうの。昔は誰かと話せるのが珍しかったし、今もつい見てしまって……だって、嬉しいのだもの。カロン達と話をするのは勿論、あなたとこうして話ができることが嬉しくて堪らなくて」
「お、嬢様」
「カイド、領民の皆があなたを見ている目は、いつだってきらきらしてとても綺麗だわ。あんなに綺麗な瞳でたくさんの人から見つめられても、あなたはいつだって凛としているのだし……だから、その……あなたにばかり負担をかけてしまうのはいけないと分かっているのだけれど、どうか、私の視線にも慣れてはもらえないかしら……駄目?」
「無理です!」
悲鳴のような絶叫で返ってきた返事に、しょんぼりする。
でも、彼の言うとおりだと思い直す。彼にばかり変化を要求することはとてもずるいことだ。せめて私も、できる限りの努力をしてから言うべきだった。
あまり見つめないようにする……というのは、ちょっと、難しいかもしれないけれど。
だって、大好きなのだ。カイドが好きで、好きで、大好きで、どうしても視線で追ってしまう。でも、これはカイドだって同じだと思うのだ。だって私達は、よく視線が合ったから。こうして二人ともお屋敷に帰ってきてからは特に。
なら、大好きだという気持ちを押さえて見つめてみるのは……。自分で出した考えけれど、即座に否定して仕舞いこむ。だって見つめることすら我慢できないほどカイドが大好きで堪らないのに、その気持ちを抑え込んだ視線なんて向けられるはずがない。
どうしたらいいのだろう。私は途方に暮れた。カイドを困らせたいわけではないのだ。困り果てた私は、それは情けない顔になっていたのだろう。カイドは酷く狼狽えた。
「お嬢様、そんなどうか、他の誰かの視線と好きな方からの視線を同列に扱えなどと無体なことは仰らないでください。同じになど思えるはずがないではありませんか。だって俺は、あなたを愛しているんです」
酷く真剣な瞳と声音で、カイドはそう言った。まっすぐに私を見上げてくる瞳にも、私の手を握り締めている熱にも、偽りなど浮かんではいなかったし、そんなもの探そうとも思わない。だって、そんなものあるはずがないと断じられるほど、カイドはもうずっと私に真実だけを与えてくれた。
つらいことも、悲しいことも、苦しいことも、遣る瀬無いことも、目隠しせず包み隠さず。そして、彼の気持ちも、誤魔化さずにこうして開いてくれる。まっすぐに向けてくれる気持ちに乱される胸は、ただ幸せだけが渦巻く。
しかし、ちらりと過る不安もある。
私は、私の手を取ってくれているカイドの手を握り返す。真剣な顔で見上げてくる金色に、柔らかな熱がくるりと踊る。美しい光を宿した大人でありながら、表情でどこか幼さを残す彼に、私はますます不安になった。
ずっと気にはなっていたけれど、彼は大人だし、ずっと立派に領主を務めてきた人だ。だから、私が余計なことを言うのは憚られ、今まで言えずじまいになっていたが、やっぱり一度ちゃんと言わなければならないだろう。
「カイド、駄目よ。いけないわ」
「はい?」
「そんな可愛らしいことを迂闊に言って、可愛らしいことをしてはいけないわ。あなたは男性だからこういったことをあまり習ってはこなかったかもしれないし、今まで結婚はしないと明言してきたことでこういったことは控えめだったかもしれないけれど、今は……その、私と結婚してくれると言ってくれたことで、あなたもこういったことに加えていいのだと周囲が気づいてしまったのよ」
結婚も恋愛も、平民は勿論のこと、貴族である以上決して疎かにしてはいけないことだ。
人には欲がある。それは平民も貴族も変わらないけれど、立ち位置によって欲の方向性も変わっていく。特に貴族は、結婚も男女の問題も、当人の気持ちより優先されるお家の事情がある。そうして軽視されがちな当人の気持ちは、時に思わぬ方向で歯止めが聞かなくなっていくものなのだ。
色恋というのは慎ましやかに行われなければならないけれど、決して恥ずかしいことでもみっともないことでもなく、大切に伝えていかなければならないのだと両親から教わった。
なのにカイドは、今一要点が掴めないのかぽかんとした顔で「はあ」と、少し間が抜けた声で答えた。
「だから、この場ではいいけれど、公の場であまり可愛らしいことをしてはいけないし、言ってもいけないわ。だって、男性も女性も、お家のことだって大切だけれど、それと人を好きになる気持ちは別だもの。あなたがそんなに可愛らしいことを平然としてしまうと、どうにかなってしまう方が出てきてしまってもおかしくはないわ」
「いや、その……まさかお嬢様から、その手のことで諭される日が来るとは思いもよりませんでした。お嬢様、俺は子どもでもありませんし、そもそも男です」
「だって、人が誰かを好ましいと思うことに男女なんて関係ないわ。男性だって慎みを持たなくては、何かあってからでは遅いのよ? 私だって、あなたが可愛らしいことをたくさん言うからどうにかなってしまいそうだもの。思わず抱きしめてしまっても、はしたないと怒ったら嫌よ。だって、あなたがとっても可愛らしいのだもの。ねえ、イザドル、そうは思わない?」
顔を上げ、黙って聞いてくれていたイザドルを向くと、彼はとても驚いた顔をした。
「俺の存在を覚えていてくださって、光栄です、お嬢様……」
何故か絞り出すようにそう言った後、イザドルは妙な気迫を伴ってカイドへと視線を向ける。私はびっくりしてしまったけれど、その視線を受け止めたカイドはまるで分かっていたかのように静かに頷いた。
「カイド、お前本当に気合い入れてお守りしろよ!?」
「……分かってる」
「俺の存在を忘れていた状態で「いたの!?」と赤面でもしてくださったのならまだいいけれど、覚えていてくださった状態でこれということは、お嬢様これ素だからな!? 俺がいてもなんとも思わないくらい普通の状態だってことだからな!?」
「分かってる!」
「俺達ならともかく、何も知らない俺の従者までお嬢様にじっと見つめられると何だか妙な気分になってきますとか言ってきたんだぞ!? 流石ライウスのお嬢様! ただの箱入り様より手におえない!」
「分かってはいる!」
「ライウスから出て頂いて本当に大丈夫なのか!?」
「分からん!」
どこか絶望にも似た声で叫んだカイドは、凄い勢いで私に視線を戻す。私の手を握り締める力も若干強くなっている気がする。
「お嬢様」
「な、なあに?」
「やっぱり俺を見ていてください」
重要な決断をするような顔のカイドに、身も心も引き締まる思いで向き合ったのに、告げられたのはよく分からない結論だった。さっきどう頑張っても見ないでいることは難しいし悲しいと思ったので、それは願ったり叶ったりだけれど、どうして急に見ても大丈夫になったのだろう。
よく分からないけれど、許可が出たことで疑問よりも大きな感情は一つだ。
「嬉しい、カイド」
「うっ……です、から、ですね、見つめるのは、俺だけにしてください」
「いつもあなただけを見つめているつもりなのだけど……。私、こんなにも大好きなあなたがいるのに、余所見なんてしないわ」
彼を不安にさせてしまうようなことをしてしまっただろうか。自分の行動を思い返そうとした私達の間にイザドルが飛び込んできた。
「お嬢様、もう止めてやってください! カイドは既に瀕死です!」
「え!?」
「自分で言うのもなんですが、遊び慣れた俺でさえ流れ矢でかなり危ういのに、真っ向から受け続けたカイドが無事でいられるはずがありません! どうか、どうかもう少し手加減してやってはくださいませんか!」
「な、何を!?」
「愛情をです!」
驚きの回答に、思わず叫んでしまう。
「そんなの無理だわ! だって私、カイドが大好きなんだもの!」
後から考えると、ほんのちょっとだけ恥ずかしい台詞を思いっきり叫んでしまったのは、きっと私も、部屋に充満していたお酒の匂いに気づかぬ内に酔ってしまっていたのだろう。笊や枠と言い合っていたカイドとイザドルも相当酔っていたのか、ふらつきながら飲み会は終了となったくらいだから、あの時部屋に充満していたお酒の香りはとても強かったはずだ。
一つ不思議なのは、その翌日からカイドとカロンが二人で何事かを話し合っている姿をよく見かけることだ。更に、その話し合いは大抵二人が頭を抱える形で終わっていることも不思議に思っている。




