23.あなたと私の、とある大切な日Ⅲ
カイドの執務室に入れば、すぐに戻るつもりだったからか、机の上に書類が散らかっていた。台車を押しているカロンが手を出すより早く、カイドは自分でさっと直してしまう。カロンの目つきが鋭くなり、慌てて間に割って入る。
「カイド、ソファーに座ってもらえるかしら」
椅子はどこでもよかったけれど、執務机だとすぐに仕事を始めるかもしれないという事前のカロンの忠告に従い、ソファーに座ってもらう。
きょとんとした顔で見上げつつも大人しく座ってくれたカイドの前にトレイとお茶を用意していく。ジャスミンとサムアは仕事に戻ってしまったけれど、この程度の量ならば二人掛かりで用意すれば早いものだ。いつもは私も座っているようにと言うカロンが何も言わないのを不思議そうに見ているカイドの前で、あっという間に用意は整った。
目配せしてくれるカロンに頷いて、んっと喉の調子を整える。裏返ったってカイドは笑ったりしないけれど、私がちゃんと言いたいのだ。息を吸い過ぎないよう、けれどはっきりと言い切れる量を吸って、首を傾げているカイドの前に置かれているトレイの蓋を取った。
「お誕生日おめでとう、カイド」
トレイにお行儀よく並んでいるのは、掌に乗るほど小さな五つのケーキだ。小さな円に型抜きしたケーキは、五人の手によってそれぞれの顔を見せていた。
カイドは一つ一つに視線を合わせ、右から二つ目を見た時「うっ」と呻く。でも、そろりと上がってきた顔はやっぱりどこか呆けている。
じわじわ状況を把握していった瞳がしばし彷徨い、ばつが悪そうにカロンを向いた。
「……カロリーナ、何か言ったな」
「お誕生日おめでとうございます、旦那様。これで来年はとうとう三十路ですね」
つんっとそっぽを向いたカロンを恨みがましげに見上げていたカイドの前に、カロンの働き者の指が突きつけられる。
「今まで散々そっぽ向かれ続けてきた旦那様の様々なお祝い事に対して、何故思う所がなかったとお思いなのですか。使用人の慰労パーティーは盛大に開いてくださるのに、ご自身の誕生日は一切祝わせず、長年に渡り使用人および部下をやきもきさせたツケをお支払い下さいませ。頑固頑な分からずやな旦那様でも、お嬢様相手では断ることもできないでしょう! ざまあみてくださいませ! こちら、我ら一同からの細やかな仕返しでございます!」
どうしてだろう。カイドの表情が引き攣り、青褪めて見える。こんなに可愛らしい仕返しなのに。確かに、カロンの気迫は凄まじいけれど。
五つ並んだ小さな小さなケーキ。五人がそれぞれ飾りたてた、カイドの為だけのケーキだ。大きければ食べきれないだろうと小さく型を抜いたけれど、クリームを固めにしたおかげで崩れもせずきちんと収まっている。
その五つを揃えた指先で示したカロンは、にやりと口端を上げた。ちょっと悪い顔のカロンも決まっていて、とても格好がいい。
「このケーキは、お嬢様、私、ジャスミン、サムア、料理長がそれぞれ飾り付け致しました。誰がどのケーキか当てられた暁には全て進呈いたします。ただし! お嬢様のケーキを当てられなかった場合、お嬢様のケーキは私共が山分け致します!」
「待て、カロリーナ!」
「待つものですか! 毎年、誕生日含めたご自身のお祝い事のみ全て必要ない、時間と金と人材の無駄だとすっぱり切られる上に、そもそもすっかり忘れている。旦那様に気付かれぬよう、窓を塞ぎ、中には地下に潜り、まるで黒魔術のようにこっそりお祝いのケーキを捧げていた同志達の苦労を見てきた身としては、いい加減一矢報わねば気が済みません!」
肩を怒らせ、眦を吊り上げたカロンを見ながらちょっと考える。辿りついた結論に自然と笑顔になった私は、カロンの腕をとんとんと叩いた。
「同志ということは、カロンもその中にいるのね」
私以外の二人の瞳が大きく瞬きした。ばちりと音が出そうなほど大きな瞬きの後、黄金の瞳は弾かれたようにカロンを見た。カロンは、見る見る真っ赤になり、何故かトレイの蓋を抱きしめた。
大事なぬいぐるみを抱きしめるようにトレイの蓋を抱きしめたカロンは、目にもとまらぬ速度で退出した。いつもより数倍速い速度だったけれど、礼まできちんとこなしている。ただし、私には退出の挨拶があったけれどカイドにはなく、代わりに誕生日を祝っていった。叫びながら。
カロンにしては珍しく乱暴な音を立てて扉が閉まると、部屋の中はしんっと静まり返った。
「カイドは本当に皆に愛されているのね」
「後が怖い気もしますが……カロリーナには、本当に世話になっています」
「ふふっ、直接言ってあげればきっと喜ぶわ」
カイドの向かいに座り、自分のお茶を手に取る。今でもカイドとお茶を飲むと少しだけ緊張してしまうけれど、表に出すつもりはない。けれど、何となく先に口をつける習慣ができてしまった。
カイドが真剣な顔で五つの小さなケーキを見つめている間にお茶に口をつける。流石カロン。美味しい。
「あの、お嬢様」
「ん?」
「これは、誰が誰か分からないよう細工が施されているわけでは、ない、ですよね?」
あまりに真剣に問うものだから、思わず笑ってしまう。
「ええ、大丈夫よ。そもそも、私もジャスミンもサムアも、仕返しだなんて聞いていないもの。カロンも、少し意地悪したかっただけよ。カイド、あなた覚悟した方がいいわ。だって、私達があなたのケーキを作っていると聞いた人は皆、喜色満面だったのよ。皆、お祝いしたくて堪らなかったのね。私も、来年は形に残るものを贈らせてね」
「来年……」
「ええ。来年も、私、あなたの隣でお祝いしてもいい?」
「来年、も」
もう一度同じ言葉を繰り返したカイドは、何だか小さな子どものようで思わず抱きしめたくなる。
可愛いと、成人男性に言うのは侮辱だろうか。ああ、でも、無性に抱きしめたい。
英雄と呼ばれるこの人が、ただのカイドの顔をすると何だか小さな子どもみたいに見える時がある。私よりうんと年上になってしまったのに、どうしてだか、幼い子どもに思える時があるのだ。そんな時、私はいつも困ってしまう。カイドが可愛くて、そして何より愛おしくて、思わず抱きしめたくなってしまうのだ。
私は十五年前、この日に辿りつけなかった。彼に渡したくて植えた花は芽吹くことなく散り、私の生も終わった後、彼がこの日をどう過ごしていたかは知らない。知ろうともしなかった。
ここから遠く離れたカーイナで毎年この日を過ごした。誰よりも愛した人を祝う資格のなかった自分を呪い、芽吹くことのなかった花に懺悔し、もう二度と会うことはないだろう彼に生誕の祝福だけを想うこともできず。
知る資格もないと思った。けれど何より、きっと皆に祝われて笑っているだろう彼を知ったとき、おめでとうと、それだけを思えないかもしれない自分が恐ろしくてならなかったのだ。
彼は、目を閉じ、耳を塞ぎ、光に背を向け続けてきた私の愚かさを許してくれたというのに。
本当は、今年こそ花を植えようかと思った。カロンに頼んでこっそり用意することは可能だっただろう。けれど、嫌味になってしまったらとどうしようと悩み始めればきりなどなく、結局実行できなかった。それだけではなく、もしも彼に痛みを齎す何かになってしまったらと思うと、どうしても実行できなかった。
けれど来年は、植えてもいいだろうか。一輪でもいい。毎年一輪ずつ増やして、いつか花束にできるだろうか。いつか、そんな日が来るのだろうか。
「来年のことも大切だけど、まずは今年のお祝いをさせて」
「はい……しかし、まずはカロリーナの出してきた挑戦を乗り越えなくてはなりません」
「ふふ、あなたも真面目ね」
むやみやたらと嘘をつけなんて言わないけれど、カロンのちょっとした意地悪にも真剣に向き合うカイドがカイドらしくて微笑ましい。そういう所も好ましいし、素敵だ。
「俺が真面目と言うよりは、ここでカロリーナの挑戦を無視すれば、この先お嬢様と過ごせる時間の七割を消失する予感がします」
そう言うと、真剣な顔でトレイと向き合う。そんな大袈裟な……大袈裟、な。
カイドの真剣過ぎる表情を見ていると、冗談よねとも確認しづらい。部屋の中に、さっきとは違う緊迫感による沈黙が満ちた。
「戸惑わせる為の細工がないというならば、分かりやすい物からいきます。まず、この地獄の使者が料理長」
「今日のにゃんこだと聞いたわ」
「今にも魂を刈り取られそうな形相ですね。……この、全ての飾りが天を向いているケーキがジャスミン」
「星を見上げるケーキですって。素敵な名前よね」
「魚が使われていないことに感謝します。執事より菓子職人が向いていたんじゃないかと思ってしまうケーキがサムア」
「そうなのよ! サムアとっても器用で、こんな繊細な砂糖細工が作れるなんてびっくりしたわ!」
「父親が菓子職人だそうです。……問題は、残りの二つです」
残るケーキは、私とカロンが飾り付けた物だ。何の変哲もない方が私だ。両方とも、飾り付けもクリームと果物だけだった。あ、ちょっと果物が傾いてしまっている。やっぱり直すべきだった。けれど、何度も見ている内に傾いているのかいないのかよく分からなくなってしまったのだ。直感に頼るべきだっただろうか。曲がっていると思って直したら、曲がっていなかったのに曲がってしまったなんて結末を招くのではと恐れて手をつけなかったけれど、やはりあの時おかしく思ったのなら直すべきだった。
今更後悔している私の前で、まるで命が懸かっているような真剣さでケーキを見つめていたカイドがぐっと拳を握りしめる。
「こっちがカロリーナ! つまり、残るこちらがお嬢様の作ってくださったケーキ、で、合っていますか?」
見事正解を言い当てたカイドに、思わず拍手した。
「凄いわ、カイド! どうして分かったの?」
私とカロンが作ったケーキは、時間はともかく同じ屋敷の同じ調理場で作った物だから、使っている材料も一緒だ。ちなみにいうと、土台は料理長作だからそこも同じだ。他の三人のように特徴的な部分もなかったのに、どうして分かったのだろう。
驚きと感動にどきどきしている私の前で、カイドの視線がどんより落ちていく。
「カロリーナのほうは、一番大きな果物がクリームにめり込んでいますから……恐らく、そこで何か、俺に対して腹立たしいことを思い出したのでは、と。こっちがお嬢様だったなら、俺はそこの窓から飛び降りたかもしれません」
クリームに果物を乗せる時は、今まで以上に細心の注意を払おう。最悪の場合、果物が倒れてしまっても構わないから、間違ってもめり込ませてはならない。
真剣な声音で虚ろな瞳をしたカイドに、私は新たな誓いをこの胸に刻んだ。