21.あなたと私の、とある大切な日
嘗ては花の香りが溢れ返る静かな屋敷だった。けれど今は、インクと、紙と、鉄と、洗剤と、甘い甘いお菓子の香りが漂う、忙しなくも穏やかな屋敷だ。
この地で誰かが幸せになれる。誰かだけではなく、誰もが幸せになれる。そんな夢物語が日常となった日々を穏やかな気持ちで見つめられる、そんな幸せの真っ只中に、私はいた。
「お嬢様」
控えめな合図と共に部屋に入ってきたカロンに、ジャスミンとサムアは慌てた。私も集中して見つめていた手元から視線を上げる。
「ま、待ってカロン。もう少しだけ時間をもらえないかしら」
「ふふ、大丈夫ですよ。先にお茶の用意をしてしまいますから、どうぞごゆっくりなさってくださいませ」
穏やかなカロンの声に、私達三人はほっと身体の力を抜く。
カイドが口にする物を扱うときは細心の注意を払う。直接口に入れる物は勿論、それらを用意するまでに使用する道具全てに。だから、たかがお茶の一杯であろうと通常の倍以上の時間がかかるのだ。それ自体はいいことでも嬉しいことでもないのだけれど、終了まで猶予ができたことはありがたい。
お茶の用意が整うまでには完成させようと、私達は再び手元の作業に没頭することにした。
「できた!」
「お前、それで完成!? 嘘だろ!?」
「可愛いでしょ? メイド長、こんな感じで大丈夫ですか?」
ジャスミンが手元の物をカロンに掲げると、全ての茶器を熱湯消毒していたカロンが視線だけをちらりと向けた。そして、ジャスミンの手元を見るとゆっくりと口角を上げていく。
「……ええ、とってもいいと思うわ」
「メイド長!? だって、これですよ!? これ、旦那様に!?」
驚愕に慄いたサムアに、カロンは自分の手元にあった二つの包みを開いた。その片方を見て、私達は思わず怯んだ。しかしカロンは、堂々と胸を張る。
「だってこれは、旦那様への仕返しだもの!」
「え? 待ってカロン。私、仕返しは聞いていないのだけど」
「大丈夫です、お嬢様」
にこりと可愛らしく微笑んだカロンに思わず嬉しくなってしまったけれど、胸を温かくしている場合ではない。なんだかとんでもない言葉がカロンから聞こえたからだ。カロンの言葉に驚いたのは私だけではない。サムアとジャスミンも飛び上がって驚いた。
「え!? メイド長、これって仕返しだったんですか!? 何の!?」
「大丈夫、ただの復讐よ」
「俺は、知らなかったとはいえとんでもないことをっ!?」
驚愕の目を向けられたカロンは、何一つ怯むことなく、威厳ある動作で重々しく頷き、「大丈夫」と三度繰り返した。何が大丈夫なのかはさっぱり分からない。言っているのがカロンじゃなかったら大騒動になりそうだ。
結局、さっぱり分からないままお茶の用意は整い、私達の作業も終わった。私達三人は、完成したばかりの物を最後にじぃっと見つめ、エプロンを脱いだ。
ジャスミンとサムアはこの後仕事に戻るけれど、途中までは一緒に行ける。私達が作ったものとお茶を載せた台車を押すカロンが一番最後を、私のすぐ後ろをサムアと全員分のエプロンを持ったジャスミンが続く。エプロンはこのまま洗濯行きだ。
カロンに促されて先頭を歩く。別に誰が先頭でもいいのだけど、女主人がメイド達と前後しながら歩くのは、本当をいうとあまりよくない。来客のいない屋敷内では目を瞑ってくれるカロンも、王都行きが決まっている今は練習も兼ねて少し細かく行くつもりのようだ。けれど、お喋りを咎めるつもりはないらしく、私達が喋っているのをにこにこと聞いていた。
「ねえ、シャーリー」
「なぁに?」
「旦那様と二人っきりの時ってどんな感じ!?」
目をきらきらさせたジャスミンの問いに、サムアが噴き出す。
「お前っ、突然何言ってるんだよ!」
「だってっ、あの旦那様とシャーリーだよ!? 気になるでしょ!? 私だけじゃなくて皆も気になって気になって、休憩時間に花が咲きすぎてうっかりお菓子食べ過ぎるってもっぱらの悩みなんだから!」
「あ、道理で最近メイド皆がふっくらしてきたって」
「サムア、私いま両手が塞がってるから殴れないけど、いまサムアの洗濯物洗ってるのはその人達だし、備品買ってくるの私かもしれないって覚えておいた方がいいと思うよ」
「お、俺も気になるなぁ! シャーリー!?」
助けを乞う必死な瞳に右後方から詰め寄られ、左後方に少し仰け反ってしまった。左後方には、目をきらきらさせたジャスミンがいる。ジャスミンはぱっと嬉しそうに笑うと、私の肩に額をつけてぐりぐりと動かした。骨が当たってちょっと痛いけれど、甘えるジャスミンは可愛い。
「えへへー、シャーリーとお喋りできて嬉しいなぁ……え、なんかすっごくいい匂いする。シャーリー、なんでいつもいい匂いするの?」
「いま香水はつけていないのだけど、何の匂いかしら……。それと、カイドとは勉強をしているわ」
「勉強」
二人の声が揃う。あまりにぴったり揃った声に変なことを言ったかと不安になり、歩みを止めて後ろを振り向く。左右から同じ視線を受けて、どっちを向くか迷い、結局二人の間から見えているカロンを向いた。
「私、恥ずかしいけれど、領主の仕事について知らないことばかりなの。ちゃんと分からないと、カイドを手伝うことも、頼ってもらうこともできないわ。だから勉強しているのだけど……駄目ね。せっかくカイドが仕事を早く終えて戻ってきても、仕事の話ばかり聞いてしまうの。これじゃカイドも休めないわ。ありがとう、ジャスミン。私、これから気を付ける。気付かせてくれてありがとう」
「えっと、うん。そういうんじゃなかったけど……ええと…………そうだ! 新婚旅行はどこ行くか決まった!?」
「お前のタフさは尊敬に値すると俺は思う。凄いな、お前」
新婚旅行か。カイドと結婚するのだという実感は、こうしてじわじわ湧いてくることもあれば、のぼせて気絶しそうな勢いで弾けることもあるので、いい加減慣れたいとは思っていた。でも、全然慣れられる気がしないので、大変困っている。
「まだ決まっていないわ。カイドとはライウス一周旅行でもいいわねと話しているのだけど」
「お嬢様、新婚旅行の間くらいは仕事から離れてくださいませ。式は周囲へのお披露目も含め、どうしても当人だけの都合で行えないことではございますが、新婚旅行は紛れもなく当人同士の楽しみの為であり、これからの互いの過ごし方を決める二人の約束事でもございます。そこに仕事を持ち込んではいけません。特に、複雑な気分ではございますが、お嬢様と旦那様は恋愛結婚なのですよ。それなのに、お家同士が決めた結婚のように堅苦しくてどうするのです」
仕事を分け始めているとはいえ、カイドは忙しい。だから視察を兼ねてしまってもいいと思ったのだけれど、カロンも執事長も、あまり良い顔をしなかった。そんな考えが顔に出てしまったのか、カロンが片眉を少し動かす。
「視察は視察、旅行は旅行でございます。視察が必要ならば、その為の予定を組めばよろしいのです。大体、お嬢様との新婚旅行に余計なもの引っ付けていくのが気に入りません! 仕事も旅行も、どっちがついででも気に入りません!」
台車から離された手が勢いよく拳を握る。カロンが放つあまりの気迫に、私達の間にいるサムアとジャスミンが泣いてしまいそうだ。
「イ、イザドルがギミーにと誘ってくれてもいることだし、ギミーになるかもしれないわ」
誘いがあるのは、ギミーだけではないけれど。
ライウスは、十五年前にその名を失いかけたとはいえ、嘗ては王都に次ぐ財力を保持していた領だ。王都の何倍も大きな領地を持っているライウスは、奇跡のような英雄を得て再び花開いた。広大な領地にある潤沢な資源を円滑に運用した優秀な領主のおかげで、ライウスは財政に余裕を取り戻している。十五年以上前には、ライウスの金はほとんど他領へ、中でも王都へと流れていた。しかし、今はその分を取り戻すと言わんばかりに他領にほとんど金を落とさなくなったライウス領主が、ライウスを出る。大型の顧客となるばかりか、これからに繋げられるかもしれないと、どこの領も……ワイファーだけは控えめらしいが、その他の領は手ぐすね引いて勧誘をかけていると聞く。豪奢を好まないといっても、新婚旅行ともなれば羽振りもいいだろうと狙ってのことだ。
その中にしれっと混ざっていたダリヒからの申し出は、カイドと二人無言で暖炉にくべた。
よく燃えた。