20.そうして始まる、あなたと私
「お嬢様」
後ろから呼ばれて振り返る。丁寧に櫛梳いた髪が頬を滑っていく。
「イザドル様」
廊下の向こうから一人で現れたのはイザドルだった。彼が辿りつくのを待つ間、ちょっと考える。
「オコジョでもいいんですよ?」
「うっ……もう、勘弁してください」
怯んだ彼にくすくす笑う。
結局、カイドも彼も、お嬢様呼びに戻ってしまった。
私は、「昔、お世話になった方だ」とのカイドの一言で説明された。年の差を考えると、その昔はとても子どもになってしまうけれどのらりくらりと誤魔化す。誰も彼もがいろいろ聞いてきたけれど「随分昔の話よ」で乗り切っている。
私が着ているのは仕事着ではない。昔のように溢れんばかりのレースはないものの、ワンピースに近いドレスを纏っている。色は淡い青だ。
メイドに戻しては、もらえなかった。外の人の目がない所では今まで通りにするから、だからせめてメイドだけは勘弁してくれとカロン率いる同僚達に懇願されたからだ。
新参者が皆の大切な領主様を奪っていくのだから、恨まれたって仕方がないと思っていたのに、皆拍子抜けするほど好意的で私のほうが戸惑った。
ジャスミンは『メイドの苦労知ってくれてるご主人様だったら大助かり!』と、サムアは『執事長が泣いて喜んで毎日ご機嫌だから、凄い仕事がしやすい』と、カロンは『使用人を味方につけた女主人は強いですよ。旦那様にも圧勝です』と、それぞれ言っていた。
好意的に受け入れてもらえるのは本当にありがたいのだけど、カロン、私は別にカイドと戦う気はないのよ?
祭が終わり、他の賓客達を見送った屋敷は、また前の静けさを取り戻していた。
取り戻したといっても、今は別の忙しさに追われているが。
カイドが本格的に寝床をこっちに戻すことにしたのだ。今までは執務室がある要塞のようなあっちの建物に寝泊まりしていたけれど、これからはちゃんと領主の屋敷を使ってくれるらしい。
それは、カイドが今から行おうとしていることにも関係している。
今回のことで、カイドはいろいろ考えたらしく、今までは一人でやっていたことを少しずつ周りに割り振り始めた。ジョブリンは、彼が一人いれば事足りると言った。それは、彼一人がいなくなれば崩壊すると同義だ。カイドは、それでは独裁と一緒だと言った。
今は少しずつ。カイドの仕事を分けているところだ。
「カイドは、ここではありませんでしたか?」
「ええ、呼ばれて行ってしまいました。もう少ししたら戻ってくると思うけれど、用事があるなら言づけましょうか?」
「いえ……あなたにも、お話が。少し宜しいでしょうか」
少し潜められた声と背後に向けられた視線に頷く。
振り向いて、後ろにいてくれたジャスミンを見ると、それだけで察してくれた。にこりと笑い、頭を下げる。
「ジャスミン、ごめんなさい」
「いぃえー。それではイザドル様、失礼致します」
ジャスミンの姿が見えなくなるまで待ち、イザドルは口を開いた。
「俺は明日帰ります」
「ええ、伺っています。私もお見送り致します」
他の賓客は見送るも何も、熱を出して寝込んでいる間に帰ってしまっていた。それでも長くいてくれたほうだ。あんな騒動があった上に、本来の祭りの日程を過ぎても残ってくれていたのだから、感謝しなければならない。
「カイドがいましていることをご存知ですか」
「ええ」
仕事を少しずつ振り分けている。今まで一人でこなしていた、本来ならば到底不可能な量の莫大な仕事だ。
「……世襲は、今でもしないつもりのようですね」
「……ええ」
彼が何を言いたいか分かった。
廊下でする話じゃないので、隣の扉を開けて中に入る。小さな客間だけれど、今はいろいろごたごたしていて荷物が積まれていた。
「領主を、無くすつもりですか」
「彼は、それもいいと思っているわ。……私も、そう思う」
今すぐではない。いつか遠い先の話だ。
けれど、いつか、領主が必要と無くなる日が来るかもしれない。領主一人がいなければ成り立たない地も、領主一人が富んでいく地も、どちらも歪だ。
「……分かっているのですか。それは、他の領も、王ですら、敵に回すかもしれませんよ」
「……そうね」
領主がいなくても成り立つ地。議会のようなものを作り、一人がいなくても皆で回していけるような制度を作りたい。一人で負わず、一人に負わせず、そうやってやっていけたらいいと、カイドは言った。
しかしそれは、領主がいなくてもやっていけるということだ。今までの制度を根幹から揺るがす事となる。ライウスの変化は、ライウスだけにとどまらない。
領主のすげ替えどころの話ではない。領主がいらないなんてことになったら、他の領主は当然反発するだろう。その地の頂点で纏め上げる存在が不要と知れ渡れば、王の存在も、揺らぐ可能性がある。
カイドは決して不要とは言っていない。責任を取る立場の人間は必ず必要だと言った。けれど、人は不安を悪意へと変える。無自覚の悪意へと変換し、言葉を変えていく。領主など不要だ、王など不要だと言った。そう広まっていく可能性はあった。
「……どちらにしろ、長い時間がかかるわ。ライウスは大きくなりすぎたもの。十年、二十年、もっと先までかけて、色々と試して変更して、そうしてやっていくことだから」
「そこまでしてやり遂げたとしても、また元に戻るかもしれません。民衆は、責任を押し付けられるものを探しますから。議会が少しでも失態を犯せば、望む結果を出せなければ、領主制度を戻せと、制度を変えたあなた方を恨むでしょう。そして領主が失態を犯せば、議会制度を戻せと言うのです」
「そうね。誰かが選んでくれた道は楽だもの。けれど、何も選べずに生きていくのはつらいわ。選べるのだと知らずに生きるのは、悲しいでしょう?」
私も学んでいる途中だ。いま、カイドからいろんなことを学んでいる。ライウスのことも、領主のことも、カイドは手間を惜しまず教えてくれた。頭がこんがらがることもあった。遣る瀬無いことも、虚しいことも、身を切るような決断も、教えてくれた。
何年も何年も、勉強していかなければならない。知識だけではなく、それをちゃんと知恵として使えるように。
「……あなた方は、もっといろいろ投げ出して、楽に生きるべきですよ」
「そうね。カイドにもっと言ってやって」
「あなたにも言っています」
「あら。でも、私はひどく我が侭なのよ」
そう言えば、イザドルは苦いものを口に含んだような顔をした。きっと次期領主としては感情が分かりやすい表情を出すのはいただけないのだろう。けれど、ここは公の場ではないし、私とイザドルは互いの内情を探り合うような関係でもない。
そういう人がいてくれることを、心からありがたく思う。嘘をつかずに生きられることは、きっと、とても恵まれたことだから。
「私は、何があってもカイドと最後まで一緒にいるわ。今度こそ最後まで添い遂げられるよう、その権利を剥奪されないような生き方を心がける。民に好かれるよう、ライウスの悪夢とならぬよう、学んで、知って、選んでいきたい……けれど、けれどもしも、世界があの人の敵となったなら、その時は世界を裏切ってあの人と悪魔になるわ。何も見ず、何も聞かず、何も知らぬうちに悪魔となっていたあの時とは違う。今度はちゃんと、自分の意思で悪魔となる」
「カイドは、そんなこと絶対に許しはしませんよ」
「だから、途中で逃がされてしまわないように、知恵をつけているの。……それに、そんなことにならないよう、これから頑張っていくの。皆で、頑張っていくのよ。酷い人はいるわ。目先の利益しか考えない人も、私のように愚かな人も。けれど、優しい人もいるわ。賢い人も、強い人も。色んな人がいて、一つの領地だもの。少なくとも、ライウスは支配される恐怖を知っているわ。ただ一人に力が集中する恐ろしさを。覆せぬ力がライウスを覆う恐ろしさを、この国の誰よりも知っている」
「それは、そうですが。確かに先の世に必要な改革かもしれない。けれど、それをあなた方がする必要などないではありませんか」
「この時代を過ぎてしまえば、人は忘れてしまうでしょう? 痛みも、悲しみも、同じ出来事が目の前に現れない限り、日々の忙しい暮らしの中で多くの人は忘れてしまう。誰も、悲しみばかりを見て生きたくはないもの。でもね、イザドル。私達だって不幸になるつもりはないのよ? 私もカイドも、ライウスも、十五年前とは違うもの。英雄にはなれないでしょうし、なるつもりもないわ。流れ続ける時代の中に小さな石を投じてみるだけよ」
「……まったく、あなた方は」
イザドルは肩を竦めて苦笑する。
「あなたの事を、さっきのメイドや仲のよい執事の男に話していないのですか?」
「彼らが二十歳を超えて、ずっとここで働いてくれることになったら、と」
カイドやカロン達とそう話し合った。
二人が信用できないわけじゃない。ただ、話した瞬間から、彼らは逃げられなくなる。縛るには、あまりに若い。逃げられるのなら逃げたほうがいいとも思う。否応なしに巻き込むのは惨すぎる。
それを待つくらいの時間は、あるはずだ。だって、私達はまだ始まってもいないのだから。
窓の外を、荷を担いだ男達が通り過ぎていく。その内の一人が私に気づいてひらひら手を振ってくれる。笑って振り返したらぎょっとされた。隣のイザドルに気づいていなかったらしい。慌てて頭を下げて、飛び跳ねるように駆け出していく。転ばなければいいなと思ったら、盛大に何かがひっくり返る音がした。
思わず目をつぶる。そして慌てて窓の外を覗く。しかし、角を曲がってしまったのか、もう姿は見えなかった。
ここはこれからどんな場所になっていくのだろう。少なくとも、使用人がびくびくして、いつでも青褪めているような場所にはならないはずだ。
「俺にとって、ライウスで幸せの象徴といえばあなた方でした。覚えていますか。庭で迷ってしまった俺が、あなた方の逢引きの場に迷い込んでしまった時のことを」
「逢引き……ええ、覚えているわ」
軽く咳払いをして誤魔化す。
「あなたが花冠を編んで、それをカイドの……ヘルトの頭に乗せて。ヘルトが恥ずかしそうに拗ねて。あなたは笑って。幼心にも、綺麗だと思いました。俺はあれより美しい光景を知りません。これが幸せなのだと、これが平和なのだと、領主とはこういう光景を守っていくためにあるのだと、思いました。それなのに蓋を開けてみれば、俺の大切な人達は皆泣いて、領民だけが喜び歌う。カイドが歯を食いしばって、食いちぎって、それでも進んだ道を、流石領主様の一言で終わらせて。あいつらは、次に何かあっても全部あなた方に押し付けますよ。あなた方に任せればなんとかなる。だって前もそうだった、と」
『僕、りっぱな領主になります。そして、お嬢様たちをお助けしますね!』
そう言って笑った幼い少年。あの頃の面影を残し、美しく成長した。
けれど、同じではあり得ない。それでも。
「だから俺は、領主を無くすというあなた方の政策、賛成です」
それと同じく、全く変わることも、きっと。
真面目な子だった。真面目で、優しい子だった。酷く悲しませただろう。そして、きっと怖がらせた。柔らかな彼の心は、どれだけの傷を負ったのだろう。
「個人的には、ですが。領主制度の廃棄は賛成です。一人が負えるものには限界がある。有能な者が続けばいいが、人は違ってしか生まれない。同じ者を生み出せない以上、同じ制度では成り立たなくなるのは必然です。英雄は生まれる。けれど同じ英雄は生まれない。途切れず生まれるわけでもない。ならば、普遍的な制度では無理が出るのは当たり前です。領民に英雄になれとは言わない。領主に英雄を求めなければの話ですが。誰かを英雄にする前に、凡人百人くらいで知恵を絞れば少しはまともな案も出るでしょう。なんなら領民全員で話し合えばいい。それで時間を食おうがなんだろうが、それは全員の責任だ。全員で負えばいい。領主が一人で悩んで一人で決断して一人で責任を負うのなら、領民なんて重いだけだ。まかせっきりにしたのなら、結果がどうなろうが一蓮托生になる覚悟があるならまだしも、決断も結果も負わないというのなら領地ごと解体してしまえばいいのです」
「カイドも大胆な決断をするけれど、あなたも凄いことをさらりと言うのね」
「俺は盛大な身内贔屓なんです。誰だって、赤の他人より身内が幸せならそれでいいんですよ。それに、俺達がどれだけ領民の為に心砕こうが、奴らはそれを享受するだけだ。誰も俺達の為に心砕き、行動に移したりはしてくれないでしょう。だからせめて、俺は俺達の為だけに考えて、心を砕いて、行動しようと決めているんです」
イザドルは、片手を胸につけて頭を下げた。
「ギミー領としてお約束はできませんが、俺個人は、最期まであなた方の味方であると誓います。どうかお嬢様、カイドを宜しくお願いします。俺はあの崖で、あいつのわがままを初めて見たんです。全てを擲ってあなたに駆けたあいつは、領主となって初めて自分の為に動きました……どうか今度こそお幸せに、心穏やかにお過ごしください」
「あなたもよ、イザドル。あなたも、幸せにならなくては駄目よ」
そう言うと、顔を上げたイザドルはぱちりと片目を閉じた。ちょっとふざけた顔が、とても様になって可愛い。
「家族が健在で、友が健在で、憧れの人が帰ってきた俺は、わりと幸せですよ」
「あら、素敵! どなたかしら。私も知っている方?」
「カイドー、通じなーい」
両手を合わせてうきうきしていると、噴き出したイザドルは大仰に嘆いて振り向く。ちょっと身体をずらしてその後ろを見ると、いつの間にかカイドがいた。開いた扉に寄りかかり、くつくつと笑っている。
「そう簡単に通じて堪るか。俺だっていまだにわりと通じない」
にこにこ笑っているカイドを見ていると、私も嬉しくなった。手が差し出されたのでとりあえず乗せると、さっと屈んで指先に口づけが贈られる。お揃いの指輪が光を反射して、まだ見慣れずになんだかくすぐったい。
「ただいま戻りました、お嬢様」
「おかえりなさい、カイド」
屈んでくれたから届く額に口づけを返すと、イザドルが肩を竦めた。
「はいはい、邪魔者は退散しますよ。カイドも早く帰れとうるさいことですし」
「お前が一か月もギミー空けるからだろ。催促は俺に来るんだよ」
「父上は、俺に継がそうと必死だからね」
「…………お前、そんな重大なこと放りだしてきてたのか」
「母上と世界旅行いきたいがために引退したいんだよ。腹立たしいじゃないか。まだまだ現役の癖にさ」
ひらひらと手を振りながら、イザドルは部屋を出ていった。
カイドは深くため息をつく。しかし、その顔には困った奴だと苦笑が浮かんでいる。なんだかんだで、カイドはイザドルに甘い。いい友達を、持った。ずっと、十五年間、カイドの傍にイザドルがいてくれてよかったと心から思う。
あっという間に本だらけになったカイドの部屋に場所を移す。
今までカイドはこの部屋を使っていなかったから、ほとんど家具しか物がなかった。しかし、今は大量の資料が舞い戻っている。カイドの寝室が移動したというより、執務室が移動してきた気分だと、カロンが言っていたのも納得だ。
屋敷もこれから色々改修工事が入る。こっちも要塞染みていくのだろう。
でも、これなら夜勉強していて分からないことがあっても、本を借りに来やすい。私はこっそりお得な気分だった。
「ねえ、カイド。カイドがいない時にこの部屋の本を借りたい時はどうしたらいいかしら。触ってはいけない場所はある?」
「お嬢様なら、金庫の中まで探って頂いて大丈夫です」
「金庫なんてあるの?」
くるりと部屋の中を見回しても、それらしきものは見当たらない。首を傾げた私に、ああと声を上げたカイドは、ちょいちょいと手招きをする。近寄ると、壁にかかっていた絵の下を指さす。
そして、おもむろにそこを蹴った。ばこりと重たい音がして壁の一部がへこむ。壊したかと思ったけれど、そこに指をかけて引っ張ると、横に壁が動いていく。その先には大きな鉄の扉が悠然と待ち構えていた。
「鍵と番号で開きます。鍵は、今はこれ一つしかありませんが、今度お嬢様の分もご用意いたします」
「いいえ、とんでもないわ! そんな大切な物預かれない!」
「もしこの屋敷が襲撃されたら、ここが一番安全なので逃げ込んでください。詰めれば三人くらい入れますから」
「避難所だったの……」
「一応用途としては金庫のつもりで作りました。空気穴と内側から開けられる作りを今度考えます」
番号を聞いて、忘れないよう何度も頭の中で繰り返す。書き置くわけにもいかないので、必死に覚えている私を見て、カイドは何故だか微笑んでいる。物覚えが悪いと笑うような人ではないと分かっているけれど、今一居心地が悪い。
「さあ、開きましたよ」
重たい鉄扉を開いていく様子に、眉根を下げた。それに気付いたカイドが首を傾げる。
「お嬢様?」
「私、この扉開けられるかしら。カイドみたいに鍛えたらいいの?」
「……どんなお嬢様でも愛らしいですが、俺みたいになったらちょっと泣くかもしれません。それにしても、お嬢様、髪の色が変わってきましたね」
「そうみたい。なんだか昔みたいね」
伸びてきた手が髪に触れて、懐かしそうに目が細められた。
飼葉色をしていた髪は、色が薄くなったと思ったら何故だか金色になり始めている。顔つきも少し変わってきたといわれた。それは食事をしっかりとるようになって、丸みを帯びたからだと思っている。
少しずつ量を増やそうと頑張っている私に、料理長も張り切ってくれた。見た目も可愛らしくと飾切りの回数が増えていく。シチューの中から怨念渦巻くどくろが出てきたと思ったら、愛らしい小鳥を模した人参だった時の衝撃は忘れられない。どんな小鳥を参考にしたのか。興味が湧いて尋ねたら、愛らしい桃色の小鳥だった。どこからどう見ても可愛らしい小鳥だった。どうしてどくろになったのかは、未だ誰にも分からない。
いろんなことを少しずつ、出来るようになっていきたい。勉強も、食事も、実は剣の稽古もちょっとしてみたい。もう少し落ち着いたら、カロンとジャスミンと一緒に、町へ買い物に行こうと約束している。好きな人にチョコを贈る女の子のお祭りも近いから、一緒に選ぶのだ。
今まで経験しなかったことを、してみたい。大好きな人と一緒に、していきたい。
お友達と遊んで、お話しして。走ってもみたいし、お菓子に喜びたい。髪を結って、明るい色の服を選んで、お化粧も。
それにちょっとだけ、喧嘩もしてみたい。殴り合いはこりごりだけど、仲直りを、してみたい。でも、悲しいのも悲しい思いをさせるのも嫌だから、できるだけしたくないのも本音だ。
案内された金庫の中は、分厚い鉄壁に棚がついていて、主に書類や鍵が保管されていた。お金になりそうな物というよりは、領地を治めるのに必要な物が納められているのだろう。
私も、大事にしていこう。少し緊張して見つめていると、一つ場違いな物があった。小さく可愛らしい硝子細工の箱だ。花があしらわれたそれは、何故か他の物はそのまま置かれているのに、柔らかな布の上に載せられている。
「これは?」
「あっ」
触っていいものか分からず、掌で示しながら聞く。私の視線の先を辿ったカイドは飛びあがった。その様子に私も飛び上がる。
「な、なに? 聞いてはいけなかった? 知ってはいけないものならすぐに忘れるわ」
「いえ、そのっ」
冷や汗をかいてしどろもどろになったカイドに、私も慌ててしまう。それほど重大ものか、知られたくないものだったのなら、迂闊に聞いてしまって申し訳なかった。
「大丈夫よ、もう忘れたわ! なんなら昨日食べた夕食も、朝の怨嗟渦巻く怨霊かと思ったら愛らしい犬が描かれていたパンケーキも忘れたわ!」
「そんな慌てて痴呆にならなくても……朝のそれは忘れて結構です。道理でみんな食欲がないと言っていた訳だ」
額を押さえたカイドは、すぐにそれを振り払った。そして、そっと、まるで壊れ物のように硝子箱を両手で持ち上げる。
私は目の前に掲げるように差し出されたそれを、恐る恐る見つめた。
「開けてください」
「……いいの?」
「ええ、ですが、笑わないでくださいよ」
カイドの両手に乗るとずいぶん小さく見える可愛らしい箱に、そっと触れる。ひんやりする金庫の中にあった箱は、氷のように冷たかった。
万が一でも傷つけてしまわぬよう、気をつけてゆっくりと蓋を持ち上げる。いったい何が入っているのか。どきどきしながら中を見て、拍子抜けした。
小さな紙、リボン、薄黄色の紙、ハンカチ。
ハンカチがなければゴミかと思ってしまうような物が、何故こんな所に大事にしまわれているのだろう。首を傾げるのに、視線が離せない。何かが気になる。何か、どこかで見たような……。
はっと顔を上げる。カイドは何も言わない。けれど小さく頷かれたことで確信を得た。
目と鼻の奥が熱くなる。堪えきれずに熱が瞳から溢れだす。
「今なら、もっと上手にできるわ」
「あの頃からとてもお上手でした」
「嘘よ。お花は歪んだし、クッキーだって、少し焦げてしまったもの」
「俺はもうお嬢様にだけは嘘をつきません。毎日眺めてもどこが歪んでいるか分かりませんでしたし、クッキーは絶対誰にも奪われないよう隠れて全部食べました」
わななく口元を抑え、必死に言葉を紡ぐ。こんなみっともない顔を見せたくなかったから顔を覆ったほうが良かったのに、どうしても、見ていたかった。
待ち合わせ時間を走り書いて渡した手紙。悩みすぎて待ち合わせ時間ぎりぎりになってしまったクッキーを包んだ紙とリボン、一針指す度に失敗したらどうしようと手が震えてしまったハンカチ。
あなたにあげたわ。随分昔に、昨日のことのように思い出せる十五年前に、あなたに、あげたわ。
捨てても、よかったのに。
重かっただろう。苦しかっただろう。
二度と戻らぬ物を大事に抱え込んでいなくてよかったのだ。捨てて、身軽になって、そうして先に進んでいけばよかったのに。
そう思うと同時に、嬉しいとも思ってしまう私は、なんて酷い女なのだろう。
馬鹿な人だと涙を拭っていた私は、はたと気が付いた。もう一度涙を拭い、視界をはっきりさせて箱の中を確認する。しかし、何度見ても新しい発見はない。ハンカチも開いてみたけれど、花弁が風に揺られたかのように歪む花しかなかった。
何かを探す私に首を傾げたカイドを見上げる。
「ねえ、カイド」
「はい?」
「髪の毛は?」
「…………」
髪を一房頂きましたと言われたはずだけれど、この中に髪の毛らしきものはない。この機会だから、せめて洗ってくれているかどうかだけでも確認したかった。
それなのに、カイドは何故かふいーと視線を逸らして何もない鉄壁を見つめている。
「……カイド?」
「……はい」
「怒らないから言って?」
「う……はい」
「私の髪の毛、何に使ったの?」
「は!?」
目を剥いたカイドを、大丈夫、分かっているからと宥める。
「いや、お嬢様?」
「私あまり詳しくないのだけど、昔読んだ本に、髪の毛を使ったおまじないがたくさん載っていたから、そういうことに使ったのでしょう?」
「違います! そもそも、髪の毛を使ったまじないなんて黒魔術の類じゃないんですか?」
「えーと……」
如何せん昔の話だし、実行するつもりはなかったからあまり覚えていない。恋愛のおまじない部分しか熟読しなかったのだ。好きな人の髪の毛を紙人形に貼り付けて満月の光を当てるとか、ミサンガに編みこんで誰にも気づかれないよう身に着けて一か月過ごすとか、いろいろあった。
だけど、両想いになれるおまじない以外はあまりちゃんと覚えていない。
「藁で作った人形に髪の毛を入れて」
「それだけで大体分かりましたが、それは呪いの類です」
「紙人形に髪の毛を貼り付けて誰にも見られないよう燃やして」
「それも呪いの類ですね」
「昔読んでいた小説では、主人公の怪盗は食べた髪の毛でその人物に変身できる、と……」
「髪の毛を食べるのはかなり根性要りそうですが……お嬢様?」
「……この前ジャスミンとその話をしていたら、ジャスミンのお母様が子どもの頃に流行っていた小説だと言われたわ」
「…………まあ、そうでしょうね」
哀愁でも漂っていたのか、カイドは私の背中をぽんぽんっと叩いてくれた。
「それで、髪の毛はどんなおまじないに使ったの?」
「普通に、普通にお守りとして、普通に持たせて頂いています」
懐から取り出された小さなペンダントの中に、小さな三つ編みにした金髪が入っている。まじまじと見つめて、ひとまず目立つ汚れがないことだけは確認した。
「カイド」
「……やっぱりお嫌でしたか」
「私の髪に魔よけの効果はないと思うわ」
「効能目当てじゃありません」
カイドばかり持っているのは不公平だと思うので、私もカイドの髪を貰うということで落ち着いた。
何故かぐったりしたカイドに連れられて金庫を出る。何かあった時ここに逃げ込めばいいということだけれど、果たして緊急事態にこれを開けることはできるのだろうかと、重たい扉が閉まっていく様子に不安が募る。まず、最初の壁を蹴る辺りから怪しい。今度、蹴りの練習に付き合ってもらいたい。
開け放された窓から気持ちのよい風が入ってきて、髪を押さえて目を細める。はるか遠くまで続く街並みを眺めながら、そうだと思い出す。
「私、カーイナに帰りたいわ」
壁が綺麗に嵌まりきったか確認していたカイドから、がたっと凄い音がした。驚いて振り向くと、曲がっていたのを直そうとしていたのか、持っていた額を圧し折っている。
カイドは無残に砕け散った額には見向きもせず、絵を取り落とした。
「俺、何か、しましたか」
「そ、そうね。額を砕いたわね」
「額なんてどうでもいいんです」
「とてもおおごとに見えるけれど……」
結構大惨事に見える木片をどうでもいいと言い切り、早足でこっちにやってくる。私の肩を掴もうとした手は、木片に気づいて後ろ手ではたかれていた。
「えーと……」
「はい」
続けていいのかと悩んだけれど、カイドが待つ体勢に入ってしまったのでそっと続ける。
背筋を伸ばして待機しているカイドの背中越しに砕けた額と、床に放置された絵が見えた。なんだかちょっとそわそわしてしまう。メイドの性だ。とっても片づけたい。
「手紙は出したけれど、やっぱり直接お礼を申し上げたいの。院長先生は、笑いもしない不気味で可愛げのない私を、とても愛情深く育ててくださった方だから。気味悪がっても当然だったのに、ずっと心配してくださっていて、一度ちゃんと顔を見てお礼をと考えていたのよ」
「そうでしたか。それでしたら俺もご一緒させてください。お嬢様を育ててくださった方に礼を申し上げたいので」
「忙しいのに大丈夫なの?」
「数日空けることもできないようじゃ、新婚旅行にも行けないと執事長に言われて、急速に仕事を振り分けているので大丈夫です」
「……………………そんな理由で急いでいたの?」
「半分は」
「半分も」
半分もそんな理由が占めていたなんて知らなかった。
まあ、療養中という名目で表に出ることを減らしているので、仕事を振り分けていても妙に思われたりはしないだろう。
何故かひどくほっとした様子のカイドに首を傾げる。なんだか不安そうだったのが心配で、カイドの手を握ったら苦笑された。
「実家に帰ってしまうのかと」
「実家? あ、そうね。あそこが私の実家になるのね。ふふ、そういう呼び方をすると、なんだかくすぐったいわ」
本当に優しい方だった。お年を召して、いうことを聞かなくなっていく身体は億劫だったろうに、やんちゃ盛りの子ども達の相手をすることを疎ましがる素振りすら見せなかった。勝手に不幸になっていく愚かな子どもを気味悪がることもなく、心から心配してくださっていた。周りを振り払い続けた私でもそれが分かるほどに、ずっと。
賢く、優しく、穏やかで。
イザドルも、きっと好きになってくれる方だと、思う。
身勝手な人もいればそうではない人もいる。恐ろしい人もいれば優しい人もいる。声高々に不満を叫ぶ人もいれば、信じてじっと耐えてくれる人もいる。相手を引きずり落とそうとする人もいれば、手を伸ばして支えてくれる人もいる。
すべて一概には言えないことだ。時代で、時期で、見る面で、違うことだ。
イザドルにも、いい出会いがあればいいと、心から思う。彼が継ぎたくないと、己の一生を捧げるに値しないと判断するなら、それでいいとも。
彼が悔いぬ道を選べたら、それが一番いい。
その為にできることがあれば何でもする。次期領主のイザドルにではない。私達の大切な友達、イザドルの為に。
イザドルのことを考えていると、こつんと額が合わさって思わず目を閉じる。私が握っていたはずの手は、いつのまにか指が絡められて繋ぎ直されていた。
「ここも、実家と思ってくださると嬉しいです」
「そうね。ここも実家で、あっちも実家ね。院長先生に紹介しなくちゃ。旦那様が、旦那様になりましたって」
「それはちょっと」
「じゃあ、ご主人様?」
「それもちょっと」
「…………領主様が夫になりました?」
「普通に、普通にお願いします」
「私の旦那様になる方です?」
「おかしくないのに凄まじい違和感です」
「私の旦那様になっていた方です?」
「普通から遠ざかりました」
「どうすればいいの」
「どうすればいいんでしょう」
困ってしまって眉根を下げれば、私以上に弱り果てたカイドがいて。
もしも尻尾があればしょんぼり下がってしまっているだろうと考えると、思わず笑ってしまった。
「ふふ……もう、カイドったら、おかしい……ふふ、あははっ」
「……どうぞ、存分に笑ってください……笑い方、変わっていませんね」
「そ、そうかしら……ふ、ふふ……」
「意外と笑いの沸点低いところも、変わっていませんよ」
声音は拗ねているのに、私を見下ろす金色は思わず赤面するくらい優しくて。
笑えなくなってしまった私に気付いたのか、今度はカイドの唇が笑みを形作る。あくびは移ると聞くけれど、笑顔だって移っていく。
見つめ合っているとくすぐったくて、けれど離れるのも嫌で。えいっと抱きつくと、大きな身体が隙間なく包んでくれる。大きくて、温かくて、何より安心するのに、どこよりどきどきする。
「……絶対に、今度こそ幸せにします」
噛み締められた言葉が降ってきて、眉を寄せた。ぐっと胸板を押せば、不思議そうにしながらもすんなり離れてくれる。
「駄目よ、カイド。やり直して」
「はい?」
握った両手を引き、少し屈んだ顔目指して背伸びする。
とんっとぶつかった唇が、お嬢様、と、吐息のように紡いだ。
「幸せになりましょう、よ。二人で、なるの。言っておくけれど、私は一人で幸せになんてなれないし、ならないわ。私、面倒な女なの。覚悟してね」
「…………失礼しました。幸せになりましょう、お嬢様。俺と一緒に、幸せになってください」
「ええ、喜んで!」
嬉しくなって首筋に抱きつくと、背中に回った腕がそのまま私を抱き上げた。足先が宙を掻いてぶらぶら揺れる。そのままくるくる回っても不安なんてなかった。落とされる心配なんてしていないし、こうしていられる幸せのほうが大きい。
「お嬢様、一つだけ訂正願います」
「なあに?」
いつの間にか膝裏を抱え込まれ、カイドの腕に座るように抱き上げられていた。
肩に手を置き、きょとんと見下ろす。金色が、眩しいものでも見るかのように、うっとりと細められる。
「そういうのは、面倒な女ではなく、可愛い人というのですよ」
「それは、カイドだけだと思うわ」
「そうじゃないから困るんです。そして言っておきますが、俺は正真正銘面倒な男ですから、お覚悟を」
「……なんだか、そう言われるとちょっとだけ怖いわ」
「ええ、怖がってください」
にこりとカイドが笑う。
けれど、さっきまでの優しげなものとは違い、犬歯がちらりとのぞく少し物騒な笑顔だ。
「何せ、男は狼ですから」
そう言った狼領主は、世界で一番愛しい人の顔で笑った。