19.あなたと私の帰還
一旦立ち寄ったコルキアの町で湯を貰い、汚れを落し、身なりを整えた。
喪の為の黒布が取り払われた町は、すっかり祭りの準備が整っていた。家々は花飾りで溢れ、硝子なのか宝石なのか見分けがつかないほど光あふれた飾りが風に揺れ、大人も子どもも大はしゃぎだ。
まさか、行きにあれだけ垂れ下がっていた黒布が、祭飾りを見せない為の暗幕だったなんて思いもしなかった。灰色の町は色とりどりの飾りに埋もれ、まるで春の花畑のようだ。
だけど私は、残念ながらコルキアの町をよく見ることができなかった。
何故なら、カイドは健在を知らせながらすぐに屋敷まで戻らなければならなかったし、私も一緒に戻ったからだ。
それだけなら馬車から眺めることも出来たのだけど、一つ問題が発生した。湯をもらった後に熱を出し、傷の手当をしてもらい、熱さましをもらった。そこまではよかった。そこまでは何も問題はなかった。けれど、最後に貰った毒消しが問題だったのだ。
最初に訪れたのは甘ったるさ。意外と飲みやすいと舌が勘違いしたのは、きっと自分を守るためだったのだろう。
苦いのか辛いのか熱いのか冷たいのかすら分からなくなったそれに、比喩ではなく気が遠くなった。カイドがいつも何かしら持ち歩いていた甘味は、お腹を空かせた子どもや誰かに分け与える為じゃなくて、まさか毒消しの口直しだったのだろうかと思ったほど、口に入れるものとは思えぬ衝撃だった。味なんて言っていられない。衝撃だ。
生にしがみつくのはそれだけ厳しいものなんだよとお医者様は仰っていた。そして、味の改善は昔から試みられているけれど、何故か年々酷くなっているとも。
そう顔を逸らしながら言われた時点で気づくべきだった。あれは大袈裟でも冗談でも何でもなく、逃れようのない事実なのだと。
「ぅ……」
まだ口の中に衝撃が残っているような気がして、呻き声と一緒に違和感を吐き出す。あれから意識が戻る度に、お茶を飲み、甘味をもらっているのに、まだ残る違和感が怖い。
馬車の中で私は、痛まない胸、右側を下にして横になっている。身体の上には軽く温かい毛布がかかっていた。
馬車は急ぎつつも、揺れに配慮してくれているらしく、少し開いた窓から通り過ぎる景色は慌てて通り過ぎていくのに、うとうとと眠る私達が起きないくらいには穏やかだ。
そう、私達。
横になる私の視界には、向かいに座るカイドが映っていた。腕を組んだまま小さな寝息を立てているカイドをぼんやり見つめる。ずっとうとうとしている私とは違い、カイドは街を通る時は馬に乗って領民に領主健在を示し、安心させていた。カイドが通った場所から喪が明けていく。今頃はライウス中に領主の無事が知らされているだろう。
掲げられた幕には、『解放祭』ではなく、『狼復活祭』と書かれていた。これからこれが定着するのかと頭を抱えたカイドが可愛かったのは内緒だ。
私より余程疲れているだろうに、疲れたと、その一言すら洩らさない姿勢は領主としては素晴らしいのだろう。けれど、一個人としては、どうなのだろう。
ここにいればそう言うだろうイザドルは、一緒に屋敷に戻っているのに馬車にはいない。兵士達と同じように馬に乗っていた。急いでの行軍だった為、馬車の数は最小限で来たのは分かる。それにしたってこの馬車に一緒に乗ればいいのに、彼は「絶対嫌です」と言って憚らなかった。首を傾げてカイドを見れば「俺がイザドルの立場なら絶対嫌です」と返してきた。二人の真顔っぷりに、私、そんなに酷い鼾を!? と泣きそうになった。そうじゃないという力強い否定は貰ったけれど、なんとなく不安になって仰向きで眠れなくなった。
がらがらと車輪が回り続ける音を聞きながら、ぼんやりとカイドを眺める。意外と長い睫毛なのに、女性らしくは見えないのが不思議だなと思う。不思議で、面白くて、おかしくて、もっと近くで見たいような、出来るだけ離れてほしいような、くすぐったくてむずむずした気持ちになる。近づくことが許された関係だからこその贅沢な悩みが、恥ずかしくも誇らしく、やっぱりくすぐったい。
毛布を引っ張り上げて口元を隠していると、何も言っていないのに、金色が開いた。二、三度瞬きをして私の瞳を見つけ、柔らかく微笑む。毛布を鼻まで引っ張り上げた。
「お嬢様? 水を飲みますか?」
思わず苦笑する。
「それは、いま目覚めたあなたに私が言う台詞ね。お疲れ様、カイド」
「道中は寝ていられますからそれほどではありませんよ」
この強行軍をそう言うカイドは、私に気を使ってくれているのか、普段があまりに過酷なのか。どちらもなのだろうなと思ったけれど、それを追及するのは今度にしよう。
「いま、どの辺り?」
「ちょっと待ってください」
窓から顔を出して周囲の景色を確認したカイドは、胸元から地図を取り出して私の前に広げてくれた。起き上がろうとしたら止められたので、仕方なく寝ころんだまま失礼する。私が見やすいようしゃがみこみ、床に両膝をつけたカイドの顔が近い。指さして説明してくれている地図よりそっちを見てしまいそうになって、慌てて視線を落とす。
示された場所は、思ったよりも進んでいた。この調子なら、今日の夜には屋敷に戻れそうだ。
「ずいぶん早いのね」
「まっすぐだとこんなものですよ」
そうかもしれない。『土砂崩れで封鎖』された道を通り、『流された橋』を通り、『増水した村』を走り抜けてきたのだから。
やけに遠回りしているとは思っていたけれど、徹底的に、これでもかと遠回りさせられていたらしい。しかも、ジョブリンは体型が体型だ。絶対に安全だと思える道だけを通ると判断したのだろう。細い道や、頼りなげな橋が架かった道は最初から除外されていたので、一行が選ぶ道を推測するのは容易かったはずだ。
地図を見る為に俯き揺れる黒髪を眺める。大きくなったなと、ふと、思った。
「ねえ、カイド」
「はい?」
「私、やっぱり、言葉遣いを改めるべきよね。幾らなんでも、領主であるあなたにこれは、失礼だわ」
ずっと考えていたことを言うと、カイドは凄く嫌そうな顔をした。
「勘弁してください。お嬢様に畏まられると、死にたくなります」
「そ、そんなになるなんて思わなかったわ。……待って、あなたまさか、屋敷に戻ってもそのつもりじゃないわよね?」
「え?」
「……え?」
沈黙が落ちる。
少し開いた窓からは晴れ渡った空が見え、同じくらい清々しい風が流れ込んでくるのに、馬車の中はなんともいえない空気に包まれた。
イザドルが頑なに馬車に乗らなかったのはこれが理由かなと、なんとなく察した。
馬車の中では急遽会議が開かれた。二人っきりの会議だ、なんて、浮かれる要素は欠片もない。
議題は、これからの私達、だ。
お互いに膝を突き詰めて向かい合う。ぴしりと背を伸ばしたカイドを前に、私も完全には難しかったけれど、出来る限り背筋を伸ばす。
「カイド」
「はい、お嬢様」
「…………あのね、私、シャーリー・ヒンスというの」
「存じております」
どう言えばいいのか、一所懸命考えながら話す。どうしたって避けられない話し合いではあるけれど、それでお互い嫌な思いをしたり、喧嘩なんてしたくない……喧嘩、したことがない。取っ組み合いは勿論、普通の喧嘩も。カイドとだけではなく、誰とも。
同年代の子どもが近くにいなかった私は、大人の中で育った。だから、誰も私と喧嘩なんてしてくれなかった。そもそも会える人が少なかった上に、対等に扱おうとしてくれる人がいなかったし、それを許される人もいなかった。
そう思うと喧嘩をしてみたい気はするけれど、今したいかと言われれば否だ。
人差し指と中指を握りこみ、いつの間にか乾いてしまった唇をちょっと湿らせる。
「ねえ、カイド。今の私は、王族の血も引いていないし、貴族の娘ですらないわ」
「それでも、あなたが俺にとってのお嬢様であることに変わりはありません」
「あなたは領主で、私はメイドよ。今は私があなたを旦那様と呼ぶ立場なのよ。だから、本当なら、こんな喋り方をしてはいけないと私でも分かるわ」
そう言うのなら、こんな立ち位置でいてはいけないと分かっている。本来なら主であるカイドから話し始めるのを待たなければならないけれど、カイドは私が喋りはじめるまで待つ心づもりのようでいつまで経っても話し合いが始まらなかった。
今だって、冗談でも皮肉でもなく、心からそう思っているといった顔をしている。
「あなた方より身分の高い存在なんて、王城に住まう王族方しかいません」
「カイド」
弱り切ってしまった私に、カイドも同じ顔を向ける。いや、私よりももっと苦しげで、悲しげで。それなのに、こっちが燃え尽きそうなぎらぎらとした金色が、今にも泣きだしそうに。
「……どうかお許しください、お嬢様。俺にとって、お嬢様はお嬢様なのです。あなたが俺などを好きになってくださったのが信じられなかった。あなたは、本当に、高嶺の花で。姿も、声も、言葉も、感情も、世界に放つもの全て、全てが美しいあなたにお仕えできたらと、いつも、思っていました。あなたを終の主として生きられたのなら、どれだけの喜びだろうと……俺は元々、誰かの下にいるほうが向いている男なんです。あなただけを主とし、あなたの為に生き、あなたの治世の元ライウスを守っていけたらと、そう願ってさえ、いました」
告白に、目を見開く。
そんなことを思っていたなんて知らなかった。彼ともあろう人が、なんて馬鹿なことを願ったのだ。私には、この地を統治する能力はない。何も見ず、何も聞かず、ただただ与えられる幸せに唯々諾々と浸っているような女だったのだ。
いや、彼だってそうと分かっている。だから、その道を選ばなかった。選べなかったというべきかもしれないけれど。
あの頃のライウスでその道を選べば、それはライウスの崩壊と同義だった。崩壊どころか、もっと酷い内乱が、戦争が、起こっていただろう。
元凶である領主一族の一人を生かし、更に領主に据えればどうなるか。賢い彼が分からないはずがない。愚かな私にだって分かることだ。
あくまで主犯は私達領主一家だった。それなのに、末端ばかりを処罰して、私をそんな場所に据えていいはずがない。ライウス中が争い、戦乱となり、下手をすると彼まで処刑されていたかもしれない。
だから彼の理性が勝ってよかったと心から思う。彼の願いが叶わなかったことを安堵するなんてつくづく酷い女だけれど、こればっかりは心からほっとする。
そんな私の様子を、苦笑いとも苦しげともつかぬ顔で見て、カイドは続けた。
「それなのに、俺はあなたに恋をしてしまった。そして、あなたも、俺を好いてくださった。何故、俺などをと、今でも、思います。……ですが、申し訳ありません。俺はもう諦められないんです」
カイドは両手で顔を覆って俯く。大きくなって、もうとっくに青年の域に達して久しいというのに、まるで幼子のように心許なく見えた。
「……申し訳ありません、お嬢様。俺のこれは、好きとか愛とか、そんな綺麗で高尚なものじゃないのかもしれません。いや、昔は確かにそれだった。そう思いたいだけかもしれませんが、少なくとも今のこれとは違った……ですが、今や執着と欲が混ざり合った、身勝手で凶暴な何かだ。だからこそ、もう、手離せない。俺はきっと……あの男と何も変わらないんです。すみません、すみませんお嬢様。あなたがくださる優しく温かいものではなく、こんな醜いものであなたに触れて、本当に申し訳ありません」
許しを請う声は次第に掠れていき、ついには無音となった。組まれた指は、ぎちぎちと音が鳴りそうなほど筋と骨が浮き出ている。
比較的平らな道に入ったのか、揺れは先程よりましになっていた。それでもがたがたと小刻みに揺られながら、下げられたままの頭頂部を眺める。昔と同じ右巻き旋毛、と、こんな状況なのにぼんやり思う。昔はこの頭を見下ろしたのだと思いながら、深く細く、長い息を吐く。私が息を吐くたびに、力は骨が折れんばかりに強くなっていくのが分かった。
「……それなら、今のままでも問題のないよう、皆への説明を考えなくてはならないわね」
そう言えば、頑なに上がらなかった頭がぴくりと動く。
「私、そういったことを考えるのはあまり得意ではないのだけど……そうね……私、恐妻になるわ。だから、私が怖くて敬語になっているというのはどうかしら。領主の威厳に触るかしら……でも、恐妻なら私できるわ、任せて。昔、お母様やお婆様の読んでいらした淑女通信と、お爺様とお父様が読んでいらした紳士通信を読んで勉強したわ。淑女通信には『上手なお家の回し方』、紳士通信には『今日の恐妻』というコラムがあって、私、いろんなお話を知っているのよ」
なんだか遠い世界の話に感じて、どこまでも自分とは関係のない話は現実感がなく、小説と同じただの読み物として読んでいた。
今こそあの知識が役に立つ日が来たと思ったのに、カイドはなんともいえない顔をしている。せっかく顔を上げてくれたのだから、笑ってくれたら嬉しいなと思う。
「……あの、お嬢様?」
「なあに?」
「………………俺と結婚してくださるんですか?」
「え」
今度は私が青褪める番だった。襲ってきた血の気が引くほどの羞恥に、思わず両手で口元を覆う。
「そ、そうよね。私、今は貴族の娘ですらないし、後ろ盾すら持っていない私が領主の奥様になんて駄目ね。嫌だ、私、つい、嫌だわ、ごめんなさい。そうよね、愛人よね。大丈夫よ。私、カイドと奥様をちゃんと支えるわ。決して出しゃばったり、奥様を脅かしたりしないから、その……せめて町にはいてもいいかしら」
自然に図々しいことを考えていた私は、あまりの恥ずかしさと胸の痛みに俯く。傲慢にも程がある。一緒に生きていこうと約束したって、今の私と彼は身分が違いすぎるというのに、当たり前のように何を。
俯いた私の視界に彼の手が映った。慌てて顔を上げれば、私の前に膝をついたカイドがいた。その、私よりも青ざめた顔に、更に青褪める。
「ご、ごめんなさい。友人、友人よね。そう、友人…………駄目かしら……知り合い……顔見知り……」
「どんどん離れていかないでください。どうしてそういう部分はしっかり貴族感性なんですか。身分なんて養子にでも入ればいいことですし、俺は別にそのままでも問題ないと思います。お嬢様さえ許してくださるのなら……あの屋敷の女主人はお嬢様ですよ」
カイドはそう言うや否や、両手で握りしめた私の手に額をつけた。あの洞穴では爪先部分だけだったけれど、今度は掌全部を握り締めている。
「……宜しいのですか、お嬢様。俺はこんな男ですし、指輪の準備も、何も」
金色の瞳を覗きこみ、肩の力を抜く。勘違いじゃなくてよかった。どこにいたって心さえ通っていれば一緒に生きてはいけるけど、できるなら、触れ合える距離で、それが許される立ち位置で、生きていきたい。
両手を握られたまま、額に唇を落とす。
「じゃあ、約束を頂戴。これから……今度こそ、幸せになる約束を、一緒に幸せになる約束を、私に頂戴」
見開かれた瞳が可愛い。まず思ったのはそれで、次に愛おしさが溢れ出る。
カイドが動かないのをいいことに、もう一度、今度は目蓋の上に口づけを落とす。
「領主としてなら、私への接し方はいけないのだけど……それがカイドの望みなら、いいの。私はカイドの願いが叶うよう頑張るわ。それがあなたの譲れないものなら、いいの、いいのよ、カイド。私にはいっぱいわがままを言って。私は、あなたのわがままを聞きたいの。酷ければ叱るし、怒るし、拗ねるわ。だから、安心して言って。あなたのわがままを聞きたいわ。あなたの願いを、知りたいの。ねえ、カイド。あなたが殺してきたあなたの願いを、私に教えてくれないかしら。少しずつ、どんな小さなことでも構わないから」
今度は私から握りしめ、その手に口づけを。
誓いを。
「あなたを愛しているわ、カイド。執着も欲も、あなたからなら嬉しい。恋って、そういうものでしょう? それに、私だってきっと同じよ。だって恋人なんですもの。ちっともおかしなことじゃないわ」
道を下りないで。あなたが作ってくれた道から、あなたが下りてしまわないで。いろんな理由をつけて沈んでいかないで。カイドとして生きる道を捨ててしまわないで。
「わがままを言って。私も言うわ。今度こそ、嘘はなしよ。内緒はちょっとくらいあってもいいけれど、いっぱい話をしましょう。いろんなことを教えてね。私の知らないあなたのことを。そして、あなたの知らない私も知ってほしいわ。私達、お互いに面倒な性格だもの。ちゃんと話さないと、きっと伝わらないと思うの。ねえ、カイド。私、あなたとやり直したいわけじゃないの。私達、一度ちゃんとお別れしたわ。だから、今度こそ、あなたと始めたいの。考えましょう。私達なりのやり方を。私達の形を作りましょう」
私も同じことをした。理由なんてあちこちに見つかるから、それだけを後生大事に抱え込み、どこまでだって沈んでいける。
「あなたに幸せになってほしい」
どれだけ沈んでも、溺れても、地獄に底などありはしない。苦しくてもがき、他の人まで引きずり込む。そうして傷つけた人を見て、更に沈む無限の砂地獄。
「私は幸せになりたい」
けれど、お願い。
抱きしめるなら、私にして。
「あなたと、幸せになりたい」
理由なんかより、私を抱きしめて。
私も、そうするから。今度こそ、そうして生きるから。
カイドを見下ろして微笑むと、長い長いため息が聞こえた。私の手を握ったまま額が胸元に触れる。重くはないけれど、髪の毛が少しくすぐったい。手が空いていないので、黒髪に頬を乗せて目を閉じる。笑ったのか、小さく身動ぎしたのが分かった。
「……豪胆すぎます、お嬢様。三十路近いくせに、自分が情けなくなります」
「十五年生きてきたのに、いま、ようやく息をした気分なの。……えーと、張り切る…………はっちゃける、だったかしら。えっと、はっちゃけても許して?」
「……お嬢様は、何かわがままはないのですか?」
湿ってくぐもった声は追及せず、少し考える。
「そうね……手を離してほしいわ」
ぱっと即座に放された手で、カイドの頭を抱え込む。
「あと……その…………最初の話に戻るのだけど」
「はい?」
上げようとしているらしい頭を全力で抑え込むと、大人しく腕の中に納まってくれた。それを幸いと、真っ赤な顔を彼の髪の中に隠す。
「……領主としておかしいと思ったのは事実だし、あなたの望みなら態度や言葉遣いは変えなくていいと言うのも嘘じゃないのだけど……こ、恋人なら、もう少し……その…………くだけて寛いだ姿も、見たい、と……その…………シャーリーって、名前を呼んでくれて、うれしかったの……」
お父様のようにお腹を揺らして大鼾をかいてほしいわけではないけれど、いや、それはそれで可愛いけれど、私といると気が緩んでくれたらいいなと、思っている。
でも、これこそ本当に私のわがままだ。無性に恥ずかしくなって耳や首にまで熱が集まるのが分かる。大人しくなっていたはずの頭が再び動き始めて、慌てて抑え込む。
「お嬢様」
「嫌よ」
「顔が見たいです」
「駄目」
「お嬢様」
「内緒」
「シャーリー、見たい」
ぐっと息を飲む。いま、それは、ずるい。
「いろんなあなたを見せてくれると言いました」
「……いや」
「見せて」
「……ずるいわ」
こんなのずるい。
口をとがらせ、せめてもの抵抗で髪をぐしゃぐしゃにしてやる。それなのに、ゆっくりと上がってきた顔はひどく楽しそうな色をしていた。さっきまでべそをかいていた男はどこにいってしまったのだろう。
対する私は、きっとみっともないほど赤いだろう。耳も頬も首筋も、触れなくったって熱が溢れ出ているのが分かる。その顔を至近距離でまじまじと見つめるカイドは、鼻歌さえ歌いそうだ。
「可愛い。シャーリー、可愛い」
「……いじわるだわ」
「ご存じではありませんでしたか?」
一拍置いた唇から、犬歯が覗く。
笑ったはずなのに、獲物を前にした獰猛な表情に見えた。
「俺は、性悪狼なんです」
重なった唇は、甘い飴玉と毒消しの味がした。
屋敷のある街では、今までの比ではないほどの歓声に包まれた。準備段階に見た祭飾りの三倍はあろうかという飾りが町全体を埋め尽くし、祭りではしゃぎ回るはずの喜びがカイド帰還の喜びに全部費やされたのだ。
凄まじいまでの歓喜はあまりに音が大きすぎて、自分が話す声すら聞こえなかった。
窓を開け放ち、外に向けて笑顔で手を振っているカイドを、向かいの席から眺める。結局最後まで、イザドルが馬車に同伴してくれることはなかった。
その理由が「馬に蹴られる」からだったなんて、誰も教えてくれなかった。休憩で馬車から降りた時の、皆の生温かな視線で初めて気づき、真っ赤になった。
カイドはちらりと私を見て、下ろしている手で小さく合図をした。首を傾げて隣に座る。すると、外から見えない位置にいる私の肩を抱いた。気づかれていたのかと、苦笑した。
馬車が止まる。止まった理由は休憩でも、ぬかるみに嵌ったからでも、車輪が故障したからでもない。
屋敷に、ついたのだ。
握りしめていた人差し指と中指は、真冬のように冷え込んでいたのに汗ばんでいる。
酷いことを言った。優しい人達を、酷く傷つける言葉を、選んで吐いた。
それはウィルフレッドが原因だったけれど、元は私達の因縁だ。
どんな視線がこの扉の向こうにあるのか、分からない。私は人質に取られていた、と、カイドが早馬を出して説明してくれているのは知っている。きっと、大丈夫だったかと案じてくれるだろう。そういう人達だ。それは、分かっている。人質に取られて吐いた暴言で誰かを責めたり詰ったりする人達じゃないと、分かっている。
分かっているのに、手足が震える。歯がかちかちと音を鳴らす。
だってここは、私の断罪の地。
たくさんの歓声は、私の死を望み、歓喜した。喜びに沸いた人々の声が、この場所で解放に沸いた人々の声と重なって、少し、少しだけ、きつかった。
俯いている間に扉が開かれ、風が吹き込む。顔を上げれば、先に下りたカイドが手を差し出してくれている。決して急かさず、微笑んで待ってくれている姿に、意を決し手を伸ばす。胸が痛まぬように片手で押さえ、少し背を屈めたまま降り立つ。
大丈夫。燃えていない。あの赤は、もう過去だ。音にも匂いにも誰の瞳にも、赤はない。
そう何度も自分に言い聞かせる。心臓が早鐘よりは鈍く、けれど力いっぱい鳴り続ける。
今度は腕を捻り上げて地面に跪かせられているんじゃない。身体を支えてくれる手があるから、怖くない。怖いけど、怖くない。大丈夫だ。
噛み締めていた唇を放し、ゆっくりと顔を上げる。
それを待っていたかのように、声が、揃った。
「旦那様」
「お嬢様」
「おかえりなさいませ」
ずらりと並んだ人達が同じ角度で下げた頭に、さっきまで感じていた震えが消えた。残ったのはただひたすら困惑だ。
カイドはまだ分かる。ここはカイドの領地で、カイドはここの領主で、この屋敷の主人だ。旦那様。正しい。その通りだ。
おかえりなさいませ。それも分かる。だってここはカイドの屋敷だ。
でも。
「…………お嬢様?」
呆然と反芻して、カイドを見上げる。
あまりにぽかんとしていたのだろう。カイドは苦笑して私の背を少し押した。
頭を下げる見慣れた人達の先頭にいるのは、カイドの副官と直属の部下、そして執事長とメイド長、そして、何故か並ぶにはあまりにバラバラな役職にいる人々。カロンと同じくらい、ずっとここにいる人達。
「どうした、お前達。約束通り無事にシャーリーを連れ帰ったぞ。カロリーナ、お前が動かないとジャスミンも動けないんじゃないか? 後ろがそわそわして閊えているぞ」
カイドの言葉に、カロンがゆっくりと頭を上げる。同じように、そこにいる人達も顔を上げていく。そして、ぐしゃりと。
ぐしゃりと、顔を歪めた。
中には初老に差し掛かった男もいたが、皆等しく今にも泣きだしそうな顔に、私は弾かれたようにカイドに視線を戻す。悪戯っ子みたいな顔をしたカイドは、身を屈めて私の耳元で囁いた。
「カロリーナにだけ話しました」
「……だけ?」
「他に話す人選は、カロリーナに任せましたから……恐らく前の屋敷の者達は知っているんじゃないでしょうか。あの様子を見るに」
お嬢様、と、震える声にはっと視線を戻す。
カロン達は、よろめく足で一歩一歩前に進み、私の足元で頽れた。自分達を束ねる立場の人々が泣き崩れる様に、誰もが動けない。私も、動けなかった。
「お待ち申し上げておりました」
「カロン」
カロンが泣きじゃくる。
「お帰りを、ご無事を、心より、我ら一同、心より、お待ち申し上げておりました」
声が、揃う。
「お嬢様っ……!」
「シャーリぃー!」
一人だけ違う声が弾けた。
美しく並んだ列からジャスミンが飛び出してくる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったジャスミンと一緒に、他の人を突き飛ばしてサムアも駆け出してきた。
その後も、我も我もと走りだし、あっという間に列は消え去った。
つまずいたのか元々そのつもりだったのか、走ってきた勢いのまま飛びついてきたジャスミンに、まだ触れてもいないのに肋骨が疼く。
「おい、待てジャスミン! シャーリー怪我してるって言われてるだろ!」
「じゃーりぃー!」
サムアに後ろから羽交い絞めにされたジャスミンが、ぐしゃぐしゃに泣きながら手を伸ばす。その手を握ると、またぐしゃりと、瞳が揺れる。ぼろぼろと落ちていく涙を拭うこともせず、ジャスミンは泣きじゃくった。
「ごめん、ごめんね、きづかなくってごめんね、こわかったよね、いたかったよね、ごめんね、ごめんねシャーリぃー」
「私こそ……ひどいことを言ってごめんなさい。あなたが傷つく言葉を、選んだの」
「なに言ったら傷つくか分かるくらい、私のこと分かっててくれて嬉しいぃ……!」
子どもみたいに声を張り上げて泣くジャスミンは、羽交い絞めから解放されるや否や、矢のように飛び出し、真綿のようにふわりと抱きついた。軽く柔らかく温かい身体は、思ったより痛くなく、慌てて震える背中に腕を回して抱きとめる。
「うえええええん、じゃありぃー!」
「じゃありぃって誰だよ! …………おかえり、シャーリー。無事でよかった」
「あ、ありがとう。……あの、お嬢様って何?」
唯一泣いていない人を選んだつもりだったけれど、見上げたら目が赤かった。
「何って、それは何が何だか分からない俺達の台詞だよ。なんで、どうして、いつの間にそんなことになってるかは知らないけど、シャーリーは旦那様と結婚するんだろう? だったら俺達の女主人で奥様だけど、シャーリーまだ若いし、まだ結婚はしてないしで、いきなり奥様って呼ばれても戸惑うかもしれないから皆で呼び方を考えたんだ。シャーリー様でもよかったんだけど、カロリーナさん達がお嬢様がいいと言うし、俺達もなんかそれがいい気がしたから……言葉遣い改めたほうがいい?」
「いえ、いいえ、そんなの、しなくていいわ。あなた達は、あなた達のまま、いて、ほしい」
「そっか。お客様の前じゃちゃんとするけど、俺もそのほうがいいや」
ほっと笑ったサムアと同じように、私もほっとする。
周りに畏まられる唯一の理由だった血筋はもうない今、私は畏まってもらうような人間じゃない。それも理由の一つだけど、この屋敷でもらった尊いものが遠くなってしまうようで、寂しかった。だから、変わらないでほしい。
今は在り方を、この場所でのこれからの形を、探していく途中なのだ。
「サムア、ティムは」
「……ああ」
「あなたのことがとても好きだったわ」
「え?」
つらそうに伏せられた瞳が丸くなる。
「とても好きだったから、あなたを標的にしたの。そして、とても好きだったから、あなた達に毒を飲ませず、自分で飲んだのよ」
彼なら、いくらでも機会があった。料理に混ぜてもよかったし、差し入れに混ぜてもよかった。別に自分が飲む必要もなかったし、自分だけが飲む必要も、なかった。
歪んでいる。ひねくれている。それなら思いとどまればよかったのに、それも出来ず、溺れていく。過去が背を押し、地獄の底から絡みつき、踏みとどまれずに落ちていく。
カイドは自分を彼と同じだと言ったけれど、私だって同じだ。彼は、もう一人の私だった。
「次会ったら、俺はあいつに鉄拳入れなきゃな。だって俺、あいつの先輩だから」
何か言おうとした言葉をぐっと飲みこんだサムアは、にっと歯を見せて笑った。その笑顔が、とても眩しかった。
馬鹿なティム。馬鹿なウィルフレッド。
私もあなたも愚かだ。
ここにはこんなにも明日があったのに。ライウスは、もう、違った明日を見ているのに。崩壊へ向けて続いていく日々はとっくに終わり、芽吹きを紡いで笑う明日に満ちているのに。
どうして過去にだけ囚われていられたのだろう。
あの時生まれていなかった命が、あの日がなければこんな風に笑ってはくれなかったかもしれない彼らが、こんなにも尊いのに。
「お嬢様」
カイドが肩を支えてくれる。
涙が止まらない。しゃくり上げる度に胸が痛むけれど、そんなものよりもっと奥が痛む。痛んで、温かくて、苦しい。
後悔ばかりだ。間違いを犯し続け、周りを傷つけ、逃げてばかりだったのに、どうしてここはこんなにも温かい。建物は変わり、庭も変わった。家族も、私すらもいなくなったのに、どうしてこんなにも、変わらない。
「お嬢様」
「シャーリー」
昔の私を知る人も、今の私だけを知る人も、皆等しく私を呼んでくれる。泣きながら、笑いながら、泣き笑いながら、私を待っていてくれた。
両手を握りしめ、深く頭を下げる。
「ただいま、戻りました」
ここで生きていこう。彼らと生きていこう。私で生きていこう。
何があっても、ここに帰ってこよう。
だってここはかつての終の棲家であり。
今尚生きる、故郷なのだから。