18.あなたと私と世界の約束
「誰かいますか――!?」
濁流に負けないようにか、それとも彼の、彼らの感情がそのまま音量になったのか。
わんわんと響く大声と、突如として現れた他者の気配に、思わずカイドを押しのける。露骨に逃げた私に、カイドはなんともいえない顔をした。
傷つけただろうか。今までのは全部なしで、やっぱり嫌いよと言ってしまったようなものだろうか。
そんなことない。ただ、ちょっと、びっくりしただけで、嫌いだなんて思ってもいない。
そして、自分が思わず行ってカイドを傷つけた考えなしの罰はしっかり受けた。急に動いて胸が痛い。心も痛いけど胸が凄く痛い。息を吸っても吐いても痛い。
蹲って呻く私を、カイドは慌てて支えてくれた。傷つけてしまったのに、カイドは優しい。
呻きながら、カイドの服を握る。
「だ、大好きよ」
「…………どうしてこの状況でそれを言うんですか」
「さっき、押しのけてしまったから……」
「…………あれで嫌われたと絶望しない程度には自惚れているつもりです。どちらかというと、今のほうが衝撃がありました」
「え?」
片手は私の身体を支え、もう片手で自分の顔を覆ってカイドが呻く。
「誰か! いませんか――!?」
再度轟いた声は、泣きそうな響きを帯びていた。カイドは深い深い息を吐いて、ぱっと顔を上げる。
「二人いる! だが、ティムが流された! 引き続き探せ!」
「領主様!? 領主様っ! ……ああ、生きておられた!」
若い青年の声が、様々な色に入れ替わる。驚愕、疑念、歓喜、歓喜、歓喜。そして、別の場所に向けて張り上げられた声は、まるで目の前を流れている濁流みたいに濡れていた。
「領主様はご無事だぞ――!」
今度の歓声は、青年と同じくらい涙に濡れ、青年と比較にならないくらいの数となった。
うわんっと濁流にも負けないどころか圧勝するほどの声が上がる。天から降り注ぐ涙に濡れた歓声にも負けず、カイドが声を張り上げた。
「分かったからティムを探せ! ダリヒとの領境までが勝負だぞ、行け!」
そうだ。ウィルフレッドを捜索できるのはライウス領内までだ。そこから先は、ライウスの領分ではない。ダリヒの、ジョブリンの管理下になる。どれだけ悔しかろうと。
カイドの権限がライウスで他領の領主を上回るように、ダリヒでの権限はジョブリンが上だ。また、そうでなければならない。たとえ領主であろうが、他領での権限を持っていては大事では済まなくなる。その領が占領下に置かれたことになってしまうのだ。
カイドが、ライウスが出来る捜索は領内までだ。それ以上は管轄外となり、手出しどころか進む事すらままならなくなる。
見つかればいい。せめて、無事であればいい。
生き延びることが彼の救いになるかは分からないけれど、そう思う。それが彼にとっての残酷かもしれなくても……そう、思う。
「はっ! そして、投げ入れて宜しいでしょうか!」
「ああ!」
「参ります!」
何がそしてなのだろうと首を傾げる間もなく、先に石を縛り付けた縄が放り込まれてきた。先がどこかに繋がった縄を危なげなく受け取ったカイドは、何度か引いて強度を確かめる。
「その縄は?」
「ここは抉れた場所にあるので、水量が少ない時はともかく、こうも水が多いと上からは入ってこられないのです。ですので、これに身体を結び付けて引き上げてもらいます」
「う……」
「お嬢様の負担はできる限り減らすようにします。……その前に、今更で申し訳ありませんがこちらをどうぞ」
呼吸だけで軋む胸を抱えたまま、縄に縛られて引っ張り上げられる自分を想像する。想像だけで、とても、痛い。痛みが顔に出てしまったらしく、カイドはすまなさそうな顔をした。
引っ張り上げてもらうのだから文句を言える立場ではないし、出来る限り痛くないようにしてくれると言うことなのでほっとすると同時に、差し出された皺々の上着に首を傾げる。
当然濡れてはいるけれど、お互いに着ている服より乾いているのは絞ったからだろう。異様な皺もそれで納得がいく。でも、感覚が麻痺しているからかもしれないけれど、上着が必要なほど寒くはないし、結局濡れているからあまり変わりがないように思う。それとも、厚着をしたほうが縄が痛くないということだろうか。それなら納得がいく。
自分なりに考えて出した結論で、決して軽いとはいえない上着を受け取る。出来るだけ水を絞っているはずなのにずしりと重い。父の上着も重かったし、祖父の上着もそれなりに重かった。貴族の男性の上着とは重たい物なのだ。ウィルフレッドの上着は知らない。
個人的には、市井に生きる大半の人が羽織っている軽い上着のほうが好きだ。けれど肌触りはこちらが好きだから、きっと私はわがままなのだろう。
受け取った上着を広げて羽織る私を、カイドは複雑そうな目で見ていた。
「カイド?」
「は……いえ、何でも……首は痛くありませんか?」
「首?」
そういえばウィルフレッドは何がしたかったのだろう。彼が破いた服で露わになった胸元と首を見ようと視線を下ろす。胸元はぎりぎり見えても、首は当然無理だった。
説明を求めてカイドを見ると、彼は、なんとも、そう、なんともいえない顔をしていた。どう説明すればいいのか分からない故の『なんともいえない』顔ではない。混乱よりも、怒りや悲しみといった感情が色濃く見える気がする。しかし、それは私を通り過ぎた向こうに向けられているようで、きっと私のほうが混乱の意味での『なんともいえない』顔をしていると思う。
「歯型が」
「……歯型。ああ、歯型……そうよ!」
一瞬首を傾げかけて、原因を思い出す。そういえばウィルフレッドに噛まれたことがあった。あれだけ痛かったのだから、痕くらい残っていてもおかしくない。あの後の事が事だったので、すっかり忘れていた。
私は勢いのままカイドに詰め寄った。カイドが少し仰け反る。はしたなかったかと反省して、勢いを殺し元の位置に戻ったけれど、やっぱり少し前のめりになってしまう。
だって、初めてだったのだ。まともに感情が動き出したら、初めてに興奮くらいするのである。
「聞いて、カイド!」
「はい?」
「私ね、初めて、初めて取っ組み合いの喧嘩をしたのよ!」
「…………はい?」
「今も、前も、そんなことしたことがなかったけれど、私、ちゃんと喧嘩できたわ。初めての私よりウィルのほうが強かったから噛まれてしまったけれど、私だってちゃんと引っ掻いたし、蹴り飛ばしたんだから」
兄弟もなく、年の近い子どもがいなかった以前。
孤児であり、年の近い者はいても決して近づかなかった今回。
じゃれ合うことは勿論、喧嘩だってしたことがなかった。初めての喧嘩が、掴み合って取っ組み合いの大喧嘩。初体験にしては上々の出来栄えだったと思っている。これはちょっとくらい自慢してもいいのではないだろうか。
「ウィルったらすぐに顔をぶつんだもの。だから、絶対やり返してやろうと思っていたの。私だって、頑張れば、取っ組み合いくらいできるんだから。昔は本を読んで戦士に憧れて、箒を振り回したりもしたのよ。はしたないと怒られて、すぐに取り上げられてしまったけれど、本気だったんだから」
両拳を握って、どうだと笑う。
なのに、驚いてくれると思っていたカイドは、片手で顔を覆いぴくりとも動かない。手の隙間から見えている眉間は、皺が山脈と化している。
「あの野郎……」
忌々しげに吐き出された言葉に、個々で握っていた拳を解く。両手を重ねて握りしめ、肩を落とす。
「……やっぱり、駄目だったかしら」
「いえ、お嬢様はご立派です。ただ、あの男が」
「ウィルが?」
「何時如何なる状況下においても、隙あらば嫌がらせを忘れないそれはもうひねくれきった根性は称賛に値するので、褒美をくれてやらなければな、と。次会ったら、原型とどめないくらい殴ります。お嬢様を殴った回数を教えてください。その百倍は殴ります」
「…………六百回は、ちょっと」
「…………六回も殴ったんですか。分かりました。蹴りにします」
「それもちょっと……どうなのかしら」
六百回も蹴られたウィルフレッドを想像しようとしたけれど、難しかった。どちらも息切れした姿しか想像できない。
「ぶたれた分は自分で仕返しするわ。だから、よかったら、ぶち方を教えてくれると嬉しいのだけど」
「まず、原形をとどめていないウィルフレッドを用意します」
「…………何か違う気がするわ」
カイドはむっつり黙り込み、黙々と縄で体を縛り始めた。腰や足を通して結んだ後に、残していた部分で私を縛ると、「失礼します」と言うや否やそのまま抱き上げる。体勢が変わって胸が痛み、息が詰まったが我慢した。
「お嬢様、胸はどのくらい痛みますか。両腕を上げても平気ですか?」
「少し、待って……痛いけれど、平気よ。どうすればいいの?」
「俺の首に腕を回して、身体を固定していてください。そのほうが痛みは少ないはずです」
「分かったわ…………し、失礼します」
「……お嬢様。お願いですから、力が抜ける上に変に力が入る言動は、せめて今だけは勘弁してください」
「どっちなの」
「どちらもです。行きます。少し衝撃がきますから、絶対に離さないでください」
私を抱き上げたまま、比較的水の流れが穏やかな壁沿いを選び水の中に入っていく。
何度か縄を引いたカイドがすぅっと息を吸ったのが、密着した胸から伝わってきて、なんだか無性に恥ずかしかった。
「引け!」
「はっ! おーい、引け――!」
そこまでは、覚えている。正確にいうと、そこまではまだ正常に意識を保てていた。
突貫工事で作り上げた引き上げるための道具に引っ掛けた縄を、馬と兵士で引っ張り上げてくれた。登り切った後に、私の中で煌々と輝き続けた言葉はただ一つ。
絶対『少しの衝撃』じゃないわ、だった。
引き上げられた私達の周りに、たくさんの人がわっと走り寄ってきた。歓喜に溢れた瞳が、声が、腕が、私にも向けられていて瞬きする。
よかったな、生きていてよかったな、無事で本当に良かった。
何も、何も出来なかったどころか、彼らの大切な領主に厄災を振り撒いた私に、そう言ってくれる優しい人達。その彼らにさえ、そう言ってもらえなかった人達がいた。私達が、いた。
ちらりと過っていった思考を振り払う。
違う。ここはそんなこと思う場所じゃない。嬉しいと思う気持ちを素直に優先しよう。嬉しいと思っていいのだと、思えるようになりたい。感じた気持ちを、素直に受け入れよう。わざわざ薄暗い方向へと向きを変えるのは、もうやめると決めたのだから。
「カイド! おじょ…………」
「おじょ?」
割れた人の間から飛び出してきたイザドルが、ぱくりと口を閉じる。兵士の一人が不思議そうに繰り返す。視線が集まったイザドルは、何度か開いては閉じた口を、意を決したと言わんばかりに開く。
「お、オコジョ……」
「オコジョ!?」
耐え切れなかったのか、ギミー一行から声が上がった。
「……似てるか?」
「似てる、か?」
「いや、イザドル様がそうおっしゃるならきっと似てるんだ」
「うん。似てる似てる。オコジョ知りませんけど」
「俺も知らないな、そういや」
私とそれぞれの想像上のオコジョが比べられている。私も昔、本でしか見たことがないから人のことは言えないけれど。
一つ咳払いしたイザドルは、私を抱き上げたままのカイドの肩に手を置き、額を乗せた。
「お前はいつも、無茶をする」
「無理も通せば道理になるかもしれないしな」
「なるか、馬鹿! ……お嬢様も、ご無事で何よりです」
小さな声で伝えられた言葉に、笑むことを返事とする。
しかし、すぐにそれを引っ込めなくてはならなくなった。イザドルを通すために割れ、いつのまにか戻っていた人波が再び割れる。さっきの何倍も大きく開かれた道に、誰が来ているのか嫌でも分かった。
カイドの耳元で囁く。
「下ろして」
「縄を切らないと無理ですし、どちらにしても断ります」
ひそひそと言い合っている間に、結び目に爪をかける。けれど、二人分の体重が結び目にかかった濡れ縄は酷く固い。解こうとすれば爪が剥げるかもしれない。下ろしてもらうことを諦めるしかなさそうだ。
そうこうしている間に、予想通りであり、予想が当たったことは何も嬉しくない相手が姿を現した。
全身万遍なく波打つ肉を重そうに、けれど減らそうとする努力が皆無な肉の塊だ。
「いやはや……無理をなさるものだ。しかし、きちんと生きて帰る運の強さは流石としかいいようがありませんな。流石ライウス領主様と言うべきなのでしょうなぁ」
「ダリヒ領主様にそう言って頂けるとは、光栄ですね。ですが、宜しいのですか? お知り合いの方がご結婚されるのでしょう? 俺からも、お祝い申し上げます」
「ほっほっほっ……ライウス領主からの祝辞を頂いたとなると、世のそれより余程喜びますでしょうな。では、それを伝えるためにも、これで失礼するとしましょう。ライウスの狼は健在であると、ダリヒでも触れ回らなければなりませんからな。みな、歓喜するでしょう。イザドル様も、どうぞご健勝であれ」
「ジョブリン様も」
二人の領主、一人の領主代理が軽く頭を下げ合う周りを、深く頭を下げた使用人と臣下の礼を取った兵士達が囲む。
ライウス兵も、ギミー兵も、ダリヒ一行に手を出そうとはしない。
いくらこの場がライウスであっても、明確な証拠もなく他領の領主を裁けるはずがない。他領の領主を断罪したければ、確実な証拠を持って王の御前に参らなければならない。そして、その采配に従うのだ。あくまで領主は領地の主。国の主は王なのだ。王の許可なく他領の領主を裁くことなどできようはずもない。そんなことをすれば、王に叛意ありとされてしまうだろう。王を通さず、王の権限を犯すことなど許されるはずがない。
あの短い間に確かな証拠を揃え、王の采配を賜る時間があったとは思えなかった。
だから、この場はジョブリンを帰すしかない。帰りたいという他領の領主を引き留められる理由がないのだ。たとえ、この男が何をしたか、この場にいる全員が知っていたとしても。
肉で潰れた目が私を見ている。そこにどんな利用価値を見つけ出したのか。また、どんな利用価値をつけて自らの利にするつもりなのか。
カイドに抱かれたまま地に足すらつけられていない私では様にならないと分かっているけれど、顎を引いて俯いたりしない。脅える理由も、怯む理由も、なかった。
「結婚式、参加できなくて残念です」
一介のメイドが他領の領主に、許可もなく自分から話しかける無礼を咎める者は誰もいない。ジョブリン自身もだ。
「ほっほっ……なに、黒髪を用意するだけのことよ」
口調だけはしれっと言い放ったジョブリンは、どう見てもしれっと流れない肉を揺らし、目を細めてカイドを見る。
「貴殿が選ぶ、次代の『ライウスの宝花』を国中が注目しておりますぞ。どこの馬の骨とも知れぬ輩に手折られぬよう、大事に守られるがよい」
「ご忠告、痛み入ります。領境まで兵をつけましょう。どうぞ、不慮の事故になど遭われぬよう、十分にご注意を」
ごおごおと濁流だけが目に見えて渦を巻き、荒れ狂う様を素直に耳に伝えてきた。そんな中、人間は言葉の裏だけが渦を巻き、荒れ狂う様を身の内にしまいこむ。
これは茶番だ。
誰もがそうと知っていて、誰もがさっさと終わらせようとしているのに、誰も下りる気のない茶番であり、舞台だ。
この舞台が終わるのは、誰かが何かを壊した時だけだ。そして、この舞台を壊す破壊者を、歴史は勝者と呼ぶ。
それが、遠い昔から、人が人であり始めた時代から存在する。
世界の約束なのだから。




