17.あなたと私の、来世
「――」
「――」
私を呼ぶ風の声がして、くるりと振り向く。
色とりどりの花が咲き乱れる花畑の中、大きな白い日傘が見えた。その下に設置された丸いテーブルの周りに、皆がいる。
足が絡みそうなほどふんだんに布が使われたスカートを持ち上げる。どうしてだろう。こんなドレスいつものことなのに、何故だか少しわずらわしい。首を傾げながら、家族の元に辿りつく。
「――、お腹が空いたでしょう?」
「――、あなたの好きな都のお菓子よ」
「――、ほら、こっちに座りなさい」
「――、そっちは寒いだろう? 日傘の下に座りなさい。ここは温かいよ」
お爺様が、お婆様が、お母様が、お父様が、笑っている。
白いテーブルの周りに五つある白い椅子。その内の一つが引かれ、斜め向いている。
ここは私の席だ。
テーブルの上には、都の職人が丹精込めて作った美しい砂糖菓子が並べられていた。花畑の花にも劣らない美しい菓子を、皆が頬を綻ばせて食べている。
手に持ったそばからほろほろと崩れ落ち、花畑に降り注ぐ砂糖菓子を、おいしそうに。
天気のいい日は毎日のように皆でこうしてお茶をした。
でも、今日は少しだけいつもと違う。
お爺様は、小さな酒瓶を嬉しそうに光に透かして揺らしている。
お婆様は、鼻歌を歌いながら様々な紫を使った濃紫の花を刺繍している。
お父様は、いつもなら吸ってはすぐに捨てていた葉巻を、火をつけずに口にくわえては口元をほころばせている。
お母様は、いつもの物に比べたら段違いで輝きのない髪飾りに何度も手をやり、嬉しそうに鏡を見ている。
いつもの光景のはずなのに、胸が詰まって苦しい。痛くて、痛くて、涙が溢れ出る。
「――、どうしたんだい?」
「――、どこか痛むの?」
「――、大変だ、早く座りなさい」
「――、どこが痛いの? お母様に見せてごらんなさい」
さっと顔色を変えて悲しそうな顔をした皆に、首を振る。
『……っ!』
その誰とも違う声がして、口元が歪む。
何か言おうとした胸の中には、涙でも詰まっているのか、空気が入らない。いつも空っぽのそこは、息を吸い込んでも吸い込んでも、もういっぱいだと何かが押し返してくる。
いつもの光景だった。
いつもの、ありふれた。
優しい、幻影。
口に出そうとした言葉は、ごぽりと溢れだした水に遮られる。
お爺様。お婆様。お父様。お母様。
あなた方に、聞きたいことがあるんです。
心配そうに私を見上げる家族に、音にできない言葉を紡ぐ。
あなた方はどうして、私にご自分達を正義だと教えて育てなかったのですか。
人を虐げ、尊厳を踏みにじり、命を蔑ろにし、思うがままに奪ってきたあなた達は、どうしてそれを悪だと私に教えてきたのでしょう。自分達が行っていたことが、当たり前のことでも、許されていることでもなく、決して正しいことではない悪なのだと教えてきたのはどうしてなのでしょうか。
私は一人娘だったから、あのままウィルと結婚すれば彼が家に入り、私はあの家から出ることはなく。そうして死ぬまで、ライウスが滅びるまで、あの箱庭で生きたはずだ。与えられるものだけを見て、見せてもらえた範囲だけを聞き。そうして、家族が悪だと知らぬまま生きるはずだった。
だから、気づくことはなかった歪があった。
お爺様。お婆様。お父様。お母様。
私を外に出さなかったのは、ご自分達が悪だと知られたくなかったからですか?
悪を悪だと教えたことを、後悔していましたか?
人には優しく親切に。乱暴な言葉遣いをしてはいけません。人が嫌がることをしてはいけません。手を上げてはいけません。自分がされて嫌なことを相手にしてはいけません。自分にとっては気に入らない事でも、相手にとっては大切な物があるから、それを蔑ろにしてはいけません。人が大事にしているものを馬鹿にしてはいけません。人が大事にしていることを奪ってはいけません。後ろ暗いことをしてはいけません。うがった見方をせずに人を信じましょう。むやみに人を疑ったり、悪意を疑ったりせず、笑顔でいましょう。裏ばかり考えようとせず、まっすぐに物事を感じましょう。明るく考えましょう。楽しく皆で過ごしましょう。人は優しいものだと信じましょう。
そう教えてくれましたね。人には人の価値観があるのだから、それを否定してはいけません。人には優しくしましょう。優しくありましょう。優しく、いい子でいましょうね。
みんなに好かれるよう、優しい子でいましょうね。
そう、いつも言っていましたね。
『……っ!』
今なら分かる、その歪さ。
私に言い聞かせたその口で、私を撫でたその掌で、転んだ私に駆け寄ってくれたその足で、あなた達は何をしたのでしょうか。
それなのに、何故、それらを正しいと教えなかったのでしょうか。人を虐げることを、私達の身分ならそれが許されるのだと、どうしてそう言わなかったのですか。
もしもそうだったのなら、もしもそう育てられていたのなら、私はきっと、恨みだけで構成された魂となっていたでしょう。優しさを信じられず、笑顔を恨み、呪い、妬み、そうしてあの優しい人達の温かさを尊いと感じることはなかったでしょう。
私は、あなた達にとって何だったのでしょうか。
変わることは、できなかったのでしょうか。私は、きっかけには、なれませんでしたか。
視界が滲み、家族が見えない。胸の内から溢れだしたと思った水は、瞳からぼろぼろと流れ落ちていく。
私に善を説くその瞬間に、何も感じなかったわけではないと、信じてもいいでしょうか。
あの時だけはあなた達も人であったのだと、思ってもいいでしょうか。私に与えてくれた優しさを、何故、他の人にも。何故、せめて、非道を思いとどまる理由に、してはくれなかったのかと、どうしても思うけれど。
出来たことがあったのだろう。
私にも、きっと、出来たことがあったのだ。知ろうとして、そうして知って、諌められていたのなら。
そうすれば、あなた達は今でもこの世界にいたのだろうか。
それでも、結果は変わったりしなかったのだろうか。
分からない。もう、誰にも分かりはしない。
家族は、何もしなかった私の罪を纏ったまま、土の中で眠っている。
彼の手で解放され、再び花開いたライウスの中で。
「――」
「――?」
「――」
「――」
心配そうに、優しい声で。
家族が私の名を呼ぶ。
『……様!』
あの頃から、あなた達しか呼ばない名前だった。誰も呼んでくれないのは何故なのだろうと思っていたけれど、呼ぶのが、許されなかったのですね。あなた達が、それを許さなかった。私の周りに家族以外の誰かが現れることを、許さなかった。ウィルフレッドにしたって、結婚後家に入ることになっていたのは、ただ私が一人娘だからではなかったのだと、今更気づく。
「――」
その名を呼ぶのはあなた達だけでした。そのあなた達はもういない。
だから、そのまま持っていってください。そのまま、殺してください。
綺麗で美しい綴りと音を持ったその名が大好きでした。
だからどうか、もう二度と蘇らぬよう、あなた達が持っていってください。
耳の奥にまでごぽりと水が溢れて揺れる。
いつの間にか花は散り、私の椅子は消え失せていた。ただ、家族だけは何も変わらず私を案じている。優しい手が、優しい声が、優しい言葉が、優しい眼差しが、大好きだった。
花畑が失せた場所に、ぽつりと花が咲いている。一輪の花だ。
水の中で揺れる花は、まるで太陽の光を浴びて風に歌っているように、嬉しそうに咲き誇る。けれど、どうしたって色が見えない。花は開き、その花弁の枚数まで数えることができるのに、色だけは捉えることができなかった。
「……ありがとうございました」
生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
祖父として、祖母として、父として、母として、傍にいてくれてありがとう。
何も返せなくてごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。何もしなくてごめんなさい。何も、何にもなれなくて、あなた達の破滅を終わらせる何かになれなくて、本当にごめんなさい。
そして。
『……う様!』
ごめんなさい。
憎めなくて、ごめんなさい。彼を愛して、ごめんなさい。
この十五年、あれほどあなた達の元にいきたいと願っていたのに、あれほど、この生に意味を見いだせなかったのに。
生きたいと、生きてみたいと、生きて、いきたいと。
たくさんのことを知りたいと。昔はあの屋敷から、今はカーイナから、ほとんど出ることがなかった私だけれど、今度こそたくさんのものを見て、聞いて、今度こそ自分で考えられるようになりたいと。
『お嬢様!』
「……どうか、お許しください」
彼と生きたいと願ってしまった身勝手な私を、どうか許してください。
「お嬢様!」
吸った息は胸の中いっぱいに溜まった水に遮られ、肺には届かない。胸に走った激痛に押し出されて、胃がひっくり返りそうな勢いで水を吐き出す。反射的に身体を横に向け、空気なのか水なのか分からないものをすべて吐き出すまで咳き込む。
身体を折り曲げて咽こむ私のほぼ全身を、抱きかかえるように支えた腕は、吐きやすいように身体の向きを下に傾けてくれた。ある程度吐き出して、焼けるような喉と胸の痛みのほうが気になり始めてようやく、自分が抱きかかえてくれているカイドに向けて水を吐いていたと気づく。
「よ、よごれ」
「そんなことはどうでもいいですから全て吐いてください!」
「もう……吐いた、わ」
げほっと咽こんだそれは空気だけの空咳で、何度も酷使された喉が火傷のように痛む。鼻の奥も、目の下も、頭の中も、水が駆け抜けていったかのように痛い。
がんがんと揺れる頭と、焼けるような身の内を押さえてしばらく悶える。呼吸すら染みて、痛い。
咳なのか呼吸なのか分からない空気を吐く私の背を支えていたカイドは、私が意識を失う様子がないことにようやく身体の力を抜いた。
自分を支える腕が安堵を伝えてきて、私も少しだけ落ち着いてくる。周りを見れば、洞窟のような場所にいた。半円に削り取られた岩壁だ。少し離れた場所では、水が中に入ろうとしては力足りずに戻っていく。その間にも、流木や草が次から次へと打ち上げられている。その更に向こうでは、半円にぽっかり空いた景色の中で、光と濁流がない交ぜになって通り過ぎていった。
普段は渇いている場所なのか、意外と苔が生えていない地面をぼんやり眺める。普段は渇いているというより、普段は届かない場所にまで水が流れ込んでいるのかもしれない。
「こ、こ、は?」
「コルキアでは幸運のポケットと呼ばれている場所です。上流で落とした物はここに流れ着くことが多いのです。連れてきた人間の中に俺の昔馴染みもいましたから、真っ先にここを探しに来るはずです」
「…………ウィルは?」
どれだけ視線を巡らせても、あの小柄な姿は見つからない。カイドは静かに首を振った。
「小さな財布さえ引っかかる場所なのですが……」
カイドは僅かに目を伏せた。
「救われたくなかったのか……? ……馬鹿野郎が」
「……この流れは、どこに向かっているの?」
「ダリヒです」
「そう…………」
「…………助かろうが助かるまいが、あの根性なら、大陸の裏側からだって帰ってきますよ」
複雑そうな顔で、カイドは爛れた首筋を掻いた。
ジョブリンと手を組んでまで、彼はライウスにこだわった。ジョブリンの言が本当なら、彼の娘に好かれていたという。ダリヒでなら、昔のような暮らしができたかもしれないのに、それでも、ライウスでなければ駄目だったのだ。
私達はライウスを破滅に導いた。それでも、そうであったとしても、ここが私達の故郷なのだ。ライウスの民から罰を受け、ライウスから弾かれようとも……否、弾かれたからこそ、ここにしか帰れない。
彼は今が続いても、次であっても、ここを目指すだろう。ライウスに生まれ、ライウスの民として生きていても、ライウスを目指す。辿りつく先がなかろうと、どこにも帰れないのだとしても、ライウスを目指してしか生きられない。
感情を持っていく場所がない。悼みも悲しみも、怒りも憐れみも。どれも当てはまらないように思う。彼にどんな感情を向ければいいのか、私はまだ決められないでいる。
弾き荒れる水飛沫を見つめていた視線を、ゆっくりと上げる。視線に気づいた金色が下りてきた。
「お嬢様?」
私の手は濡れている。さっき思い切り水を吐いた後だし、泥だってついているし、冷え切っていて冷たい。
だから駄目だ。
分かっているのに、手が止まらない。
力が入らず、歯を食いしばって必死で持ち上げた掌を、カイドは避けなかった。泥のついた頬に掌が辿りつく。冷え切った私が焼けてしまいそうなほど熱い頬は、一度冷えて温度が上がったからだろうか。
掌から伝わる体温に、涙が滲む。
「生きてる……」
「ええ、生きていますよ」
「カイドだわ」
「ええ、俺です。狼領主の名は返上しろ、熊殺しに勝ったなら象領主になるべきだとイザドルがうるさいけれど、とりあえず生きています」
「訃報を、聞いたわ」
黒が町を覆い、嘆きが空を覆った。
いまだに信じられず触れたままの手を、大きな手が取る。その手を握りしめながらゆっくりと下ろしていく。
「一度死んだのは確かです。死亡確認までされました、が…………カロリーナがですね」
「カロンが?」
何かを思い出したかのように胸元を押さえる。
「幾らなんでも早すぎる、今のままで死んでもお優しいお嬢様は気にして怒れないかもしれないから、ちゃんと幸せになってお嬢様が気兼ねなく恨んで怒れる状態になってから死になさい、と、泣きながら心臓をぶん殴ったら蘇りました。しかも息を吹き返したのに気付かず威力を増した二発目が落ちてきて……次はちゃんと医者が蘇生してくれました」
「…………カロンは、その……思い切りがいいの」
言葉にするのなら『壮絶』が正しいのだけれど、その一言では収まりきらない気がするのはどうしてだろう。
どんな顔をすればいいのか分からない私を見下ろした金色が見開かれる。
「……お嬢様、後で毒消しを飲んでください」
「……何故?」
「一度、心臓が止まったからです」
「ああ……道理でお母様達にお会いしたはずだわ。でも…………蘇生に毒でも使ったの?」
そんな蘇生法は聞いたことがないけれど、私が知らないことなんて世の中に溢れている。むしろ、知らないことで構成されているといっても過言ではない。
カイドは困ったように顔を逸らした。
「…………救援を待っていては間に合わないと判断して、俺が蘇生しました。俺はまだ毒が消えきっていない可能性があるので、念のために必ず飲んでください」
「…………ありがとう」
理解した瞬間、無意味に身動ぎする。頬が熱くなっていく気がして、赤くなったら困ると両手で隠す。頬は濡れていた。当たり前だ。さっきまで溺れていたのだから、濡れていて当たり前なのだ。
いつまで経っても乾く気配のない顔から片手を外し、さっきからずきずきと痛む胸を握り締める。痛む理由に心当たりはいろいろあるけれど、これはそれだけではない気がした。
「カイド、胸が痛いわ」
「すみません。加減はしていたのですがあまりに反応がないもので、少し強めに行いました。肋骨に罅くらいは入っている可能性があります……罅は俺のせいですが、痩せすぎなのと、栄養不足で骨が弱っているのも原因の一つです。ちゃんと食べてください」
「ええ、ありがとう」
「一気に食べろとは言いませんが、少しずつ量を増やしてください。後は肉です。肉が苦手なら魚でもいいですから」
「ええ」
「料理長が、若い女性は見た目を美しくすれば食べるかもと、人参で猫を作ろうとして魔物を作り出していたので、できればそのまま食べてあげてください。彼は、味は一流ですが、飾り切りの才能が皆無なのです。定期的に飾り切りに挑戦しては利用者を気絶させる天才なのでお気を付け下さい」
「ええ」
突然つらつらと話し始めたカイドに頷くしかできない。驚いているわけでも戸惑っているわけでもない。本当に、それしかできないのだ。
「ああ、そうだ。解放祭の名前を変えたいとの要望が上がっているんです。これからは復活祭にしたいのだそうです。ただ、狼復活祭はあんまりだと思うのでまだ俺の元で止めていますが、お嬢様は何か希望の名前はありますか?」
ええ、と、返事を返したつもりだった。
でも、それはおそらく正しい返答ではなかったし、既に声は出なかった。
「……泣かないでください」
もう水はすべて吐き出したはずなのに、流れ出る水が止まらない。いくら流しても尽きることなく、呼吸より当たり前のように世界に吐き出されていく。
触れるだけだったカイドの腕に、躊躇いがちに力が籠もる。そのまま、傷に響かないよう抱きしめられた体温が滲んできたら、もう、駄目だった。
そうだ、私は泣いている。いつから泣いているのかは自分でも分からないけれど、もう、ずっと、止めようとしても止まらない。
「し、死んでしまったと、思った」
「申し訳ありません。いろいろ洗い直す時間がなかったので、最初の情報は訂正せず、ほぼ馴染の縁だけで動きました。若手には悪いことをしましたが…………お嬢様、お嬢様、お嬢様っ!」
必死に腕を持ち上げて背中にしがみつく。温かい。生きている。温度が、触感として伝わる鼓動が、彼の生を身体いっぱいに伝えて、余計に涙が溢れだす。
濡れた服を握り締め、痛む身体を無視して力いっぱい抱きついた私を、カイドはそっと引き離す。嫌だと伸ばした手を取り、指先に口づけて首を垂れる。
「……お嬢様、俺には、あなたに言い募る資格も、追い縋る権利もないと……分かっています。ですが、ですが、お嬢様っ……これが来世ではいけませんか、今を来世としてはいけませんか。始めることを、許しては頂けませんか。あなたがくださったあの約束に、いま、縋ってはいけませんかっ……」
今の姿勢は、騎士でも臣下のそれですらない。
ずぶ濡れでぼろぼろになった身体で両膝をつき、震える大きな手で何の力も出せない私の手を……ほとんど指先だけを、両手で握りしめている。身体のほんの一部分、かろうじて爪先を覆うほどの場所を握り締め、額をつけて首を垂れる大きな人を黙って見下ろす。
「……愛しています。あなたを愛しています」
いま、あの金色はどんな光を宿しているのか。
「あなたが、好きです」
どうしても、見たかった。
両手で握られている手をそっと引き抜……けない。手に力が入らないからかと何度か試みるも、まるで溶接されているかのようにびくともしない。そんなに力を入れているようには見えないのに、どうやら彼の手にはかなりの力が込められているようだ。肋骨も折れるはずだと、少し呆れる。
掌の回収は諦めて、息を吐く。
「……困るわ」
びくりと大きな背が揺れる。掴まれていないほうの手で、いつの間にか冷え切っていた頬に触れるとまたびくりと跳ねた。
「私が口説こうと思っていたのに」
時間にしてたっぷり五秒はあっただろうか。
完全に動きが止まった身体がようやく動き始める。ずっと同じ体勢だった背を伸ばすように、ゆっくりと上がってきた頭に、微笑む。
乱れたのか乱したのか、カイドの首元も襟が開いている。その胸に揺れる青い花を見て、自分でも驚くほど、自然に口元が綻んでいった。
「やっと、あなたの顔が見えたわ。ふふ……ヘルトみたいになっているわよ、カイド」
「お嬢様……?」
顔つきは精悍になって、子どもの丸みも消え失せた上に酷くやつれている。それなのに、ここにヘルトがいるみたいだった。ぽかんとした呆け顔が、どうしようもなく可愛らしく見えるのだから、きっと私はもう駄目なのだろう。
自然と緩む頬を諌めず、カイドの胸元で揺れる花に触れる。
「私、ジャスミンに酷いことを言ってしまったのに……届けてくれたのね」
「……あなたが捨てると言ったのなら、拾えなかったと言っていました。けれど、あなたはこれを置いていくと言った。ここに置いていくと。だから、拾って届けたのだと言っていました……意味的に、お返しはしたくないのですが、これはあなたとジャスミンの繋がりですから、お返しします」
渋々と、新しくなっていた鎖を外し、私につけ直してくれたカイドに驚く。
「カイド、花言葉なんて知っていたの?」
「……昔、お嬢様は庭に咲いている花を何かにつけてくださったので……勉強しました。それまでは花なんて、毒の有無と、後に実が成るか否かしか興味がなかったのですが」
「べ、別に全ての花に意味を込めた訳じゃないわ」
「それは分かっていますが、男とは、初恋の相手から頂いた花にすら縋って、意味を見出そうとするような生き物なんですよ」
それは女もそうじゃないかなと思ったけれど、すぐに片隅に追いやられていく。
ぽかんとした私を、カイドは不思議そうに見上げてくる。
「お嬢様?」
「…………初恋?」
「そうですが?」
「……知らなかったわ」
「そうですか。俺も、お嬢様が口説こうと思ってくださっていたなんて、知りませんでした。…………宜しいのですか? 今を、来世として、本当に」
慎重に紡がれる言葉一つ一つが苦しい。痛いほどに、恋しい。
「来世じゃなくても、いいわ、もう、いいの。ごめんなさい、いいの、いいのよ、カイド」
金色が見開かれた顔に両手を添える。
「あなたが好きよ」
あなたが恋しい。
あなたが愛おしい。
「あなたと、生きたいの」
家を失っても、家族を喪っても、自分を見失っても。
それでも、この恋だけは失くせなかった。
「いろんなことを知りたいの。他の町のことも、村のことも、あの美味しいお茶が取れる町のことだって。今度こそ、いろんなことを見て、知って、生きていきたいの。皆のことも……あなたのことも、知りたいの」
カイドの頬を、一筋の涙が零れ落ちていく。見開かれた金色の目尻から伝い落ちていく雫は、頬を伝い、顎から落ちる。そして、同じ道を辿って流れ落ちた私の涙と地面で弾けた。
何かを言おうと唇が開き、震えながら閉ざされる。
大人の男の人が泣く姿を初めて見た。それもこんな、本人でも気づかない内に溢れだした涙を見たのは、初めてだった。
「泣かないで、カイド」
「……お嬢様も、泣いています」
「そうね、お揃いね」
額をつけてくすくす笑う。
「……お嬢様、俺、そろそろ三十路になりますが構いませんか」
「年上の人って素敵ね」
「……年下は素敵じゃありませんでしたか」
「……あなた、結構面倒な性格しているのね」
なんだか拗ねた子どものような顔をしているカイドに、思わず噴き出す。そろそろ三十路になる男が可愛くて堪らないのだから、恋とは厄介なものである。そして、やっぱり素敵なものだと思うのだ。
笑われてますますいじけた顔になったカイドが可愛くて可愛くて、昔だったら恥ずかしくてとてもじゃないけれどできなかったことがしたくなる。
私が見下ろしているのをいいことに近づけた唇を、彼は慌てて押さえた。
「い、いけません、お嬢様。俺は毒が」
「人工呼吸した後なのだから、今更よ」
「……それは、そうですが…………真っ赤な顔で言われましても」
「あなたが止めるからよ……あなただって真っ赤じゃない。三十路じゃなかったの?」
「まだですよ……やめてください。初恋をこじらせた男をからかうものじゃありません」
「私だって初恋をこじらせた女だから、お揃いね」
カイドは、片手で私の口を覆い、片手で自分の顔を覆って俯いた。手の間から、呻き声のような、唸り声のような、そもそも声なのか音なのかすら分からないものが漏れ出てくる。
「……そうだ、こういう方だった」
肺の中が空っぽになりそうなほど深く大きな息を吐いて、カイドは顔を上げた。
「自覚していらっしゃらないようですから言いますが、箱入り故の無垢さと無邪気さと幼さを基礎に、貴族らしいおおらかさと元来の性分らしき素直さと大雑把さと優しさを惜しげもなく発揮しては使用人にも分け隔てなく振り撒くから、使用人もこじらせるんですよ。俺が言えたことではありませんが、終わりが終わりだった為、お嬢様と親しかった使用人はもれなくこじらせてます。それは彼らだけでのせいではないとだけ知っていてください」
カイドの言いたいことは分からないけれど、とりあえず、箱入りと言われたのは分かった。
とにかく言いたいことが終わるまで待ったほうがいいだろうか。大人しく続きを待っていると、カイドの両手が私の頬を包む。さっき私がしていたことをカイドがしている。
「常々思っていましたが、そこに強かさが加われば、とんでもない魔性になります。今のあなたを見れば、あなたのご家族があなたを囲っていたのは正しかったとさえ思ってしまいますよ」
「どういう意味……ライウスの魔性と呼ばれるべきだったってこと? 徒花ではなく?」
「そんな規模に振り撒くのはやめてください。俺だけに発揮してください」
「……カイドだけ…………魔性の狼になれということ? つまり、魔物?」
花に例えられるなんておこがましいということだろうか。死後についたあだ名を改名しろと責められるほど嫌われているなんてと思わないほどには、カイドの気持ちは分かっているつもりだけれど、何を言いたいかはさっぱり分からない。
その旨を伝えると、カイドはまた呻いた。
「……お嬢様は市井で生きてもお嬢様なんだなということは大体分かりました」
「…………つまり?」
金色が近づいてくる。
「俺は一生、こじらせ続けるんだろうなということです」
とんっと一瞬触れ合っただけなのに、多幸感に包まれるから恋とは厄介なものだ。
そして、その厄介ささえ愛おしい。それ以上に、彼が愛おしい。痛む胸の内から湧き上がる恋しさと愛おしさ、虚しさと遣る瀬無さ、悲しさと喜びがない交ぜになった涙が互いの瞳から零れ落ちたけれど、お互い気づかないふりをした。




