16.あなたと私と、
吐き出された、というより、身体から空気が抜けたような声が、耳元と、壁越しから届く。
そして。
「……人間のはずなんだけどなぁ」
と、呆れかえったイザドルの声が、聞こえた。
さっきまでしんみりと落ちていた周囲の声が一気に跳ね上がる。ざわつきが目に見えるように車内にも届き、私を押さえつける腕が震えだす。
「我が屋敷での不手際、誠に申し訳ない。その謝罪と見送りを忘れておりましてね。どうにも最近の疲れが出たらしく、すっかり寝過ごしておりました。俺も、もう歳かもしれませんね」
声は前方から聞こえてくる。たくさんの蹄の音と、鉄が揺れる音も。
「それに、どうやら我が家の使用人がご迷惑をおかけしているようだと報告が上がっておりまして。これはけしからんやつだと、慌てて引き取りに参りました。重ね重ね、申し訳がないことです。そんなものを手土産に送り出したとなると、ライウスの名折れ。ジョブリン殿、馬車を改めさせて頂きたい。何せ小柄な使用人二人でね。どこにでも潜り込めるのですよ。きっと、隠れやすいよう、一番大きな貴殿の馬車に狙いを定めたのでしょう」
記憶にある声より、少し掠れしゃがれているのは、毒が喉を焼いたからだろうか。
いや、毒が焼いたのは喉だけではないはずだ。だって、あんなに血が。
だって、町に、ライウスに、夜が落ちたのに。
「……そん、な、はず、ない」
震えた声はウィルフレッドのものだったのか自分のものだったか、判断がつかない。
だって、間違っていたら、立てない。そしてたぶん、ウィルフレッドは、間違っていなかったら、立てなくなる。
逆方向の恐れでがたがた震える私達に、声が続く。
「ほっ……いやはや、何を仰るのやら。鼠でもあるまいし、そのようなことがあるわけが。ああ、それにしても、まさか……世はてっきり貴殿が亡くなったものと」
「どうやら最初の情報だけが伝達されていってしまったようで、お恥ずかしい限りです。ですが、情報伝達の素早さだけは自慢できるようですね」
「いやはや……まったく……」
「ティム、出てこい。土地勘のない場所で捕り物をやる余裕がなくてな。何の芸もなくて悪いが、古巣で失礼するぞ」
他領の領主の言葉を遮る……というよりは、無視をして、見えていないはずの人物にまっすぐ向けられた言葉に観念したのは、当人であるウィルフレッドではなかった。
「なんと! まさか本当に世の馬車にそのような!? 世はもう少しで極悪人の逃亡の手助けをしてしまうところであったか! ええい、忌々しい! 世の大切な馬車にこそこそと潜り込みおって!」
掌返しはお手のものと言わんばかりに、躊躇なくウィルフレッドを見捨てたジョブリンの巨体が馬車から遠ざかる音がする。さっきまで話していた相手の巻き添えを喰らうと判断するや否や、あっさりとなかったことにする保身力の高さを汚らわしく思う余裕はなかった。
ふらりと伸ばした手を、ウィルフレッドは止めなかった。それどころか私より先に彼の手が伸びて取っ手を掴み、体当たりに近い体勢で外に飛び出していく。それでも私を離さなかったから、一緒に転がり出る。
それまで光と一緒に少しだけ差し込んできていた音が溢れる世界に飛び出す。
ごおごおと鳴り響く川の音。そんな川の音にも負けない風の音。鳴き狂う鳥の声に、どこかほっとしたような、はっとしたような兵士達の吐息。わざとらしいダリヒ一行の驚愕の声。
「よお、ティム。なかなか刺激的な贈り物をどうも。手間だったろうに、悪いな」
そして、少し掠れた彼の声。
そう言って馬から飛び降りた人の瞳が光を放つ。夜空に輝く星よりも強く、太陽よりも柔らかい、金色だ。
左頬、耳の付け根から首に至るまで火傷のような跡があるのは、毒が焼いていったのだろうか。目に見えて痩せた。目の下は落ちくぼみ、頬はこけ、声は掠れ、顔色はまるで死人のそれだ。うまく身体を支えられないのか、それだけの動作で肩を上下させ、馬に凭れている。
けれど、瞳が、変わらない。命の強さを持った、彼の金色。
馬車の後方にはイザドル率いるギミー領の一団がいる。
前方、私達の進行方向に、カイド達がいた。武装した兵士が並ぶ後方、曲がり角の辺りに柵らしきものがちらりと見える。道が塞がれていた。それを見るに、彼らがここに来たのは、今さっきの話ではないのかもしれない。
そうだ。だって、そうでなければ前から来るなんてできないはずだ。
「…………どうして、生きている」
私を抱え込んだままようやく絞り出した声は、地を這うような呻き声だった。
「何故お前がここにいる、カイド・ファルアぁ!」
獣の咆哮のような声が岩肌を駆け抜け、天にまで響き渡る。耳を劈く怒声。人の声には聞こえないほどの激情だけが詰まった、まさに咆哮。かろうじて人の言葉を形作っただけの、憤怒。
びりびりと空気を、鉄を震わせて響いていく声に呆然とした声を上げたのは、ライウス兵士の一人だった。
「ティム……お前本当に、お前が、領主様を?」
ティムは私より前から屋敷にいて、私なんかよりよほど上手に皆と馴染めていた。彼と仲が良かった人は、大勢いた。彼もその一人なのだろう。兵士の休憩所で、菓子をつまみながら笑っている姿をよく見かけた。皆の中で、からかわれ、からかい、茶化し、茶化され、慰め、慰められ。
そうして笑っている姿を、よく、見かけた。
「なんで……どうしてだよ、ティム!」
嘆きに満ちたライウス兵の中で、カイドだけは表情を変えず、軽く肩を竦めた。
「お望み通り死んださ。久しぶりに親父殿に会ったくらいだ。だが、どうにも我が家の使用人は厳しくてな。メイド長に叩き起こされた。文字通り、心臓をぶん殴られてな。カロリーナは医者になるべきだった。天使の拳は強烈だぞ。ついでにいうと、生き返った後にそうと気づかず放たれた二発目で再び死にかけた」
焼けて掠れた咳をしたカイドに、見覚えのある兵士達ががちゃりと揺れる。それを制したカイドは、小さく長い息を吐いた。
「蘇ってみればみたで、まさか人畜無害で知られたお前があんな熱烈な贈り物をくれた上に、シャーリーを連れ去るなんて置き土産までくれてなぁ。あまりのことに涙が出そうだよ、ティム。どうしても直接礼がしたくて、ここまで来てしまったくらいだ。……お前が誰かは知らないが、少々調子に乗りすぎたんじゃないか?」
「……間男は貴様のほうだと言えば分かるか、田舎の貧乏貴族が」
怒りで震えるウィルフレッドの身体から、がちゃがちゃと小瓶がぶつかり合う音がする。捕まれた腕を振りほどこうともがいても、その細い腕のどこから力を出しているのかびくともしない。さっきみたいに爪を立てても、今度は呻き声一つ出さなかった。
ウィルフレッドの言葉に、カイドの口角が吊り上る。犬歯がまるで牙のように口元から覗く。笑みと呼ぶにはあまりに壮絶な表情になり、唸るような声で笑う。
「成程。尻尾巻いて逃げださなかったことだけは褒めてやろうか、負け犬が」
「主を噛み殺した駄犬が言うじゃないか」
「言っておくが、俺が謝っても謝りきれないと悔やんでいるのはあの方の件だけであって、お前に至っては手ぬるかったと後悔してるくらいだぞ」
「雑種のくそ犬が」
「なんだ、負け犬」
前方からはカイド率いるライウス兵が、後方からイザドル率いるギミー兵が、そして中途半端な位置にダリヒ領の一行がいる。下がり切っていないのは、ジョブリンの足が遅いという理由もあるのだろうが、何より一言一句聞き逃さないといわんばかりにぎらぎらしている潰れた目で大体分かる。
私が分かっているくらいだから、二人だって当然分かっているのだろう。際どいながらも決定打にはならない言葉の応酬が繰り広げられている。
ゆっくりとした動作で馬から背を離したカイドは、邪魔そうにマントを後ろに払いのけて剣帯を揺らした。
「もう、ここまでにしておけ。一番の強みだったお前の化けの皮は剥がれたし、頼みの綱はお前を切った。……お前に返してやれるものは何もないが、酒を出しての愚痴くらいは付き合ってやる。だから、もうやめろ。俺はお前の為には死んでやれん」
「お姫様の手じゃ死ねないとでも?」
カイドは小さく笑った。
「願ってもない死に方だな」
「だったら死んでおけ、駄犬が」
吐き捨てる言葉に、カイドは乗らなかった。酷く穏やかな声音で笑う。
「けれど、嫌だと泣かせてしまった。俺は、お嬢様を泣かせるくらいなら、何度だって蘇ってやる。その為なら、人間の枠から外れようとも構わないさ」
私の耳元で舌打ちが聞こえる。前後から向けられる鏃の的を避けるよう、私を前に突き出し、小さな動作の度に引っ張って揺らすティムの腕を掴む。振り払われるかと思った手は、何故か握りこまれる。
「……もう、やめましょうよ。こんなことしたって、何にもならないわ。何も返らないし、どこにも帰れない。そんなこと、あなただって分かってるんでしょう?」
「仕方ないじゃないか。そうでもなければ、俺は俺で生まれてきた意味がない」
「そんなの、分からないじゃない」
「お前だって、地に足をつけられず、かといって浮かぶことも出来ず、沈みながら生きてきた癖に。……今更、変われるものか。俺達が俺達である限り、ここがライウスである限り、あの男が生きている限り、変われるものかっ! お前だってそうだろう!」
「そうよ! 変われないわよ! この思いがある限り、皆のようには生きられないわ! それでも私は、生まれてきてよかったって言えるようになりたい! せっかく生まれてきたんだからって、そう思えるように、なりたいのよ! ここで、ライウスで、そうやって生きていきたいって……そう思えるように、してもらったわ。あなたはあの屋敷で、何も、何も得るものはなかったの? 何も、あなたを踏みとどまらせるものは、なかったの?」
あの優しい明るく楽しい人達と一緒に過ごして、何も思わなかったのか。私のように可愛げもなければ陰鬱とした空気を撒き散らしていたような人間さえ、疎まず輪に交えて笑ってくれた人達との日々を、本当に惜しまず捨ててこられたのか。
向き合った私を通り越し、ウィルフレッドはライウス兵を見た。少しだけ目を細める。その口が何かを紡ごうとして、緩やかに閉じた。
そして、柔らかく、夢見る子どものように微笑んだ。
「では、あなた様も一緒に死んでくださるか、お姫様」
「ティム!」
「駄目だよ、生きてなんていけない。俺は、俺のままでしか生きられない。この恨みだけが俺の導だ。この記憶だけが俺が俺である確信だ。そして、お前だけが、俺の生の証明だ」
声音の柔らかさが信じられないほどの力が身体に巻きつく。掻き抱くというより、そのまま身の内に取り込もうとするかのように押し付けられる。必死に押しやろうにも、あまりに強い力に息も出来ない。
「一人では、消えたくない」
力だけは酷く強いのに、声音は迷子のそれよりも弱弱しい。
彼がどれだけそう願おうが、どれだけの力で抱き合おうが、私達は同じにはなれない。同じ人間には、なれないのに、彼は駄々をこねるように嫌だ嫌だと呟いた。
「お願い、放してっ」
「嫌だ」
「私と死んだって、あなたは救われないくせに!」
「そうだな。お前も、つくづく哀れな女だよ。俺に、狼に、お前の周りにはろくな男がいない。俺達じゃなくて、もっとまともな……サムアのような男がいればよかったのにな」
じりじりと下がっていく身体に引きずられ、道から外れていく。元々、かろうじて整備されていたといわれるような荒れた道だったそこから外れ、岩と砂利が混ざり合い、土がこびりついたかのような地面に変わる。
その下、地面の更に奥から、ごうごうと、音がする。
「連れてはいかせんぞ。お前がそこから飛び降りても、俺は必ずお前達を捕まえる」
まだ崖っぷちまで、走っても少し距離がある。
私を引きずって下がるウィルフレッドに合わせ、取り囲む輪もじりじりと小さくなっていく。ライウス兵が、ギミー兵が、道壁の上に立つ兵が、投げ縄を構えているのが見える。
邪魔になっているのは私だ。分かっているのに、ウィルフレッドの力が強すぎて、息すらうまく吸えない。
「お前のものじゃないだろ」
首元を掴まれ、思いっきり引き下げられる。ボタンが弾け飛んだだけじゃなくて、生地も破れたのが音で分かった。
「こいつは、もうずっと前から俺のものだ」
「…………だから、何だ。俺は約束を頂けたからな、そんな挑発には乗らんぞ」
何の話だとめぐらそうとした首が固定される。私の顎を抑えるウィルフレッドの手の中で小瓶が揺れた。もう、こんなもの、私を殺すくらいしか使い道がないはずなのに、やけに大切に持っている。
「そうか。だが、こいつが俺のものであることに変わりないさ!」
振りかぶった腕が持っていた小瓶全てを投げつけた。
誰もがマントで、盾で、荷物で、何かしらのもので自身を庇う。
しかし、小瓶はその誰も狙わなかった。
「全員避けろっ!」
誰より早くそれに気づいたカイドの怒声と、甲高い馬の嘶きが重なる。小瓶は馬に当たって砕け、その皮膚を焼いた。
ジョブリンの巨体に耐えうる馬車を、ジョブリンを乗せて走る、屈強な馬六体が、突如として振りかかった激痛と混乱のままにライウス兵に突進していく。生きた凶器と化した馬と馬車は、暴れ狂いながら、まるで虫でも払うかのようにライウス兵と他の馬を弾き飛ばしていく。
「来世で会おう、狼!」
あっという間に私を抱え上げたウィルフレッドは、まるで荷物でも放るかのように地の裂け目へと私を投げ飛ばし、その勢いのまま自分も飛び降りる。
「お嬢様っ!」
馬車が跳ね砕いた破片で頬を切ったカイドは、そんなことには気づいてもいないのか、一切足を止めない。まさかと思った次の瞬間、カイドまでもが飛び降りた。
凶器に突進されたものとは別種の金切声があちこちで起こる。
それらいっさいに頓着せず、思いきり伸ばされた手に、私も思わず手を伸ばす。
「は、ははははは! 次は貴様もこちら側か! せいぜい歪んだ生を楽しめ、狼ぃ!」
ウィルフレッドは、腹を抱えて一人で落ちていく。
二人となった私達も、彼と何ら変わることなく、濁流の中に消えていった。




