15.あなたと私の、
灰色の景色が広がっている。岩や石がごろごろ転がり、土よりも砂利のほうが多いんじゃないだろうかと思うような色合いの山が連なる。近くの野原も、草よりは土の割合の方が圧倒的に多く、緑が見えているのはごく一部だ。
道はでこぼこで、馬車は右へ左へと跳ね回った。普段なら不機嫌になりそうなジョブリンは、上機嫌な今むしろ楽しげにその揺れを楽しんでいた。
けれど、灰色の景色は、辿りついた町に入ると一変した。
これまで通ってきた町のように、ここにも夜の帳が下りている。
静まり返った石の町。雪に潰されないよう尖った屋根のどこもに、黒の布が垂れ下がり、全ての窓にも黒布が張り巡らされていた。
馬車の中から仕切り布を少し捲って外を見たウィルフレッドは、口笛を吹いた。
「凄いな、流石出身地というべきか。黒一色だ」
見てみるかい。そう言われて、俯いてずっと見つめていた指からゆっくりと視線を上げる。真冬でも深夜でもないのに、静まり返った石の町。
ライウスとダリヒの境にあるここは、ライウス最北の地コルキア。
カイドの、故郷だ。
『いつか、行きましょう』
彼がそう言ってくれて、私が破棄してしまった、約束の地。
嵐が去り、出発できるようになっても、大雨の影響は甚大だった。道はぬかるみ、あちこちで土砂崩れが起こったのだ。主に使われているような街道も封鎖となり、人の行き来がうまくいかない。
通常半日ほどで稼げるはずの距離に、一日かけても足りなかった。
しかも、災害時はただでさえ大変だというのに、ライウスはいま、領主不在の状態だ。こんな時の為に臨時を任される役職の者はいるが、彼がどれだけ頑張ろうとカイドが一人でこなしていた量は到底捌ききれない。その上、領主暗殺の報を受けたほうぼうからの説明を求める声にも対応しなければならなかった。
広い馬車の中、片方の椅子はジョブリンが占領している。彼の馬車なのだからそれでいいのだろうが、一人で座っても窮屈そうに見える。
私の隣に座ったウィルフレッドは、自分の膝上に頬杖をついて私を覗きこむ。
「酷い顔だな」
自覚はあった。
髪を直す気も起きず、解れたまま顔の横に垂れて揺れる横髪を見る。記憶にあるより随分薄い色をしていた。このまま白髪にでもなるのだろうか。じゃあ、顔もめっきり老け込んだことだろう。ただでさえ陰気な顔をしていたのに、白い髪になったら魔女だろうか。
あれから二日近く経っている。けれど、ろくに眠れない。眠れるはずがない。
「泣き伏せるかと思った」
世界に夜が落ちたあの日から、あの日すら、一滴の涙も零していない私に、彼は不思議そうに言った。
悲しすぎると泣けない。私はそれを知っている。
けれど、今はそれですらない。悲しいと、思えないのだ。実感が湧かない。心が追いつかない。
あれが、最後だったのだろうか。
彼と最後に話したのは何だった……黒子、黒子だ。黒子の場所でなんだか少し気まずくて、据わりの悪い気持ちでお互いそわそわして。少し、少しだけ、くすぐったいような気持ちになって。
そして、そして、真っ赤に染まったカイドが、私の赤を拭って微笑んで。
あれで、終わり?
もう、カイドがいない?
どこにもいない?
この世界のどこを探しても、カイドがいない?
ヘルトがいなくなってカイドが現れた。それなのに、カイドがいなくなっても何も現れない。どうして?
硬く握っていた手を解き、じっと見つめる。
この手で淹れた。彼にお茶を淹れたのだ。私の手が、彼に毒を渡した。ああ、どうして先に飲まなかったのだろう。私が先に飲んでさえいれば、彼は決して飲んだりしなかったのに。どうしてすぐに先生を呼びに行かなかったのだろう。腰を抜かしている場合じゃなかったのに。どうして解毒剤がなかったのだろう。どうしても必要だったのに。
どうして、彼が死ななければならなかったのだろう。
まだ、何も、彼の為に、何も。
何、も。
土地自体は広くとも、人が住める場所は酷く少ない。岩地に追いやられ、密集した家で出来た町はすぐに通り過ぎ、かろうじて整備されているといえる岩肌の道をがたがた揺られながら通っていく。
ごおごおと流れる川の音がする。昨日までの雨で増水した川が、遥か下を雄たけび上げて流れていく。まるで、糾弾しているようだった。この地に生まれた愛し子を奪った集団に、怒り狂っているかのような音が地の底から湧き上がる。
コルキアの憤怒を、むしろ心地よさ気に聞き流し、ジョブリンはまるで鼻歌にも取れる声を上げた。
「これこれ、ティム。いじめすぎてはならぬぞ」
「好きな女の子はいじめたい質なんです」
「女の恨みはこわいぞぉ。何せ、執念深い上に、関係のないことにまで全て結び付けてねちねちと、死ぬまでやるのだからの」
上機嫌なジョブリンが、梟よりも短く低い、くぐもった笑い声を上げる。
「そんなことよりも、式の話をするがよい。ついたら、すぐに用意を始めねばの。世も、忙しい。ライウスは荒れるであろうなぁ。実質、狼が一人で纏め上げていたようなものだからの。賊が蔓延らねばいいのぉ。病が蔓延せねばいいのぉ。流通が、滞らねばいいのぉ。十五年前の再来に、ならねばいいがのぉ」
指折り上げていく事柄の、どれか一つでもこの男が手を加えないものがあるのだろうか。
「あれは酷く厄介な男だった。あれが一人で纏めていたということは、あれが消えれば崩壊する。だが、消さねば崩壊せん。あれ一人がいればどうとでもなるということだからな。つくづく忌々しい獣よ」
十五年前に崩壊を免れたライウスが、割れる。ライウスという領地が、名が、消える。彼が守ってきたライウスを、目の前の男が、奪う。
視線を向けた先で、「ほっ」と楽しげな声が肉の隙間から漏れた。
「……いい眼をしおるわ。喉笛を食いちぎられそうじゃ。おぬし、本当にあの狼の番ではないのか? ティム、これは気をつけねば伽の場で食い殺されるわい」
私を覗きこんだウィルフレッドは、堪えきれぬといわんばかりに口角を吊り上げていく。おかしくてたまらないという顔ではない。悦びに溢れた、歪な歓喜だった。
「いいね……ぞくぞくする。今のお前なら真っ赤なドレスも似合いそうだよ」
そんな物を着るくらいなら、炎を纏って赤く染まってやる。それで満足だろう。
「でも、式は互いに黒にしよう。喪服の結婚だ。俺達にぴったりだろう?」
薄暗いどころかどす黒い何かが胸の中で暴れ回る。滞っていた感情全てが、それに巻き込まれて身の内を焼く。
ウィルフレッドは、まるで子どものように無邪気に笑った。
「死にたい?」
「殺したい」
するりと零れ出た言葉に、ウィルフレッドは今度こそ声を上げて笑い出す。悲しみは認識できないのに、憎悪だけは、まるで息をするように。
腹を抱えて笑う彼に、でも、と、続ける。
「ライウスで、裁かれてほしい」
一瞬のうちに無表情になった顔がぶれる。頬を打たれた。構わず胸倉を掴み上げる。体重をかけて引き寄せた身体は、されるがままに落ちてきた。唇が触れそうなほど顔が近くにある。
「ライウスの民として、ライウスの領主に毒を盛った罪を、ライウスで裁かれて。私達が何であれ、ライウスの民であることに変わりはないのだから」
カイドが死んだら、あなたを絶対に許さない。
そう言った言葉に嘘はない。許しはしない。一生、死んだって許すものか。もしも再び廻っても、絶対に許しはしない。
死んでしまえ。
殺してやる。
ある意味相反しながら同じ結果を望む言葉が、頭の中をぐるぐる回る。
背を折り、この世の終わりみたいな音で血を吐き続けた彼と同等の、否、それ以上の苦痛を味わって、死んでほしい。
そう、思う。
うまく悲しめないくせに、憎悪だけはこんこんと湧き出てくる。許せない。それは、どう足掻いても事実だ。
でも、ここで私が彼を殺せたとしても、きっと意味がない。殺してそれで気が晴れるわけもなく、何かが返ってくることもない。
もしも奇跡が起こって、再びカイドと出会えても、カイドの手が取れなくなるだけだ。
カイドは領主だった。領民の為、ライウスの為、最期まで領主として働いた。
私達が壊したライウスを守ってくれた。そうして犠牲にしたものは自分自身だったのに、私が背負わせたものまで守ろうとしてくれた。
そんなカイドが笑ってくれるような生を、私は生きていけるだろうか。いつかまた出会えた時、恥じず、臆さず、逃げださず。まっすぐあなたを向いて笑えるように。
今度こそ、心のままに、会えて嬉しいと笑えるように。
そうして初めて、泣けるのかもしれない。
少なくとも、私がウィルフレッドを殺したところで彼は喜ばないだろう。きっと、あの寂しい笑みを浮かべて悲しそうに私を見るだけだ。今ならそれが分かる。
不幸を追わないと決めた。負っても、追わないと、決めたのだ。
見なければいけないのは過去じゃない。人は後ろ向きには進めない。先が見えずに立ち止まる。穴が見えずに転がって、伸ばしてくれた手も見えずに落ちていく。
前を見ないと、未来を見ないと進めない。仮令、彼が過去にしかいなくても。
連れていくと決めたのだ。私が引きずり落とした仄暗い場所から、明るいところへ。
その道を、あなたがくれた。あなた自身は私の所為でその道を下りてしまったけれど、あなたはライウスに道を作ってくれた。
砕けた石畳を敷き詰め直し、跳ねあがった人の欲を均し、崩れた壁を塗り直し、空を覆う怒りを鎮め。
飢えぬ子どもに飴玉を、欠けぬ家族に夢を、死なぬ赤子に明日を。
愚かな女に愛を。
私があなたに押し付けたものは多々あれど、捧げられたものは一つしかなかった。
あの場所に置いてきたのは、優しい子がくれた、私が壊した首飾り。
あなたに捧げた青い花。
青い、ヒヤシンス。
どうかあなたに愛を。
愚かな女から、愛を。
変わらない『愛』を。
私と同じように胸倉を掴み返したウィルフレッドのほうが、流石に力は強い。ぎりぎりと締め上げられて、爪先立ちになる。
「ああ、今のお前は本当にいいよ。あの、見目だけは良かったつまらない女とは桁違いだ。俺の神経を逆撫でたければ、折れるなよ。折れずに、俺の逆鱗に触れ続ければいいさ。今までそうした奴は全員殺してやったけど、お前にだけはそれを許してやる。ああ、お前が許婚でよかった。お前を愛している。心の底からそう思う。お前だけだ。俺を知る者はお前だけでいい。俺の庭に咲く花は、お前だけでいいんだ」
愛の皮をかぶろうとして失敗したのか、最初からそんなつもりはなかったのか。
言葉は、愛を語る優しげなものとは似ても似つかぬ形相から紡がれた。ウィルフレッドは、まるで騎士のように膝をつき、どろりとした汚泥にも似た何かで私を見上げる。
「俺の毒花、俺と結婚してくれ」
「嫌よ。誰も、幸せにならないわ」
「少なくとも俺は幸せだね。手折るのは気をつけるさ。今のお前は狼を産みそうだ」
「…………絶対に嫌よ」
いろんな意味で想像したくないことを言ったウィルフレッドは、くつくつと楽しそうに笑った。
「それこそ正に畜生腹よな!」
本当の意味は分かってないだろうに、一人で納得したジョブリンは大声で笑う。何がそんなにおかしいのか、巨体は呼吸が潰れたような音で笑い転げ、馬車が激しく揺れる。
外から見ても相当だろう。
始めは、だからだと思った。外からジョブリンを呼ぶ控えめな声がしたのは。
「旦那様、旦那様」
「うむ」
笑いを引っ込めて、頷いたのか揺れたのか分からない肉の動きを見せたジョブリンの声に、ウィルフレッドが蒸せないよう開けていた小さな窓に近寄る。
そこには馬に乗ったまま馬車と並走しているダリヒの執事がいた。白髪が混ざっていることからそれなりの歳だということが分かる。長く務めているのだろう。慣れた様子でウィルフレッドを通さず直接ジョブリンへと話しかける。
「後方より、ギミー一行が。旦那様と面会の申し出を。如何なさいましょう」
「ふむ……代表は?」
「イザドル様です」
ジョブリンは、分厚い舌を打ちつけた。
「友が死んで飛び出してきおったか。領主代理がおらねばそのまま捨て置いたものを。仕方あるまい。列を止めよ。ティム、手を貸せ」
「は」
領主同士の邂逅で、片方の領主が馬車から降りずに対応するわけにもいかない。だが、正直ウィルフレッドが手を貸したところでぺしゃんこになりそうな気がする。
だけど、心配は別にしない。
私は、さっと閉ざされた窓を諦め、厚いカーテンが閉められた後方の窓がある場所を見つめる。
イザドル……何をする気かは分からないけれど、どうか無茶だけはしないでほしい。ダリヒ領に入られるともう手出しできなくなるといっても、ここライウスでは彼も賓客の一人にすぎない。ライウスで権限を持つのはライウスの人間だけだ。
そして、他領の領主に対して行使できるような力を持つのは、ライウス領主だけになる。
現在不在の、ライウス領主だけなのだ。
徐々に近づいてくる馬の蹄の音に反し、こちらの蹄の音は鎮まる。揺れも止まった。ジョブリンは外にわらわらと蠢く使用人の手を手当たり次第に掴んで馬車から降りていく。手を貸してジョブリンの向きだけ変えたウィルフレッドは、後ろから私を抱きかかえている。視界に入らないどこかで、小瓶がかちゃかちゃと音を立てて存在を主張していた。
「分かってると思うけど、ギミー領次期領主を事故死させたくなければ大人しくしておくことだ。あの泣き虫だった坊ちゃまが、せっかく大きくなったんだ。このまま生かしてあげたいだろう? ……そう睨むなよ。そそるだろ」
睨み上げていたのを即座に取りやめて、外に意識を集中する。
あの巨体に耐えられるよう頑丈に作られた壁は分厚い。入口をがしゃりと閉じられてしまえば、外の音が綺麗に遮断された。少し眉を顰めたウィルフレッドが、カーテン越しに窓を小さく開けて初めて、外の声が届いた。
「これはイザドル殿! どうされ申した」
白々しいまでに大仰に驚いて見せる姿が目に浮かぶ。
「何やらお急ぎの所申し訳ない。行きにご一緒できなかった故、帰りは是非にと思っておりましたが、気がつけばもう出立されたと聞いて慌てましたね」
「いやはや、それは申し訳ない。知人が結婚すると連絡が来ましてね。これは祝いに駆けつけねばと思っておりました矢先、あのような報が届きましてな……あまりの申し訳なさに、会わせる顔がないと思っておったところです」
哀悼の念すら感じられる声音に鳥肌が収まらない。
ぎりっと爪を立てる。自分を抑えようとしたのに痛みは感じず、代わりに耳元で呻き声がした。視線を落とすと、ウィルフレッドの腕に爪を立てていた。
「…………ごめん」
「……わざとじゃなかったのか」
別に謝らなくてもよかったのかもしれないと気づく。思わず謝ってしまったことで何とも言えない気持ちになった視線の中で、爪を立てられた場所が擦られている。服の裾が動き、手首に黒子が見えた。そこには傷をつけていないのに、ウィルフレッドの指はいつのまにかそこを撫でている。
そんなに確認しなくてもいいのに。
何故か、突然、そう思った。
目に見えて分かる、昔の自分と同じもの。そんな、縋るように、何度も確かめなくても私達はここにいる。あの屋敷を出てから、この動作をよく目にした。屋敷内ではほとんど見かけなかったから、これも、彼自身が自覚している癖なのだろうか。
「……我が友も、最期まで気にしていましたよ。貴殿の見送りが出来ぬことを」
絞り出すようなイザドルの声に、意識が戻っていく。
「おお……それは、申し訳ないことを……気になど召されるなとお伝えできればどれほどよいか……」
「狼領主と呼ばれようと、我が友は人間なのです。気にもしましょう……そう、我が友は人間なのです。私は、ずっとそう思っていたのに………………」
「ああ、ああ、どれだけの無念か! 心中察してもあまりある」
「本当に……」
言葉がつらそうに途切れる。
イザドル、泣いてるの……?
見えないのがもどかしい。出ていけないのがつらい。もし飛び出せるなら、その頭を抱え込み、カイドを、私達の大切な人を想いたいのに。
噛み締めた唇から、鉄くさい味が広がっていく。あの日、カイドと会えた最後の日に嗅いだ匂いと同じ味だった。
どれだけ苦しかっただろう。どれだけ痛かっただろう。
私はいつも、彼が苦しむとき傍にいられない。その手を握り、抱きしめ、痛みを分けてもらえない。
鉄くさいそれを、歯を食いしばって飲みこむ。
こんな赤、なんだというのだ。赤に怖じ、感情を裂く暇があるのなら、彼を抱きしめに走ればよかったのに。
赤を飲みこんだ私は、次の瞬間、目を見開いた。
だって、外から。
「いや、それには及びませんよ、ジョブリン殿。こちらが招いた賓客の見送りも出来ぬとなれば、ライウスは礼儀のなっていない地と笑われましょう。まして領主が率先して行えば、顰蹙では済まないのでね。慌てて飛び出して参りましたよ」
信じられない声が、したのだから。




