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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
第一章
14/70

14.あなたと私の、さようならⅣ





 雨の音が止まない。

 酷い雨がもう二日も降り続けている。


 



 領主が毒殺されかけたような領地にはいられない。

 そう言い張って屋敷を飛び出してきたダリヒ一行は、季節外れの嵐に足止めを食らい、未だライウスを抜けられないでいる。

 大きな宿もないような田舎町で足止めをくったジョブリンは、その巨体を揺らしながら常に苛立っていた。彼の身体に合う部屋がない為、納屋のように入口の大きな建物を使うしかなかったのも腹立たしいらしい。そんなことに腹を立てるくらいなら、自分の腹を減らせばいいのに、そうは考えつかないらしく、ここに来るまでに買い集めた菓子を、片手で鷲掴んでは水のように飲みこんでいく。

 母が、あの男は汚らしいから嫌いよといつも嫌がっていたのはこういうことだったのかなと今更知る。



 納屋の近くには時計塔があり、毎日六時間ごとに鐘を鳴らして時を知らせる。

 さっき鐘が鳴ったから、夜が明けたのだろう。雨が吹き込まないよう固く閉ざされた窓に寄りかかって雨の音を聞く。




 部屋には私とジョブリンと、三名の使用人だけがいる。元々使用人全てが収まりきる場所ではない。

 他の使用人は、哀れにも時計塔で過ごしている。町中に轟く一日四回の鐘の音は、間近で聞くにはつらいだろう。ここも近いとはいえまだ同じ建物ではないため、中で反響する音に飛び上がることはない。

 ウィルフレッドは、ふらりとどこかに出かけては何かしら情報を集めて帰ってくる。


 屋敷を出て四日目。今日まで毎日、肩を落として帰ってくる。


『まだ死んでない』


 その言葉だけが、私の救いだった。






 彼とはあれ以来、あの話はしていない。ジョブリンとの会話で、どうやら彼がウィルフレッドだという話はしていないと気づいたからだ。




「愛らしくねだれるのなら、おぬしにも分け与えてやるぞ」


 体温で溶けたチョコレート塗れの手で、箱に入った残りのチョコレートを示してくるジョブリンを、まるで汚らしい物のように見る。汚らしい物のようにも何も、べろべろと舐めて涎だらけの手は充分に汚らしかった。

 朝食を食べたばかりなのに、もうお腹が空いたらしい。雨と風の音が強くて早くから起きていたからというのもあるだろう。けれど、一日中何かしら食べているので関係ないのかもしれない。


「近寄らないでくださいますか。同じ部屋にいるだけで吐き気を催しそうなのです。もっとご自身の汚らしさを自覚してくださらないと、豚小屋にいる豚のほうが、まだ礼儀があります」

「ほっほっ、田舎娘が言いよるわ。いっぱしの令嬢のような口をききおる」

「あなたがご立派な領主様のような口がきけないだけでしょう。ご自身の無能を私の所為にされても困ります」


 肉の塊は、巨体を揺らして笑う。

 そして、不意に表情を消す。


「世を怒らせて何を聞きだしたい、小娘」


 怒り狂った猪の如く突進して、そこの窓なり入口なりを破壊してくれたらいいなとは思っているけれど、それは無理だろうとも分かっていた。ジョブリンの体型なら充分な力を発揮できるだろうけれど、座っているだけでも重たそうな身体をいちいち持ち上げて突進してきてはくれないはずだ。来てくれるならいつでもいいけれど、今の所動く兆しすらない。滅多に立ち上がらないから、望みは薄い。

 表情を消した男とは反対に、私は笑みを深めた。


「あなたこそ、田舎娘を侍らせて何を聞きだしたいのですか」


 会話に足る相手だと判断してもらえたようで何よりだ。

 この男は、見た目の不用心さとは違い、周到な野心家だ。そうでなければ、他領を虎視眈々と狙いながら、長い間領主を務められるはずがない。この四日で私との会話を無意味な物と結論付けなかったらしい男に、窓から身体を離して背筋を伸ばす。

 男は肉で膨れ上がった顔の中、異様に小さく見える目を、分かりづらく細めた。


「あの食えないティムといい、おぬしといい、ライウスの若造といい、最近の子どもは恐ろしいの。肝が据わりすぎておるわい」

「お褒めに預かり光栄ですが、あなたに褒められてもなんら嬉しいことはございません」

「いやいや、末恐ろしいものよ。最初はつまらぬちんけな田舎娘と思うておったが、ティムのように食えぬ男が譲らぬと言ったからの。これは面白いと乗って正解であった」


 見ようによっては円らに見えないこともない瞳が、じっと私を見下ろす。


「あの狼領主も手なずけたか?」

「狼は人に懐かないから狼なのですよ。人に尻尾を振るようなものは狼ではなく犬です。そのようなこともご存じないのですか」


 そして、尻尾を振らずに人に懐くのなら、それは犬でもなんでもなく。

 ただの、人間だ。人が人として人を好きになる。ただそれだけのことだ。

 だけどそれを教えてやるつもりはない。彼は人間なのだと、そんな考えなくても分かるようなことが分からない者には、教えてもどうせ分からない。

 ころころと笑い飛ばせば、ジョブリンはふんっと鼻息を噴いてチョコレートを鷲掴んだ。体温で溶けたそれを気にせず口の中に放り込み、手についた分を嘗め取っていく。


「一度でも手がついておればのぅ。適当な黒髪の男を見繕って子どもでも産ませ、後ろ盾につくところじゃが、惜しいことよの」


 外道なことをチョコレートの種類のようにさらりと言い切る。目的のためには手段を選ばないこれが、ダリヒの領主。かつての父と同じくらい醜悪で、格段に狡猾な男だ。


「泥臭い田舎娘など選ばずとも、幾らでもお相手がいらっしゃる方ですから。用がないのでしたら帰らせて頂いても? 言付けなら承りますが」

「まあ、そう結論を急くこともあるまい。なに、嵐が去ればじきにダリヒにつく。そうすれば、ゆっくり考えることもできるであろう?」

「考えることなど何もございません」


 分厚い舌でべろりと指を舐め上げた男は、おかしそうに身体を揺らした。


「会場に、ドレスに、料理に、招待客。いくらでも考えることはあろう? 田舎娘であろうと、結婚には夢を持っていいのだぞ。なに、安心するがよい。世が惜しみなく援助してやろうぞ」


 一瞬、何を言われているか分からなかった。私はどんな顔をしていたのだろう。呆けた阿呆面だったのか、真顔だったのか。

 判断はできなかったけれど、相手を笑わせるには充分だったようで、ジョブリンは機嫌が良さそうに巨体を揺らす。


「…………は?」

「世にもちょうど年頃の孫娘がおっての、あれに惚れておるから身内としては応援してやりたい思いじゃが、やはりこういうことは本人の気持ちが一番大事だからのぉ。あれが、どうにもこうにもおぬしでないと嫌だと言い張るものでの。世も若者の恋を応援してやりたくなってなぁ」


 かろうじて絞り出した言葉に、ひょうひょうと肉塊が笑う。さっきは適当な黒髪の男を見繕って子どもを産ませたかったと言った口で、今度は恋の応援ときた。

 ジョブリンもウィルフレッドも、二枚舌とはこういうことを言うのだろうと身を以って教えてくれる。でも、私だって変わらない。私だって、平気で嘘をついた。大事なことを嘘にして、矛盾ばかりで生きてきた。




 この四日間ずっと考えている。今も雨の音を聞きながらずっと考えていた。

 屋敷を出た時の皆の顔を、ずっと思い出していた。


 悲しそうだった。苦しそうだった。痛そうだった。それだけじゃない。今の生での皆の笑顔は、苦笑が多かった。優しい人はたくさんいた。親切な人も、穏やかな人も。その人達は私を見て、寂しそうに笑った。


 その顔を思い出しては、考える。

 もしかすると私は、この十五年間すべて無駄に生きてきたのかもしれない。頑なであれば、私が幸せを感じなければ、それが償いになると。こう生きればいいのだろうと周りを傷つけ、心配をかけ、暗い顔をさせて。そんな頑なな自分に酔いしれて。傷つくのも、苦しいのも、悲しいのも、全て私が前の生で犯した罪のせいだと、罪の在り処を押し付けて。私は幸福であってはならないのだと周りを不幸にして、逃げてきたのかもしれない。


 本当に償いたければ、本当に贖いたければ。


 自らが不幸になるように働きかけ、心痛めた優しい人達を傷つけるのではなく、罪の分だけ皆を幸せにしようとするべきだったのだ。

 カイドのように、誰かの幸せを作り出すために奮闘すればよかったのに、真逆の方向を向いて、優しい人達の心を切り裂いた。あんな顔をさせるんじゃなくて、笑ってくれるようなことをすればよかったのだと、今なら分かるのに。

 私はいつも間違える。間に合わなくなってから、それに気づく。

 幸せになってはならないと周囲を遠ざけ閉じこもり、結局何も知ろうとはせずに。

 あの頃のままだ。あの頃の、何も知らず厄災と化した私から、何も変わっていなかった。



 ああ、本当に愚かな女だ。今更、今更気づいてどうする。あの優しい人達を取り返しもつかないほど傷つけ、遠く離れてしまってようやく気づくなんて。

 カイド、ああ、カイド。

 ごめん、本当にごめんなさい。イザドル、私は足枷などではない。私は呪いだった。不幸に酔って、不幸を振り撒く、厄災だったのだ。







「のう、ティムや」

「酷いですよ、ジョブリン様。一所懸命考えた求婚の台詞が台無しになったじゃないですか」

「ほっほっ、勝負は時期の見極めが一番大事だと勉強になったであろう?」


 いつの間に帰ってきたのか、ぐっしょり濡れた上着を脱ぎ捨てたウィルフレッドが肩を竦めながら髪を掻き上げた。


「じゃあ、せめて口説く時間くらいくださいよ」

「ほっほっ、どうせこの雨だ。時間はたっぷりあろうよ」

「二人っきりになれないと口説けないじゃないですか。彼女は、箱入りお姫様なんですから」

「田舎娘に恥ずかしげもなくよう言うの。おぬしがそこまで入れ込むのは不思議であったが、うむ、面白い娘だ。よい、世の馬車を貸し与えてやろうぞ。存分に話せばよい」

「ありがたき幸せです、が、気前がいいですね」

「なに、鬱屈した天気の中、それなりに楽しませてもらったからの。だが、あの馬車は帰りも使うのだから、汚すでないぞ?」

「あれ特注なんですから、そんな面倒なことしませんよ。じゃあ、行こうかシャーリー」


 当たり前のように差し出された手は取らず、立ち上がる。

 ウィルフレッドは片眉を器用に上げた。


「おや、お姫様は自分一人で立てるんですか?」

「立てるように、してもらったの」


 長い時間をかけて、間違い続ける私を見捨てずに、傍に居続けてくれた人達が教えてくれた。まだだ。まだ何も返していない。まだ何も謝っていない。皆にも、あの人にも。

 カイド、ごめん、カイド。

 私が絡みついて、あなたを溺れさせてしまった。不幸に溺れさせてしまったあなたを、今度はちゃんと引っ張り上げる。明るい場所へ連れていく。絶対に、連れていくから。

 だからお願い、死なないで。お願いだから、間に合わせて。遅すぎたのだと、間に合わなかったのだと、言わないで。

 何があろうと必ず帰るから、どうか死なないで。お願いだから、生きていて。



 神様、お願いします。この先の私の幸運全てを使い果たしても構いません。何一つ運が向かずとも幸せになってみせます。もう二度と不幸は願いません。不幸に逃げたりしません。何があろうと幸せへの努力を投げ出しません。私を見た人が悲しくなるような生き方をしないよう頑張ります。


 だから、お願いだから、神様。



 あの人を助けてください。








 雨の中、馬車の群れに向かったティムは、他の三倍はあろうかという馬車はそのまま通り過ぎ、小さな馬車を開けて乗り込んだ。

 あの馬車には嫌な思い出しかなかったので別にいいけれど、なんとなく眺めていると中に押し込まれる。


「おそらくあれに誰か仕込まれてるだろうからな。話を聞かれたくないだろう?」

「そうね」


 小さいといっても、向かい合って四人は乗れる馬車だ。それなりの広さはある。

 傘など意味を成さない大雨の中で濡れた髪を払う。膝を向け合って座り、人差し指と中指を握りこむ。


「私を帰して」

「一つ質問がある」


 人の話を聞かない男だ。まあ、私も相手の話を聞く前に要求を突き付けたのだから同類だろう。

 仕方なく口を噤む。現在、主導権はウィルフレッドにあるのだから。

 黙った私に、ウィルフレッドは人差し指で自分の膝をとんとんと叩く。これは彼の癖だ。ティムの時は一度も見なかったから、彼自身、自覚している癖なのだろう。


「お前、俺との婚約をずっと拒否してきたな。お父上にもずっと解消を求めていたし」

「あなたがこんな人だと知っていれば、もっと盛大に嫌悪感を抱きましたがそれが何か」

「屋敷では、お前があいつの弱みになればと焚きつけてはみたけれど……お前まさか、あの頃既に、あいつと恋仲だったのか?」


 瞬き一つ、挙動を見逃さんとする視線に怯む理由は、ない。


「それが、何か」


 目が、見開かれた。




 いくら世間知らずの馬鹿娘であろうと、貴族の娘の結婚はお家の為であると知っていた。だから、ヘルトと付き合っているなどと知れたら彼が解雇されてしまい、会えなくなると思っていた。実際は解雇で会えなくなるどころか、彼の命すら失われてしまったのだろう。そこまでは考えが及ばないにしても、私達は誰にも知られぬよう、隠れて付き合った。ヘルトは隠すのが上手だった、というのはその時は知らなかったけれど、大変上手だったし、私は元々メイド達から遠巻きにされていて、親しかった人なんてごく少数だった。

 数少ないその内の一人は、カロンだった。カロンには打ち明けていた。ヘルトに会いに行くときは彼女がいつも手助けしてくれたのだ。

 だけど、だからこそ、理由もなく家の為になる結婚を拒絶する私を、父は許してくれなかった。





「は、はは、あははは! だったらお前は、使用人どころか恋人に裏切られたということか! 傑作だな!」


 腹を抱え、涙を浮かべて笑い転げたウィルフレッドは、そうねと返した私の胸倉を掴んだ。


「お前は馬鹿か。だったら尚更、何をやっているんだ」

「何も、何もしていないわ。あの人を幸せにするためのことを、まだ、何も出来ていない」


 ばしりと肌を打ち付ける音と一緒に視界がぶれた。はたかれたのか、殴られたのか。どうでもいいことだ。

 頬を打たれてずれた顔の角度を戻す。


「聖女気取りか?」

「優しいのね。どっちかというと疫病神の類よ」


 切れた口端を適当に拭って吐き捨てる。彼は少し驚いた顔を歪めた。その顔は、狂気にも似た、歓喜だった。


「いい顔をするようになったじゃないか。昔は悪態の一つも知らないつまらない女だったのに。不満があるとすれば、その視線を向ける先を間違えてることだな」

「……ウィルフレッド、どうして今更私なの。今の私はもう、ライウス領主の一人娘でもなければ、王族の血もないただの田舎娘よ。あなた、昔から別に私のことが好きだったわけじゃないでしょう」

「顔と体つきは凄く好みだったさ」


 変態だ。

 返事のしづらい返答に黙り込んだ私に、彼はくつくつと笑った。膝の上に肘をつき、組んだ掌の上に顎を乗せて、私を見る。


「だって、寂しいだろ」


 まるで、優しいと勘違いしてしまいそうな声音で、彼は微笑んだ。




「最早何一つとして俺達の手には戻らない場所に、記憶だけを持って産み落とされるのは、ただ屈辱でしかない。俺達は殺された無念を持ったまま、それへの称賛に育てられるんだ。なあ、お前もそうだろう。俺達は寝物語で何度殺された? 吟遊詩人の美しい歌声で、旅芸人の紙芝居で、学校の授業で、子ども達のごっこ遊びで、俺達は何度死んでいった? その様を、何度喜ばれた?」

「……私達は正当な理由で憎まれた。真っ当な理由で罰を受けたのだから、当たり前よ」

「俺達が殺される様を、手を叩いて、歓声を上げて、誰もが喜んだ。もういない者ならばどうしてもいいといわんばかりに、してもいない罪まで擦り付けられていく。俺を模した人形で、子ども達は遊ぶんだ。首を持って振り回し、棒を打ち付け、石を投げつけ、親はそれを見て咎めもしない。投げられた石の痛みも、打ち付けられる棒の痛みも知らないくせに、その様だけは平然と再現できる」

「ウィルフレッド」

「だが、俺達は確かにここにいる。今尚、ここにいるんだ。誰が信じぬとも、認めずとも、俺達はここにいる。いるんだ。まだ終わってなんていない。終わったと思ってる奴らには残らずそれを思い知らせてやる」

「ウィル!」


 獣が歯を剥くように唇を捲れ上がらせていく様に、思わず叫ぶ。

 彼は一瞬驚いたような顔をして、牙を収めた。


「もう、俺をそう呼ぶのはお前だけだよ」


 当たり前だ。だって私達は違う人間として生まれてきた。

 たとえ、何もかもが私達のままだったとしても。


 ウィルフレッドは組んだ拳に額を置いて俯いた。


「これが遠い昔のことだったのなら、俺はきっと耐えられた。これがただの歴史として語られるだけのことなら、俺はティムとして生きられた。だけど、違うじゃないか。俺達を殺したあいつは今尚のうのうと生きていて、俺達の死を喜ぶ奴らが溢れてる。そんな場所で、どうやって生きていけというんだ! 俺からウィルフレッドを忘れさせないのはあいつらだ! ……俺はあいつらの手でウィルフレッドになった。その責任はとってもらう」

「あなたも私も、最早滅びた箱庭の遺物よ。私達はもう充分ライウスを苛んだ。領地を、領民を苦しめた害虫だった。ライウスを散々食い荒らし、この地を枯らしかけた。だから駆除された。ただ、それだけのことよ」

「お前が失ったものは与えられたものばかりだからそう言えるんだ。俺は全て自分で手に入れた。それを奪われた。だから奪い返す。それだけのことだ」


 そんなことは、許されない。

 口に出しはしなかったけれど、顔を上げた彼は私を見て、その答えを正確に聞き取った。


「あいつが殺した俺があいつを殺す。そうして、今度はあいつが生まれるのかな。そしてまた、俺はあいつに殺されるのかもしれない。そうして繰り返していくのだとしても……俺はお前を手放さない。お前はこっち側の人間だ。だって、そうだろう。お前は俺達の花だった。俺達の頂上で咲き誇る花だったんだから」

「もう、枯れたわ。だって私はライウスの徒花だもの。実を結ばず、季節外れに散ったのよ」

「いいや、お前はここにいる。今も、俺と、ここにいるんだ」


 それは、自分に言い聞かせているように見えた。


「嫌だ。……寂しい。一人は、寂しい。ライウスの悪魔ウィルフレッドを知らない奴はいない。けれど、俺がウィルだと、ウィルフレッドだと知っているのは、もうお前だけだ。そして、俺だけがお前を知っている。この世でただ一人、俺だけがお前と同じものを知っている。お前だけが、俺と同じ地獄を生きているんだ」


 俯いたまま、突如として伸びてきた手が私の肘を掴んだ。ぎょっとする間もなく引き寄せられて抱きつかれる。慌てて引き剥がそうとした私の手は、肩を押したところで止まった。

 震えている。腰に抱きついている腕が、胸に押し付けられている額が。

 震える体温が、私に伝わってくる。


「……俺は、狂人か? 前の生の記憶があると思い込んでいる、ただの狂人なのか? ……それでもいい、それでもいいから、頼む……傍にいてくれ。お願いだから、一人に、しないでくれ」

「……ウィル、お願い、離して」

「心まで寄越せとは言わない。けれど、俺のものにならないのなら、せめて、誰のものにもならないでくれっ」

「できない、あなたとは行けないっ」

「逃がすものか! 少なくとも、あいつのものになることだけは許さない! 何があろうと、どこに逃げようと、仮令互いが死のうがっ、俺はお前を見つけ出すぞ!」

「ウィル!」


 どちらも泣いている。泣き喚きながら引き剥がそうと、泣き叫びながら追い縋ろうと、暴れた馬車が酷く揺れた。

 髪留めが引き千切れる。服のボタンが跳ね飛んでいく。お互いに身体が完成していない年だから、体格差は成人よりはない。だから、ウィルフレッドも私もぼろぼろになっていく。

 首筋に噛みつかれた痛みに呻いた私が、一瞬抜いた力に油断したウィルフレッドを、渾身の力で蹴り飛ばす。狭い馬車内で背中を打ち付け、息を詰めた隙に馬車の外に駈け出す。




 雨は、いつの間にか止んでいた。

 朝焼けを見るには少し遅くなった空は、厚い雲を急速に晴らしていく。まだ少し強い風が、ほどけた髪とほつれた服の裾で遊んでいった。


 後ろの馬車からウィルフレッドが飛び出してきた気配がする。なのに、私は動けない。ウィルフレッドも私に飛び掛かってはこなかった。呆然と世界を眺め、弾かれたように駆け出した。



 鐘が、木霊する。

 小さな田舎町に、夜の帳が下りていく。町が、世界が、黒に覆われていく様を呆然と見つめる。だって、今日は解放祭なのだ。雨でずっとしまわれ、またはひしゃげていた飾りが、青空から降りてくる光を浴びて輝く日なのだ。



 なのに、一瞬夜が来たのかと思った。

 けれど空は、急速に雲が流れていく気持ちのよい青空で。



 鐘が鳴り響く。

 朝六時の鐘の音はさっき鳴ったばかりだというのに、鐘が鳴りやまない。


 あの黒は何だ。

 黒は風に揺れていた。屋根の上で黒が揺れ、窓から黒が垂らされる。道行く人は顔を覆って俯き、黒服を濡らしていく。祭りで浮かれ狂うはずの人々はみな俯いて、町を黒が流れていく。



 足の力が抜けて、濡れた地面に膝をつく。

 その私の前に、息を切らせたウィルフレッドが戻ってきた。さっきまで酷い顔色だった頬を、まるで普通の子どものように、ティムの、ように、上気させて。

 きらきらと輝く、いっそ無邪気な笑顔で。




「今朝、カイド・ファルアが死んだよ」




 晴れ渡った空を告げるように、そう、言った。






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