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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
第一章
13/70

13.あなたと私の、さようならⅢ








 半狂乱になって泣き叫ぶ私を、さっきまで胸倉掴んでいた男が慌てて抱きかかえる。そのまま部屋の外に出されても、私の絶叫は止まらなかった。こんなもの、言葉ではない。獣の唸り声よりもっと原始的な、ただただ感情を世界に放つだけの咆哮だ。


「本当にその娘ではないのか!?」

「頼む! お前なら、解毒剤を!」

「犯人を捜せ! 解毒剤を持っているはずだ!」


 振り乱した髪を皮膚ごと掴み、ぐしゃぐしゃに握りしめる。壁伝いに落ちていき、頭を抱えて座り込む。


「解毒剤……」


 赤が点滅する思考の中で、その言葉が回った。

 解毒剤があれば、カイドが助かる。カイドがいなくならない。ヘルトが死なない。ヘルトが赤に連れていかれない。


「黒子」


 黒子だ。思い出せ。昔の記憶を、覚えていなくても、他の記憶を砕いてでも掘り出せ。

 頭を、顔を、掻き毟りながら、ぶつぶつと呟く私は誰が見ても狂人だ。狂人でいい。私は頭がおかしいんですと何度も自己申告してきた。それを踏まえても踏まえなくても、狂人でいい。それでカイドが死なないなら、もう、なんだっていいから。


 お父様は右の耳たぶ。

 ヘルトが笑う。

 お母様は首の付け根。

 ヘルトが笑う。

 お爺様は左頬。

 ヘルトがちょっと意地悪を言う。

 お婆様は口元。

 ヘルトが笑う。


 過去を思い出そうとするたびに、ヘルトが記憶の中で微笑んでいる。やめて、出てこないで。今のあなたを死なせないためにも、お願いだから。

 でも、仕方がないことだった。だって私の世界はほとんどお父様から与えて頂いた物だったから、本当にそれほど多くないのだ。その中で、初めて好いた人の記憶が大半を占めてしまった。


「黒子……黒子……」


 ウィルのお父様は分からない。ウィルも、そんなの覚えがない。そもそも、そんなに多く会うことはなかったのだ。

 月に一度訪れて、お茶をして、庭を少し散歩するだけだった。


『領主様がお呼びだよ』


 そう言って、お茶会に現れない私を連れに来た。


『さあ、俺のお姫様。お手をどうぞ』


 差し出された手を、渋々取った。











「シャーリー、休みましょう。ね? 大丈夫だから、お願いよ、休みましょう」


 泣き出しそうなカロンの声に顔を上げる。

 隣に視線を移せば、私を部屋の外に連れ出した男の人が屈んで手を差し出してくれていた。その胸元にはナイフが固定された帯が見える。

 差し出された手は素手だった。ポケットを見ると血で赤く染まった手袋が突っ込まれている。

 手袋。黒子。手袋。黒子。

 手袋の隙間に、黒子を見た。



 ウィルと、もう一人に、それを見た。

 人当たりが良くて、人好きする笑顔と性格で皆から可愛がられて、面倒な仕事も嫌な顔一つせず、むしろ率先して手伝いに行った。

 まるでヘルトのような少年に、それを、見た。




「……ティム」

「え?」

「ティムが、持ってる」


 男の懐に体当たりするみたいに入りこみ、ナイフを奪い取ると、そのまま駆け出した。

 後ろから声がする。けれど、足は止まらない。聴覚にまで赤が染み込んでいるのか、まるで赤い水の中にいるかのようだった。音が遮られてうまく頭に入ってこない。

 これはあの日じゃない。屋敷は燃えていないし、首だけになって転がっている家族は彼が作ってくれた墓標の下で眠っている。私と一緒に眠っている。

 それなのに、全てが赤い。瞳に、音に、思考に、赤が焼きついている。

 途中、カイドの元に駆けつけていく先生達と擦れ違った。何かを叫んでいたけれど、全て音として判断できない。

 思考も限界も、全てが赤に塗り潰されていく。こんなに長く走ったことなんてない。こんなに速く走ったことなんてない。我に返ればきっと転んでしまうだろう速度と体勢で、私は走った。




 さっき飛び出してきた医務室に飛び込む。カイドの元に駆け付けたからか、中には医師も助手も、誰もいない。一番手前のカーテンは引かれたまま変わらない。

 違うのは、奥のカーテンが開き、顔色の悪いティムが薄ら笑いを浮かべて、開け放った窓の前に立っていることだ。


「早かったな。死んだ?」

「解毒剤を、出して」


 ナイフを握り締めて一歩踏み出す私に、ティムは嫌そうに眉を顰めた。


「熊殺しの毒なんだから、人なら死ぬべきだろう」

「解毒剤を出して」

「流石の狼も熊殺しには一瞬だと思ったのにな……臭いも味も薄めるのにかなり苦労したんだけど」

「ウィルフレッド・オルコット!」

「怖いな、怒るなよ。そんなものないんだから」


 ティム、否、ウィルフレッドは、酷薄な笑みを口元に乗せる。その口元に持っていった手は、治療のためか汚れたためか、手袋は外され、裾のボタンも外されていた。その手首にある黒子を、ウィルフレッドは無意識なのか指先で撫でる。

 その表情に、ティムの面影は残っていない。私の知っているウィルフレッドの面影さえ、ない。だけど、こうして喋っていると分かる。

 喋る時の呼吸の挟み方、次の言葉を話すまでの間。そんな些細な場所が、造形とは違う、癖と呼ぶにもささやかな物が、変わらない。



「俺はあいつを殺せるなら、あの毒で自分が死んでも構わなかった。だから、そんなもの最初から持ってきていない」

「……嘘よ」

「本当さ。本来は即死だから必要ないともいえるけど、そんなもの持っていて、万が一助かられでもしたら嫌だろう? それにしても」


 目が細められ、日に焼けていない手が私を指さした。


「切っ先を向ける相手が違うだろ。いくら世間知らずのお姫様でも、自分を殺した相手くらい分かるだろう」

「いま、カイドを殺そうとしている相手を間違ってはいないわ」

「君にはがっかりだよ。初めて、初めて俺と同じ相手を見つけて、それが君だった時の俺の喜びが分かるか? 君の首に黒子を見つけた時の俺の喜びを。あの頃の君とは似ても似つかない瞳でここにいる君に、俺は歓喜したよ。ああ、君も俺と同じ気持ちだと。君もあの男に俺達と同じ苦渋を嘗めさせたいのだと。なのに、君は何をしているんだ。ただあいつを赦しにきただけか? あいつに救いでも与えるつもりか? 俺達を殺した相手に? あんな弱小貴族に何もかもを奪われたこの地で? 気でも狂ってるんじゃないか」


 それはあなたのほうだと思った。

 その通りだとも思った。

 どっちでもいいと、思った。

 どうでもいいから、解毒剤の在り処を吐け。


 懐から取り出された二つの瓶に対し、あからさまに反応を示した私をせせら笑う。


「そんなもの欲しそうな目で見ても、これは解毒剤じゃない。別の種類の毒だ。致死に至らせることは難しいけれど、揮発性だから便利なんだよ。弱った者だと吸い過ぎなくても後遺症は残るだろうね。後、こっちは別に毒じゃない。ただの硫酸だ」

「……それで、私が怯むと思いますか」

「昔の君には効いたかもしれないけれど、今の君には無理なようだ。だけど、君は今から俺側につく。あの男を悪しざまに罵り、この屋敷の者を嘲笑い、その友情の証も打ち捨てていくだろうさ」


 閉まった小瓶の先で胸元の首飾りを示されて、眉を顰める。彼はこの十五年で催眠術の方法でも手に入れたのか。そうでもなければ到底あり得るはずがないと分かっているはずのことを、何を楽しげに。


 そう怒鳴りつけようとした私の背後で、小さな声がした。


「…………シャーリー?」


 寝ぼけて、少しぼやけた声に弾かれたように振り向く。

 服を少し緩めて楽な格好になったジャスミンが、よろめきながらカーテンから出てきて、目を見開く。

 彼女の眼には、毒を盛られてやつれた顔をした同僚にナイフを突きつける女が映っている。女は、髪を乱し、服を乱し、どう見ても尋常ではない様子だ。



「た、助けてください、ジャスミンさん! シャーリーさんが変なんです!」



 震え声を出し、まるで眩暈でも起こしたかのようにふらついて窓枠に凭れかかる『ティム』に、ジャスミンが悲鳴を上げる。

 窓枠に倒れた『ウィルフレッド』の手が、ガラス瓶を揺らす。

 これはどっちの瓶だった? いや、どっちでも変わらない。弱い毒でも、これほど顔色が悪いジャスミンが吸ったらどんな影響を及ぼすか分からない。酸なんて、以ての外だ。

 自ら呷った毒で顔色が悪く、真白くなった唇が薄ら笑いを浮かべる。


「実はもう一つ瓶があったんですが、仲間が持っていってしまいました。俺が合図をしたら、井戸にぶち込みますよ…………ジャスミンさん、逃げてください、ジャスミンさん……」


 小声で言い足した後に、弱弱しく口にする言葉の白々しさと言ったらない。さっきは助けてくださいと縋ったのに、今度は逃げてくださいときた。

 こんな男だっただろうか。よく覚えていない。よく、知らないのだ。

 今なら分かる歪で醜悪な楽園に囲われていた私の許婚になる男なのだから、元からこんな男だったのかもしれない。それともこの十五年で培ったものなのか。

 どちらにしても、私が取れる手段は、忌々しいほどに残されていなかった。


 ナイフを逆手に持ち替え、弱弱しい『ティム』の髪を掴む。小さく恐ろしげに呻いた声に鳥肌を立てながら、曝け出した首元にナイフを突きつけた。そして、冷たく、冷酷に、かつて処刑台の上で領民を見下ろしたような目で、ジャスミンを見る。


「近づかないでちょうだい」


 声は、震えなかった。






 ばたばたとたくさんの足音が続く。

 イザドルが、カロンが、サムアが、見慣れた人達が、一様に私を見て息を飲んだ。「ティムっ!」と、悲鳴を上げたのは、隣の部屋のメイドだ。おいしいお菓子のお店を見つけたからと、隣の部屋の私達にも分けてくれた、優しい子だった。


「シャーリー、何が、どうして」


 少し見ない間に一気にやつれ、いつもはしっかり上げている前髪が下りたサムアに、そんな姿を見てもほっとする。解放されたのか。それなら、よかった。

 心底そう思うのに、今日一日でやつれきった皆に私が渡すものは、休息でも癒しでもない。

 裏切りだ。



「もう、うんざりだったのよ。ジャスミンも、あなたも、ティムも、うるさいったらありはしないわ。……それに、あの、男も」



 堪えきれなかったのか、薄ら笑いを浮かべたウィルフレッドの髪を強く掴む。今度は本気で呻いたけれど、まったく嬉しくない。このナイフで切りつけてやれたら、どれだけよかっただろう。

 ひどく粘つくのに、乾き切った口内で、必死に舌を動かす。


「どうせくれるなら宝石でもくれればいいのに、よこすのは飴玉や焼き菓子ばかり。私、こんな場所でくすぶっているような人間じゃないの。もっと、上に、上、で、お金持ちに、なって、誰もが羨む、幸せな暮らしをするの」


 嘘よ。


「使用人如きと関わったって何の得にもならないから、本当に嫌だったわ。煩わしいばかり」


 嘘よ。


「あの男が手に入らないなら、次期領主様でもいいと思ったのに、あの男、それを邪魔するのよ。そればかりか、私を、首にしようとしたわ。だから殺してやったのよ。ティムに毒を盛ったってことにしたらサムアも一緒に始末できるし、友達二人なくしたら、うるさく付きまとってくるあなたも静かになるでしょう?」


 憔悴していた時と同じくらい青褪めたジャスミンの足がふらつく。弾かれたように飛び出してそれを支えたサムアは、これだけの現場を見ても未だ信じられないと、顔いっぱいで困惑を露わにしている。


「ねえ、メイド長。あの男は死んだかしら。熊殺しの毒を使ったの。死んだわよね。だって、熊殺しの毒ですもの。ねえ、イザドル様。私達の邪魔をしていたあの男はいなくなりました。これで、私を見てくださいますよね?」


 何かを言おうとしたイザドルが口を閉ざす。そして小さく何かを呟いた。ここからでは見えないけれど、近くにいる誰かに違えることなく伝えてくれたはずだ。

 困惑を浮かべたカロンに、心の中で謝罪する。本当は、此処を去る前に、あなたにだけでも伝えたかった。私はカイドを恨んでいないし、もう、いいのだ。少なくとも、私に関することでカイドを責める必要はもうないのだと。

 伝えたかった。



 後ろに人が集まらない内に、毒にやられて弱り切った『ティム』を窓の外に突き落とす。ここは一階だから突き出しても問題はないし、怪我人を窓から運び入れやすいように窓が低く大きい。

 後に続いた私に、この一か月、何も楽しいことはなかっただろうに、いつでも嬉しそうに私を呼んでくれた声がかかる。


「シャーリー!」


 ぐっと唇を噛み締めて、窓を越えると同時に振り向く。


「うるさいわね。きゃんきゃん叫ばないでよ。一々大声出さないと伝えられないの? そう言うところが嫌いなのよ。うるさいったらないわ。聞くだけで喉が渇く。誰か、井戸に行って水でも汲んできてくれないかしら? ああ、ジャスミン、あなたが行ってくれてもいいのよ。そして、そのまま落ちてくれたら静かになるわね」


 真っ青になり、歯をかちかちと鳴らしているのに、涙は流れていない。そうね、泣けないよね。何故か、悲しすぎると、痛すぎると、泣けなくなる。

 私は指をゆっくりとずらし、首飾りの鎖にかけた。ぶちりと、簡単に鎖は切れた。ぐしゃりと、光のような瞳が歪む。


「これも、置いていくわ。ここに、置いていくから。そうね、カイドの元にでも供えてやればいいわ。壊れた首飾り。あの男には似合いの花でしょう」


 桟に置いた花を指先で弾き落とす。かつんと小さな貝殻のような音が響くのを最後に、私は『ティム』にナイフを突きつけてじりじりと後ずさる。

 窓から広がる明かりが届くぎりぎりの位置まで下がり、口角を吊り上げる。


「さようなら」

「待って、シャーリー、待ってぇ!」

「ティム! 待て、ティムを返せ!」


 悲痛な叫び声が背中に突き刺さる。

 でも、私とウィルフレッドは一度も振り向かず、闇に消えた。





 どうせ屋敷の出入り口は塞がれている。逃げ場なんてない。うろちょろしていたら矢で射抜いてくれるかもしれないと期待していたのに、ウィルフレッドはさっきまで脅えた子犬のようだった顔を、にたりとした笑みに変えた。


「こっちだ、おいで」

「……本当に、解毒剤は、ないの」

「ないよ。万が一でも助かられると、腸煮えくり返るじゃ済まないんだよ。それこそ、一度殺したくらいじゃ足りないくらいなんだから」


 奪われたナイフを背中に突きつけられ、渋々走る。もう、脇腹が痛い。吐き出す息に棘でもあるんじゃないかと思うくらい喉も痛い。

 どこに行くんだ。どうせどこにも逃げられない。もし誰かが矢を構えてくれるなら、合図なんて出させる前に羽交い絞めにして、一緒に射抜かれるのに。

 外なら揮発性の毒もすぐに風に流れるはずだし、硫酸は、投げさせさえしなければ一番近い私だけで済むはずだ。合図さえさせなければいい。

 身体の陰で何度もこぶしを開いては閉じる。勝負は一瞬だ。ああ、でも、口笛だったらどうしよう。腕を噛ませたら抑え込めなくなる。

 幸い身長は同じくらいだから頭突きがいいだろうか。入れられるなら拳でぶん殴れたらいいけれど、効かなかったら意味がない。指なんて折れていいから、全力で殴れば少しは効くだろうか。

 走りながら、あちこちで上がる怒声の向こうにあるはずの明かりに意識を向ける。

 カイド。ヘルト。

 ああ、どっちでもいいよ。どっちでもいい。あなたが望む方のあなたでいいから、お願いだから、どっちでもいいから、生きていて。

 嫌だ。来世にまたねと約束しても、まだ、早すぎる。こんなまたねは望んでいない。




「ははっ! 革命によって領地を手に入れた領主にはふさわしい最期だな!」


 子どもが浮かべるにはあまりに酷薄で歪んだ笑みで、声を上げて笑う姿に、赤と鉄錆びの臭いが蘇る。大量の血を吐きながら、私の頬についた一滴の血を心配した彼の姿が。


「……ウィルフレッド・オルコット。もし、もしもカイドが死んだら、私はあなたを絶対に許さないわ」

「それは不公平だ。だって君は、家族も君自身も殺した男を赦したじゃないか。まあ、それは後でゆっくりと話し合おう。ここを出てからね」

「出られるはずがないわ。門は全て閉ざされているもの」


 日常ならまだしも、こんな事態が起こった状況で、逃げだそうとする二人の使用人を門兵が通すわけがない。たとえどちらかが人質に取られていたとしても、逃がすわけがないのだ。

 それなのに、彼はにたりと笑った。


「俺達で通れないなら、通れる人と一緒に出ればいいんだよ。世間知らずのお姫様」


 眉を顰めてその言葉の真意を辿ろうとして、気づく。

 ここは客人が乗ってきた馬車を集めている場所だ。その中で一等巨大で、斜めに傾いている馬車の前で立ち止まったウィルフレッドは、『何故か』鍵が開いている大きな扉に手を懸けた。『何故か』馬が繋がれている馬車は、あっさりとその口を開いていく。そして、中にいる肉の塊を見て、ようやく分かった。


 今日は、比較的穏やかな日だった。

 夕飯までの揉め事といえば、ダリヒ領領主ジョブリンが、目の前の男が、些細な段差で転んで起き上がらせるのに苦労したことだけだった。




「して、首尾はどうじゃった?」

「飲ませたは飲ませたんですが、熊殺しの毒でも即死しませんでした。何です、あれ。あいつ化け物ですか?」

「けだもの貴族はゴミを喰らって生き延びた故に、腹が異様に強いのであろう。ご苦労。世の馬車に乗ることを許そう」

「は」


 ジョブリンの前に座っていたダリヒの使用人が立ち上がり、椅子の下を蹴り上げた。そこはぱかりと開き、狭い空間が現れる。使用人はそこに潜ると、更に奥の板を外した。


「女性からどうぞ?」


 まるで貴族の令嬢をエスコートするかのように優雅に手を向けたウィルフレッドが、忌々しい。


「…………こんな騒ぎの後すぐに馬車を出したら、自分達が犯人ですと暴露するようなものよ」

「それでも、他領の領主に明確な証拠もなく詰め寄れないのが泣き所なんだよ。さあ、早く入って。それとも、俺が抱きかかえてあげないとお姫様には難しいかな」


 あからさまな侮辱に無言で睨み上げる。ウィルフレッドは何が楽しいのか声を上げて笑ったけれど、ジョブリンは肉を揺らして頭を傾けたように見えた。首傾げたのかもしれないけれど、肉に埋もれて首が見えない。


「おぬしがどうしても欲しいというからどんな女かと思いきや、なんのこともない小娘じゃな。陰鬱とした顔つきな上に、肉付も悪い。なんとも抱き心地が悪そうな娘じゃ」

「……あなたに比べたら誰でも肉付きが悪いでしょう」

「ほっほっ、言いおるわ」


 肉が揺れる。馬車も揺れる。


「どうということもない小娘なんですが、俺にとっては世界にただ一人の女なんですよ。誰も、彼女の代わりにはなり得ない。誰もが俺とは違ったように、彼女だけが俺と同じ世界を見られる」

「おぬしはいつも謎かけのようなことばかり言うの。まあ、よい。早く出るぞ」

「はい。さあ、お姫様、中に入ってください」

「……嫌よ」


 ちらりと閉じられた扉を見た私に肩を竦めたウィルフレッドは、扉の前に半歩体をずらしながら、馬車に備え付けられた棚を開けた。きつく蓋をした瓶の中に布が入っているのを見るや否や、身を翻して距離を取る。けれど唯一の入り口前を陣取られた以上、他の場所より広いと言っても所詮馬車だ。すぐに壁にぶち当たる。

 ダリヒの使用人の男が私を羽交い絞めにして抑え込む。


「放せっ!」


 さっき『ティム』にしたように髪を掴まれ、無理やり上向きにされる。更に言い募って暴れようとした私の鼻と口が、湿った布に包まれた。


「あなたがこんなにお転婆だったと知っていれば、乗馬にでも誘えばよかったかな? でも、君のお父上のご機嫌伺いは面倒だったから、死んでもごめんだけどね」


 私だって死んでもごめんだと言いたかったのに、薬品くさいハンカチから流れ込んできた何かによって、急速に意識が失われていく。

 カイド、と、呟いた言葉もハンカチに吸われ、世界に放つことはできなかった。







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[一言] うわぁ…よりによって母親と同じ箇所に黒子あるのか…
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