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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
第一章
12/70

12.あなたと私の、さようならⅡ




 帰ろうとした私達の耳に、誰かが草むらを掻き分ける音がした。カイドはさっと私の前に立って、剣に手を当てる。

 ランタンの明かりが揺れて、影を伸ばしていく。


「旦那様!」


 駆け込んできたのはカロンだった。酷く慌てて、髪に葉っぱがついているのにお構いなしだ。

 慌てて何かを言おうとしたカロンは、カイドの後ろにいる私を見て目を丸くした。


「旦那様、いくらシャーリーの所作があの御方に似ているからといって、これは幾らなんでも無礼です」

「後で聞く。それより、どうした」


 眦を吊り上げたカロンは、促されてはっとなる。


「使用人の食事に毒が混ぜられていたようで、ティムが」

「なに?」


 カイドの声が急速に険しくなった。

 どうして、そんなことに。だって、ついさっきまで一緒に夕食取っていたのに。


「ティムが食べていた焼き菓子に入っていたようです」

「容態は」

「すぐに吐かせて医務室に。命に別状はないとの事ですが……サムアが入れたのではと騒ぎになっております」


 思わず顔を見合わせた。


「最初は料理人かと詰め寄られていたんですが、それならば全員の食事に入っていたはずです。それなら一番近くにいた人と……」


 確かにティムの指導はサムアが行っていたから、いつも大体一緒にいた。食事も並んで取ることが多かったけれど、だからって、そんなことをする人じゃない。

 喋りながら、ほぼ駆け足に近い速度で森を抜ける。既に騒ぎは広まっていて、他領の使用人達が走り回る屋敷の使用人を掴まえては詰問していた。

 カイドは舌打ちして走り出した。


「すまん、先に行く。カロリーナ、シャーリーは頼んだ」

「畏まりました」


 礼をしている姿を確認もせず、カイドは走り去っていく。あちこちでカイドを呼ぶ声がする。

 呆然と立ち尽くした私の背を、カロンが軽く叩いた。


「あなたは医務室に行ってあげなさい。ジャスミンが憔悴して、倒れてしまったの」

「は、い」


 弾かれたように走り出す。後ろでカロンが驚いた声を上げていたけれど、ふりむく余裕はなかった。しかし、前も今も全力疾走するという経験がなかったため、すぐに速度は落ちたけれど、一度も止まらず走り続けた。





 脇腹を押さえて医務室に駆け込む。六つあるベッドの一番奥と、反対の列の一番前のカーテンが閉まっていた。

 一番手前で診断書を睨んでいた医師に詰め寄る。


「先生、ティムとジャスミンは」

「大丈夫だから、そんな酷い顔色して駆け込んでくるんじゃないよ。あんたまで倒れて仕事増やさないでおくれよ」


 四十半ばに差し掛かった女医は、分厚い眼鏡を上げて、睨みあっていた診断書から視線を上げた。


「ティムはサムアがすぐに吐かせたし、そんなに強いものじゃなかったから、すぐに良くなるよ。ジャスミンは……鎮静剤打ったけど、ありゃあすぐに起きるね。あれだけ興奮してたら薬も効かない……噂をすれば、起きたかな。あんた同室だったね。ちょっと宥めてやっておくれ」


 カーテンの向こうで呻き声がして、慌てて中に入る。


「ジャスミン、シャーリーです。入ります」


 中に入ると、さっきまで話していた彼女と同一人物と思えないほどやつれきったジャスミンがいた。起き上がろうとしているけれどうまく身体が動かないみたいで、ついた肘ががくがくと揺れている。

 慌てて身体を支えた私の肘を、痛いほどの力が握りしめた。


「ティム、ティムが、血、血を吐いて、いっぱい、血、てのひら、真っ赤で」

「大丈夫、大丈夫です。先生が、すぐに吐かせたから大丈夫だって仰ったわ。大丈夫よ」

「サムア、じゃない」

「ええ、私も、そう思う」


 いつもくるくると光を遊ばせる瞳に、涙の膜が張る。


「後輩できたの初めてだって、ほんとに、すごく喜んでたの。俺が一人前の執事にするんだって、自分も成りたてほやほやのくせに、すごく、はりきって。いっぱい、いっぱい、裏ワザとか教えてやるんだ、って、言って」

「うん」

「ティムが血を吐いたときも、誰よりも早く、動いて」

「うん」

「毒、飲んだ後の血も、毒だから、かぶっちゃ駄目なのに、全然、気にしないで、指突っ込んで、全部吐かせて」

「うん」

「サムアじゃないぃ……」

「うん。私も、そう思う。だって、サムアはいい人だもの。凄くいい人だから、絶対、違うわ」

「あいつ失言多いの……」

「……うん、多いね」

「でも、それ、ちゃんとその人のこと見てるからで、ほんとに、サムアじゃない。料理長だって違う。だって、いつも、一人一人見て、あの人これが苦手だから、甘くしてやれとか、あいつ肉ばっかりだから野菜食わせろとか、いつも、言って」

「うん……違うよ。ぜったい、違うわ。だから、ジャスミンは少し寝なくちゃ」


 無理に起きたのだろう。ジャスミンの目はうつろだ。でも、その瞳からぼろぼろ涙をこぼして、必死に言い募る。こんな泣き方をしなくちゃいけない子じゃない。

 誰だ、誰が泣かせた。誰がこんなひどい泣かせ方をした。

 ふつふつと怒りが湧き上がる。鈍く錆びついていた感情が、水を沸かすようにじりじりと熱を上げていく。


「嫌よ、犯人、絶対捕まえてやるんだから……それで、サムアとティムと料理長と、皆に、土下座させてやるんだから、それで、それで」

「うん……でも、サムアが戻ってきた時、ジャスミンがそんなにやつれていたら、凄く心配してしまうわ。だから、今は少し寝ましょう。そうして、元気になったら、一緒に犯人を捜しましょう、ね?」


 こわばった身体を擦り、そっとベッドに寝かせると、やっぱり無理をしていたようで、すぐに目蓋が落ち始める。何度も瞬きする眦から、幾筋も涙が零れ落ちていく。

 シーツをかけ直している様子をぼんやり眺めていたジャスミンがくすりと笑う。


「……ふふ、なんだか、不思議」

「え?」

「シャーリーがいっぱい喋ってる……なんだか夢みたい……それに、お姉さんみたい……素敵、シャーリー、すっごく、素敵だよ…………」


 赤面を誘う言葉を残して、すぅっと寝入ったジャスミンにほっとする。最後まで私の袖を握り締めていた指をそぉっと解き、中にしまいこむ。

 眠ったのは確認したけれど、なんとなくそのまま椅子に座る。


 今は確かにいろんな場所から人が押し寄せている。だからこそ、いつも以上に様々な場所の立ち入りが厳しくなっているのだ。そもそも、使用人用の食堂なんて、それこそ内部の者じゃないと入れない。入れなくても問題ない場所にあるから必然的にそうなるのだ。

 でも、この屋敷で働いている人は、入念な調査の後に雇われた人達だ。当然、十五年前に処刑された人の関係者など言語道断だ。それに、ティムに毒を盛って何になるのだろう。無差別だった? それなら尚更何の為に、

 ただカイドの評判を落としたいためだろうか。

 分からない。


 額を押さえてぐるぐる考え込む。

 ジャスミンから貰った首飾りを無意識のうちに指で弄る。青いヒヤシンス。変わらない、『 』。セシルは知ってたな。アデルも知った訳だし、ヒヤシンスを握り締めてカイドに特攻したらどうしよう。

 変わらない……変わらない……変わらない?


 がたりと立ち上がる。

 カーテンから飛び出した私に、先生はわぁと大声を上げた。すみませんと叫んで走り出す。擦れ違う人が何事かと視線をよこすけれど関わっている暇はない。

 私は、一直線にカイドの元を目指した。






 けれどカイドはあちこち動き回っていたからすぐには捕まらず、結局カロンを探して言伝てもらうしかなかった。


 しばし廊下で待っていると、すぐに慌ただしい足音が聞こえてきた。




「シャーリー」

「旦那様、お忙しい所申し訳ありません。至急、お伝えしたいことが」

「ああ、分かってる。カロリーナ、他の連中には執務室にいると伝えてくれ」

「畏まりました。お茶とつまめるものをご用意しております。旦那様はご夕食がまだですので」


 怪訝な顔をしたカロンに軽く頭を下げ、二人分のお茶を受け取りカイドと一緒に部屋に入る。中は落ちた書類が拾われることなく散らばっていた。そんな暇がなかったのだろう。

 カイドはどさりと椅子に腰を落とすと、髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。長いため息を聞きながらお茶を淹れる。


「お嬢様、話とはなんでしょう」

「その切り替えは見事としか言いようがないですが……カイド、私はあなたのお嬢様よね?」

「…………そう確信しておりますが」


 今更何を言い出すのだと眉を寄せたカイドにお茶を渡して、自分もカップを持ってその前に座る。


「私の他に、記憶を持った人がいないとは言いきれないわ」

「……それ、は…………それなら、いくら現在の因果関係を洗っても出てきませんね。対象者は……十五歳前後でしょうか」

「そう思うわ」

「お嬢様、何か、記憶がある者特有の印はありませんか」


 印。そんなものあっただろうか。

 考え込む私を、カイドは険しい顔でじっと見つめている。確かに何か手立てが欲しい。現在の因果関係で割り出せない以上、今雇っている若者皆が範囲に入ってしまう。


「……そういえば、黒子が同じ位置にある気がするわ」

「黒子?」


 そう、黒子だ。全身を確認したわけじゃないから確信は持てないけれどと付け足す。カイドは私をじっと見て、ああ、と声を上げたものだからぎょっとする。


「首の付け根に」

「足の付け根に」


 ちょっと、沈黙が落ちた。


「…………首の付け根にあるの?」

「…………足の付け根にあるんですか?」


 彼には見えないはずの場所を言い当てられたのかとひやひやしたけれど、自分では見えない場所のことだった。

 カイドは軽く咳払いする。


「二か所一致しているとなると、少し信憑性が出てきますね……お嬢様、関係者の黒子の位置、把握していますか?」

「……無理を言わないで。そもそも、私はほとんど誰とも関わっていないのよ。お客様とお会いするのも、お父様はあまりさせたくなかったようだし。私が黒子の位置が分かるほど関わっていた関係者なんて、家族と、あなたと、ウィルとそのお父様くらいだわ」

「…………ああ、ウィルフレッドですか」


 元許婚の名前に、今度は私が咳払いした。


「ウィルフレッドにしたって、黒子なんて……よっぽど目立つ位置にないと無理だわ」

「そうですね。それはおいおい考えましょう。とにかく、ティムに毒を盛った犯人を捕まえれば分かることです」

「……そうね」


 サムアじゃない。カイドもそう確信しているようで、ほっとする。



 会話が途切れて落ちた沈黙に、少しそわそわしてしまう。伝えることは伝えたし、お茶を飲んだらすぐに帰ろう。ジャスミンをもう一度見舞って、大丈夫なようならティムの様子も見て、会えるならサムアにも会いたい。

 なんとなくすわりが悪いのはカイドも同じらしく、ちょっと無意味に指を動かしてカップを掴み、お茶を飲んだ。

 私も飲もう。そして、早く帰ろう。

 そう思って口をつけた私に、カイドの拳が振り抜かれた。




 一瞬、何が起こったか分からなかった。

 痛みを感じるより、熱さと痺れが先にきたのだ。じんじんと熱い痺れが頬と掌を苛む。部屋の反対側まで吹き飛んで行ったカップが派手な音を立てて割れる。まだ中身の入っていた茶器もなぎ倒され、床で砕け散った。

 呆然と、痛む頬と掌を押さえることも思いつかず、カイドを見上げる。

 中腰のまま私を殴ったカイドは、まるで悪夢から覚めて抱きしめられた子どものように、ふわりと、笑った。




 ごぼり。

 酷く鈍い、粘着質な音がして。


 カイドから噴き出した一滴の赤が、私の頬に落ちる。

 すぐに片手で口元を押さえて顔を逸らしたカイドの口から、ごぼごぼと凄まじい量の血が吐き出されていく。


「カイ、カイ、ド」


 手足に力が入らない。がくりと落ちた身体を這いずって、カイドに近寄るのに、カイドは同じように這いずって逃げる。


「さわ、る、なっ……!」


 しかし、必死に逃げていたカイドの身体がぴたりと動きを止めた。そして、汚れていない手を伸ばし、引いた裾で私の頬に落ちた血を強い力で拭う。

 ほっとしたように微かに笑い、またごぼりと吐き出された真っ赤な色に、今度こそ弾かれたように立ち上がる。


「だ、誰か、誰か、先生を、誰か!」

「旦那様、何の音ですか――っ、旦那様ぁ!」


 駆け出そうとした私と、他の人達が飛び込んできたのは同時だった。そして、中の惨状に息を飲んだ。


「旦那様ぁ!」

「誰か医務室に行け! 早く! 血にはできるだけ直接触るな!」

「旦那様、しっかりしてください、旦那様!」

「全部吐いてください、早く!」

「旦那様、旦那様ぁ!」


 部屋の中にどんどん人が押し寄せてくる。その度に、壁際まで後退する。


「毒見はどうした!」

「お出しする時は必ず直前にしています!」

「器か!?」

「器も全て洗ってお出ししています!」


 カイドとよく一緒にいる人の一人が、凄まじい形相で私に掴みかかる。


「貴様ぁあああああああああ!」

「待て! まだその娘と決まったわけではないぞ!」

「乱暴は、乱暴はやめてください!」


 まるで彼こそが狼と言わんばかりに瞳をぎらつかせ、歯が全て見えるほど大声で食らいついてきた人に胸倉を掴まれたまま揺さぶられる。カロン達が彼の腕にしがみつき、私と彼を引き剥がす。

 その勢いで叩きつけられた壁にぶつかり、ずるりとしゃがみ込む。ぼさぼさになった髪の隙間から、慌ただしく叫ぶ人々の合間から、カイドが見える。

 もう吐くものが何もないのか、空で噎せこんだ身体が、血の中に頽れた。

 世界が赤い。かつてこの地で、赤の中で全てを失った。あの赤が、また、この地を彩る。あんなに熱くないのに、身体の血の気が全部失われていくほど寒いのに。

 また、あの赤が。


「いや…………」


 伸ばした手が震えて、身体に力が入らない。

 血で汚れるのも構わず必死に吐かせようとする人にされるがまま、薄く開いた金色が私を見て、ゆっくりと指を伸ばす。

 その指までもが、血の海の中に、落ちた。


「いや……」

「立て、立て貴様、旦那様に何をっ……おい」


 カロン達を振り払い、再び私に掴みかかった男が狼狽えた声がする。


「いや……」


 明日食べるお茶菓子の話で笑っていた家族が。

 白亜の城のような屋敷が。

 美しく保たれていた庭が。

 大好きだった彼が。


 赤の中に消える。

 赤が、あの赤が。



 また、彼を、連れていく。





 ぶるぶる震える手でさっき彼が拭った場所に触れる。そのまま爪を立て、ぎりぎりと握りしめるのに、ちっとも痛くない。痛くないのに、夢じゃないなんて、あんまりだ。

 嫌だ、赤が、あの赤が。

 痛くないのに。



「いやぁああああああああああああああああああああああ!」



 赤が、痛い。








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