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狼領主のお嬢様  作者: 守野伊音
第一章
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11.あなたと私の、さようならⅠ




 祭りまで片手で足りる日程にもなると、大体の客人は揃い踏みとなる。

 噂のダリヒ領主もその中の一人だ。


 話には聞いていたけれど、あまりの凄さに、みんな圧倒された。長くここにいる人に聞けば、年々凄くなるのだという。

 まず、遠目にある段階で馬車が斜めになっていた。そして、近づいてきてようやく分かる更なる違和感。通常の馬車の三倍はありそうな巨体に、ひどく広い扉口。その中から現れたのは、どこが首か顔か、境が分からない男だった。

 昔から巨漢ではあったけれど、それでもここまでではなかったはずだ。年々凄くなる、という言葉の重みを知った。






「凄いよね」

「凄いですよね」

「凄いよな」


 夕食時に、皆の言葉が揃い踏みになる。例え休憩時間であろうが、使用人が主のお客様に対してあからさまに何かを言うことはできないので、率直な感想だけが転がり落ちた。

 ついでにいうと、ジョブリンは屋敷の低い段差で転んだ。助け起こすのにダリヒの使用人だけでは足りず、屋敷のものどころか、カイドまで手を貸すほどの大騒動となった。大事なくてよかったですと笑顔で伝えつつ、皆の心は一つだった。

 自分達の主は軽くてよかった、と。


 カイドは決して軽いわけではないと思うけれど、実家で牛を飼っているという青年は、正直牛を起き上がらせる方が楽だったとぼやくほどだった。



 今日は、その大騒動があったものの、あったといえばそれだけだったので、恙なく終えたというべきなのだろう。他領から大勢の客人を迎えた屋敷は今、日常のどこかのんびりとした牧歌的な雰囲気をかなぐり捨てて、不備がないよう皆走り回っている。

 私達も、ここ数日はベッドに倒れ込むように入る日々が続いていた。カイドも、本当にいつ眠っているのか不思議になるほど、客人の相手に宴会に祭りの準備にと、どこに行っても顔を見るほどだ。

 そして、あっという間にこの日が来た。




 いつもの夕食を終え、私は皆に断って立ち上がった。デザートを食べながらサムアとティムに何か言っていたジャスミンは、慌てて残りのケーキを掻きこんでいく。


「待って、シャーリー。お風呂なら一緒に行こう?」

「私、この後に少し用事が……約束があるんです」

「約束?」

「はい、遅くなるかもしれないから、先に寝ていてください」


 不思議そうな三人に小さく頭を下げて食堂を出る。



 一旦部屋に戻り、仕事服から私服に着替えていく。鏡を見ながら、いつものひっつめ髪をなんとなく解く。気のせいだろうか。最近、少し色が変わってきたように思う。前は飼葉のような色だったのに、今は少し……金がかって見えるときがある。

 少し考えて、しまっていた青い首飾りを取り出す。首につけようとするのに、手が酷く震える。苦笑しながら頑張ってつけたそれを服の中に落とし込み、上から握りしめた。

 深く何度も深呼吸して、顔を上げる。

 鏡の中の私は、酷く情けない顔をしていた。






 誰にも見つからないよう屋敷の裏に回り、森の中に姿を消す。表の部分はほぼ平らとなり、小川も野原も無くなってしまった。

 けれど、この一角だけは木々が残っている。彼と待ち合わせした白樺は、もうないけれど。

 どうせ後ろは山だし、ここはぐるりと高い塀で囲まれているから少々見通しが悪くても問題ないと放置されたのかもしれない。表は外から見えるけれど、こんな奥まった場所、迷子だってそうそう訪れない。




 指示された場所を目指して暗い森を歩く。手の中で荷物がかちかちと音を立てる。地図などなくても構わない。ここで方角が狂うほど方向音痴じゃない。まして初めて来た土地じゃない。外にはあまり出してもらえなかったけれど、屋敷内は、そのままの意味で私の庭だった。


 黙々と歩いていった先に、ぽつりと明かりが浮かんでいた。

 ランタンを持ったカイドだ。

 暗闇に紛れるような黒髪の中で、爛々と輝く金色は獲物を狙う狼のように見えるだろうと思っていたのに、俯き、前髪で隠れた上に伏せられた瞳は、何を映しているのかすら分からなかった。


 私が来たことに気づいていたのだろう。カイドは驚くことなく静かに膝をついた。使用人の礼というよりは、まるで臣下のそれだ。首を付け根まで晒すほど下げられた無防備な頭を見下ろす。


「ヘルト……いえ、カイドと呼んだほうがいい?」

「お嬢様のお好きな呼び方で結構です」

「……やっぱりここでのあなたはヘルトがいいわ」

「はい」


 まだ屋敷内では夕食を取っていないものがそれなりにいる時間帯。

 こんな時間に、忙しい彼が時間を作れたのは奇跡だ。……いや、奇跡などではないのだろう。彼が、頑張ったのだ。この時間と場所を指定したのは彼だけれど、それでも少し申し訳ない。


「ここに埋めてもいい?」

「いえ、こちらに」


 主語のない言葉を違えることなく受け止めたカイドは、音もなく立ち上がった。更に森の奥へと進む背に黙ってついていく。夜露に湿った土が巻き上げた香りが木々と混ざり合い、落ち着くような、逆に酷く落ち着かないような不安定な気分を呼ぶ。


 辿りつくまで、そんなに時間はかからなかったように思う。

 目的地に着いたらしい彼は、何も言わずに私の視界から外れる。それを追うことはできなかった。今まで彼の背中しか見えていなかった視界に映ったのは、五つの石だった。

 それだけで、何か分かる。分かってしまうのは、私が当事者だからだろうか。

 息を飲む。こんなものが、この世に存在するとは思わなかった。


 一見するとただの石だ。何が刻まれているわけでもなく、同じ大きさの石が等間隔で並んでいるだけ。自然ではあまりない均等さなので、誰かが並べたと思うかもしれないけれど、それだけだ。

 それでも、分かる。

 これは、私達の墓標だ。




 一番右端の石の傍に、大きな包みがあった。掃除道具だろうか。

 私の視線に気づいたカイドは、その包みを開いてくれた。そして、ランタンを近づける。


「…………私?」


 そこには、一枚の絵があった。

 昔の私が、何も知らない愚かな私が、幸せそうに笑っている。


「カロリーナ、セシル、他にも十数名いますが、彼らからの贈り物です」


 絵の下には、花が、首飾りが、お菓子が、手袋が、ハンカチが、幾つも並んでいた。ランタンの明かりしかないはずなのに、まるで昼間みたいに輝いて見えたのは、その光景があまりに予想外で、眩しかったからだろうか。


「彼らは皆、あの時すでに屋敷を出るか追われたかした者達でした。けれど、あの後、散っていた各地から次々と戻ってきて、ここで働かせてほしいと言ってきたんです。そして、俺を見張るのだと」

「……見張る?」

「俺がもしも前の領主のようになったのなら絶対許さないと。お嬢様を騙し、裏切り、殺した俺が、その死までをも無意味な物としたなら、彼らが俺を殺すでしょう。皆、言っていましたよ。前の領主は許せない。ライウスを救ってくれてありがとう。だが、お嬢様を騙した事だけは、死んでも許さない、と」

「……あなたは、お父様達とは違う」

「俺は彼らと同意見です。もしもそんなことになったなら、自分でも気づかない内に同じになっていたのなら、彼らが教えてくれるでしょう。その時俺は、この墓の場所を移し、同じ場所で自害する予定です」


 言葉も出ない。何を言えばいいのか分からない。そんな、それなら、彼は本当に一人ぼっちじゃないか。

 供物の中に手紙があった。持ち上げて裏を見れば、カロンの名前がある。

 両手で握りしめ、祈るように額をつける。ああ、カロン。カロン、駄目よ、カロン。優しいあなたが、そんなこと言っちゃいけない。そんなことしちゃいけない。





 手紙を握り締めたまま動かない私に、彼はそっと声をかけた。


「……左端から、年齢順です」

「…………ありがとう。お墓があるなんて、思ってもみなかった」

「……公式では、野に捨てられたことになっています」

「そうね。そう聞いたわ」


 荷物を解き、左端の墓に小さな酒瓶を供える。

 辛くて、強くて、おいしいそうです。予算内で買おうとしたら掌よりも小さな大きさの瓶しか買えなかったけれど、お爺様ももうお歳だから、お酒は控えてくださいとお婆様からよく言われていたので、ちょうどいいかもしれません。


 隣のお墓には、刺繍糸を。

 色濃く鮮やかですが、ちょっと派手かもしれません。けれど、とても綺麗なお色ですから、紫が好きなお婆様ならうまく使ってくださると思います。


 隣のお墓には、葉巻を。

 ごめんなさい、お父様。私、葉巻は煙たいという事しか分からなくて、説明してもらったのに重いや軽いもやっぱりよく分からなかったの。けれど、お店の方が親切にしてくださって、重いのが好きな方はこれがいいよと一本だけ譲ってくださったの。だから、一本だけで勘弁してください。二本だと、お母様の髪飾りが買えなくなってしまうの。


 隣のお墓には髪飾りを。

 お母様の好きな赤い花の髪飾りです。東の国に咲く、珍しいお花を模しているのだそうです。お母様の綺麗な金の髪に映えると思います。お母様のお嫌いな「安っぽい意匠」かもしれませんが、ごめんなさい、これ以上だとお父様の葉巻が中身なしになってしまう所だったの。



 両手を合わせて目をつむる。

 許されないことをした人達だ。きっと、冥福を祈ることすら許されない。けれど、どうか。娘として、家族として、願うことは許してもらえないだろうか。


「来るのが遅くなってしまってごめんなさい。……本当はね、こんなことにならなければ、この地を訪れるつもりはなかったの。カーイナの……私が育った場所はカーイナというのだけれど、その隣町に、小さな修道院があって、そこでお世話になって一生を終えるつもりだったんです…………けれど今は、こうして墓石に参れたことを、嬉しく思います。お爺様、お婆様、お父様、お母様。どうかお怒りにならないでください。どうか、何も恨まず、何も呪わず、怨嗟に堕ちることなく、逝ってください。もしも、どうしても許せないのならば、どうか、一人のうのうと生きている私を呪ってください。私を恨んでください。お願いします。そうしていつか私が死んだのなら、一緒に地獄に連れていってください。それで、ライウスの悪夢を、終わりにしましょう」


 夜風で葉が擦れ合い、まるで泣き叫んでいるかのようだった。この世界で彼らの死を泣いてくれた人がどれだけいたのだろう。泣いて喜んだ人達は、数え切れないほどだった。けれど、もしかしたら、本当に誰もいなかったかもしれない。この屋敷の草花だけは泣いてくれただろうか。それとも彼らも私達のせいで燃えたことを恨んでいるだろうか。


 分からない。

 もうずっと分からないままだ。



 ここに存在する理由も、どう生きていけばいいのかも。



 ずっと、分からない。

 何をしていいのか、何をしてはいけないのか。そもそも何かを考えることすら、許されるのか。私が生きていること自体が許されないのに、それなのに、どう生きていけば。


 楽しいことは、あった。

 けれど、嬉しいなと、幸せだなと思ったら、こんな幸せがあるのは領主様のおかげだと、誰かが言った。前の酷い領主が死んでくれたおかげで、今の幸せがあるのだと、誰かが言った。死んでくれてよかったと、もっと早く死んでほしかったと、領主様のおかげだと。


 そうよ、正しいわ。私達の所為でライウスは苦しめられた。だから、彼らの言うことは正しくて、何一つとして間違っていなかった。なのに、苦しかった。許されないのに、苦しくて、堪らなくて、心が彷徨った。惑い、定まらないまま十五年間彷徨い続けた。十五年も貰ったのに、それでも分からない。


 全てを忘れて生きるには、抱えた業が深すぎた。

 全てを呪って生きるには、抱えた罪が重すぎた。

 全てを愛して生きるには、抱えた恋が辛すぎた。



 未だ定まらず、生き方を見いだせない心は、ようやく辿りついた墓前に、存在しないと思っていた彼らの墓前にきて、耐えられなくなった。

 顔を覆って俯く。聞くに堪えない震え声が、美しい夜風の音色を邪魔する。それでも、もう、止まらなかった。


「ごめんなさい、愛しているの。私も彼らも、決して許されない。けれど、愛しているの。家族を愛しているの。変わらない、ごめんなさい、変われないの。許されないのよ、分かっているわ。けれど、どうしても、嫌えない。憎めない。……私の、お母様なの。お父様と、お爺様と、お婆様なの。ごめんなさい、許して、ごめんなさい。愛しているの、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」

「…………家族を愛さないことを責める人間がいても、愛することを責める人間など、いませんよ。そんなことで許しを請わなくていいんです。家族なんです。愛していていいんです。家族を愛することの、何が罪なのですか。あなたは、そんなことで泣かなくていいんです。家族を愛して、何を咎められるというのですか。いいんです、いいんですよ、お嬢様」


 彼らの為に泣くことすら許されない罪の中、彼はどうして許してくれるのか。

 悲しむことは許されない。怒りなど元々ない。そもそも、感情を動かすことは許されるのか。楽しみを得るどころか、私達の所為で死んでしまった人達が二度と得ることのできないものを感じることは許されていいのか。

 そう思うのに、止まらない。何かが壊れたように溢れだした涙は、顔を覆った手の中からも溢れだす。



「お嫌でしたら突き飛ばしてください…………失礼します」



 その意味を理解する前に、とっくに落ちたと思っていた夜の帳が落ちてきた。

 ひどく、温かな夜だった。





 頭と腰を抱え、私を胸に抱きこんだ彼はとても無防備だ。彼の胸元に刃物を突き立てたらどうするのだと、そんなことを思う余裕は、元からなかった。

 彼の体温が私に溶け込む。昔は私が彼の頭を抱えたことだってあったのに、今は私を全部使ったって彼を包むことはできやしない。広い背中に手を回すことはできなくて、顔を覆ったまま額をつける。

 こんな風に誰かに抱かれるなんて、いつぶりだろう。思い出せない。今生ではすべて私が捨ててしまった。私を抱きしめようとしてくれた人達は皆一様に傷ついた顔をした。ごめんなさいと、それしか言えなかった。彼らが悪いわけでは決してないのに、彼らを傷つけてしまった。


 分からない。分からない。今でも分からない。

 どう生きればよかったのだ。どう生きれば正しかったのだ。どう生きれば償いとなり、どう生きればこれ以上何かを傷つけずに、どう生きれば、どう生きれば。この生をどうすれば。何を捨てればいいのか、何を得てはいけないのか。ずっと、分からないまま、ふらふらとただただ頑なに生きることしか思いつかずに。


 きっと何回生きても私は愚かなままだ。いっそ、全く違う人間として生まれていれば何かが変わったかもしれない。けれど、こんなに何もかも、私のまま生まれてきてしまった。愚かなまま、賢さも得られぬまま、惑い続けて十五年。生き方が分からないまま、何も成長せず、彷徨い続けて、結局彼の胸に辿りついてしまった。温かい体温に包まれて、どうしたって湧き上がる感情を必死に抑え込む。嗚咽を飲みこみ、涙に蓋をして、これ以上震えないよう歯を食いしばる。

 駄目だ。こんな、こんなことをしにここに来たわけじゃない。泣いて、喚いて、慰めてもらうために、来たんじゃない。


 弱く押した胸に気づいた彼は、すっと身体を引いて地面に膝をついて首を垂れた。私も彼の前に両膝をつく。

 鼻を啜り、目元を拭って、ようやくまともな声が出せた。



「ヘルト、あなたのしたことは正しかった。次期領主として何一つ間違ってはいない。確実に息の根を止める為に全てを欺いたことも、私達を全員殺したことも」

「俺はっ」

「でも、一つだけ、間違った」


 彼は弾かれたように頭を上げる。



「あなたの過ちはただ一つ。…………私を、信じ切れなかったことよ」



 あなたの過ちが私を殺した。

 そして、あなたの過ちが、ライウスを救った。




 だからきっと、それも、正しかった。





 見開かれた金色を見ていると、また涙が溢れ出てくる。けれど、今度は子どもみたいに泣きじゃくったりしない。感情の発露として身体を震わせるような涙じゃない。全ての感情が一粒に凝縮されたみたいに流れて落ち、地面で弾けた。


「あなたは嘘なんてつく必要はなかった。そんなことしなくてよかったのよ。一言、たった一言、言ってくれるだけでよかった。それだけで、私は家族を捨てられる鬼畜だったのだから。……あなたも知っていたでしょう? 私には両親が決めた許婚がいたって。十八になれば、結婚するはずだった。それなのにあなたの故郷に行きたいと……あなたと家を出たいと、言うような女だったのよ。私は、悪魔と呼ばれたあの人達の娘だから、親を、家族を捨てられる鬼畜なんです。愛しているけれど、彼らの為だけに生きられない、自分のことしか考えていない娘なんです。ですから、あなたが一言言ってくれたのなら、私は、あなたの手伝いを、家族を殺す手伝いをしました。…………私は、悪魔ですから」


 彼の口が薄く開き、すぐに閉じた。何を言えばいいのか分からなくなったのだろう。

 今日は、この日まで必死に言葉を探してきた私に分が合った。


「でも、今なら分かるわ。私がどういう態度であっても、私を生かせば必ず火種になった。きっとどう足掻いても、私達全員が死ぬしか、それしかライウスが再建する道はなかった。私が生きていれば、あなたの足枷どころか致命傷になったはずよ。それほどに私達は恨まれた。私達は、一寸の隙なく敷き詰められた悪だった。だから、それは仕様のないことよ。あなたは正しいことをした。もう一度混迷する体力は、最早ライウスには残されていなかった。火種を抱えたまま進む余裕のないライウスにしたのは、私達だもの。あなたはライウスを滅びから救った。あなたと私があんな出会い方しかできなかったのは、私の所為よ。私がもっと賢ければ、世界を知っていれば、知ろうと、していれば……きっと、もっと別の出会い方ができたのでしょうね。けれど、ああして出会ってしまえばもう……あの終わり方しかなかったのよ」


 怖かっただろう。恐ろしかっただろう。

 ほんの少しのほつれでも、その結果何を失うか、彼は誰より知っていた。彼は私に何も話さなかった。そして、話せなかった。それは全部、私の所為だった。

 私より三つも年下の、十四歳だった。それなのに、命もライウスも全てを背負っていた彼に、全てを亡くす覚悟で曝け出せなんて言える人がいるのだろうか。まして、相手が私だ。何も考えていない、考えようともしていなかった私に、一緒に背負わせようと思えるわけもない。ああ、やっぱりそれも私の所為だった。



「それに、私も嘘をついたわ」

「……それが、分かりません。俺はあなたに酷い嘘をつき、全てを裏切りました。けれど、あなたは何も」


 嘘をついた。

 それは酷い嘘を。……酷い嘘に、した。



 大事なことを、嘘にした。



「ごめんなさい、ヘルト。私は嘘をついたわ。あなたの故郷に行きたいと言ったのに、その道を放棄した。私は嘘つきね」


 牢の中で看守が話しているのを聞いた。

 ヘルトは私を、彼の故郷にある修道院に送るつもりなのだと。看守達は、若い新領主に不安を募らせた。ライウスの宝花に誑かされたのか、と。看守達の反応は、きっとライウスの民の反応そのものだったのだろう。

 領主という生き物に対して不信感を募らせている彼らは疑心暗鬼に陥っていた。自分達を救ってくれた英雄にさえも、その目を向けるほどに。



 怒りがなかったといえば嘘になる。悲しくなかったかといえば、虚しくなかったかといえば、悔しくなかったかといえば、惨めじゃなかったかといえば、全部嘘だ。

 裏切られたことに腹を立てた。悲しくて、虚しくて、悔しくて、惨めだった。二度と顔を見たくなかったし、二度と声を聞きたくなかった。

 けれど、会ってしまえば、やっぱり恋しかった。

 それが一段と惨めだった。惨めで恥ずかしくて、死んでしまいたかった。だから私は、もう終わりたくて、自分から死に縋ったのだ。


「あの終わりを作り出したのは私だった。それなのに、あなたに終わりを背負わせた。ごめんなさい、ヘルト。私、あなたを十五年間も苦しめたかったわけじゃないの。怒ってない。恨んでもいない。誰もあなたを責めやしない。もちろん、私も。だから、ヘルト、あなたは幸せになっていいのよ。ううん、ならなきゃいけない。ライウス一、幸せになってくれないと、困るわ。ごめんなさい、私があなたを苦しめてしまった」


 再会して、分かった。

 ヘルトはどこにもいなかったわけじゃない。ヘルトはそこにいた。カイドの中にちゃんといたのだ。

 優しい彼が好きだった。ちょっといじわるで、けれどとても温かい彼が、本当に大好きだった。


「お嬢様が謝らなければならないことは、一つも、本当に何もないんです。俺はあなたを騙した極悪人で、加害者です。被害者であるあなたが謝ることは何もないんです。俺があなたに告げられなかったのは、俺の弱さです。俺が自分で自分の首を絞め、その代償を、あなたに、払わせたんです。だから」

「ねえ、ヘルト、一つだけ教えて」


 言葉を遮る。


「私のこと、好きだった?」


 彼が息を飲んだのが、見ただけで分かった。そして、金色が彷徨わなかったのも。

 それだけで、本当は充分だった。


「…………身分が違いすぎることは分かっていますが、それでも、心より、お慕い申し上げております」


 身体が震える。心の臓の更なる奥から歓喜が湧き上がった。


「私もよ、ヘルト。私、本当にあなたが好きだった。初めて誰かを好きになった。それがあなたでよかったと、今では思う」


 そう告げても、彼の表情はこわばったままだ。私も、きっと同じ顔をしている。




「だから、ちゃんと、お別れしましょう」




 偽りで始まった恋だった。せめて最後は真実で終わりたい。








 何かを言おうとした彼は、その口を閉ざし、頭を下げた。


「…………畏まりました、お嬢様」


 その姿に苦笑する。男女の別れ話で、膝をついて首を垂れてどうするのだ。


「ヘルト、立って。ちゃんと、対等に話しましょう。言葉使いだって、カイドでいいのよ」

「……かなり頑張ってお嬢様にあの口調で喋っていたのに、酷いことを仰いますね」

「ヘルト」

「ヘルトならこれで問題ありません」


 まあ、それもそうだけれど。

 立ち上がった彼はやっぱり背が高い。見上げた金色の向こうに、白い月。

 隠れてこそこそ付き合った私達が一緒にいられるのは昼間だけだった。たぶん、一番ロマンチックな状況は今なのだろう。それが別れ話なのだから、苦笑するしかない。


「……これから、どうされるんですか」

「予定通り、修道女になります。今まではライウスの未来だけを祈るつもりだったけど、今度からはあなたの幸せも全力で祈ることにするわ」

「墓を、移動させましょうか? そのほうが、きっと彼らは喜ぶでしょう。少なくとも、毎年俺に参られるより……酒瓶を地面にぶっ刺してるだけですし」


 思わぬ申し出に瞬きする。

 それは、ありがたいけれど、そんなことしていいのだろうか。


「元々、俺が退任するときに移動させるつもりでしたから……ですが、一つだけお許し頂きたいことがあります」

「え?」

「あなたの墓標は、俺に残して頂けないでしょうか」


 彼の視線は私を通り越して、一番端にある石を見ていた。


「そんなことでいいの?」

「……お嫌ではありませんか? ご家族とも離れてしまいます」

「それは、いいのだけど……今更だけど、この下にある亡骸、首はあるの?」

「両方、丁重に葬りまし、た」


 最後、何かを思い出したというように顔を背けた彼を下から覗きこむ。じっと見上げていると、観念して白状した。


「…………髪を一房、頂きました」

「え、やだ、私あの時お風呂入ってなかったし、煤けてたわ! あ、洗って、洗って持ってて!」

「そういう問題ですか?」

「だって……」


 誰が好きな人に汚れた髪を持っていてもらいたいと思うのだ。しかも多分、首を落とされた後だから血塗れだったはずだ。……それを考えると洗ってくれただろうか。そのまま持ってたら、さすがに、ちょっと、泣く。




 お互い目が合って、なんだかおかしくなって苦笑する。昔はこうして目が合えば幸せな気持ちで微笑み合ったのに、今は苦笑ばかりだ。


「ヘルト、今まで、たくさん、ありがとう」


 ごめんなさいと言おうとしたけれど、多分、一度言ってしまえば謝罪合戦となる。しかも勝者不在となるのは目に見えているから、飲みこんだ。


「はい……こちらこそ……お嬢様、食事はきちんと取ってください。腹いっぱい食べても、それこそ誰も怒りはしないんですから」

「……善処します」


 手を差し出したら、大きな手が握ってくれた。お互い震えていたけれど、見ないふりをした。


「……お嬢様」

「なあに?」

「もし、もしも俺にも来世があったなら、その時はもう一度……いいえ、今度こそ、告白しても宜しいですか」


 ぱちりと瞬きするけれど、どうやら冗談ではないらしい。

 繋いだ手の力がぎゅっと増した。


「その時の返事が『はい』かどうかは分からないわよ?」


 ちょっと茶化すと、彼はふわりと笑った。

 今の生になって初めて見た、柔らかい笑みだった。


「全力で口説かせて頂きます」

「お、お手柔らかにお願いしま」

「嫌です」

「せめて最後まで言わせて」


 握り合った手を離す。最後まで指の腹が互いに触れ合っていて、未練がましさに苦笑する。互いに、未練だ。けれど、無念ではない。

 割り切れたらよかったね。あれは致し方なかったとからりと笑えたら、どれだけよかったか。過去と呼ぶには近すぎて、因縁と呼ぶには、恋しすぎた。

 お互い、面倒な性格だったね。強引に相手を奪うには臆病だったし、じゃあしょうがないねと諦めきるには、どうにも執念深いようだ。恋をしたのは彼が初めてだったから知らなかった。怨霊になる前に知れてよかった。

 指先が離れ、最後にかちりと爪が擦れあう。



「さようなら、ヘルト」

「さようなら、お嬢様」



 私達の代わりに、木々だけが泣いていた。






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