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取り敢えず色羽をバックヤードに残したまま、颯真は店内で待つ小折と南海のもとへと向かった。
「色羽くんはっ?」
颯真の視界に小折が入り込んだその瞬間、可愛らしい声が耳に届いた。
「ねぇ、貴方が颯ちゃんですよね? 色羽くんはまだ中にいるんですよね?」
矢継ぎ早に質問をしてきたのは、ボブスタイルが印象的な小柄な女の子だった。少女と呼ぶには大人っぽいし、女性と呼ぶには幼さが少し残る、そのちょうど中間くらいの女の子。恐らく、颯真と同い年くらいだろう。
「えぇと、あんたが優乃李か?」
確信した状態で颯真が訊くと、ボブスタイルのその子は大きく頷いた。人並みより大きな目が個性的な顔立ちを演出している。飛び抜けて美人というわけではないが、人好きする顔立ちだ。
「色羽くんは人殺しなんてしませんよね」
優乃李は大きな瞳にたっぷりと涙を溜めて言う。色羽の恋人という存在を目にするのはこれが初めてだが、なんとなく色羽が選びそうな女だと思った。
「イロはそんなことしねぇよ」
颯真が答えると、優乃李は何度も頷いた。
「でもそれは、こちらが判断することだ。颯真くんも、首を突っ込まずに待っててくれないかな」
そこに南海が口を挟んできた。冷静な声からは南海の本来の優しさを感じ取ることは出来ない。
「取り敢えず、俺に免じて釈放……てのは無理っすか? あのままじゃイロが参っちまう」
色羽は始終怯えたような様子を見せている。あのまま、警察に連れていかれたら倒れ兼ねないと思ったのだ。しかし、颯真に免じても何も、そんなに警察は甘くないようで、南海は首を横に振るだけだった。
小折としてはそうしてやりたいのは山々だが、そこまで勝手は出来ないというふうに表情を歪めている。
「別に、構わないよ。釈放してやればいい」
そこに、新たな声が響いた。
「……名田さん」
その名前に、颯真の肩が震えた。
「まあ、その子は犯人ではないだろうし、もし犯人ならば後から捕まえればいい。逃がしたりはしないだろうからね。もしくは、君らのどちらかが同行して監視をしてもいい」
名田は綺麗に後ろに撫で付けられた白髪混じりの髪を触って、言った。
「イロは犯人じゃねぇって言ってんだろ」
颯真は腹の底から声を出し、名田を睨み付けた。真子を殺した犯人が未だ捕まらないのは何も名田の責任ではない。しかし、この男は幼い颯真と約束をしたのだ。颯真は、それを信じたのだ。
「犯人だとは決め付けていない。だから、釈放はしよう。しかし、君らが首を突っ込むことは許さないよ」
名田は颯真に睨まれた程度で怖じ気づくことはなく、颯真に鋭い眼光を向けてきた。見た目こそ、初老だが、その体躯やら威圧感は若者にも劣らない。
「君は、幾つかの事件を解決に導いてきたみたいだが、そんなことはやめるべきだよ。それは、君の正義ごっこでしかない」
「──んだとっ?」
颯真は強い声で名田に詰め寄ろうとしたが、それを南海と小折に抑えられた。
「では、僕が一緒に同行します。監視ではありません。彼が心配だからです」
小折が普段は決して見せない、怒りを含んだ口調で言い、颯真から手を離した。
「岐志先輩ももう到着するようですので、佐奈倉さん、説明しておいて頂けますか?」
「ああ、わかったよ」
南海も颯真から手を離し、小さく頷いた。
「颯真くん、行きましょう」
小折に促され、颯真は色羽の待つバックヤードへと引き返した。
そこではどうやら一連の流れを聞いていたらしい色羽が、俯いて待っていた。
「イロ、帰るぞ」
颯真の言葉に、力なく頷いた色羽はゆっくりとした動作で立ち上がり、颯真の横にぴたりと並んだ。
コンビニの前で待ち惚けを喰らわされていた比奈子と龍徹には既に小折が状況を説明してくれていたようで、色羽を見るなり二人とも心配気な表情を見せ駆け寄ってきた。
色羽はそれに弱々しい笑顔だけで応え、颯真の側から離れようとしなかった。
「優乃李は帰ってて」
色羽は涙目で自分を見る優乃李に、そう言い、颯真の腕を掴んだ。
「……連絡、待ってるね」
優乃李は小さな声で返し、颯真達に深々と頭を下げると静かに立ち去った。その姿は本当は自分も側にいたいと言っているようで、痛々しい。
「ごめんね、颯ちゃん。こんな姿で」
色羽から吐き出された言葉の意味がわかるだけに、颯真は何も返せなかったが、比奈子達は意味がわからないようで不思議そうな顔をしている。
「取り敢えず、帰ろ」
颯真は色羽の細い背を抱えるようにして自分の部屋へと向かった。
「状況だけ、詳しく教えてもらっていいか?」
比奈子が作ってくれたココアを小さく飲んだ色羽に問い掛けると、色羽は「もういいよ」と呟くように言った。
「どうしてだ?」
先程は颯真に犯人を捕まえて欲しい、と言っていた。なのに今は、もういい、と言う。色羽が名田の言葉を気にしているのはわかるが、だからといって、はいそうですか、と引き下がるわけにはいかない。
「……小折さんがいる前で言うのもあれだけど、警察が決して頼れる存在じゃねぇってのは知ってんだろ。だから、俺がお前の疑いを晴らしてやる」
それが自分が色羽にしてやれることだと思うから。いつも、自分のことを考えてくれて、女装までしている色羽に。
「ううん……大丈夫。小折さん達に任せるよ」
色羽はココアの入ったマグカップを静かに置きながら言う。それは、色羽が自分で買ってきたもので、可愛らしいひよこの柄が描かれている。普段の色羽ならばよく似合うものだが、今は違和感しか与えてこない。
「イロ……」
「本当にごめんね。咄嗟に颯ちゃんの名前出しちゃったから、あの人が颯ちゃんのこと呼んじゃったんだよね」
あの人とは、南海のことだろう。そういえば色羽はまだ南海とは会っていなかった。
というよりも、色羽と会うこと自体久し振りだった。麦沢の件のときの、様子がおかしかったとき以来だ。もしかしたら、あのとき様子がおかしかったのは彼女のストーカー被害で悩んでいたからなのだろうか。
「……俺、ちょっと出掛けてくるわ。小折さん、お願いします」
颯真がコートを羽織りながら言うと、それに合わせて比奈子もコートを着た。淡いクリーム色のコートだ。
静かに階段を下りる。さすがに真冬に雪駄は履かない為、ぺたぺたという音は鳴らない。
「女の子の格好でない色羽さん、初めて見ました」
比奈子が颯真の背後から言った。
「寒ぃから待ってていいぞ」
颯真は振り向かずに言う。
「いえ。私も、色羽さんの為に何かしたいです」
比奈子の強い声が降りかかる。静かなビルの階段でその声はよく響いた。
「……イロがあんな格好してんのはさ、俺の為なんだよ」
颯真は足を止め、呟くように言った。脳裏に浮かぶのは、いつも可愛い格好をした色羽だ。女物の服を着て、ウィッグを被り、化粧をする、どこからどう見ても女の子の色羽。しかし、今日の色羽は、どこからどう見ても男の子だった。
それは、本来色羽がするべき格好で、あれが本来の色羽の姿なのだ。
「どういうことですか?」
颯真の唐突な言葉に比奈子は少しだけ驚いたように颯真の隣に並ぶ。自分でも、何故このタイミングでこんな話を切り出しているのかわからない。ただ、それらは口をついて出てくるのだ。
「真子が殺されて、少ししたとき、あいつが学校にいきなり女物のワンピースを着てきたんだ」
労る教師陣に、どうしていいのかわからなそうにしていたクラスメイト。それでも家に居場所はなく、小学校に逃げるしかなかったとき、突然色羽が花柄のワンピースを着て登校してきたのだ。
誰も、何も言わなかった。
颯真と色羽が仲が良いこと、色羽も真子を妹のように可愛がっていることを皆知っていた。だから、何も言えなかったのだろう。もしかしたら、頭がおかしくなったと思ったのかもしれない。
その頃の色羽は本当に女の子のような顔立ちをしていて、ワンピース姿も違和感はなかった。むしろ、男物の服よりも似合っているのではないかと思えるほどだった。
色羽はそんな姿で、颯真に近付いてきた。
おはよう、颯ちゃん。
それまでと変わらない笑顔でそう言って。
「……あいつは、イロは……真子の代わりを務めようとしてるんだよ」
今まで、決して口にしなかった言葉。それを表に出すと同時に、涙が溢れた。
──そうなのだ。
色羽は、颯真にとっての真子になろうと、女物の服を手に取ったのだ。そうして、真子を失った颯真を、家族を失いつつある颯真を慰めようと、颯真の心を守ろうとしてくれたのだ。
「イロは、イロなのに……なのに、あいつは真子になろうとしてるんだよ」
だからこそ、色羽は颯真の前では決して男の子の格好をしなくなったのだ。夏頃に女装も出来ないくらい体調を崩していたときの一度きりだ。それだって、男の子の格好、と呼べるものではない。今日のように、「普通」に男の子の格好の色羽を見たのは遠い昔だ。
いつもいつも、年頃の女の子ように可愛い服を着て、可愛くメイクをして颯真の傍にいた。いてくれたのだ。
だからこそ、家に帰らなくなったときも色羽を邪険に扱うことは出来なかった。自分の為に生きているような色羽を突き放すことは出来なかった。
本当はそうしてやらなきゃいけないことはわかっていた。
「イロはイロの人生を歩かなきゃなんねぇんだよ……」
自分の、先の塞がれたような人生に色羽を巻き込んではいけない。色羽は、先の明るい人生を歩まなきゃいけない。
早く、男の子の格好に戻らなきゃいけない。
全部わかっていた。そうするべきなのも。そうしなきゃいけないことも。けれど、出来なかった。
色羽の気持ちを汲んで、ではない。自分が色羽から離れられなかっただけだ。女の子の格好をする色羽が、真子のようで、そんな優しい色羽と離れることなど考えられなかったのだ。
「俺は……イロがいたから、なんとか立っていられたんだよ」
颯真は階段に蹲り、涙を溢した。颯真の為に女の子の格好をしてくれた色羽がいなかったら、今の颯真はいなかっただろう。もっと人の道に外れた生き方をしていたか、自ら命を断っていたかもしれない。
「颯真さんがグループを抜けたのは、色羽さんの為、なんですね」
比奈子の言葉に、嗚咽を噛み殺しながら頷く。
その通りだった。颯真が真っ当な道を歩き始めれば色羽も女の子の格好をやめるかもしれないと思ったのだ。しかし、それでも色羽が格好を改めることはなく、颯真の傍を離れることもなかった。
「俺は、ズルい……。ずっと見て見ぬ振りを続けてきた……」
涙で上手く声にならない。すると、ふんわりと何かに背中が包まれた。それが比奈子の身体だと認識するには少しの時間を要した。
「颯真さんはズルくなんて、ないです。きっと、色羽さんもそんな颯真さんに救われているんだと思います」
慰める為の言葉だとわかっても、颯真の瞳からは止めどなく涙が溢れた。自分が色羽にしてやれていることなど、何もない。本当は見て見ぬ振りなどせず、最初に止めるように言うべきだったのだ。
颯真は比奈子の腕にすがるようにして泣き声をあげた。
漸く落ち着いた颯真は積もった雪で腫れぼったく感じる瞼を冷やしながら、比奈子へ謝罪の言葉を告げた。
「……悪かった。みっともないとこ見せた」
少しの恥ずかしさを隠すように、颯真は比奈子の顔を見ずに言った。まさか、年下の少女に泣いているところを見せる羽目になるとは思わなかった。
「いえ、そぐわない言葉ですが、嬉しかったです」
比奈子はそれに、柔らかい声を返してきた。
「颯真さんは、絶対弱い部分を見せてくれないと思っていたので」
それは、見せないようにしているからだ。弱い部分など、誰にも見せたくない。時折小折には見せてしまうが、それは彼が比奈子や色羽と違い、ある意味第三者だからだろう。
勿論、それは悪い意味ではない。小折としての安心感のようなものがあるのだ。
「色羽さんには、ずっと言わないつもりですか?」
それは、もう、真子の代わりはやめていい、ということだろう。
「……言ってやりてぇよ。もう、いいんだ、て。でも、俺はまだそこまで強くなくて、イロの傷付いた顔も見られない」
颯真がそのことを口にすれば、きっと色羽は傷付くだろう。そして、颯真の傍からいなくなる。颯真にはまだ、その勇気がなかった。色羽を失う強さがないのだ。
「でも、言うわ。この事件を解決して、イロに言う」
颯真はそう決心し、立ち上がった。
「色羽さんは、颯真さんの傍からいなくなったりしません。でも、もし、万が一、それでも色羽さんがいなくなってしまっても、私がいます。私はずっと、颯真さんの傍にいます」
比奈子は笑顔で言い、颯真の雪で冷えた手を握った。そこが急激に熱を持つのがわかり、颯真は慌てて比奈子から手を離した。
「ガキが生意気言ってんな」
「ガキじゃないですっ。私は真剣に言ってますっ」
比奈子はそれでも尚、颯真の手を取ろうとした。
「ほらっ、行くぞっ。早く事件を解決させるんだからな」
颯真は反対に比奈子の手を取り、雪の積もった道を歩き始めた。ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みしめながら、比奈子の手を強く握った。
──どうして、こんなにも傍にいてくれる人がいるのか。
颯真はその想いを噛み締めながら、少し解け出している雪を踏みしめた。
「まずは、色羽の彼女に話を聞きたいんだけど……」
だけれど、勿論連絡先などは知るはずもない。連絡先どころか、色羽に恋人がいるということ自体、今日知ったのだ。
「可愛らしい雰囲気の方ですよね」
「え、お前、知ってたの?」
比奈子の言葉に颯真は驚きを隠せずに言った。
「あ、はい……知ってました。色羽さんからお聞きしてたんですが、颯真さんには言わないで欲しい、と。あ、でもそれは、私が色羽さんを警戒しないように教えてくれたことで」
「いい、いい。わかったから」
颯真は慌ててフォローの言葉を紡ごうとする比奈子を制止した。手はまだ繋がれたままで、どちらからとも離す気配はない。
「色羽の優しさだろ?」
それは、色羽なりの気遣いなのだろう。対人恐怖症である比奈子が、男性である色羽と二人きりになったりすることに警戒心を抱かないように、との心配りだ。
恋人がいるから、比奈子をそういう目で見ることはない。だから、安心していい、ということだ。
「私、アルバイト先ならわかります」
比奈子は明るい声を出して、笑顔でそう言った。空はいつの間にか澄んだように晴れ渡っていて、雪が再び降りだす気配は微塵もなくなっていた。
駅の近くに店舗を構える、チェーン店のカフェ。人魚だかをモチーフにした看板で有名な店だ。しかし颯真はこの手の店が苦手で、一度も足を踏み入れたことはない。
まず、お洒落過ぎる雰囲気が自分とはそぐわなすぎて入ることを躊躇う。次に、メニューがどう注文したらいいのかがさっぱりわからない。
一度、ここではない、他の店舗へ色羽に無理矢理連れていかれたことがあるのだが、そのときの色羽はまるで何かの呪文を唱えるようにして注文をしていた。颯真は色羽と並んでメニューを眺めていのだが、何がなんだかさっぱりわからなかったのを覚えている。しかし、それと同時に、飲むかき氷みたいなものが異様に美味しかったことも覚えていた。
「あ、いた」
レジに並数人の客の向こうに、目当ての人物はいた。小柄なボブスタイルの少女は間違いなくそれだ。しっかりと化粧をした顔は今朝よりも数段大人びて見え、少女というよりも女性だった。
優乃李は愛想のいい笑顔で接客をしている。
「どうしますか?」
比奈子も優乃李に気付いたようで、小声で颯真に問い掛けてきた。どう見ても仕事中。こんななかで色羽の話など出来るはずもない。
「休憩時間か、終わる時間を聞くか」
そうして、彼女の時間が空くのを待つ他ないだろう。比奈子もそうですね、と頷いて慣れた様子でレジへと続く列に並んだ。
「いらっしゃいませ」
レジ前に到達すると、優乃李が殊更愛想のいい笑顔を向けてきた。颯真に気付いてのことだろうと、颯真はメニューを見る振りをしながら優乃李に尋ねた。
「休憩時間か仕事終わってから話がしたい」
すると優乃李が何かを発する前に、その隣から声を掛けられた。それは優乃李の隣のレジに立つ女性だった。
「ちょっと、なんなんですか? ナンパならやめて下さい」
きつめの顔立ちの女性は若干声を尖らせてはいるが、他の客には聞こえないような大きさだ。ちょうど、颯真達で列は途切れ、すぐ近くに客はいないが、少し離れたところには飲み物が出来上がるのを待つ客達がいる。
「は?」
颯真は突然浴びせられた言葉に、間の抜けた声を出してしまった。
「よくいるんですよね。この子をそうやってナンパしてくる男」
女性は嫌悪感を露にした声を出す。
「え、いや、俺はナンパじゃ……」
「ナンパなんかじゃありませんっ」
颯真が弁解をする途中、比奈子がそれを遮るようにして声をあげた。そこには微かな怒りを感じる。
「この人は私の知り合いで、この方の恋人の親友です。先入観で失礼なことを言うのはやめて下さい」
比奈子は強い口調で言うが、語尾が震えている。それもそうだろう。この頃は人と接するのは大分平気に見えるが、本来彼女は対人恐怖症の気があるのだ。
麦沢の店でアルバイトを始め、かなり改善されたようには思えるがそう簡単に克服出来るものではない。
「あ……大変失礼致しました」
きつめの女性は突如表情を変え、慌てて頭を下げた。優乃李と同じようなボブスタイルが揺れる。
「ああ、いや、大丈夫っす」
颯真は他の客が気付かぬよう、小さめの声で対応をした。
「一時間後には終わるので、それまで待っていて下さい。飲み物、ご馳走しますから」
優乃李はにこりと笑って言い、何にしますか、とメニュー表を颯真達の前に翳してくれた。