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その日は珍しく、昼頃に比奈子がパンを抱えて颯真の部屋を訪れた。隣には今日も見事なまでに女装をした色羽を従えて。──この表現は誇張ではなく、この日はいつもと違い、色羽が比奈子を連れてきたというより、比奈子が色羽を連れてきた、といった具合だったのだ。
その証拠にとでもいうか、色羽はどこか浮かない表情をしていて、普段のように騒がしい声を出さない。
「どうした? 具合でも悪いか?」
颯真はそんな色羽の様子に、挨拶をする前にそう尋ねた。
「ううん、違う」
色羽は緩く首を横に振り、それだけ答えた。心無しか、化粧も普段より薄く見える。
「あの、私がいきなり連絡して誘ってしまったんです」
それを庇うように比奈子が言う。どうやら、比奈子は色羽が普段と違う様子の理由を知っているようだ。それだけでふと、つまらないような気分になってしまうのは颯真の勝手だ。
「まあいいや。入れよ」
颯真はそれ以上突っ込むことはせずに、二人を部屋に招き入れた。昨日珍しく掃除をした部屋は、いつもより片付いている。二人ともそれに気付いたようで、片付いた部屋を少しだけ不思議そうな表情で見回している。
これが普段であるならば、何かしら暴言にも近い言葉を吐き出すところだが、色羽の様子が気になりそんなことも忘れていた。
「今日、バイト午前中だけだったのか?」
颯真は比奈子が手にしている「さいこ」の袋に視線を向けながら訊いた。
「あ、はい。そうなんです。それで、パンを沢山戴いたのでお裾分けにと思いまして」
というのは建前で、本当は颯真と昼食を共にしようと思い、でも二人きりは恥ずかしいし、と色羽にも声を掛けたのだろう。しかし色羽は乗り気でないのか、それとも何か不機嫌なのか、いつもと様子が違う。
「沢山あるので、好きなものを選んで下さい」
比奈子は言って、テーブルの上にパンを並べ始めた。その量はどう見ても貰った、というものではない。幾つかは本当に麦沢から渡されたものだろうが、他に自分でも購入したしたのだろう。颯真と一緒に食べる為に。
比奈子のそういった健気さは可愛いと思うし、それを口に出したくもなるが、敢えて飲み込んだ。貰ったにしては多いパンの数のことすら突っ込まずにおく。
「色羽さん、メロンパン食べますか?」
「うん、ありがと」
色羽はいつもと比べ控えめな笑顔で言い、比奈子からメロンパンを受け取った。何が原因なのかはわからないが、隠しきれていない様子を見る限りは、颯真に起因するもの、もしくは隠せないほどのもの。色羽は基本的には自分の機嫌やら体調を相手に見せることはしない。
いつも一定を保つようなタイプだ。
しかしそれが表に現れてしまっているというのは自身でどうにもならない場合だということ。けれど本人がそれを口にしない限り、聞き出すのは難しい。色羽は本来、頑固な性格なのだ。
「そういえば、颯ちゃん、比奈子ちゃんのストーカーと間違われたんだって?」
色羽は自分の調子を隠すように颯真に話し掛けてきた。それでもその口調は無理矢理明るくしようとしているようで、放っておくには忍びないものに見える。しかし、とも思う。それに気付かない振りをした方がいいのではないか。そろそろ、色羽とは離れるべきではないのだろうか。
そういった考えが颯真の頭にもたげる。
颯真と一緒にいる限り、色羽は真子のことを忘れることは出来ないだろう。
「え、ああ、んなこともあったな」
取り敢えず今はそのことは置いておき、颯真はそう返した。南海のことは今思い出しても軽く腹は立つ。素行不良の少年をいっしょくたに穿った見方をすることが許せないからであって、別に比奈子のストーカーだと勘違いされたからではない。
「ま、しょうがないよね。誰だって、比奈ちゃんと颯ちゃんが知り合いだとは思わないよ」
色羽はあまり食欲がないのか、小さな口でメロンパンをかじりながら言った。
「うるせーなー」
それは颯真にも否定出来ないことだった。時折比奈子と外で待ち合わせをすればナンパだと間違われるのともあるくらいだ。清純な見た目の比奈子と、金髪姿の颯真とではどうにも釣り合いが取れないのだろう。
「南海さんは、悪い方ではないんですよ」
颯真がコロッケパンにかぶりついたタイミングで比奈子がそうで口にしたので、颯真はパンに立てた歯を止めた。
「ふぉ?」
パンを加えたままの状態で思わず声を出した為、何とも言えない声になる。
「おー、比奈ちゃんがその人を庇った」
いつの間にかいつもの調子を取り戻しているらしい色羽がやや大袈裟な口調で言った。
「え、いえ、その、庇ったとかではなくて、本当に悪い方ではないんですよ」
しどろもどろになる比奈子の様子を目を細めて見ながら、パンをかじる。颯真の胸の奥が、モヤモヤとしたもので埋め尽くされていく。
「へー……そうなんか」
颯真は口に含んだパンを飲み込んでからそれだけを言った。
「つまり、俺の見た目が悪い、と」
「そんなこと言ってないじゃないですか」
颯真の発言に比奈子が頬を膨らませる。その仕草は異様なほどに可愛いが、それに反応している余裕はない。
「だって、そういうことじゃねぇか。あいつは悪い奴じゃない。つまり、こんな見た目だからああいった扱いを受けるわけだ、と」
自分でも気付いていなかったが、どうやら虫の居所が悪いらしい。それは比奈子が南海を庇うような発言をしたのが原因でもあるが、そもそもは色羽の調子がいつもと違ったせいだろう。
突き放さなくては、と思いながらも色羽がいつも頼るのは自分なんだと、心のどこかで傲っていたのだ。だから、色羽の様子がおかしいことを比奈子が知っていて、けれども自分には明かされないことに納得がいっていない。
比奈子がそれを知っていることが嫌なわけではない。色羽が颯真の他にも頼ったり、心の内を明かせる相手がいるのはいいことだと思う。しかし、この状況はまるで自分だけが除け者にされているような感覚になるのだ。
比奈子の発言にしても、色羽のことにしても、要は嫉妬だ。そして、そのどちらにしてもこれは自分の我が儘だ。
どちらにしろ、自分が問題を宙ぶらりんの状態にしているせいだ。
とはいえ、颯真にはまだ幼い部分がありそれを簡単に飲み込んで普通に接することは出来なかった。
「そういう意味じゃありません」
「じゃあ、どういう意味だよ」
颯真は下から睨むようにして、立ったままの比奈子を見上げた。比奈子は一瞬それに怯むような仕草を見せたが、小さな唇をきゅ、と結んで颯真を見下ろしている。
こんなときでも少しずつ逞しくなっていく比奈子を嬉しく思う自分がいた。
「颯ちゃん、言い過ぎだと思うよ」
そこに、少しの間黙っていた色羽が静かな声を出した。
「あ? そもそもお前が出した話題だろうが」
虫の居所というのは徐々に場所を変え、症状を悪化させる。それは宥めてくれる相手がいなければいつまで経っても落ち着くことはしないのだ。
「それは八つ当たりだ。それに、今の颯ちゃんの意見は大分捻くれてるよ。自分でだって、わかってるでしょ」
色羽は少しも口許を緩めることなく、淡々とした口調で言った。こんな色羽を見るのは初めてなように思える。
「おい、こら。何だって」
「そうやって威嚇すればいいと思ってるところ、いつになったら大人になるんだよ。颯ちゃんがその南海って人に酷い扱いを受けたのは見た目のせいじゃない。そういった態度のせいだ」
的を得た色羽の言葉は颯真の胸に刺さった。確かに、そうだ。南海はあのとき、見た目についてはほとんど何も言わなかったように思う。いや、言ったかもしれないが、記憶に残るものではない。
南海が咎めたのは、颯真の態度だ。
南海も敢えて颯真を煽るような物言いはしていたが、それは颯真が冷静に相手をしていれば済んだことだ。少なくとも、麦沢に迷惑を掛けることはなかったように思う。
「はぁ、僕、もう帰るね。比奈ちゃん、折角誘ってくれたのにごめんね」
色羽は比奈子に軽く頭を下げると食べ掛けのメロンパンを手にして颯真の部屋を出ていった。その後ろ姿は苛立っているというより、もどかしさを感じているように見えた。
「何だよ、あいつ」
颯真は意外にも静かに閉まった扉に視線を向けたままぼやいた。
色羽がこんなふうに、負の感情を露にするのは珍しい。全くないわけではないが、何気ない時に出すのはあまりないことだ。
「色羽さん、ちょっと色々とあるみたいで……」
比奈子は少し気落ちした様子でぽつりと溢した。やはり、比奈子は色羽の様子がおかしい理由を知っているようだ。
「でも、色羽さんも、南海さんの言動は許せないみたいですね」
先程まで颯真と言い合っていたのが嘘かのように比奈子は大人しい口調で言った。手元ではコーンマヨパンを軽く弄っている。それは颯真の好物で、しかもさいこの人気商品だ。麦沢から貰ったのではなく比奈子が買ったのであろうことが容易に想像がつく。
「は? 今ののどこがだよ」
颯真は食べ掛けていたコロッケパンを再びかじりながら返した。先程のはどう聞いても南海の言動を肯定しているようにしか聞こえなかった。
「気付きませんでしたか?」
比奈子は少しだけ不思議そうに顔を傾けた。今日は束ねていない髪がはらりと揺れる。
「はにはぁ?」
パンを加えたまま返した為、ほとんど言葉になっていない颯真の声が静かな部屋に響く。
「色羽さん、酷い扱い、と言ったんですよ」
颯真は先程の色羽の言葉を思い返してみたが、苛立っていたせいか詳細までは思い出せない。
「颯真さんが南海さんから酷い扱いを受けたのは、と言ったんです。それは、色羽さんが南海さんの言動に怒っているということですよね?」
言われてみればそうだ。もし、怒っていないのであれば「そういった扱い」と言うはずだ。しかし、比奈子の言うことが本当であれば色羽は「酷い扱い」と称したのだ。それは、色羽の怒りを表しているということだろう。
「……後で連絡するわ」
颯真は口に含んだパンを飲み込んでから呟くように言った。それに比奈子がほっとしたように頷く。
「お前にも、悪かった」
颯真がぽつりと言うと、比奈子はきょとんとしたように目を丸くして颯真の顔を見てきた。元々大きな目が更に大きくなり、まるで小動物のようだ。
「いや……言い過ぎたな、と」
「私は気にしてませんよ?」
「あー、いや、俺自身、格好であれこれ言われるのは慣れてるっつーか、当たり前だとはわかってんだよ」
しかし、変える気は今のところはない。今の格好にポリシーを持っているわけでもないし、わかってくれる人がいればいいだとか、そんなそとを考えているわけでもない。
ただ、なんとなしに決まったことを変えるということが出来ないのだ。髪を黒に戻して、きちんとした服を着る。それは簡単なことに思えて、実のところ物凄い労力を使うことだ。
そして、そんな風貌になった自分を鏡で見る度に違和感を覚える。そう考えるとなかなか行動には移せない。
「颯真さんの格好は、確かに人から見たら誤解を受けることもあると思います。でも、きちんとした格好をしている人の全てが善人なわけじゃありません」
比奈子の声が少しだけ震えていることに気付いた。恐らく、自分の兄を殺した人間のことを思い出しているのだろう。それは、きちんとした格好をしている人、などというレベルではなく、警察官という、仕事まできちんとした人間だったのだ。
「それに、颯真さんは、その格好のままでも十分……」
比奈子は今度は普段は白い頬を赤らめて小さく俯いた。そのあとに続く言葉は容易に想像出来る。颯馬はそれを遮るように、小さく「わかったから」とだけ返した。
それは比奈子の好意を遮ったわけではなく、たんに恥ずかしかったからだ。そのまま、比奈子の口から想像した言葉を紡ぎ出されたなら、こちらまで顔が赤くなっていただろう。
しかし比奈子はそんな颯真の心境など知らない為、しょんぼりとした様子で口を閉ざした。
「色羽、どうしたんだかな」
颯真はそれには気付かない振りをしながら話題を変えた。
「……色々と、あるみたいです。あ、でも、そのうち色羽さんから颯真さんには伝えると思いますっ」
比奈子は何故か力説するように言ってきた。恐らく色羽から口止めされていて、颯真に言えないことを心苦しく思っているのだろう。
「男女の友情って、成立すんだな」
そんな比奈子の様子を見ながら、颯真は笑みを浮かべた。
「え?」
それに比奈子がきょとんとした顔をする。大きな目がくり、と動く、なんとも可愛らしい表情だ。
「いや、イロにもお前にも友達が出来て良かった、て話だよ」
颯真は心から言い、比奈子が持ってきてくれたパンを物色し始めた。そこには旨そうなものしかなく、どれを食べるか迷ってしまうほどだった。
「お久し振りです」
その声に颯真は小さく心臓が震えるのを感じた。
今はバイト帰りにコンビニで夕飯を買い、帰路についていたところだ。
古くからある商店街は店仕舞いが何処も早く、九割の店のシャッターが降りていて昼間のそれとは別世界のように静かで暗い。そんな夜道、背後から知った声に挨拶をされた。
颯真は僅かに痛むような心臓が落ち着くのを待ってから、ゆっくりと振り向いた。そこでは、天使のよう容貌をした少年が美しい笑みを携えて立っている。
淡い栗色の髪はふわふわとした猫っ毛で触れたなら嘸や柔らかそうだ。肌の色は透き通るような白さで夜目にもそれははっきりとわかる。カラーコンタクトで色付けた瞳は綺麗な翡翠色。それは元の瞳の色が純粋な日本人とは違うからこそ起こる現象だろう。
顔の造作は端整どころの話ではない。モデルや俳優のようだという言葉が陳腐な誉め言葉に思える程の顔立ちは、誰かが理想の人形を造り上げたかのようだ。
すらりと伸びた手足や甘い顔立ちとは少々不釣り合いに思える長身は日本人離れしていて、人目を引く。ハーフだからこその部分も無論あるのだろうが、彼の造形美はそんな言葉では片付けられない。
「お前か」
声でわかってはいたのだが、颯真は微かな動揺を隠すようにそう口にした。
──何故だろう。
彼──冠城 エメルは颯真の言葉に「そうです、僕です」とにこやかに返してきた。しかしその微笑みから温かさは微塵も感じられない。
エメルの顔を見るなり、穏やかでない感情が沸き上がる。胸の奥がざわつき、足元が落ち着かなくなる。
怒りにも似たものも僅かにあり、それは龍徹の友人の一件のせいだと見当は付くが、胸のざわつきに心当たりはない。嫌な予感とでも言うのか、兎に角落ち着かない気分だった。
【Fascination】
彼が龍徹に教えたというサイトの存在を思い出した。それについては警察が調べているらしいが、未だこれといった有力な情報は得られていないらしい。
そもそも、あのサイトが犯罪を誘引しているというのは立証出来るものではないと小折が言っていたことも同時に思い出した。仮にあのサイトを作った人間を割り出せたとしても、何かの罪に問うことは難しいだろうとのことだ。
直接当人に殺人教唆をするわけではないのだから、当然と言えば当然だろう。
以前、世の中で自殺についてのマニュアル本などが流行ったらしいが、それだって書いた本人が罰せられることはないのだ。自殺と殺人は大きく違うのかもしれないが、人の殺し方を記しているという時点では同じだろう。
「どうかされましたか?」
黙り込んだ颯真にエメルが首を傾げて問い掛けてきた。
「……いや、どうもしねぇ」
颯真はそれだけ答え、踵を返そうとした。これ以上エメルの顔を見ていると気分が悪くなりそうだったのだ。
「さいこのご主人の奥様の件は、何もされないんですか?」
動きかけた颯真の背中に、エメルの静かな声が降りかかる。天使の声というのがあるならば、こんな声なのだろうと思えるほどに澄んだもの。
「何の話だ?」
颯真は少しばかり声を低くし、顔だけをエメルの方へと向けた。くっきりとした二重瞼の瞳が弓形を描く。
「いえ、颯真さんはてっきりまた、事件を解決するのかと思いまして。お優しい方ですし、被害者遺族の気持ちは痛いほどにご理解出来るでしょうからね。ご主人の為にも、犯人を見付けて差し上げるべきだと思いますよ」
エメルが何故このようなことを言っているのか全く理解が出来ないのは、突っ込むべきところが多すぎるせいだろう。
何故彼が、颯真が幾つかの事件を解決に導いたことを知っているのか。何故彼が、颯真が被害者遺族だということを知っているのか。エメルに真子の話をしたことはない。
「……お前は、何者なんだ」
「僕は、冠城エメルでしかありませんよ」
エメルは笑んだままそれだけを答えると、颯真の言葉を待たずに去っていった。軽い足取りの後ろ姿から目が離せず、エメルの姿が見えなくなるまでそれを目で追い続けた。