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小折の話では、麦沢の妻は自宅マンションで殺害をされていて、挙げ句、当時妊娠三ヶ月だったらしい。麦沢は妻とこれから産まれてくるはずだった我が子を同時に失った。
──そして、その犯人は未だに捕まっていないらしい。
比奈子と出会った事件のとき、麦沢は颯真より先に比奈子の兄を殺した犯人に気付いていた。きっとそれは、刑事のときに培った能力のお蔭だろう。
あのときそれに僅かに感じた違和感の正体が漸くわかった。
麦沢の辿った悲惨な運命。けれど今、麦沢は穏やかな顔で笑っている。
「奥様が、パンを焼くのがお好きな方で、いつかパン屋を開きたいと仰っていたそうです」
そして、麦沢は自身の退職金と貯金を全て遣い、「さいこ」をオープンさせた。妻が残したレシピを基に、妻の名である「沙伊子」を店名にして。
颯真にユキに麦沢。
元々この商店街の生まれではなく、家族を失い、流れ着いた者達。この商店街の温かさは、そういった者を受け入れてくれる場所なのだ。
「……そんなことがあったんすね」
颯真は小折から話を聞き、息を吐いた。吐く息は白く、いつの間にか冬が訪れていたことを嫌でも知らされる。
「刑事を辞めるには惜しい方でした。でも、捜査に加われないのであれば、警察にいる意味はない、と」
身内が事件に巻き込まれた場合、捜査から外されるのが常らしい。それは、どうしても私情が入り、冷静な判断を下すことが出来なくなるから。
その理屈はわかる。けれど、誰よりも犯人を逮捕したいのは、被害者の家族なのではないか。その気持ちは、颯真自身、痛いほどに理解出来た。
「麦沢さんは、犯人を探すことを諦めたんすか?」
妻の夢であったパン屋を早々に開始したことを考えると、あまり後ろを向いている時間はなかったように思える。それとも、そういったことでも始めない限り、抜け出せない闇に浸かってしまいそうだったのか。
どちらにしても、気力のある人間だと思う。
家族の死から逃げ、自ら出口を塞いだ颯真とは違う。
麦沢もユキも、強い。それは悲しみの差などではなく、本人の強さなのだと思う。
「いえ、麦沢先輩は、独自で捜査しているという噂もあります。それは、今も。なので、佐奈倉さんがあの店に出入りしているのかと」
南海の優男風の顔が脳裏に浮かぶ。垂れ目は一見人が好さそうに見えるが、その実、あの男は違う。
「え、でもあの人、少年係なんすよね?」
「麦沢先輩の奥様を殺したのは、未成年なのでは、と言われていまして」
──未成年の犯罪は昨今増えている。
それはどのニュースでも耳にすることだ。
「そうなんすか?」
颯真は眉間に皺を寄せた。別に、未成年全般が悪いわけではない。大人だって人を殺す。今まで颯真が遭遇してきた事件だって、そういったものが多かった。
とはいえ、幽霊屋敷の事件のように、まだ中学生だったこどもが数人を殺害したという事例もあるにはあるのだ。
「はい。なんと言いますか、殺害方法があまりに稚拙だと」
「稚拙?」
殺し方に大人もこどももあるのかと首を傾げる。
「麦沢先輩の奥様──沙伊子さんは、腹部を数ヶ所刺されていました。それは、自宅の包丁で、です。随分と抵抗した跡もあったことから──自宅マンションの中は沙伊子さんが逃げ回ったようで大分荒れていたんですが、計画性のない殺しだと言われていました。そして、遺体は転がったまま放置。自宅内の金品は奪われ、玄関の扉は開いたままでした」
それだとどうして稚拙になるのか。颯真からしたら、空き巣を狙ったが家主がいて、つい殺してしまったようにしか思えない。それを警察では稚拙と表し、未成年の犯行と結び付けるのだろうか。
「大人であれば、錯乱状態でも、多少は痕跡を消す努力をするだろうというのが当時の捜査本部の見方でした」
部屋を荒らし、玄関の扉も開けたまま。そこに幼さを見出だしたということか。
颯真の心情を読み取ったらしい小折の説明も颯真を納得させるには至らなかった。
「でも、それなら簡単に犯人が見付かりそうじゃないすか? マンションの防犯カメラとか、指紋とか」
それだけ痕跡を消していないのなら、犯人に繋がる情報など幾らでも残っていそうなものだ。なのに、未だ犯人は逮捕されていないというのはおかしな話に思える。
「それが……運悪くと言いますか、マンションの玄関口の防犯カメラは当時壊れていて、管理人の無精のせいで直されていなかったんです。そして、戸数の少ないマンションの為、廊下や階段にカメラはなく、エレベーターの物には怪しい人物は映っていませんでした。それと、指紋は麦沢先輩の奥様に無関係な人間の者は出てきませんでした」
小折は颯真の問いに丁寧に説明をしてくれた。
それはなんとも運が悪い。防犯カメラが作動していれば、住人と住人の関係者以外の人間が出入りしているのなど、簡単に判明するというのに。それに、他の痕跡は消していないのに、指紋だけはご丁寧に拭き取ったというのも、腑に落ちない。
「でもそれって、反対に防犯カメラが壊れていることを知ってた奴の犯行ってことになりません?」
取り敢えず、颯真はカメラのことを口にした。指紋に関しては、どんなに焦っていてもそこだけ冷静に判断出来た可能性もあるし、手袋をしてたということも考えられるからだ。
防犯カメラが壊れていることを知っているからこそ、出入りをした。その可能性は十分にある。しかし、とも思う。そんなことを知っているとしたら住人だろうし、住人ならば防犯カメラが壊れていても壊れていなくても関係はないはず。
颯真は自分で言ってから、重要なことではなかったと思った。そしてそれを、そのまま口にする。
「あ、いえ、それは重要なことですよ。もし、住人が犯人であるならば、防犯カメラが壊れていれば嘘のアリバイを作れます。その時間、マンションに出入りはしていない、と」
そうか、と颯真は頷いた。もし防犯カメラが正常に動いていたならば、その時間帯に映っていた者は疑われる。しかし、事件よりずっと早くマンション内に入り、事件を起こしてから自分の部屋にずっと籠っていれば話は別だが。
そう考えると、マンションで事件を起こすことなど容易く思える。
「当初は住人が犯人の可能性も疑われました。玄関口の防犯カメラが壊れていることを知っていて、階段を利用し、犯行に及んだ、と」
そうすればエレベーターの防犯カメラに映ることもない。自分がその時間、マンションや被害者の階にいたという証拠はどこにもないのだ。
「でも、見付からなかったんすね」
颯真の言葉に小折が頷く。恐らく、小折は当時その事件の捜査に加わっていたのだろう。
「情報がなさ過ぎたんです。先程、未成年の犯行と思われるほど稚拙だと言いましたが、同時にカメラのことなどを全て考慮しているとしたら、反対に犯人は狡猾だということになります」
確かにこれが未成年の稚拙な犯行ならば、犯人はエレベーターなどの防犯カメラに映っていたことだろう。しかし、それくらいの知識を持ち合わせている可能性だってある。
漫画にしろ、ドラマにしろ、世間にミステリー作品は多い。昨今はそういったものから知識を得て、それをヒントにする未成年が多いのも確かだ。
だからこそ、未成年の犯行だと疑われたのかもしれない。
「反対に、カメラが壊れていたことがただの偶然っていう可能性もありますし」
だからこそ、犯人像を絞れなかった、と小折は悔しそうに言う。小折がこういった笑顔以外の表情を見せることは非常に珍しい。
尊敬する先輩の妻が殺された。それは、小折にとって衝撃的なことで、絶対犯人を逮捕したかったのだろう。
「発見したのは麦沢さんだったんすか?」
家族が絶命する姿を見る恐怖。それは颯真の中で決して消せないことだった。血塗れで倒れ、生きているときとは別人のような姿。
「いえ、第一発見者は佐奈倉さんでした」
「え?」
何故、そこで南海の名前が出てくるのだろう。
「ああ、佐奈倉さんは麦沢先輩の奥様の幼馴染みだったんです。麦沢先輩と奥様を引き合わせたのも佐奈倉さんだと聞いています」
成る程、と颯真は頷いた。
「佐奈倉さんが麦沢先輩の自宅マンションに行くと、扉が開いたままになっており、何事かと部屋に入ると……奥様が絶命されていたそうです」
友人の死を目撃したということになる。
「佐奈倉さんがいたので、現場や遺体は手付かずのまま保存され、そのまま警察へと通報したようです」
刑事であるならば、余計なことは一切しないだろう。無論、気は動転しているであろうが、職業柄やるべきことはわかっていたということだ。
「その後、約束をしていた奥様の弟さんが到着し、二人で聴取に応じたということです」
「ん? 佐奈倉さんは特に約束はしてなかったんすか?」
「そうみたいです。その日は奥様の誕生日で、非番だったので何かプレゼントをしようと思い立って、驚かせようとアポなしで訪れたそうです」
そうしたところで驚愕を味わったのは自分だったということだ。
世の中には憎むべき偶然は嫌というほどにある。そういったこともあるだろう。
「空き巣の犯行なんすかね?」
未成年の空き巣。いないことはないだろうが、どうにも釈然としないものを感じた。
「それが曖昧でして。確かに部屋は荒らされていましたし、金品も奪われていました。ですが、空き巣に見せ掛けた犯行、というのも存在しますしね」
そうだとすると、麦沢の妻を殺すことが第一目的となってしまう。
話を聞けば聞くほど、未成年の犯行とは思い難いものがあった。
「あと、未成年の犯行だと言われるのには大きな理由がありまして。佐奈倉さんなんですが、被疑者の扱いや、事情聴取のとき、未成年にも容赦ないんですよ。なので、佐奈倉さん経由での恨みによる犯行ではないか、という見方もありまして」
納得出来るような出来ないような。颯真は小折の話に首を捻った。
ちょっと、遠すぎやしないかと思わずにはいられない。しかし、佐奈倉にとっての大切な人物が麦沢の妻しかいないとなれば、それも有り得ることなのかもしれない。
「なんかなぁ、こじつけっていうか」
颯真はぽつりと溢す。それに、小折がどうしました、と小首を傾げた。小折はどんなときも品の良い仕草をする。それが彼の育ちの良さをいつも物語っている。
「いや、なんていうんすかねぇ。そう思うようにされてるっていうか。うーん、なんだろ」
「仕組まれてる感ですか?」
「そう、そんな感じっす。そう思わされてる気がするんすよね」
颯真はうーん、と唸り声を上げた。
幾ら人を憎むからといって、関係する人を殺していたらきりがない。一人に対して関係する人間なんて、沢山いるはずだ。
颯真は素直にそれを口にした。
「でも、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』て言葉もありますしね」
「ん? なんすか、それ」
小折が放つ言葉に颯真は首を傾げた。諺なのだろうか。その言葉を颯真は初めて耳にした。
「ああ、お坊さんのことが憎いと、袈裟──お坊さんの着るものまで憎い。つまり、その人に関係するものならなんでも憎いと感じてしまう、という意味です」
しかし小折はそんな颯真を馬鹿にせずに教えてくれた。
颯真は説明された言葉に、そうか、とも思った。確かにそういったことはあるかもしれない。
些細な事例ではあるが、嫌いな人間の好きなブランドや芸能人に良い感情を抱かず、それ自体には理由など全くないのに嫌悪感に似たものを覚えることはある。それは相手に対する憎しみが強ければ強いほど顕著で、それを踏まえると実在する人物に向かう可能性だってなくはないのかもしれない。
しかし、そういった動機から探していけば犯人はすぐに逮捕出来たのではないだろうか。南海がかつて関わった少年達の身辺を洗っていけばいいだけ。
つまり、ここまで小折が口にしたことは全て調べられ、しかし無駄足に終わったということだろう。見落としたのか、それとも麦沢夫妻や南海には全く関係ない人物が犯人だということなのか。
いずれにしろ、麦沢の妻を殺した犯人は未だに逮捕されず、のうのうと暮らしているということ。それをどう思うかは、颯真には痛いほどにわかる。
颯真の妹──真子を殺した犯人も、未だに逮捕されていないのだから。
逮捕されたからといって、死んだ人間が帰ってくるわけではない。しかし、何故彼らが殺されなくてはならなかったのかもわからないままなのだ。
──知ったところで何になるわけでもないが。
それは以前、ユキの孫を殺した犯人を見付けたときに痛感したことだ。
「けれど、僕としても必ず麦沢先輩の奥様を殺した犯人を捕まえたいです」
小折は熱のこもった声で言う。小折にとって、麦沢は本当にいい先輩だったのだろう。だからこそ、麦沢の幸せを奪った犯人が憎いのだ。
「でももう、捜査本部は解散してしまって、未解決班が細々と捜査を続けているだけなんですよね……」
しかし小折はすぐに項垂れ、しょぼくれた声に変わった。
「しかも、未解決班は麦沢先輩と折り合いが悪かったので、熱心に捜査を続けている様子もないですし」
組織というものは面倒臭いんだな、と颯真は眉根を寄せた。折り合いが悪かろうが、所謂身内に起きた悲劇だ。いや、身内でなくとも未解決の事件があるならば、きちんと捜査は続けるべきだと思う。
きっと日本には、解決した事件よりも、未解決の事件の方が多いのではないかと思う。事件の大小問わず、盗難などでも解決している事件の方が少なそうだ。
「だから、麦沢さんは独自で捜査を続けてるんすか?」
「それもあると思います」
自分だって、と思う。
颯真だって、もし真子の事件に関する情報が入手出来る立場ならば自分の手で犯人探しをするかもしれない。犯人を見付けたらどうするかなど、想像もつかないが、出来る限りのことはするだろう。
そこまで考えてから、ふと思った。
──もし、自らの手で犯人を捕まえることが出来たなら、そのとき自分はどうするのだろうか。
考えてみたこともなかったことだ。
罪を犯した者を捕まえるのは警察の仕事。しかし、ここ最近、それの真似事のようなことをしている。けれど、どれもこれも自分には関係のない事件で、犯人は警察に引き渡している。
ならばそれが、真子を殺した犯人だったなら?
颯真はそこで思考を止めた。でないと、いつまでもぐるぐると考えてしまいそうだったからだ。
「……早く、見付かるといいっすね」
颯真は心にもないことを溢した。事件が起きてから三年以上の月日が経過している。それなのに犯人の目星すらついていないだろう事件。それが解決する日など、永遠に来ないのではないかと思えてしまう。
──永遠に続く鬼ごっこのようだ。
「あ、颯真くん。何処かでお茶でもしませんか?」
颯真の心の内を読み取ったらしい小折がわざとらしく明るい声を出した。小折は根が素直なのだろう、人を謀ったり、嘘を吐くのが下手だ。
「そっすね。あ、ランタンでも行きます?」
颯真は笑顔を作って、小折の心遣いを受け入れることにした。