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午前中のさいこは代わる代わる客が訪れている。もう昼近くだが、客足が途絶える様子はない。
颯真はイートインスペースに腰を下ろしたまま、そんな店内を眺めていた。
客の中にはそのとき食べる分だけのパンを買い、コーヒーメーカーに用意されたサービスのコーヒーを飲みながらイートインスペースで食べる者もいる。
小さなテーブルが二つと、椅子が四脚。そのうちのひとつに居座っていると言うのは申し訳ない気分になるが、麦沢から店が落ち着くまで待っていてくれと言われたので仕方がない。
そして、図らずも比奈子が働いている姿が見れるので颯真としては願ってもない良い機会だった。
比奈子は少々の辿々しさを残しながらも、なんとか接客をこなしていた。精一杯の笑顔を客達に向けていて、それは生き生きとしたものだった。
──かわいいな。
そう思いながらも、どこか寂しく感じる自分がいた。
少し前まで、比奈子は狭い世界しか知らなかったのだ。颯真と色羽と小折、そしてユキ。狭いサークルの中で生活をしていた。だというのに、今はこうして外の世界で眩しいほどの笑顔をしている。
小さくて、自分の後をつけるしか出来なかった雛が成長をし始めているのだ。けれど、それを寂しく思うのはあまりにも自分勝手だ。
比奈子の想いを宙ぶらりんの状態にしながら、自分から離れていくことが寂しいなど、そんなことを思う資格はない。
「お待たせ」
昼を少し過ぎた頃、漸く店内は落ち着きをみせ、一通りパンを作り終えたらしい麦沢が颯真のところへと来た。店内にはまだパンが焼ける匂いの濃度は高く、オーブンに午後の為のパンが詰められているであろうことを教える。
「いや、こっちもすんません。忙しいときに占領して」
しかも麦沢はパンとコーヒーまでくれたのだ。
「大丈夫だ。ここで食っていく客は決まってるしな」
だからか、言われてみて思い起こせば、席が空いていないからといって諦めて帰っていくような素振りの客は一人としていなかった。イートインスペースを利用する客は、それがまるで決まり事のようにそこに座り、食べるだけ食べて、用を済ませたら居座らずに店を出ていった。
「さっきは、友人が嫌な態度を取って悪かったな」
麦沢は颯真の向かいに腰掛けて眉を僅かに下げた。凛々しい眉が下がる様を苦笑以外では初めて目にする。
「ああ、いや、ああいう扱いは慣れてるんで」
ああいう扱い──つまり、侮蔑の眼差しを向けられること。そういった見た目だ。そういったことは数多くあった。この街に越してきてからはほとんどなく過ごしてきたが、それはこの商店街の住人の人の好さのお陰だ。
確かにそれに対して全く何も思わないわけではない。居心地の悪さや、あからさまなものには苛立ちもする。けれど喉元を通り過ぎてしまえば仕方のないことだと割り切ることも覚えた。
いちいちそれに腹を立てて突っ掛かっていた十代の頃とは違う。
「あいつ──南海は少年係の刑事なんだよ」
成る程、と納得しながらも、心の隅にはならば何故、という感情も湧いた。
きっと数多の素行不良の少年達を見ているのだろう。だからこそ、こうした見た目を二十歳過ぎてまでしている颯真に嫌悪感を抱くのも頷ける。しかし、それでいて、見た目通りではない少年がいることだって知っているはずだ。現に颯真もそういった人物は何人も知っていた。
派手な見た目をしているからといって、必ず悪さをするわけではない。しかし、真面目な人間から見れば一緒だというのも知ってはいる。派手な格好をする時点で既に「真面目」ではないのだ。
しかし、問題や理由があって、「真面目」に分類されるような生き方を出来ない少年達だっているのだ。
──そう、龍徹のように。
高校生の少年が変死体で見付かるという事件の際に知り合った少年だ。彼は被害者──と呼ぶのか事件の性質上不明だが──の友人だった。その少年、龍徹の生い立ちは凄まじいものがあった。
まず、龍徹は彼の母親が未婚の状態、しかも十六歳という年齢で彼を産み落とした。しかしそれは、文字通り産み落とした、だけ。最低限の世話しかせず、それは育児放棄とほとんど変わりのない状況だった。
それでも命を落とさなかったところを見ると、完全に放棄していたわけではないようだ。龍徹曰く、「とても可愛がって」くれるときもあったそうだ。
しかし母親は基本、夜の仕事をしていた為、夕方から翌日の昼辺りまでは家にいなかったらしい。帰ってきても寝るだけ。食事の支度は無論しない。幼い龍徹は母親が買ってくるパンや缶詰を食べて暮らしていた。
そして、代わる代わる色々な男が、二人の住む狭いアパートに出入りをしていたとのことだった。母親の彼氏もいれば、母親が勤める店の客もいた。明け方に雪崩れ込むように二人で部屋に帰ってきては、龍徹を外に追い出す。
それもそうだろう、と龍徹は普段は鋭い瞳に達観の色を浮かべて言っていた。
狭いアパートは小さな台所の他に部屋はひとつだけ。男女の営みをするのに、同じ部屋に幼いこどもは邪魔なのだ、と。
どんなに暗い深夜でも、真冬の寒い明け方でも、龍徹はアパートの外に放り出された。事が済んだといって呼び戻されることもない。二人は龍徹の存在など最初からないかのように楽しみ続けていたようだ。そのうち、龍徹は家から遠ざかるようになった。
それでも小学生のうちは腹が減れば帰り、何かを食べればまた外に行く、ということを繰り返していたらしい。しかし、そのうちアパート内には食糧が置かれなくなった。母親は普段家で食事をすることはない。だから、必要ないのだ。
家に寄り付かなくなった龍徹の存在は、彼女の中から消えてしまったのだろう。それが意図的なものか、無意識の下なのかは龍徹にはわからないらしかった。
だから、食べる為に、龍徹は母親の財布から金を抜いた。給食だけでは死んでしまうと思ったから。しかしそれは母親に露見し、当時の母親の彼氏から「死ぬんじゃないかと思う」ほどに殴ったり蹴ったりされた。
それでも龍徹はたまには家に顔を出した。幼い彼なりに、母親のことが心配だったようだ。決して一人では生きていけない母親が。食糧も、寝る場所がなくても数日に一度は家に帰った。
龍徹の服や痩せ具合から心配してくる教師にも出来る限り、嘘を吐いた。けれどそれは、長くは続かなかった。
母親は龍徹が顔を出しても何の反応もしなくなったらしい。ただいま、と声を掛けても、お母さん、と呼び掛けても、顔を向けることしかしなくなった。龍徹の存在は、彼女にとってないものになったのだ。それは完全に、意識的なものとして。
その頃、龍徹の家庭環境を訝しいと思っていた彼の担任教諭が児童保護センターに連絡を入れていた。そして龍徹は、母親の両親に引き取られることになったのだ。
しかし、初めて会う祖父母。食事も寝る場所もあり、きちんと学校にも通えたが、疎まれてる気がしてならなかった。だから、そこにもあまり帰らなくなった。
外に出て、悪い仲間とつるむようになったのはつい最近のことらしい。
取り敢えず中学の間はなんとなく学校に通い、なんとなく家には帰っていた。また、食べるものと寝る場所を失うのが嫌だったから。また、存在を忘れられるのが嫌だったから。
けれど祖父母ともこれといった会話もなく、一人で食事をすることも増え、そして、外の世界にも食べるものや寝る場所があることを覚えたのだ。
それでもたまに帰るのは、自分を未だに放り出さずにいてくれることへの感謝の気持ちらしい。
──家に居場所がなくなる。
──自分の存在が消える。
それは颯真にも身に覚えがあるもので、龍徹の哀しみや辛さは痛いほどわかった。それに、颯真にはきっかけがあるが、龍徹には何もないのだ。
ただ、そんな母親のもとに生まれてしまっただけ。
そんな龍徹は外の世界に、悪い仲間だとしても彼らに繋がりを求めるしかなかったのだ。好きで家に帰らなくなったわけではない。好きで夜の街で騒ぐようになったわけではない。
南海は、そういった龍徹までも否定するというのだろうか。
そう考えると、颯真の中には微かな怒りが芽生える。確かに、それでも派手な見た目もせず、夜の街に繰り出すこともなく生きていく奴もいるかもしれない。それでも、龍徹には龍徹の事情がある。
一言で素行不良の少年、と片付けることは出来ないのだ。
しかしそれを目の前にいる麦沢に訴えても仕方がない。麦沢がそう考えているわけではないのだから。
颯真は「そうなんすね」という一言だけを口にした。
「まあ、あいつにも色々あったんだよ」
それでも颯真の思うところを察したらしい麦沢が眼を細めて言った。それは過去を想起しているような瞳だった。
「よく来る人なんすか」
颯真は敢えて話題を変えた。今の話は突っ込んだところで答えはないだろうと思ったから。
「ああ、そうだな。結構来るぞ」
──だから、比奈子のことを知っていたのか。
颯真はそう思いながら、トレーを拭いている比奈子をちらりと見た。想像していた以上に接客をする姿は様になっていた。これならば心配をする必要はなさそうだ。
とはいえ、と新たな思いが浮かぶ。
南海は颯真のことを比奈子のストーカーだと勘違いした。それは憤りを覚えることだが、同時にそういったこともあるかもしれないのだと思い知らされた。
確かに比奈子は可愛い。美少女と言っても何の問題もないほどだ。ストーカーとまでも言わずとも、彼女に好意を寄せる男が出てきても不思議はない。いや、不思議はないどころではない。十分に有り得る話ではないか。
そう考えると、胸の中はもやもやとした。
比奈子は自分を好きだと言ってくれている。しかしそれを今の自分は受け入れることは出来ない。それは比奈子にも伝えてある。それでも比奈子は待ちの姿勢を見せている。
とはいえ、それがいつまでも続くとは限らない。自分が比奈子を受け入れずにいる限り、彼女が他の男のところに行ってしまう可能性だってあるのだ。
──だからって、受け入れた振りをするのか?
それは違う気がした。それは、比奈子に申し訳ない。あまりにも不義理だと思う。
彼女を好きだという気持ちはある。けれど今はまだ踏み切れないのだ。かといって、そんなことをしているうちに……。
「颯真さん、早く帰って下さい」
ぐるぐると思考を巡らせていると、そんな比奈子の声が耳に届いた。比奈子は頬を軽く膨らませ、颯真の側に立っている。
耳の下で二つに束ねた髪型がよく似合っている。
「え、ああ、帰ります、はい」
颯真は比奈子に怒られ、すごすごと椅子から立ち上がった。
「はは。完全に尻に敷かれてるな」
その様子を見た麦沢が声を出して笑う。
「そんなんじゃないです」
それに対し、比奈子が抗議をする。こうして、颯真達以外の人ともきちんと会話が出来ている姿に颯真は安堵した。
「じゃあ、すんまんせん。長々とお邪魔しました」
颯真は麦沢にぺこりと頭を下げる。少し伸び気味の金髪が眼前に影を落とす。
「いや、また来てくれよ」
「私がいるときは来ないで下さい」
比奈子が不貞腐れたように唇を尖らせた。颯真はそれに小さく謝り、店を出た。そこで振り返ると、ガラス越しの店内が見え、比奈子が小さく手を振るのが見えた。
少しだけ照れたようなその顔に、口調ほど怒っていいことを知る。颯真はそれに大きく手を振り返し、踵を返した。
穏やかな午後。
こんな日は永遠に続くのだろうと思いたかった。誰かと話して、笑って、怒って、また笑って。何にもない日々。
それがどれだけ幸せなことかを颯真は知っていた。そして、そんな日常がどれだけ儚いものなのかも知っている。
「颯真くん」
爽やかさを感じる呼び掛けに颯真は顔を上げた。
「小折さん」
そこにはダッフルコートを着た青年がいる。短くも洒落た髪型が彼の育ちの良さを表している。
「比奈子さんがバイトしているパン屋さん、昨日行きましたよ」
爽やかな青年──天田 小折は笑顔で言う。ダッフルコートの下はスーツではないようで、彼が休日だということがわかる。
小折は現役の刑事で、比奈子の兄が殺されるという悲惨な事件のときに知り合って以来親しくしている。
確か、親が警察の上層部の人間だということだが、それに傲ることもなく温和な性格の持ち主だ。
比奈子の兄を殺した犯人に颯真が偶然行き着いたという経緯から、その後も行き詰まった捜査のことを相談してきたりする。小折なりに颯真に信頼を寄せているらしい。
「お、あそこのパン、美味いっすよね」
今行ってきたとこだと付け加えながら返す。しかし、手にパンはなく、その経緯も笑い話として話した。
「ああ、佐奈倉さんですか」
南海のことを掻い摘まんで話すと小折は彼を知っているようだった。課は違えど、同じ刑事。知っていることもあるだろう。
「そもそも、さいこのご店主、麦沢先輩ですもんね」
小折はうんうん、と一人で納得したように頷いているが、颯真にはその意味がわからなかった。
「え、麦沢さんのことも知ってんすか?」
颯真が訊くと、小折は少々不思議そうな顔をした。
「はい、麦沢先輩、四年前まで刑事だったんです」
──初耳だ。
「辞職されたのは知ってましたが、まさかパン屋さんになられるとは思いませんでした」
麦沢の話にも驚いたが、颯真にはそれ以上に驚くべきことがあった。小折は今、四年前、と言ったし、どうも現役だった頃の麦沢を知っている口調だ。
「ちょっと待って。小折さんて、今、幾つなんすか?」
「あれ、伝えてませんでしたか? 僕、今年で二十八歳です」
──まじか。
颯真は心の中で呟いた。
くりくりとした瞳に、幼さを感じる笑顔。童顔な方だとは思っていた。現に、こうしてスーツ姿でない小折は颯真より少し上くらいに見える。
颯真としては小折の年齢は二十四、五歳くらいだと思っていたのだ。それがまさか、アラサーだなんて。
「あ、歳が離れてるからって今までの態度を変えないで下さいね」
颯真の心情を先読みしたらしい小折が慌てて言う。今颯真は、己の小折に対する砕けた態度を反省しかけていたのだ。
「はは。そう言ってもらえると気が楽っす」
颯真が笑うと、小折も笑った。多少歳が離れていてもこうした関係でいられるのは嬉しいことだ。
「で、麦沢さんて刑事だったんすね」
颯真は話を戻し、訊いた。そう考えるとあの素晴らしい体躯の説明はつく。しかし、何故刑事を辞めてパン屋などを始めたのだろうか。
「そうなんです。素晴らしい刑事でしたよ。けど……」
小折はそこで一旦言葉を濁した。二年以上あの街に住んでいて知らないことを知らせていいのか迷っているのだろう。そういった、人のことを考えるのが小折のいいところだ。
「四年前に、奥様を殺されてしまい、辞職されたんです」
それは、あまりに衝撃的な話だった。