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「いやぁ、肩からって思ったより出血するんですね」
へへ、とした笑いを溢しながら小折が言う。
「しかし、変に筋肉とかが切れてなくてよかったよ」
それに、麦沢が返す。その顔は、安堵に満ちていて、彼がどれだけ小折を心配したかが窺える。
「僕、強運の持ち主なんで」
平然と言うが、包帯の巻かれた肩は痛み止が切れればかなりの痛みがあるはずだ。
「さすが、坊っちゃんだけはある能天気さだね」
南海の得意の毒舌にも、小折はそんなこと、あるんですけどね、とさらりとかわす。
「ところで、颯真くんは?」
「今、取り調べ中。取り調べと言っても、すぐに終わるとは思うけど」
南海の言葉に、小折はそうですか、と頷いた。本来は、自分も取り調べられるべき立場なのだが、エメルに刺された傷の処置のため、手当てを先決された。そのため、こうして病院のベッドの上にいるのだ。
「けど、麦沢先輩、いつからあの場所にいたんですか?」
颯真がエメルに掴みかかり、それを小折が止めたあのとき、良すぎるタイミングで公園前にパトカーが到着した。そして、それといくらも間を置かずに救急車までもがそれに並んだのだ。
「最初からだ」
麦沢は小折の質問にそう返してきた。そう、パトカーと救急車を呼んだのは麦沢だったのだ。
「最初からですか?」
まったくもって気付いていなかったが、颯真とエメルが対峙したあの瞬間から、麦沢は公園のすぐ側にいたらしい。
「実は俺、西條の幼馴染みなんだよ。まあ、歩む道が違ってからはずっと疎遠だったんだが、俺が警察を辞めてからまた交流を持つようになってな。妻を殺した奴を探すのも手伝ってくれてたんだ」
刑事と暴力団。たしかに、いくら幼馴染みといえそのまま交遊関係を続けることはできない。お互い、真面目な性格故、余計にだろう、と少し前に颯真を介して会ったときの西條のことを考えて思う。
「で、颯真くんのことも頼まれていたんだ。俺があの商店街に店を構えているから、西條はあのビルを彼に貸した。颯真くんの様子を見ていてやってほしい、と」
おそらく、麦沢はエメルの話も西條から聞いていたのだろう。だから、ここのところ様子が不安定な颯真を気にし、今日も近くに控えていたのだ。その理由はここ数日、商店街でエメルを見かけていたからだという。
エメルは数日間、いつも颯真の側にいたのだ。それに気付いたとき、小折の腕には鳥肌がたった。
「よかったよ、俺が近くにいたときで。あの子を犯罪者にしたらいけない。悲しむ奴が多すぎるし、あの子は、周りを悲しませたことに後悔をする」
それは、的確な言葉だった。
あの場で、颯真がそのままエメルを殺してしまったとしたら。きっと、颯真はそのこと自体を悔やんだりはしないのだろう。彼には、そういったきらいがある。
これは、まだ短い時間ではあるが小折が颯真と接していて思ったことだ。そしてそれが、エメルが口にした「理不尽な暴力」なのだろう。しかしそれは、颯真本人の問題であり、彼がそれを思い止まれるのなら心向きなどはなんということはない。
──周りがそれを、思い止まらせてやれればいいだけだ。
そう。その周りなのだ。思い止まらせてやれなかったとき、颯真がその手で誰かを殺めてしまったとき。颯真は、その周囲が自分のせいで悲しむことを悔やむのだ。
颯真を思い止まらせてやることができなかったと嘆く周囲に、そう思わせてしまった己を責めるだろう。そうなったとき、おそらく彼を生をそのまま紡いでいくことは無理だろう。
「本当に本当に、ありがとうございました」
小折は麦沢に対して、深く頭を下げた。麦沢はそれにただ、笑ってだけ見せた。その微笑を目にし、小折はけっして麦沢のような強さを手に入れることはできないだろうと思った。
麦沢のような強さ。きっとそれは南海と色羽は持っていて、颯真や比奈子はこれから手に入れるだろうもの。そして小折は永遠に手にすることがないだろうもの。でも、それでいい。いや、そうであるのが何よりのもの。
小折は、小折の強さを自分で育てていけばいいのだ。大切な誰かを失って手にする強さは、なければないほうがいいのだ。大切な誰かを失いたくはない。大切な人は、誰も失いたくない。
小折は軽く、拳を握った。
「先に、これだけは告げておく」
颯真はその声に少し顔を上げた。まだ、手が震えている。何になのか。まだ、エメルの細い首の感触は指に残っているし、まだ、小折の血の生暖かさも残っている。
この手は、人を殺めようとした。指先に残る、血管が震える感触がそれを伝えてくる。あのとき、小折がいなかったら。そうだったなら、自分は確実にエメルを殺していただろう。
あの細い首を、折れるまで握っていただろう。
「聞こえているか?」
その声に、再度現実に引き戻される。
すぐ近くに、岐志の精悍な顔があった。
「あ、はい。聞こえています」
口から出る声はまるで自分のものではないようだ。おそらく、耳が遠くなっているのだろう。まだ、完全に現実には戻れていない証拠だ。
「もしかしたら、冠城エメルが裁かれることはないかもしれない。最悪、逮捕されない可能性もある。だからこそ、今回の件で君がなにかよ罪に問われることもない」
じゃあ、なぜ真子の死もなかったことならないのだ。エメルが罪を犯したことにならないなら、真子だって死んだことにならないのではないか。ここに、今ここで真子が笑っていないなら、それは矛盾というものではないのか。
「お偉いさんの隠し子だから、ですか」
乾いた声が洩れる。この世にそんな矛盾が存在していることなど、知っている。けれどそれが自分の身に降りかかって納得できる者などいるのだろうか。
エメル本人に罪を償ってほしいとは思わないのは本心だ。エメル自身、罪を悔いることがない以上、彼を逮捕することに意味がないのも理解している。
けど、と唇を強く噛む。それを実際に、警察の者の口から聞くとまた違った感情が沸き上がる。形だけでもいい。彼に罪を与えるべきではないのか。彼をあのとき罰しなかった保護者に、彼のせいで何が起きたのか知らしめるべきではないのか。
「……いいっすよ、それで」
颯真の口から出た言葉はそれだった。やはり、意味がない。エメルが罰せられたからといって、真子が戻ってくるわけでもない。そもそも、幼年期の犯罪が罪に問えるわけもないのだ。罪を問えるとしても、小折を刺したことくらい。そんなことでは大した罪にもならないだろう。
「ただ、二度と俺には近付かせないと約束だけして下さい」
エメルがこの世に野放しにされるというのは、颯真の周囲が危険にさらされたままになるということだ。今度、同じようなことがあれば、自分はエメルを殺してしまうかもしれない。
「いや、彼をそのままにするのは危険だ。私がなんとしてでも奴を檻に入れるよ」
「あんた、約束守れんのかよ」
言われた台詞に、颯真はそちらを見ずに返す。
「今度こそは、約束を守ろう」
強い口調で言う男を颯真は睨み上げた。そこには神妙な顔をした名田がいた。
「いいよ、期待しないでおく」
たかが一介の刑事になにができるというものか。なにを喚こうが、なにをしようが、己が解雇されて終わりだろう。
「君がどんなに自棄になろうが構わない。君の気持ちが理解できないでもない。けど、君がそんなふうに不貞腐れていたら、天田が浮かばれないとは思わないのか」
岐志の言い様に颯真はえ、と声を洩らした。
「え、小折さん……。小折さん、もしかして……」
わなわなと手が震える。あのときの、小折の血の生暖かさがさらに濃くなっていくような感覚を覚える。
「酷いですよ、岐志先輩っ。僕はしっかり生きてますし、元気ですっ」
そこに、一瞬にして光が射し込んだように感じた。
「ごめん、岐志くん。まだ安静にしてなきゃいけないのに、どうしても行くって聞かなくて」
続いて柔らかな声がした。
小折と南海だ。
「小折さん……」
「颯真くん、ご心配かけてすみませんでした。でも、見ての通り、僕はなんでもありません」
小折は笑顔で言うが、エメルに刺された方の腕を上げることはかなわないようで、不自然に左腕を下げている。
「ごめん小折さん。俺のせいで、あいつに」
「颯真くんのため、ですよ。僕は、颯真くんに絶対に犯罪者にはなってほしくなかったんです。だから、自分を責めないで下さい」
紡ぎかけた言葉は遮られた。
「……ありがとうございます」
ぽとり、と涙が零れた。
──もう、いいだろう。もう、これですべて終わってもいい。起きてしまったことはなくならない。なにをどうしても、真子が自分の手を、強く握ってくることはない。ならば、だったら、今、誰かと繋いでいる手を離さない努力をしよう。
いつかはその誰かも去っていくかもしれない。それでも、自分から離さないと誓えばいい。あのとき、真子の手を離して公園を後にしたようなことはしない。それだけでいいんだ。
「……名田さん、岐志さん。この度はご迷惑をおかけしました。あと、ずっと、真子の事件を気にしてくれていて、ありがとうございました。もう、大丈夫っす。真子も、俺も、もう大丈夫ですから」
すべてが片付いたわけではない。すべてから解放されたわけでもない。でも、もういい。もう大丈夫だ。
──お兄ちゃん。
そう呼んで笑う真子には二度と会えないけど、それでも真子がいたことが消えるわけじゃない。
自分には今、しっかりと手を繋いでくれている人達がいる。
「冠城の件は、私なりにできることはしよう。だから、君も約束してほしい。決して、彼の側に道を歩まないと」
きっと、名田は幼い颯真の瞳からずっとそれを懸念していたのだろう。長い刑事人生、そういった道を歩まずにいられなかった者達も見てきたのだろう。
「約束します。俺は、真子に顔向けできないような生き方はしません」
それだけの誓い。本来なら、真子を失ったときにそう思うべきだった。随分と遠回りして、色んな人達に支えてもらって辿り着いた答え。それは自分だけのものではない。必ず、守らなくてはいけないものだ。
「名田さん、残り少ない刑事人生、大切にしてほしいっす。俺のために棒に振っちゃ駄目です。あんたのような刑事に救われる人だっているんすから」
颯真の言葉に名田は薄く笑うだけで、なんの返答もしなかった。それだけで、彼がこれからなにをしようとしているのかがわかり、颯真としても軽い笑みを返すしかできなかった。
「じゃ、とりあえず颯真くんは帰宅で平気ですか? どうせ冠城のほうはまだ時間かかりますよね?」
小折が明るいトーンで言い、名田と岐志に確認を取る。
「ああ。私の独断で返した言っておくよ。早く、心配しているだろう人達にそのすっきりした顔を見せてやりなさい」
そう言う名田に、昔の父親の姿が重なった。真子が産まれてから、兄なんだから、と我慢をする颯真にいつも優しかった父親。お兄ちゃんだからって泣いちゃいけないことはないんだぞ、と頭を撫でてくれた父親。
いつか、会えたらいいと思う。いつか、俺は幸せになったよ、と伝えてあげられたらいいと思う。たとえそれが自分のエゴだとしても、両親にこの世に産んでくれた感謝を伝えたい。
「ありがとうございましたっ」
颯真は勢いよく名田と岐志に向かって頭を下げた。




