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別段、暗い道ではないはずの通りが薄暗く思えた。きっと、視界が曇っているのだろう。それは幻覚。颯真には覚えのあるものだった。
家に帰らなくなった頃、いつもこうして視界が曇っていた。なにを見ても明るさを感じず、眩しさも感じない。ただただ、薄暗い世界にいる。
楽しさも喜びもない。ただただ、気分が沈んでいる。
そんななかで、当時の仲間や西条に出会い、次第に明るさを取り戻した。それでも、眩しさはなかった。それでも、世界は暗くないとは知った。
そして、ずっと離れずにいてくれた色羽の存在と、比奈子や小折との出会いで世界は思っていたよりずっと眩しいのだと知った。明るくて、眩しくて、かけがえのないものだと。
だからこそ、余計になのかもしれない。真子は、それを知らずに死んだ。殺された。世界のかけがえのなさを真子にも教えてやりたかった。あの、小さな柔らかな手が、しっかりとしたものになるまで自分の手を繋いでいてやりたかった。
そして、それを自分にとっての比奈子や小折のような存在に託すまで見守ってやりたかった。
しかしそれは、奪われた。あまりにも残酷な形で。
そして、それが一人の幼いこどもの行いで。
颯真は立ち止まり、一人息を吐いた。
エメルのことだ。
信じられない思いは、ある。今のエメルならば、想像に容易い。彼が、人を殺める姿は容易に想像することができる。表情とは言えない笑みを携えて、相手から命を奪う。それは、颯真が出会った頃のエメルから、今のエメルになら有り得る話だ。そこに、意味があってもなくても。
けれども、真子が殺されたとき、颯真はまだ子どもだった。ならば、エメルはもっと幼い。真子ほどとは言わずとも、小学校に上がりたてくらいなものだろう。そんな子どもが子どもを殺める。それは、颯真には想像し難いものだった。いや、颯真でなくとも想像するのは困難を極めるものだろう。
しかし、真子を殺したのはエメルなのだろう。
「颯真くん?」
柔らかな呼び掛けに颯真の心は浮上した。
「やっぱり。遠目から見て、そうかな、とは思ったんですけど、なんか違う気もして」
颯真の姿を見付けてくれた小折は、整った顔に柔和な笑みを浮かべた。 ──ああ、こうして、いてくれるんだ。
颯真は小折につられるように、笑みを作った。
「小折さん、今、時間あります?」
「ありますよ」
理由も聞かずに頷いてくれる人。この人は、自分より大人なだけではない。颯真やエメルが与えられなかったものを、きちんと手にして、それを理解してこれまでの道を歩んできた人。だからこそ、こうした自分になんの疑問も抱かずに手を差し伸べてくれるのだ。
でも、それだけじゃない。
比奈子や西條は、いわば自分と同じだ。当たり前に与えられるものを一部しか与えられず、むしろ西條に至ってはすべてを与えられなかった人なのに、それでも自分を支えてくれる。
こうした人達がいる。なにを怖がる必要があるんだ。
そこまで考えてから、気付いた。そうだ、怖がっているのだ。自分は、エメルという存在に怯えている。昔から、今もずっと。その理由はきっと、彼と対峙したときに明確になると思われるもの。
──俺はもう、大丈夫。
心のなかでそっと、真子に言い聞かせるように囁いた。今まで、逃げてきた。真子が殺されたことを悔いた振りをして、自分のせいだと思い込んで、逃げてきた。真実、向き合ったことなど一度もなかったのだろう。
でも今なら、向き合える。きちんと、終わりにできる。
「一緒に、真子が殺された公園に行ってくれませんか?」
夕方が近付いた公園は、人気が少ない。もとより、そんなに人気のある公園ではなかったと、幼い頃の記憶を呼び起こす。
昼過ぎには少しばかりの子どもが群れをなしてはいるが、そのほとんどが習い事などですぐに散り散りになるし、大人が付き添うような子どもは午後は昼寝の時間だ。
犯行には持ってこいなのだろう。けど、幼いエメルがそれを理解していたかどうかは不明だ。しかし、計算まではしていなくとも、感覚的にわかっていた可能性は高い。それが冠城エメルという人間だ。
「真子ね、ここにいたんですよ」
颯真は公園の中心から少しだけ外れた場所に立って言った。そこは、通りからは微妙な視覚になる場所。大人が立っていたら目立つかもしれないが、子どもがしゃがんでいたら目にはつかない。
すべてが、曖昧な場所。だからこそ、だ。
「ここで、仰向けに倒れていました」
あの日の光景は、今もはっきりと覚えている。
仰向けに倒れる真子。その身体は血で染まっていて、細かい砂が敷かれた地面にも血が溢れていた。
「ここで、目を開いて、倒れてました。身体中、真っ赤に染めて。あの日は、お気に入りのワンピースを着てて、それが汚れるのは嫌だからかくれんぼはしない、て言ってた。でも、途中で『おにいちゃん、喉が乾いたの』て。だから俺は、公園の外にある自動販売機に、色羽と一緒に行きました。ひとりじゃ、三人分の飲み物は持てないから」
まだ、それほどに自分も小さかった。色羽を残せばよかった、と思ったこともあるが、もしそうしていたなら、自分よりもさらに身体の小さかった色羽までも失っていた可能性だってあるのだ。
「でね、色羽が先に、真子のジュースだけ持って走っていったんです。そしたら、色羽の泣き声が聞こえて」
多分まだ、あのとき真子は息をしていたのかもしれない。少し、自動販売機の前で迷った。大人の振りをして甘くない炭酸を買うか、それとも好きだったりんごジュースにするか。炭酸にしてみようかと決めたが、でも、お揃いにしたら真子は喜ぶ、色羽がそう言って、三人分、りんごジュースを買った。
あのとき、すぐに決めていたら。そもそも、喉が乾いたのなら家に帰ろうと言っていたら。後悔は尽きない。すべて、そのときの選択の積み重ねだと思うと、あの日の自分が消えてしまえばいいと思えた。それは、ずっと、あの日から思い続けていたことだ。
けれど、今の自分が死んだって、あの日の自分は消えない。あの日のことはなかったことにならない。真子は、帰ってこない。そうして、自ら命を断つことさえ、逃げた。
「真っ赤だった。そのあとのことは覚えてません。気付いたら周りに大人が大勢いて、警察に話聞かれて。なにを答えたかも覚えてなくて。気付いたらこんなになってた」
颯真の話を、小折は黙って聞いていた。口を挟めるものでもないし、挟むこともできないのだろう。
「俺、どうしたらよかったんだろう。あのまま、ガキが犯人探せばのかったのかな。それとも、一緒に死んじゃえばよかったのかな。それとも、真子の分も幸せになるよ、とかかっこつければよかったのかな。答えなんてないのはわかってるし、どうしたってあの日のことがなくなるわけじゃないのも知ってる。これは一生、わかんないんだと思う」
涙が溢れそうになったとき、不意に視界が陰った。
「正解は、僕の傍に来ること、だったんですよ」
滑らかな声が耳を撫でた。
そして、それが全身を取り巻く。
「僕は、それを強く望みました」
天使が迎えにきたような囁きだと思った。それは、彼──エメルの声が美しい故なのか。それとも、それこそが颯真の望んだ答えだったからなのか。
「覚えていますか? あのとき、貴方は僕を助けてくれた」
それはおそらく、色羽が思い出したあの記憶のことだろう。天使のような少年を助けたこと。
「本当は助ける必要なんてなかったんです。僕は苛められることを苦痛には感じません。彼らが飽きるまで、ただじっとしていればいいだけのことですから」
でも、颯真は助けた。エメルを取り囲む少年達を、文字通り蹴散らした。
「そのとき、ああ、この人だ、と思いました。貴方は、彼らに怒りをぶつけた。暴力という形で。しかもそれは、自分の痛みじゃない。赤の他人のものだ。それで、この人は、なにかを嵩に着せて、理不尽に暴力を振るう人だと知った」
違う。それは、違う。
口内で、言葉にならない声が溢れる。
それは、理不尽な暴力などではない。誰かを、救おうとするための手段としての暴力だ。
──本当に?
何者かが脳内で呟く。
それは、本当にお前がしなくてはならないことだったのか? 暴力を振るうための口実ではないのか? 理由があるからといって、他人に暴力を向けることは、本当に正しいことなのか?
次々と投げかけられる言葉が頭の中で渦を描く。
「正義という、口実のもとに暴力を振るう貴方に気付いて欲しかった。それは、正義じゃない。理不尽な暴力は認めてしまえば、心地好いものだと」
だから、とエメルは囁くように続けた。
「僕は、貴方の妹を殺した──」
くらり、と目が廻る感覚。それは感覚などではなく、実際に目が眩んだようで、気付けばベンチに片手をつき、傾きそうな体を支えていた。
ようやく、耳にすることが叶った言葉。何年も待ち続けた言葉。でも、こんな形で聞くことは想定していなかった。
ある程度、成長するに従い、いつかこの言葉を聞くのは裁判所だろうと思っていたからだ。自分の手で犯人を捕まえることなど、真剣に考えたこともなかったから。
「……俺は、俺は」
──お前とは違う。
颯真が読んできた漫画たちに、似たようなやり取りはいくつかあった。決まって、主人公たちはそう口にするのだ。そう、ヒーローは闇と同化してはいけないから。
「貴方は、僕と一緒なんですよ」
「それは違う」
これは、漫画の中の主人公たちが口にする意味とは違う。
「俺と、お前は、元は違う。でも、確かに途中は一緒だったろうな」
答える口に変に力が入り、奥歯をぎり、と軋ませる。歯の尖った表面が擦れる感覚に不快感を覚える。
「俺は、誰かを救うことに優越感を覚えるタイプだ。そして、そのために誰かに暴力を奮うことを厭わない。いや、厭わなかった」
それは、長男としての性だと思っていた。兄として、真子を守るため。年長者として、色羽を守るため。そう、言い訳をつけては子どもなりのものではあるが、暴力を奮っていた。そしてそれに、優越感を覚えていた。
「お前は、俺とは反対に、誰かを貶めるための暴力を厭わない」
そう、エメルが他者に暴力を奮う理由は存在するのだ。
彼と出会ったばかりの頃は、そんなものは存在しないと思っていた。エメルは、暴力を奮うことに、なんの感情も抱いていないと考えていたのだ。
でもそれは違うのだと、今ならはっきりわかる。
相手を苦しめるため。間接的に誰かを苦しめるため。エメルの暴力は理不尽ではあるが、そこに、彼なりの理由が存在しているのだ。
「貶めるだなんて、心外ですよ」
エメルは薄ら笑いを浮かべた。それは、初めて目にする、感情の伴う表情に思えた。
颯真は固く拳を握り、自分より遥かに上背のあるエメルを睨み付けた。隣で小折が息を呑むのが伝わってくる。そこで、自分も緊張していることに気付いた。
「お前は、俺をお前と同じところに落とすために、真子を殺したんだ」
真子を失えば、颯真の暴力の向かう先が曖昧になると考えたのだろう。そうすれば、颯真は自分と同じように、理不尽な暴力を手にすると思ったのだ。
守るべき存在を守れなかった颯真は、己のバランスを崩すと思われたのだ。
実際、そうだっただろう。真子を失ったあとの颯真は正義感を失い、手に余るほどの暴力を抱えきれなかった。たしかに、それは他者へと向かった。理不尽だとしか言いようがないほどに。
「でも貴方は、ここまで登ってきてはくれなかった」
エメルは颯真とは正反対の喩えをする。
「俺は、堕ちなかっただけだ。堕ちようとする俺を、必死に繋ぎ止めてくれる奴らがいたから」
それは色羽、色羽の両親、西條、かつて恋をした人達、共に笑った仲間。そして、小折、麦沢、比奈子。彼らが、必死に手を繋ぎ続けてくれていたからだ。だから、颯真は立ち止まれた。エメルと同じところには堕ちなかったのだ。
「お前にも、そういう存在がいたら、とか無意味なんだろうな。お前はそういう人達がいても、最初から堕ちてるから手を繋ぐこともできない。それが、お前と俺の違いだよ」
先天的なものと、後天的なものの違い。それはもう、どうしようもないことだ。
「……じゃあ、今からその人達を全員殺したら、貴方は僕のところまで登ってきてくれるんですかね?」
エメルが苦痛を滲ませたように整った顔を歪ませた。それが、いつか見た夢の鬼と重なる。
無数の髑髏の上で笑う鬼が、血塗れの口許を歪ませるのだ。
「ああ、そうなったら、堕ちるだろうな、俺だって。でも、そうなる前に、俺がお前を殺して、他の道に堕ちるよ」
それは誰かを救うことで覚える優越感とは違う。皆をエメルの魔の手から救うことにはなるが、優越感などはない。ただ、ひとりになる道を選ぶだけのことだ。
「なにがなんでも、僕のもとには来てくれないわけですね?」
エメルは無表情に戻り、呟くように言う。それは、欲しい玩具を買ってもらえなくて泣き疲れて諦めた子どものように見えた。
「いかないよ。お前は、勝手にひとりで生きてくれ」
彼に、罪を償えなどという台詞は無意味だと思った。エメルは、例え誰かにその生を奪われることになっても、自分の行動を悔いることはないのだろう。エメルは、そういった生き物なのだ。
「だったら、僕は貴方を殺しますよ」
──しくじった。
そう思うほうが遅かった。目にも止まらぬ速さで、エメルはなにかを振り下ろした。
眼前が翳り、音のない世界が広がった。
「小折さんっ」
視界が翳ったのは、小折の背中に守られたからだと理解するのに時間がかかった。視界に光が戻ったのは、目の前で小折が崩れ落ちたから。
どさり、と重たい音が耳に届く。
「……くそ野郎っ」
颯真はエメルの体に体当たりをし、痩身の彼を横倒しにした。小柄な颯真が喧嘩で勝つ方法は、ただひとつ、相手の動きを先に封じてしまうことだ。
颯真は勢いよく倒れたエメルの上半身に馬乗りになり、細い首に手をかけた。ぐ、と力を込めるだけで骨の感触が指に伝わる。両手を使わずとも折れそうな細さに怯むことなく、力を込める。
すると、エメルの口からはは、と笑いが漏れた。
「そう、そうですよ。そうやって、理性もなく、誰かを、襲ってみたら、わかるんだ。それが、どんなに、気分のいいものかって」
「理性はあんだよっ。お前を殺さないと、誰かが死ぬんだ。さっきも言っただろっ。誰かを殺される前に、お前を殺すって」
ぎち、と嫌な感触が指に伝わった瞬間、後ろから抱きすくめられた。
「……駄目、です。颯真くん、駄目です。そいつを、殺したら、僕達は一生後悔します。……君を、救えなかったことに」
背中に体温以外の生暖かいものが広がる。それが血であることに気付いたのは、自分の胸の辺りに回された小折の手が真っ赤に染まっていたからだ。
それを目にした瞬間、全身の力が抜けた。
「小折さん……小折さんっ。動いちゃ駄目だ。今すぐ。救急車、呼ぶからっ」
颯真はエメルの体の上から身を捩り、自分を抱き締める小折の手を握った。ぬるり、と血が自分の手にも広がるのを感じていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。




