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真子が寝かされていた近くの木の下には、小さな花束やら、お菓子やらジュースが置いてあった。あれからもう、どれだけの年月が経っているというのだろうか。それでも、この街の人は未だに小さな命が無惨に散らされたことを悼んでくれているのだ。
「私だけじゃないのよ」
颯真の横顔から、心情が読み取れたらしい美佐子が言い、手にしていた花束をそっとそこに混ぜた。小さいながらも可愛らしい花だけを組み合わせたそれは、真子が喜びそうなものだった。
「……颯真くんは今、幸せに暮らしているの?」
美佐子の声は、どんな答えを期待しているのか判断のつかないものだった。幸せだと答えて欲しいのか、それとも、真子が殺されたのに幸せになれるわけないと答えて欲しいのか。
「俺は……幸せ、なんだと思います。こんな俺なのに、友だちもいてくれて……好きだって言ってくれる人もいて、優しくしてくれる人もいる。それを、不幸だなんて言っちゃいけないのはわかります。けど、俺自身は、その幸せを受け止めることが怖い」
颯真は本心を偽ることなく、そのまま口にした。確かに、今、自分を取り巻く環境は幸せ以外何物でもないのだろう。しかし、だからといって過去が消えるわけではない。どんなに幸せを受け入れ、噛み締めても、過去がなかったことになるわけではない。
だから、怖いのだ。
受け止めてしまったら過去を忘れてしまいそうだということではない。受け止めたところで、真子の死はついて回るのだ。だからこそ、向き合わなくてはと思った。きちんと向き合い、常に心に留めながら、そのうえで幸せになりたいと思った。
──私が颯真さんを幸せにしたいんです。
そう、言ってくれた比奈子の、泣き出しそうな顔が脳裏に浮かぶ。それでは、駄目だ。そんなのは、違う。
共に、幸せだと笑い合いたい。比奈子とだけではなく、色羽とも、小折とも。他の、自分を立たせてくれている人達とも。
「幸せになりたい相手がいるのね」
美佐子は言って、嬉しそうに笑った。
「私はね、真子ちゃんのこと可愛いと思っていたけど、家族ではない。あくまで、他人でしかない。そんな他人が言えるのは、残された人達に、真子ちゃんの死に引き摺られず、彼女の死を悼みながらも幸せになって欲しい。それだけなの。特に、颯真くん、貴方にね」
「俺……すか?」
「うん、そうよ。貴方に。真子ちゃんは貴方のことが大好きだった。綺麗事でしかないけど、貴方には、真子ちゃんが誇れるお兄さんでいて欲しいのよ。それが、貴方がいつまでも真子ちゃんのお兄さんでいられるということじゃない?」
ああ、そうだ。その通りだ。
心の何処かで、真子の死を引き摺ることが、悔いることが、唯一自分と真子を繋ぐことのようなつもりでいた。真子の死を悔いることで、いつまでも幼い妹を守る兄でいられるように思っていたのだ。
「……ありがとう、ございます」
不意に涙腺が緩むのを感じた。
「お礼なんて言わないで。結局は第三者のエゴでしかないわ」
美佐子はそれだけ言うと、花束やらお菓子が積まれたそこにそっと合掌した。平日の昼時だからか、他には誰もいない。
そもそも、ここはそんなにこどもの集まる公園ではなかったのだ。その理由は、ここから少しだけ離れたところに、近所のこども達が好んで遊ぶ滑り台のある公園があるからだ。
──やはり、土地勘のある者だろう。
そんなことは警察だって当時既に気付いていたことだろう。けれど、警察はきっと大人ばかりに目を向けていたはずだ。自分だって、つい最近まではそう思い込んでいた。
「じゃあ、行くわ」
美佐子は静かに立ち上がり、颯真の頭を軽く撫でた。
「颯真くん、あの頃と目が変わってなくて、未だに小学生の男の子みたい」
それが、憐れみなのか、それとも喜んでいるものなのか、颯真には判断がつかなかった。
近所の人達は、颯真が名乗ると、皆が皆、驚いた顔を見せた。それもそうだろう。真子の事件を境に、家に寄り付かなくなった薄情な息子なのだから。それに、その家族は逃げるようにこの街から姿を消している。
しかし、両親の行方を探しているというと、ほとんどの人が同情の視線を寄越した。彼らのなかで颯真は薄情なこどもから、家族に捨てられたこどもへと立場を変えたのだ。
けれど、彼は皆、両親の行方を知らなかった。そもそも、どのタイミングであの家を去ったのかも知らないようだった。気付いたら住んでいなかった。颯真が話を聞いた人達は口を揃えてそう言った。
祖父母のところか。だとした、どちらの。
颯真にとって、祖父母はどこか遠い存在だ。両親共に、こまめに里帰りするタイプではなかったし、祖父母達が颯真達のところに顔を出すことも滅多になかった。会うのは正月くらいなものか。
それも、大晦日に母方の祖父母のところへ、元日に父方の祖父母のところへ、どちらも半日に満たない時間、寄るに過ぎなかった。颯真の認識としては、お年玉を受け取りに行く、くらいなものだ。
これといって祖父母の会話をした記憶もあまりないし、父や母が各々の両親と仲良く話していた記憶もない。今から思えば、あまり家族との仲は良くなかったのかもしれない。
そうなると、祖父母のところへ身を寄せている可能性は少ないかもしれない。けれど、颯真の両親は共に独りっ子で、他に身寄りはない。
──二人だけで何処かでひっそりと暮らしているのだろうか。
それしか考えられなかった。なにも、彼らは事件の加害者ではない。世間から身を隠す必要はないのだから、仕事に困るということもないだろう。しかし、だとすると颯真自身で彼らを探すのは難しい。
颯真は一人、溜め息を吐いた。そのとき──。
「颯真さん」
少し離れたところから、颯真を呼ぶ、可愛らしい声がした。
「おー、どした?」
それは比奈子のもので、比奈子は颯真に駆け寄ってきた。長い髪を、今日は両耳の下で束ねている。
「色羽さんから、こっちに来ていると伺ったので」
比奈子は走ったせいで乱れた呼吸のまま、そう言った。もしかしなくとも、あちらこちら探し回ったのだろう。寒い時期だというのに、比奈子の額にはうっすらと汗が浮いている。
「連絡してこいよ。そしたら探さなくて済むだろ」
なんのために文明の力があるのか。颯真はそう思いながら、スマホを翳した。
「だって、連絡したら、颯真さん、来なくていいって言うに決まってるじゃないですか」
だから、こうして現れたのだ、と比奈子は胸を張って言う。確実に胸を張ることではないが、颯真の言動をよく理解しているのは確かだ。比奈子から、そちらに行くと連絡があったら間違いなく来るなと言っているだろう。
迷惑などではない。ただ、自分の都合に誰かを振り回すことが嫌なのだ。
「ほら、またそうやって、誰かの力を借りるのを申し訳なく思うんですから。いいんです。私は勝手に颯真さんの力になりたいと思って、勝手に行動しているだけなんですから」
比奈子は額の汗を手の甲で拭い、颯真の横に並んだ。
──だから、これでは駄目なんだ。重荷を、相手にだけ背負わせるんじゃ駄目なんだ。
二人で、互いにちゃんと立てないと駄目だというのに。
「……ありがとな」
「お礼とか不気味なんで結構です。私の勝手だって言ってるじゃないですか」
比奈子はつん、と横を向き、それに遅れて束ねた髪が揺れる。
「お前……どんどん色羽の物言いに似てくるよな」
最初はもっと可愛かったのに、と呟けば、比奈子が目を輝かせて、今、なんて言いました? と訊いてくる。
「ほら、無駄話してないで次行くぞ」
颯真は比奈子の小さな手を握り、足を前に出した。その手は少しだけ汗ばんでいて、彼女が必死に自分を探してくれていたことが伝わってくるものだった。
結局、両親の行方を知る者は誰一人としていなかったが、他の収穫はあった。それは、ハーフらしいこどもがこの辺りをよく訪れていたということだ。間違いなく、エメルだろう。
薄茶のふわふわとした髪に、色素の薄い白い肌、独特な瞳の色。近所の人達は、天使のように愛くるしい容姿のこどものことをよく覚えていた。けれど、彼はこの辺りに住むこどもではないようだとも言っていた。
それもそうだろう。恐らく、エメルは母親が外国人のはず。だけどこの辺に外国人の女性は住んでいない。それは颯真の記憶でも確かなものだ。この辺りは高級住宅街ではなく、普通の住宅街だ。新拓の場所も多いが、それでも古い土地ではある。そんな街に外国人がいれば目立つことだろう。
ならば、エメルは時折、何らかの理由でこの土地を訪れていたということだろうか。父親の実家──それはなさそうだ。颯真は大きいとはいえない家の並ぶ街に目を向けた。
エメルの父親は、噂や小折の話から合わせれば、警察庁の上役のはず。その父親の実家というならば、地元では有名な名家、といったものになるだろう。無論、必ずではないが、ここらにあるような家からそのような人間が産まれるはずはないというのが颯真の見解だ。
だとしたら?
エメルの母親の実家、という線も有り得ない。ならば、エメルは何故、この街に姿を現していたのだろう。当時の年齢を考える限り、自らの意思でないことは明確だ。
近所の人達はエメルの存在は知っていれど、彼が何故この街にいるのかは知らなかった。
「はー、無駄足、てわけではねぇけど何かがわかったわけでもねぇな」
帰りの電車で颯真は溜め息を吐いた。隣では比奈子が大人しく座っている。
「でも、まだ一日調べただけじゃないですか。そんな程度でわかるなら、警察も探偵もいりません」
比奈子が胸の前でぎゅ、と拳を作って言う。あまりに息巻く姿に、思わず笑みが零れた。
「それもそうだわな」
颯真はふう、と息を吐いて、座りながら伸びをした。夕方前の平日。電車内に人は少ない。かたん、かたん、と揺れる音が耳に届く。
「颯真さんなりに、何か思い当たることはあったりするんですか?」
比奈子の質問は、エメルが真子を殺していたとして、と仮定してのものだろう。そして颯真のなかでそれは仮定を越え、ほぼ確定しているものだ。何の根拠もないが、エメルが真子を殺した。何故かそう確信していた。
「ないな。あいつとは、会ったのは記憶にある限り一回だけだし、そのときに親しくなった覚えもない」
ならば、エメルが真子を殺した理由は一体何なのだろうか。ただ一度、そのときに彼から恨みを買ったというのか。
──いや、それはない。
エメルの全てを知っているわけではない。むしろ、何も知らない。けれど、彼が私怨で他人に危害を加えるような人間でないことは確かだ。彼は、人に暴力を与えるとき、笑っているのだから。そしてそれは、愉悦でもない。そこにあるのは、感情のない笑いなのだ。
エメルが幼い頃からそうだったのかはわからない。けれど、こどもが私怨であんなふうに誰かを殺すとも思えない、というのもある。ともあれ、エメルがあんなことをした理由に心当たりがないのだけは確実だった。
「…………颯真さんは、誰かを殺したいと思ったことはありますか?」
静かな車内、比奈子の声はしっかりと颯真の耳に入ってきた。
質問の意味を探る。自分も、比奈子も、大切な家族を殺され、それまでの日常を壊された。それは、同じだ。けれど、違う。恐らく比奈子は「殺意」を抱いたことはない。
「──あるって言ったら、引くか?」
誤魔化したくない。比奈子相手に嘘を吐きたくないと思っての答えだった。
「引いたりしません。私は、どんな颯真さんのこと好きです」
真っ直ぐ過ぎる告白。比奈子の言葉は盲信のようにも見えるが、違う。比奈子は、どんな颯真も受け止めたいと願ってくれているのだ。
「あるよ。俺は、人を殺したい、殺してもいいと思っていた。……いや、今も頭のどっかで思ってる。俺は、ずっと、真子を殺した奴が見付かったら殺してやると思ってた。それ以外にも、こんな奴死ねばいい、殺してやろうかと思ったこともある」
それは、誰にも告げたことのない感情だった。
まだ、やんちゃな時代を過ごしていたとき、仲間以外に人間のクズだと思える奴は少なからずいた。いや、大勢いた。女を傷付けることをなんとも思わない奴。若くして産んだ己のこどもを粗末に扱う奴。挙げていったらきりがない。
颯真はそんな人間は殺してしまってもいいのではないかと思っていた。それは真子を殺した人間に向ける殺意とは別の種類ではあったが、そういった人間を目の当たりにすると「殺してやりたい」と思うのも事実だった。
けれど色羽をはじめ、周りにいる人達がその感情のストッパーになってくれていたお陰で、颯真が誰かを殺めるということにはならなかった。それでも、真子を殺した犯人への殺意が消え失せることはなかったのだ。
「もし、冠城という人が、真子ちゃんを殺した犯人だとはっきりしたら、殺したいと思いますか?」
比奈子の声は真剣そのものだった。
「思う。思わないわけがねぇ。殺したい、じゃなく、殺してやると思う」
今だって、そう思っている。エメルをこの手で殺してやりたい。真子がされたように、その体を滅多刺しにし、真子が味わった恐怖を与えてやりたいと思う。もしかしなくとも、エメルには恐怖を感じるような感情はないかもしれないが、それでもそう思うのだ。
そうしなければ、颯真の心に巣食うものは永遠になくならない気がするのだ。
──けれど、絶対にそんなことはしない。
エメルを殺したいと強く思うと同時に、そう誓う自分がいる。
自分の心を守る為にエメルを殺すのではなく、自分の心を守ってくれる人達の為に、エメルを殺さないという選択。
颯真の葛藤を読み取ったのか、比奈子が突然颯真の頭に手を回し、それを強い力で自分の方へと引き寄せた。咄嗟のことに、颯真は抵抗する間もなく比奈子へと抱き寄せられた。
額に比奈子の胸が当たる。特別育っているわけではないが、決して貧相とも言えない柔らかさ。しかし、颯真が動揺したのはそれにではなく、比奈子の匂いを強く感じることだった。
「ちょ……お前、こんなとこで何やってんだよ」
電車内でいちゃつくカップルに見えるだろう光景。案の定、少し離れた座席にいる老婦人が眉をひそめるのを視界の隅に捉えた。
「颯真さん、泣きましたか?」
必死に比奈子を振り払おうとしたそのとき、そんな言葉を投げ掛けられた。
「は?」
質問の意図がわからず、颯真は抵抗することも忘れて間抜けな声を出した。
「颯真さん、真子ちゃんが死んでから、泣きましたか?」
比奈子はぎゅ、と颯真の頭を抱える腕に力を入れて、震える声で訊いてきた。
言われ、颯真は記憶を巡らした。真子が殺されてから、そのことについて泣いたことがあっただろうか。前に一度、比奈子の前でみっともないほどに泣いたことはある。そのときも比奈子は今と同じように颯真を抱き締めてくれた。けれどそれは、色羽のことに対する涙であり、真子のことにではなかった。
「……ない」
どんなに記憶を巡らしてみても、真子の死に涙を流した記憶はどこにもなかった。むしろ、泣くまいとさえ思っていたように思う。
「泣いて下さい。泣いたら、少しだけですけど、すっきりします」
「こんなとこで泣けるわけねぇだろ……」
夕方の電車内。さすがにそんなところで泣けるはずがない。比奈子の言いたいことはわかるし、その気持ちは有り難くもある。とはいえ、大人の男がこんなところで泣くには抵抗がある。それに、泣くにはまだ早い。
颯真はなるべく優しく比奈子の体を押し、頭を上げた。そこには、それこそ今にも泣き出しそうな比奈子の顔があった。
「じゃあ、後で部屋で泣いて下さい。こんな胸でよかったらいつでも貸しますから」
比奈子は涙声で言う。比奈子なりに、颯真の支えになりたいと思っているのだろう。彼女はまだ、颯真の力になれていないと思っているのだ。
──こんなに、支えられているというのに。
颯真は少しだけ口許を綻ばせた。
「お前さ、部屋で今みたいなことしたら、どうなるかわかって言ってんのか?」
颯真はわざと、意地悪い質問をした。しかし、颯真達と出会うまで世間というものをほとんど知らずに暮らしてきた比奈子に、颯真の冗談は通じないようできょとんとした表情をしている。
とてつもなく悪いことをしている気分になる。
「どういう意味ですか?」
比奈子はいつの間にか涙をひかせ、純粋に意味を尋ねてきた。
「いや、なんでもねぇ……」
意味が通じないのであれば、説明は出来ない。というより、しづらい。
「どういう意味なんですか?」
それでも比奈子は颯真の言ったことが気になるらしく、腕を掴んで訊いてくる。
「だから、なんでもねぇって」
これは、いざ恋人同士の関係をスタートさせたとしても前途多難かもしれない。颯真はそう思いながら、しつこく尋ねてくる比奈子を無視し続けた。




