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仕組まれた運命1

 早く、早くこちらへ。

 何度も何度も願い、何度も何度も手招きをしているというのに、いつも踏みとどまられてしまう。

 いつもいつも周りに邪魔をされてしまう。

 そうだ。そうなんだ。邪魔なんだ。彼を取り巻く全てが邪魔なのだ。

 独りになってくれれば。独りなってしまえば、こちら側に身を投じてくれるはずなのだ。

 だって、彼にはその要素があるのだから。彼は、こちら側の人間になり得るのだから。だって、そうしたのだから。

 手をこ招いているだけでは駄目だ。

 早く、早くこちら側へ────。


「冠城エメル、な」

 ふう、と吐き出された紫煙が空へと立ち上る。颯真はそれを眺めながら頷いた。

「あいつ、まだお前の周りにいたのか」

 精悍な顔立ちをした男は吸殻を揉み潰しながら苦々しくそう言った。

「あいつは多分、ずっと俺の近くにいました。そして、時折顔を出していたんです」

 最初はたんなる神出鬼没な奴だと思っていた。けれど、それは本当に最初の頃だけだ。直ぐに、彼──エメルは常に自分の近くにいるのだと悟った。

「目的はわかんないっす。懐かれてるって気もしないですし。西條(さいじょう)さんは、どう思いますか?」

 西條と呼ばれた男は新たな煙草に火を点けた。辺りには彼が好んで吸う煙草の独特な臭いが漂う。

「ま、お前に付きまとってるのは明白だろうな」

 西條は薄く開いた唇から煙を吐き出し、言う。

「元々、薄気味悪い奴だとは思っていたがな」

 西條が言うのだから、相当なものだろう。颯真は高級スーツに身を包んだ男を見ながらそう思った。

 西條存(さいじょうたもつ)は颯真が住んでいるビルのオーナーで、颯真がまだやんちゃをしていた頃に知り合った男だった。彼は不良などというものではなく、その筋の人間で、行き場がなく夜の街を彷徨っていた颯真を拾ってくれたのも彼だった。

 ──兄貴って呼んでいいっすか。

 まだ幼かったあの頃、颯真にとって西條はこの世のヒーローのように見えた。

 色羽以外誰も呼ばなくなっていた颯真の名を呼び、頭を撫でてくれたのだ。

 ──まだガキなのに、なんて目ぇしてやがるんだ。 

 西條は喧嘩に明け暮れる颯真の顔を見るなり、少しだけ悲しそうにそう言った。その瞳が忘れられなかった。やけに脳裏に貼り付き、この人は自分を理解してくれると思えたのだ。

 それから颯真は西條に懐き、西條の行くところ行くところへとついていこうとしたが、悉く断られ、後輩達を宛がわれた。それが、颯真の所属していたグループだったのだ。

 そのグループのリーダーも颯真のことを理解してくれ、そこは颯真にとって居心地のいい場所となった。時折、西條も颯真のことを気にかけてくれ、颯真のもとへと顔を出してくれた。

 そんなふうにして、西條とは親しくなり、グループを抜ける決意をしたときにあの部屋を貸してくれたのだ。それは、グループを抜けたところで颯真の帰るべき家が存在しないから。なんとか安く部屋を借りようと画策していた颯真にとって、それは有難い話だった。

「冠城の目的がわかんないんすよ」

 颯真はエメルの虚無過ぎる眼差しを思い出し、身震いをした。

 昔から、そうだった。エメルは颯真の前に、ある日突然姿を現した。その表現は些か正しくはないのかもしれない。それは、初めてエメルを見た日、彼は自分より大きな男を二人、半殺しにしていたからだ。それを、颯真が見付けて止めたのが彼との出会いだった。

 エメルは格闘技でも習得しているのか、細身の身体で大柄な男を容易く伸していて、彼自身は傷ひとつ負っていなかったのだ。

 まだ中学生だったエメルは今よりも儚げな美しさを持ち、背も低かった。天使のようだ、と陳腐な言い回ししか浮かばぬような見目にも関わらず、白い服を血で汚し、楽しそうに笑っていたのだ。

 エメルは、人を傷付けることを楽しんでいるように見えた。けれど、それすらも合っているのかわからぬほどに冠城エメルという少年は不可解な存在だった。

「悪いけど、俺にもあいつの考えはわかんねぇな」

 西條は言い、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。そしてまた、新たな煙草を火を点す。

「今まで、色んな悪い奴を見てきたが、あいつはどれにも当てはまらない。俺の考えだが、あいつは悪人じゃない。恐らく、悪意ってものがあいつには存在してないんだと思う」

 ──それは、あまりにも恐ろしい言葉だと思った。

「……俺も、そうだと思います」

 颯真は小さく返した。

「あいつが何をどう考えているかなんて、わかるわけもないっすけど、けど、多分……あいつは俺に似ているんです」

 颯真の言葉に、西條はだろうな、と呟いた。自分しか知らない自分を、この人は理解してくれている。だからこそ、颯真は西條を誰よりも慕っていたのだ。

「あいつは多分──真子を失った後の俺なんです」



「颯ちゃーん、遊ぼー」

 頭まで毛布を被って寝ている颯真の腹に、異様なまでの衝撃が走る。丸いものを勢いよく叩き付けられたような感覚。

「う……」

 颯真は呻き声を上げながら、詰まりかけた息を整え、毛布を剥がした。するとそこには、本日も完璧なまでに女装をした色羽がにこにこと笑っている。

「てめぇ……殺すぞ、こら」

 異様なまでの衝撃が色羽渾身の頭突きだということは彼のいる位置から窺える。

「だって、普通に声掛けても起きないんだもん」

 色羽は颯真の凄みが効いた様子もなく、ぷくりと頬を膨らませた。

「だから、男がやっても可愛くな」

「あ、そうだ。成人式の写真持ってきたよー」

 あっさりと颯真の言葉を遮った色羽はぱらぱらと数枚の写真を颯真へと見せてきた。そこには、真っ赤な──しかも艷やかや柄の振袖を身に纏った色羽の姿が写っている。

 しかしそれは初めて目にするものではなかった。何故なら成人式当日、色羽は式典会場には行かず、振袖姿を颯真に見せに来たからだ。本人曰く「仲の良かった同級生なんていない」かららしい。それは颯真も知っていることだった。色羽は本来内気な性格で、幼い頃は颯真と真子としか遊べなかったし、真子の事件があってからは周りは色羽までも扱いに困っていた。それはこの格好の為。

「彼女に反対されてたのに、よく振袖着たな」

 色羽の成人式の格好について、彼の両親は振袖、彼の恋人はスーツの方がいいのでは、と意見が割れた。そして、色羽が選んだのは豪華なまでの振袖だった。

「だって、颯ちゃんが好きな格好にしろ、て言ってくれたから」

 今回、色羽は颯真にも意見を求めてきた。

 颯真としては、もし、色羽が真子の代わりに、というだけで振袖を着るつもりならそれはやめて欲しいと言うつもりだった。もし、色羽が、颯真の為だけにその格好を選ぶのであれば、それは色羽が自分を殺すことになるから。けれど、色羽は「自分の意思で、自分なりの供養の為に、真子がいずれするはずだった格好をしたいと思っている」と口にしたのだ。そうなると、颯真には反対するべき理由は何もなかった。

 だから、色羽がしたい格好を選べばいい、と言ったのだ。しかし、真子に似合いそうな柄ではなく、自分に似合うものを選べ、という条件付きで。

「まあ、そうだけどさ。けど、ま、似合ってたからいいんじゃねぇの」

 颯真が言うと、色羽は颯ちゃん、と嬉しそうな声を出して抱き付いてきた。

「離れろっ。男に抱き付かれる趣味はねぇっ」

「何なにー? 女の子だったらいいわけー? だって、比奈ちゃん」

 いつの間にか比奈子までもが部屋の中にいて、色羽は比奈子に話を振った。

「お気持ちだけで結構です。私は颯真さんに抱き付いたり出来ませんので」

 色羽の振りを、比奈子は丁寧に返した。

「……なんか、俺、フラれたみたいじゃねぇか?」

「みたい、じゃなくて、そうだろうねぇ」

「え? え、違います。そうじゃなくて、そういった大胆なことは……って、別にいいじゃないですか! お付き合いしているわけじゃないんですしっ」

 比奈子との関係も一歩前進し、こんなやり取りまで出来るようになった。穏やかな日常。他愛ない空気。けれど、颯真の胸の奥には不安の種が芽生えていた。

 冠城エメル。彼が、色羽や比奈子に手を出さない保証はない。現に、色羽はエメルの手の内に落とされそうになったのだから。

「颯ちゃーん、顔暗いよ?」

 エメルの整い過ぎた顔を思い出していると、色羽に顔を覗き込まれた。アイラインで丁寧に囲んだ瞳は元々大きなそれを、更に大きく見せている。

「は? んなことねぇよ」

 颯真は心に巣食おうとするエメルの影を無理矢理消し去り、そう返した。うっかりエメルのことを考え出してしまうと、その闇に足を引っ張られそうになる。しかし、と思う。ここにいる彼らは、それを拾い上げてくれるのだ。暗闇から手を伸ばされ、足を掴まれると同時に、色羽や比奈子は明るい場所から手を引っ張ってくれる。

「あ、そっか。冴えない顔は元からだったね」

 色羽はそう言いながらも何かを感じ取っているような表情をしていた。恐らく、彼の中でも冠城エメルの存在が引っ掛かるのだろう。

「颯ちゃん、冠城エメルって、何者?」

 色羽は突如、真剣な眼差しで尋ねてきた。その隣では比奈子が不安げな表情をしている。

「……わかれば苦労しねぇよ」

 颯真は本心からの言葉を口にした。そのままだ。エメルが何者で、何を考えているかなど、颯真には微塵もわからない。正直、わかりたくもない。

「ただ、もしあいつが接触してきても、相手にするな。見たら逃げろ」

 言えるのはそれだけだった。けれど、そうは言っても、恐らくエメルは直接彼らに近付いたりはしないだろう。彼は、きっと周囲から攻めて、罠に嵌めていくのだ。自分では、どうにもならないくらいの罠に。

「僕さ、あの子のこと、知ってる気がするんだよね」

「ん? 何の話だ?」

 エメルが色羽と直接会ったのは、以前あったユキの孫の事件のときだけのはずだ。しかし、色羽の言い様は、そのときのことを言っているわけではなさそうだった。

 色羽には、この間の事件が冠城エメルという少年の差し金によるものだったということは話しておいた。色羽自身、それに巻き込まれたわけだし、最悪、殺人者として逮捕されるところだったのだから当然のことだ。それに何よりも、エメルのことを警戒して欲しかったのだ。

「あいつ、お前のところに現れたことあるのか?」

 だとしたら、いつ、と思う。ずっと前から、エメルは色羽を陥れようとしていたのか。そう考えると、背筋が凍るような思いがした。

「違う違う。ずっと昔だよ。覚えてないかな? まあ、僕もずっと忘れてたんだけどさ」

 色羽が首を振ると、ウィッグの毛先も一緒に動く。

「昔、一度だけ、外国人の子どもが苛められてるの助けたことあるの、覚えてない?」

 昔、と言われても色羽との付き合いは長いのでいつかを絞るのは容易ではない。それに、真子のことがある前はよく、公園などで苛められてるいる子どもを助けていたのだ。

 正義のヒーロー気取りだった。困っている人がいたら、颯爽と登場して助ける。毎週休日の朝に観るヒーロー達に憧れていたのだ。そして、自分もヒーローになりたかった。

「うーん……あったような、ないような……」

 何度も繰り返していたこと。その中に外国人の子どもなどいただろうか。

「真子ちゃんがさ、天使さんだね、て言ってた子なんだけど」

 色羽に言われ、そのときの記憶が朧気にだが脳裏に浮かぶ。

 ──てんしさん! おにいちゃん、てんしさんだよ!

 真子のまだ、舌足らずな口調を思い出す。

「え……あぁ! いた、いたわ!」

 あの頃、真子は天使が出てくる絵本をえらく気に入っていて、毎日颯真に読み聞かせろとねだってきていた。しかし、あんなに毎日何度も読み聞かせてやったというのに、その絵本の内容は颯真の記憶には残っていない。覚えているのは、挿し絵の天使の姿だけだ。ふわふわとした髪をした、天使。

 公園で苛められているのを助けた子どもは、その天使に似た容姿をしていたのだ。だから真子はその子のことを「てんしさん」と呼んだ。

「あー、けど俺、あれは女だと思ってたわ」

「僕も。だから今まで結び付かなかったんじゃないかな。名前も聞いた覚えないし、会ったのもそれ一度きりだから」

 そのときの子どもがエメルだとしたら。そう言われてみても、顔の造形までは覚えていない。ただ、ハーフというよりは外国人という感じの見た目で、性別は女に思えた。

「あの……」

 そこで、漸く比奈子が口を開いた。

「どした?」

 颯真が比奈子へと視線を向けると、比奈子は可愛い顔に暗い表情を乗せていた。

「私、上手く言えないんですが、嫌な気がするんです」

「ん? だから、あいつを見たら逃げろって」

「あの、そうじゃなくて。これからのことじゃなくて、その……真子ちゃんの、ことで」

「え?」

 比奈子は言いにくそうにゆっくりと口を開いた。

「ずっと、おかしいと思っていたんです。あの、聞きたくなかったら止めてくれていいんですが……」

「続けろ」

 これから比奈子が話すことは、もしかしたら颯真に衝撃を与えるものかもしれない。そんな予感が胸の中に渦巻いたが、聞くのをやめることは出来なかった。

「真子ちゃんが殺されたのは、昼間の公園だったんですよね? しかも、人目につきやすい。それなのに、未だに犯人は逮捕されていない」

「……そうだな」

 普通に考えれば犯人はすぐに捕まりそうなものだが、真子を殺した人間は未だに特定もされていない。恐らく、捜査事態、今はもうされていないのだろうが、当時はかなりの騒ぎになった。

 連日テレビでも報道され、捜査員の数も多かったはずだ。

「私の素人考えなんですが、例えば、犯人が思いもよらない人物だったら、と……。そうしたら、捜査線上には挙がってこないのではないですか?」

 ぱきり、と頭の中で何かが割れる音がした。

「そっか、比奈ちゃん、お兄さんが刑事さんだったね」

 色羽が比奈子を誉めるように言うが、その顔は颯真と同じ答えに至っているようだった。

 比奈子は色羽をちらりと見てから、颯真へと視線を戻し、躊躇いがちに薄紅色の唇を開いた。

「……例えば、犯人が子どもだったら───」


 小折はまるで迷子になった仔犬のように眉を下げている。

「当時の捜査資料や、近所に住んでいた住人の名簿、ですか」

「無理は百も承知なんすが、どうにか入手出来ませんか? もしくは、特定の人物がそこにいるかどうかだけでも調べてもらいたいんすよ」

 颯真が頭を下げると、小折は慌てたように頭を上げて下さい、と言った。今日が非番の小折はボタンを囲うように刺繍がしてあるという、洒落たシャツを着ている。

「不可能ではないですし、むしろ簡単ですが、理由を教えてもらえますか?」

 小折の返しは当然のものだ。本人は簡単だと言うが、やっていいことではない。颯真自身、無理なお願いをしているのは理解している。

「……真子を殺した奴の目星が付いたんです」

 颯真は小さな声で言った。その言葉を口に出すなり、エメルの顔が浮かんでくる。恐ろしいまでに整った顔。彼は一体、あの顔の裏で何を考えているのだろうか。

「え、それは……」

「冠城、エメルという男です。この間、色羽が巻き込まれた殺人事件を手引きしたのはそいつです。あと、例のサイトを龍徹のダチに教えたのもそいつっす」

 ただ、気味が悪い存在というだけでは、これらの報告を小折にすることは出来なかったので今までは黙っていた。けれど、もし、真子の事件にエメルが関わっているのかもしれないのなら、伝えるべきだと思ったのだ。

「それは、本当ですか?」

「本人の口から聞いてます。けど、噂なんですが、冠城の父親は警察幹部だとかいう話もあって」

 だから、最初は小折にこの話をするのは躊躇われた。小折の父親も警察のお偉いさんだということは知ってはいるが、エメルの父親の方が地位が高い可能性がある。だとすると、このことに小折を巻き込むことで、小折とその父親にまで迷惑がかかるかもしれないのだ。

「冠城…………確かに警察庁に同じ苗字の人間はいますね。僕の父よりも立場は上です」

 颯真の表情から懸念を嗅ぎとっていたのか、小折は微笑んで言った。

「だったら、余計に無理は言わないっす。駄目なら、自分で調べます」

 これは、自分のことだ。他人を巻き込んでいいことではない。しかも、小折のように人が好いのならば余計にだ。

「いえ、ご協力させて下さい。僕の父も、正義感の強い人間なので、問題はありませんから」

「でも……」

「僕は、颯真くんに前を向いて欲しいです。妹さんを殺した犯人を捕まえたところで、それに繋がるのかはわかりません。更に憎しみが増幅するだけかもしれない。でも、そこに可能性があるならば、僕はそれに加わりたいです」

 小折は真剣な表情でそう口にした。いつもは仔犬を連想させるような瞳が、今日はまるで大型犬のようだ。とはいえそれは、レトリバーなどのように穏やかさを含むが。

「小折さん、何から何まで、本当にありがとうございます」

 颯真はそう言って、深く頭を下げた。本当は、自分一人でやることなのだろう。どうにかこうにか、調べられないものではないと思う。近所への聞き込みという手もあるし、当時の電話帳を探してみたっていい。

 しかし、急がねばならない気がするのだ。エメルが、今以上の行動をしないうちにどうにか奴の胸中を掴みたい。どうにか、奴が真子を殺したのだという確証を得たい。

 少しでも足を止めたら、エメルは飢えた豹の如く、颯真の喉元に食らいついてくるような気がしてならないのだ。そして、それは颯真に対して直接何かを仕掛けてくるのではなく、颯真の周囲に対して向かうのだ。

 だから、彼が行動を起こす前に、彼を捕らえなくてはならないのだ。

「お急ぎだとは思いますが、こっそりとやりますので数日程頂いても宜しいですか?」

 小折は心底申し訳なさそうに眉を下げた。小折は刑事だ。彼なりに事の重大さを察知しているのだろう。

「大丈夫っす。俺もその間にやれることをやりますんで」

 二人は強い笑顔を交わし合い、解散した。


 この街はもう、自分が知っているものではない。

 颯真は記憶にある景色と、今、目の前に広がる景色とを較べてそう感じた。

 十年以上の歳月が経過し、物理的に変わってしまっているところも沢山ある。けれど、それだけではない。肌で感じる空気、自分の感じ方、何もかもが違う。

 颯真は日曜日の午後に、公園内で走る幼いこども達を眺めながらそう思った。

 この公園も、自分や色羽、真子が共に遊んだ場所とは違うのだ。

 実際、事故防止なのか、当時はあった遊具達は軒並み撤去され、あるのは砂場だけ。ジャングルジムも、鉄棒も、ブランコも、よく入り込んだ土管のような小さなトンネルもない。ただただ、広い空間だけがそこにはある。

 当時よりも更に見通しがよくなっているのは、恐らく真子の事件のせいかもしれない。元々遊具はあれど、それら同士の間隔は大きく、視界を遮るような木々もない。それでも、近所の住民は再犯を危惧したのだろう。

「……颯真くん、じゃない?」

 公園を見回していると、背後から声を掛けられた。颯真はそれに反射的に振り向き、そこにいる五十手前くらいの女を視界に映した。

「真佐子ちゃんとこの、颯真くんよね?」

 上背のある女は、印象的な大きな目を颯真に向けてもう一度訊いてきた。

 真佐子ちゃん。それは颯真の母親の名前であり、彼女をそう呼ぶ人を颯真は一人しか知らなかった。

「もしかして、美佐子おばちゃん?」

 それは、颯真の母、真佐子の幼馴染みである女性だ。

「やっぱり颯真くんだ。横顔が真佐子ちゃんそっくりだったから」

 そう言われても、颯真にはもう、母親の横顔をはっきりと思い出すことが出来ず口ごもった。


 颯真の母、真佐子は小柄で大人しい女性だった。けれど、美佐子は上背があり、女性にしては大柄で──決して太っているわけではなく、寧ろスリムだが骨格がしっかりとしている──二人が並ぶとなんとも凸凹な組み合わせに思える。そして、口数の少ない真佐子と比べ、美佐子は大きな口でいつもはきはきと、言いたいことを言う。颯真はこどもながら、そんな二人が親友だということが不思議でならなかった。

 そしてある日、その疑問を美佐子に対して口にしたことがある。

「名前が似ているから仲良くなったのよ」

 美佐子はそれだけを答え、美味しそうにビールを飲んだのだった。

 颯真の記憶が確かなら、当時美佐子はまだ独身で、所謂バリキャリとして働いていた。今はもう結婚しているのかもしれないが、美佐子の左手薬指に光るものはないので、なんとも判断出来ない。

「母とは連絡、取ってるんすか?」

 美佐子に連れられたカフェで、颯真はそう質問した。

「会ってないわよ。あの後……何度か連絡はしたんだけどね」

 しかし、真佐子はそれに応じられる状態ではなかった。それは颯真自身がよく知ることだ。けれど、親友ならば。いや、親友だからといって慰めになるわけではないのかもしれない。皆が皆、色羽のような、どこまでも寄り添ってくれる人間ではないのだ。

「……颯真くんにこんなこと話すのはあれかもしれないんだけどさ。真佐子ちゃんには何度と会いに行って、私なりに慰められれば、とは思ったんだけど、こどもを持たない人に私の気持ちはわからない、て言われちゃってね。まあ、それは正しいのよ? でも、そう言われたら掛ける言葉が見付からなくなっちゃって」

 そうしたらもう、会いに行くことは出来ないだろう。けれど、事件の当事者である颯真からしたら、母のことを酷く思うことは出来なかった。家族を殺される。それは、当事者にしかわからない気持ちなのだ。しかし、だからといって、母の態度は己を心配してくれる人に向けるものでもない。

「ああ、いいのいいの。別に真佐子ちゃんを責めるつもりじゃないのよ。真佐子ちゃんの言うことは当然だもの。私は、友だち一人の支えにもなれない自分が情けなくて会いに行けなくなっただけだから」

 美佐子は気のいい女性らしく、苦笑を浮かべて言った。

「颯真くんは、今、何処にいるの?」

 先の質問で、颯真が母と共に暮らしていないことを察したのだろう。美佐子は上品な手付きでコーヒーカップを持ち上げながら訊いてきた。

「ここから少し離れたとこで、一人暮らししてます。ちなみに、両親の居所は知らないです」

 もう、暮らした家もない。探す術もない。──探そうとも思わない、と少し前までは思っていた。けど、今日この街に来た理由は違う。両親の居所を探そうと思ったからだ。

「逃げるようにして、ていうのは聞いたわ。……颯介さんが真子ちゃんを殺したって疑われて、そういう目ってなかなか消えないものでしょう? それで結局、何処かに隠れているんじゃないかって」

 どうなのだろう。それは、颯真にはわからなかった。けれど、違うようにも思えた。

 颯真の両親が姿を消したのは事件から大分経ってからだ。それが理由ならば、すぐに姿を消しただろう。

 彼らは、颯真から姿を隠したのだと、颯真自身は思っている。妹が殺され、妹が殺される時間を作り、それからどんどん変わっていく息子。それから姿を隠したのだと、今は思う。 

 当時は彼らの目に、心に自分はいなくなったように思えていた。だからこそ、颯真はどんどんと荒れていき、家にも帰らないようになった。けれど、そうじゃない。自分は、両親の中にちゃんといたのだ。存在していたからこそ、彼らは颯真を恐れたのだ。

 自分達の理解出来ない息子になっていくことに。

 だから、彼らは颯真の前から姿を消した。いつか、自分達が殺されることを恐れて。

「美佐子さんはまだこの近所に?」

 だとすれば、颯真の生家がないことは既に知っていることだろう。しかし、美佐子は颯真の予想に反して、首を横に振った。

「いいえ。五年前から仕事の都合で北海道にいるわ。ここにいるのもなんだか辛くて、もう、ずっとあっちにいようと思ってるわ」

 人が死ぬことで傷付くのは家族だけではないのだ。それはまるで、感染する病のように周囲の人を蝕む。美佐子も、色羽もその病にあてられた一人なのだろう。

「けどね、たまに帰ってきて、真子ちゃんがいた公園に花を置いてるのよ」

 美佐子はそれだけ言い、小さな花束を颯真の前に掲げてみせた。

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