愛情の辿り着く先1
ヤンキー探偵第二弾です。
1巻と変わらぬテイストで、そこにもっと日常を加えて書いていけたらな、と思っております。
どうぞ宜しくお願い致します。
空にはハートが溶け出したかのような雲が伸びていた。
朝比奈 颯真はそれを眺めながら煙草を吹かす。煙草を口にするのは本当に久し振りのことで、気分だけなのだろうが器官に滲みるようだった。
すう、とニコチンを吸い込み、一拍置いてから白い煙をふー、と吐き出す。煙は口から辺りに広がり、霧散する。あっという間に煙草の匂いが自分の囲む。
大して旨いものではない。ただ、独特の味が喉を溜下し、それをまた吐き出すのが癖になるのだ。
何度か同じ行為を繰り返すと、煙草はみるみるうちに短くなる。それを建物の前に置いてある灰皿で磨り潰すように火を消した。忽ち臭いは濃さを失う。臭いの根源がなくなると、それは残り香のように辺りに漂うだけになった。
颯真は、すう、はあ、と一度大きく深呼吸をしてから前に一歩、踏み出した。
目的地が近付くと、香ばしい匂いが鼻腔に届く。ふんわりとしていて、優しい匂い。けれどそれは確実に胃袋を攻撃してくる。匂いに気付くなり、颯真の胃袋は物凄い勢いで動き始めた。
その匂いを鼻から肺いっぱいに吸い込む。
パンが焼ける匂いというのは、この世で一番空腹を刺激するのものだと思う。炊きたての米や肉の焼ける匂いも相当なものではあるが、パンが焼ける匂いはそれらを裕に上回る。
颯真は自身の足が浮き足立つのを感じた。
今日は何を食べようか。店内にずらりと並べられた様々なパンとその味を思い出すだけで咥内には唾液が溢れそうになる。
「颯ちゃーん」
後少しで目的地に辿り着くというそのとき、聞き慣れ過ぎた声が背後から届いた。
「朝早くからでかい声出すな、馬鹿。殺すぞ」
颯真はその声に振り向いてから一喝する。
「はいはーい。わかったらその口癖やめようねー」
颯真の発言など意に介した様子もなく、声の主は颯真の隣に並んだ。ボブスタイルの茶髪は滑らか過ぎて、明らかに人工物だとわかる。二重瞼がはっきりとした真ん丸の目の周りはくどいほどの化粧が施されていた。付け睫だろうそれには、何故かきらきらとした細かいものが付いている。
淡いベージュのダッフルコートに、膝丈のパンツにロングブーツ。どこからどう見ても、美少女。
「お前もそろそろその女装やめようなー」
颯真が言うと隣の人物──水城 色羽は薄いオレンジ色で彩った頬を軽く膨らました。
「だから、お前がそういうことしても可愛くねぇって言ってんだろ」
色羽は颯真の言葉に更に頬を膨らました。その姿はどう見ても女の子そのものだが、色羽の性別は男なのだ。別に心が女だというわけでもなく、色羽の場合は「女装」をしているだけだ。
「似合うんだからいいじゃん」
色羽は頬を膨らますのをやめるなり、そう口にする。確かに、似合うか似合わないかと言われれば、似合う。色羽は男のわりに小柄で線も細い。なので違和感がないどこか、擦れ違うだけで彼が男だと見抜くことは難しいだろう。
「そういう問題じゃねぇだろ。お前、幾つだよ」
「颯ちゃんと同じで、二十歳でーす」
色羽は颯真の幼馴染みで、生家もさして離れていないところにある。いや、あった、と表す方が正しいだろう。理由は颯真の実家は既に存在していないからだ。
「……お前、成人式に振袖着るつもりじゃねぇだろうな」
今は十二月に入ったばかりだが、年が明ければ成人式が待ち構えている。
「そうそう。それ、悩んでてさー。お父さんもお母さんも振袖がいいんじゃない、て言うんだけど、さすがにそこまでは、て意見もあってね」
──そりゃそうだろう。
というか、息子が成人式に振袖を着ることに賛成──どころではくけしかける親も凄いものだが、着るかどうか悩む時点でおかしい。
「普通にスーツにしとけよ」
「颯ちゃんは成人式、参加するの?」
色羽に問われ、颯真は首を横に振った。地元にいたのは中学に上がるくらいまで。しかしその前もあまりまともに学校には通っていなかった。
地元の友人など色羽しかいないし、そもそも自分が同窓会のような成人式に顔を出しても迷惑になるだけだろう。周りが気を遣う姿が容易に想像出来る。
「えー、紫の袴とか着ないの?」
「……お前は俺を何だと思ってんだ」
「ヤンキー」
色羽は颯真の問いに即答した。
確かに、颯真の見た目は無造作に伸ばした派手な金髪に、弛めの服装。暖かい時季ならば作務衣に雪駄だが、今は冬真っ只中の為、トレーナーに厚手のパーカー、それに太めのジーンズだ。その姿は端から見れば「ヤンキー」と称することが出来るだろう。
現に颯真は二年程前まではその手のグループに所属していた。とはいえ、犯罪に手を染めることはなく、バイクを乗り回したり、喧嘩をしたり、とさして悪さはしていない。
「俺はもう卒業してんだって」
颯真にとって居心地の良かったグループではあったが、本人なりに考え、二年前にグループを卒業していた。そんな颯真に言わせれば、自分は「元ヤンキー」なのだ。
「ねー、さいこ行くんでしょ。早く行こうよ。お腹ぺこぺこ」
──誰のせいで歩みが遅くなってんだ。
颯真は腕に絡みついてくる色羽に対し、腹の中で毒づきながらも足を前に出した。さいこ──この商店街唯一のパン屋はもう目の前まで迫ってきている。
ちりん、と可愛らしいドアベルの音が来店を報せる造りになっている。木枠で囲まれたガラスの扉は軽い。少しの負荷を掛けるだけで簡単に店内へと入れてくれる。
建物周辺は既にパンの焼ける匂いが広がっていたが、店内はその比ではなく、空腹を刺激するどころではない香ばしい匂いが充満している。
木棚にずらりと並んだパン達はどれもこれも輝いて見える。
「おお、いらっしゃい」
颯真達が並んだパン達を眺めていると、奥からこの店の店主である麦沢 泰嗣が顔を見せた。身に付けている白いエプロンは胸元から腹の辺りにかけて程よく汚れていて、それは彼がいつも一生懸命にパンを作っている証だ。
「ちは」
「おはようございます」
颯真と色羽は揃って麦沢に挨拶をした。
麦沢はパン屋の店主とは思えないくらい逞しい体格をしていて、胸板などは颯真の倍近くありそうだった。それでも顔付きは穏やかで、細めの目は人の好さを物語る。
「今日、比奈ちゃんはバイトじゃないぞ」
麦沢は焼き上がったらしいパンを棚に並べていきながら言う。
「だから来たんすよ」
颯真はそれに苦笑いを返す。慣れた手付きで並べられていくパンはバケットに明太子が塗られたものだ。それの尋常ではない旨さを知っている颯真の口内には無意識に唾液が満ちる。
比奈ちゃん、というのは今年の春に知り合った少女──真柴 比奈子のことだ。比奈子は秋頃からさいこでアルバイトをしているのだが、自分が働いている姿を見られたくないらしく、彼女が入っている日は颯真は店内立ち入り禁止なのだ。
麦沢もそれを知っているが、それ以上に颯真が比奈子を心配しているのも知っている。だから偶然を装う振りをしてさいこを訪れるのも知っているのだ。
しかしその思惑は悉く比奈子によって阻止される為、成功した試しがない。
「まだ許可出ないか」
麦沢はどこか面白そうに笑って言う。体躯のいい男性の屈託のない笑顔というものは女性からしたら破壊力のあるものだろう。
「まだっすね。もしかしたら、一生ないかもしんないっす」
颯真は冗談めかして言ったが、もしかしたら、本当にそんな日など来ないかもしれない、とも思った。比奈子は春にたった一人の家族であった兄を殺され、独りとなった。そして今は、颯真が住むビルの向かいにある長屋でユキという老女と暮らしているのだが、そのユキが息子夫婦と共に暮らすかもしれないのだ。
その際、ユキの息子夫婦は是非比奈子も一緒に、と提案してくれている。しかしユキの息子夫婦が暮らす家はここから大分離れているのだ。その提案を比奈子が飲み込めば、颯真が彼女のアルバイトをする姿を見ることは叶わなくなるだろう。
しかし、今それを考えても仕方のないことだとも思う。今は今、先は先。最近、颯真の中にはそういった考えが芽生え始めた。
考えるべきことは沢山ある。ならば、まだわからない、見えない先よりも、今考えるべきことをしっかりと考える。そういった考えだ。
「ま、またこっそり来ればいいさ」
麦沢は優しい口調で言い、手際よくパンを並べ終えた。
「好きなの選びな。料金はいいからさ」
麦沢は人好きのする笑みを浮かべながらそう言ってくれた。
「いや、悪いっすよ」
ここは麦沢が経営する店。一個一個の売上が麦沢の収入へと繋がるのだ。
「いいって。可愛いバイトを紹介してくれた礼だとでも思ってくれよ」
とはいえ、比奈子はいつもバイト終わりに麦沢からパンを貰っている。それも、比奈子とユキでは食べきれないであろう量を。それはどう考えても麦沢が颯真の分まで詰めてくれているということだ。
比奈子が颯真に届けるのを見越して。
だからこそ今日は自分で買おうと思って来店したのだ。だというのに料金をいらないと言われてしまっては立つ瀬がない。
「大人には素直に甘えるもんだぞ?」
颯真の表情から心情を読み取ったらしい麦沢に言われてしまい、颯真はすんません、礼を告げた。
今日もこうして、穏やかな一日が始まっていく────。
パン屋というのはどうしてこう、店内全体がガラス張りなのか。それは勿論、美味しそうに並べられたパン達につられ、人々が足を止めるように、との仕組みなのだが今の颯真にはそれが憎らしかった。
比奈子が働いている姿をこっそり見ようにも、こうガラス張りだと何処からでも見付かってしまう。颯真はどうしたものか考えながら店内を睨むように覗き込む。
見るなと言われるから見たいわけではない。そうでなく、なんとなく心配なのだ。
対人恐怖症の気がある比奈子が自らアルバイトをしたいと申し出て、ここを紹介したのは自分だ。しかし、そんな比奈子が働けているのか心配になるのだ。
比奈子が仕事が出来なそうだとか、そんなことではなく、辛い思いをしていないか、という心配。我ながら過保護だとは思うが、心配なのものは仕方無い。
それは恋心からも来るものなのだが、兄心にも似ている。
そんなこんなで、颯真はどうにか一目でも比奈子の姿が見えないものかと四苦八苦しながら店内を覗こうとした──そのとき。
「なに、君、比奈子ちゃんのストーカー?」
不意に背後から掛けられた声に颯真は肩を震わせた。しかしその直後に、その言葉に妙な苛立ちを覚えた。
──比奈子、ちゃん? ストーカー?
颯真は、あ? という声を出しながら、声のした方に顔を向けた。髪を見事なまでの金色に染めた男が凄んだ声を出せば、大抵の奴は怯む。颯真は経験でそれを知っていた。
「幾ら比奈子ちゃんが可愛いからって、こんなヤンキーまでもがストーカーするなんてね」
しかし、声の主は怯んだ様子もなく、そう続けた。
「んだと、こら。誰が誰のストーカーだって?」
聞き捨てならない言葉に、颯真は相手を睨み付けて言う。
「だから、君みたいなヤンキーが、比奈子ちゃんのストーカー」
颯真の凄みなど意にも介さないといった風に、男が笑った。その男はやけに長身で優男風の見た目をしている。垂れ気味の目元が特徴的な所謂「イケメン」だ。
センスの良いベージュのコートが穏やかな風貌によく似合っている。
「俺はストーカーじゃねぇっ。変なこと言ってると、殺すぞ」
「どうぞ。やれるものならやってごらん」
男は間延びしたような口調でへらりと笑う。しかしそれでいてどこか挑戦的な笑みだ。
颯真はその妙な笑みに苛立ちを覚えた。
「南海、店先で何を騒いでるんだ」
もう一声、何かを言ってやろうとした矢先、さいこから麦沢が出てきた。その顔は呆れている、といったものだ。
「ちょっと、騒いでるのは俺じゃないよ? このセンスの悪いヤンキー」
麦沢から南海と呼ばれた男はスウェットにパーカー姿の颯真を指差してそう言った。
「あれほど、来ないで下さいと言ったじゃないですか」
長い髪をおさげにした比奈子が頬を赤くして怒っている。颯真はそれに、小さくすまん、とだけ返した。比奈子は可愛い顔に怒りを露にしている。
比奈子が怒る姿というのは貴重で、颯真はそれが見れただけでも成果があったような気分になる。
「怒られてやんの」
颯真の隣で南海──フルネームは佐奈倉 南海というらしい──がけらけらと笑う。それに颯真はまた苛立ちを覚えた。
「南海さんも、颯真さんをストーカーだと勘違いしないで下さい」
比奈子は今度、南海に対して怒る。颯真はその構図に僅かに胸がざわつくの感じた。
「ごめんごめん。だって、こんなヤンキーが比奈子ちゃんの知り合いだと思わないじゃない?」
けれど南海は悪びれた様子もなく言い、ちらりと鋭い視線を颯真に向けてきた。その目が、あまりに好きになれないように思える。
「俺はヤンキーじゃねぇ」
さいこには小さいながらイートインスペースが設けられており、颯真と南海はそこに鎮座させられているのだ。店先で喧嘩をされたらたまったものではないという麦沢の意見で。
「その姿でヤンキーじゃないって言われても、ねぇ」
南海はまた、挑戦的な視線を颯真へと送ってくる。
「……いい加減にしろよ、てめぇ」
颯真はその視線についに怒りを爆発させそうになった。南海の視線は挑戦的なだけではない。そこにはあからさまな侮蔑の色が含まれている。
「何、やるの? いいよ。いいけど、俺は全く手を出さない。それでもよかったらどうぞ」
南海は鼻で笑った後、ぺろりと上唇を舐め上げた。確実に颯真を煽っている。それに乗るほど馬鹿じゃないと言いたいが、颯真の怒りは限界に達していた。
「南海、いい加減にしろ。騒ぐだけなら出ていけ」
そこに、声を低くした麦沢が一喝をした。初めて聞く麦沢の声音に颯真はびくりと、小さく肩を震わせた。それほどまでに麦沢の声は畏怖を覚えるものだったのだ。
「ごめん、泰嗣。でもさ、こういう奴、好きじゃないんだよね」
南海は立ち上がり、颯真を見下ろした。颯真はそれに応戦するように睨み上げる。しかし、南海の表情は変わらず、ただ冷ややかな視線を颯真に降らせるだけだった。
「まあ、帰るよ。話があったんだけど、改めて連絡する」
南海はそれだけ言い、最後に比奈子に向けて手を振ると颯爽と店内を後にした。
かたん、と扉が閉まる音がさいこの中に響いた。
「なんなんだよ、あいつ」
颯真はそう溢した後に思い切り舌打ちをした。