「1Q84」に関する考察
「真実とシンジツの物語」
僕がこの本を分析するに当たり、方針としては、村上春樹の言葉を尊重する事である。どれだけ理的な論を語ろうとも村上が違うといえば違うので、そもそも村上の発言から始めようとする試みだ。
そもそも、村上はどのような本を書こうとしているのか。毎日新聞によるインタビュー記事(注2)によると「何回でも読み返せる作品」。読売新聞によるインタビュー記事(注3)によると「総合小説」であるという。
さて「風の歌を聴け」を始め「納屋を焼く」「トニー滝谷」その他短編小説を読んだ後の「1Q84」であったが、これは全くの別のものに見えた。というのも、例えば「風の歌を聴け」を読んだ時に感じたのは、カテゴリの区別がつかず、オチがどこにあるのか分からない。といった現代の物語には当たり前のように組み込まれている要素の欠落にあった。この普通との差異により取っ付きにくさが生じていた。それに比べて「1Q84」は村上らしい文章を残しつつも物語的要素も組み込まれていて、とても面白いと思えることができたのは、まず「1Q84」は世界観の土台が非常に現実に近いことが挙げられる。例えば、空からヒルが降ってきたり、テレビに閉じ込められたり、と言った理解不能で引っかかることは起きない。または多少起きるにしても「リトルピープル」という原因を用意することで因果性を保ち、読者が納得して物語は進行する。さらに、この作品はキャラクターメイキングがよく考えられている。必殺仕事人「青豆」、ゴーストライター「天吾」、リトルピープルを感知する者「ふかえり」、自前の勘と足を頼りに真実にたどり着こうとする「牛河」。このように肩書きで表せる辺り、キャラクターに個性を与え、物語にオリジナリティを出し独創性のある物語にしようとする意思が感じられる。
これを加藤洋介の言葉を借りて「エンターテインメント性」(注1)とする。エンターテインメント性は、物語としての面白さを与え、読者を引き込む性質だ。ここにエンターテインメント性をもう一つ挙げる。それは未知完結系の物語的展開である。これは、作品中に出てきた未知の事象をそのまま未知のまま物語を完結させる。そうする事で、読者はこのどこか穴の空いた感じを埋めるために、未知に対応する真理を探すが、そのままの真理に値する記述はない。よって真理のヒントを探しそのヒントから自らの答えを作り出そうとする。歴史的に見ても未知を解明しようとする働きは人間の好奇心を刺激する。現に「1Q84」においては、「リトルピープル」の正体や1984年と歴史すら違う「1Q84年」では何が同じで何が違うのか。色々なことがハッキリしないままこの本は完結する。
未知完結系がエンターテイメント性として表せるのは、過去の作品を見ればわかる。新世紀エヴァンゲリオンと進撃の巨人。いまや内容は知らなくともタイトルなら知らない人は少ないだろう。これらの作品の魅力は、それぞれいろいろなところはあるだろうが、中心にあるのは間違いなくタイトルにあるエヴァンゲリオンと巨人の存在である。エヴァンゲリオンは人造人間と呼称されているが、動力は電気。しかし、パイロットの感情の高揚とともなってバッテリーがなくても稼働する未知仕様である。巨人は、弱点がうなじにある、という事以外は不明。たとえ頭をふっ飛ばしても数分後には蘇生するという脅威の再生能力をはじめ、人間を捕食する目的等、未知な点は多々ある。このような作品に対しては大概にして「○○解明」といった本が発売されるのは、まさに未知のまま完結した事柄について、読者のかわりに穴を埋めてくれるというところに魅力が発生する。
さらに、この未知完結という作法こそが村上の目指す何回でも読み返せる作品ではないだろうか。先ほどもいったように、未知完結は、一回目で最後まで読みストーリーのオチを知ったとしても、二回目は求める真理(例えばふかえりの正体)に対応するヒントをみる視点でもう一度本を読むと、また別の発見があるだろう。三回目も然り。ここで書きすぎず書かなさ過ぎずという整合性の取れた文章の上で紡がれる物語。これこそ読者を惹きつけた要因ではないか。
あらためて、エンターテイメント性は他の作家においても中心にあるものであり物語の普遍的性質でもある。しかし村上作品でエンターテインメント性と並ぶ大きな存在として忘れてはならないのは、メッセージ性である。
ただ、まずこのメッセージ性の村上の立場を明らかにしておく。というのも通常、本で伝えられるメッセージというのは指南書であることが多い。なにかをするべきだ。これはつまり、何かを善とし何かを悪として説得していることになる。本文よりこのような記述がある「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある」(注4)これはさきがけのリーダーの発言であるが、それはどうでも良い。村上と重なる人物であるとは限らなくても、この文章を書いたのは村上自身であり、村上は善悪をこのように考えているあるいは、考えたことがあると分かる。つまり、善として発したメッセージは悪になる可能性もあると。これを理解したうえで発するメッセージはどのようなものか。おそらくそれは善悪という判断の前の段階である。判断には必ず根拠が伴う。その根拠となる、真実を示す。そしてこの真実を元に善と悪を決めるのは受け取り手次第。これが村上のメッセージ性である。
僕は今レポートにおいては「さきがけのリーダー」の発言を軸にしてメッセージを読み解く。先ほどの引用の発言主だ。
さて、村上は「1Q84」執筆のきっかけは「地下鉄サリン事件で一番多い8人を殺し逃亡した、林泰男死刑囚のことをもっと多く知りたいと思った。彼はふとした成り行きでオウムに入って、洗脳を受け殺人を犯した。(省略)ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた」(注3)であるという。
ここに「さきがけのリーダー」人生略図を並べて書く。「さきがけのリーダー」である深田は、田舎で特筆するべきことのない農業コミューンを営む組織のトップであった。ある時、深田の娘のが「リトルピープル」を連れてきて、深田は「リトルピープル」の「パシヴァ」となった。組織内では<声を聴くもの>と呼ばれ、「リトルピープル」の声を「パシヴァ」し、それを伝えるのが彼の仕事となった。農業コミューンはやがて宗教組織となり、そして間もなく青豆に殺される。僕はこの二つは大枠的に一致しているように見える。他人から貰ったものをそのまま自考せずに受け入れるという点だ。深田は、リトルピープルの声を。林は麻原の声を。そして、村上の言葉「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」(注2)から推測するに、人々全般は何らかの組織、宗教、法人、趣味といったある程度のまとまった人数による精神的枠組みに所属する必要がある。もちろん、そこに問題はない。しかしそこで、規則や集団心理により、思考が「パシヴァ」(受動的)になると、いつのまにか、自分が大変な事になっていることもある、と読み取れる。深田と林はその極端な例ということだ。
ではこの「パシヴァ」について考えてみる。「パシヴァ」とはpassive(受け取る)+er(人)のカタカナ語であろうことから、仮に「パシヴァ」に相対する性質を持つものをプレゼンター(渡す人)とする。「1Q84」本文においてこのような記述がある。「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実など求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような意味深く感じさせてくれるような、美しく心地の良いお話なんだ」(注5)世間のたいがいの人々を、パシヴァ。それ以外の少数をプレゼンターとしてこの引用をみると、このように解釈される。プレゼンターがパシヴァに提供する真実は、実証可能なものではなく、パシヴァを心地良くさせてくれるような加工されたシンジツである。
ここまで来れば現実に思い当たる節はないだろうか。たとえば、本論の執筆年二○一四年は「政治とカネ」という問題が多数発覚している。野々村元議員を始めとした兵庫県議員の不正資金調達。女性大臣の小渕、松島大臣のダブル辞任。このような事件に対して、「政治家が、そんなことをするなんて言語道断だ」と言う意見も真っ当であるのは間違いないのだが、忘れてはならないのは彼らは民意によって選びだされた人間であるということだ。彼らが政治家になれたのはたくさんの票を得たからだ。上記の考察を含めてこれを考えるならば、彼らは政治家になり、金に目が眩み、不正をしたのではない。中身は我々一般市民と同じ、目の前に大金があれば簡単に目が眩む。彼らは政治がうまいのではなく、プレゼンター(立候補者)としてパシヴァ(投票者)に心地の良いシンジツを提供することが上手かっただけなのである。聞いたことはないだろうか。選挙前の「〜反対! 〜していきます!」と言った実際には実行する可能であるのか疑問に思えるような夢のように素晴らしい演説を。消費税反対や集団的自衛権反対と言ったいわば心地の良いお話をして票を獲得している議員を。
もちろん、全員がそうと言っているわけじゃないし、僕は未成年で選挙権すら持たない故にこれはただの妄想である。しかしこれを真実とするかシンジツとするかどうかもパシヴァ、読者次第なのである。
さて、パシヴァについてまとめ直す。パシヴァはいわば受動的思考のことで、プレゼンターに提供される心地の良いシンジツの中で踊っている。知らぬが仏というように、何も知らずに躍らされるも真実を知り、能動的に行動するも、それは読者次第である。
そしてこのメッセージは「さきがけのリーダーの発言」を見た結果得ることが出来た。逆に言えばこの視点さえ変えてしまえばメッセージの内容は変わってくる。これが村上の「総合小説」であると考える。ハートとダイヤとスペードとクローバーを立体的に重ねて一つの物にしたとき、それはとても複雑な形をしていて、見る視点によってまったく違うものになるだろう。村上の「総合小説」とはさまざまな要素が絡まりあってできたひとつの形であり、たくさんの考察が出来るのも視点によって形の変わるこの性質があるからである。
「1Q84」は「何回でも読み返せる作品」であり「総合小説」である、村上にとっても完成された作品であり、偽り無き傑作である。
参考文献
(注1)加藤典洋「あからさまなエンターテイメント性はなぜ導入されたのか」(村上春樹『1Q84』をどう読むか 河出書房新社編 2009/7/30)
(注2)村上春樹氏インタビュー 僕にとっての<世界文学>そして<世界>2009/5/12 毎日jp (十月二十八日閲覧)
http://web.archive.org/web/20090221034103/mainichi.jp/feature/sanko/archive/news/2009/20090216org00m040011000c3.html
(注3)『1Q84』への30年 村上春樹氏インタビュー(上)2009/6/16 (十月二十八日閲覧)
http://web.archive.org/web/20090621062724/www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm
1Q84(文庫本)前編・後編 村上春樹 新潮文庫 2009/5/30
(注4)前編p312
(注5)前編p299