一本のバラを
雲が広がって青空を隠していく。
アルバイト中のお花屋さんの店長が、配達に行くので外に並べてあるお花を店内に入れといてくれと指示した。
筋肉はあるけれど心は乙女な男の店長は、見た目とかは置いておいても凄くいい人だ。
私は元気良く返事をして花を取り込む。
雨が降ってきてしまいそうだ。
最後のお花を入れ終えると丁度雨が降り始める。
間に合って良かったと体を伸ばす。
筋肉が伸びて気持ちいい。
「あれ?………お客様」
お店の中からひょこっと顔を覗かせれば、店先で雨雲を睨みつけていた男の人が驚く。
それはもうすごい驚きっぷりで一mくらい飛び退いた。
私は数回の瞬きをして男の人を見つめた。
黒髪で真っ黒な瞳を持つその人は、人を寄せ付けないような刺のある雰囲気が感じられる。
お店から上半身を覗かせて、私は彼に問いかけた。
「良かったら、お店に入りませんか?」
風も引いちゃうし、と付け加えれば驚いた顔から鬱陶しそうな歪んだ顔になった。
そして目を細めて私を見る。
「いい」
私から目を逸らして雨雲を睨みつけた。
ポタポタと黒髪から滴る水を見るからに、それなりに雨に打たれたのだろう。
それに雨が降っているから気温だって下がっている。
こんな所に濡れたままいたら風邪を引いてしまう。
眉を寄せながら私は彼の腕を引いた。
しっとりと濡れたその服の感触を感じながら、私はお店の中に彼を引きずり込む。
お店の奥からタオルを持って来て彼に手渡す。
無理矢理タオルを握らされた彼は、歪んだ顔をしたままタオルを睨みつけていた。
拭おうとしないので私はそのタオルを奪い髪を拭いにかかる。
細い髪をワシワシと強めに拭く。
露骨に嫌そうな顔をされる。
ある程度乾いて手を離すと思い切り舌打ちをされた。
忌々しそうに。
タオルを握りながら店の中を睨み回す。
お花が萎縮しそうなので辞めて頂きたい。
よいしょ、とお店のお花を綺麗に並べていく。
ガタガタと音を立てて重いプランターを揃えていると、甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。
後ろで男の人がお花の花弁を撫でている。
指先でその形をなぞる様に撫でて、その指に形を覚えさせている様だった。
それは真っ赤な薔薇だった。
血を吸ったような美しい色の赤薔薇を見つめる彼の瞳は、ほんの少しだけ優しい。
赤薔薇についていた水滴を指で弾けば、キラっと光る水滴。
純粋にその光景が綺麗だと思った。
乾いた唇を舌で舐めて彼に薔薇が好きかと問えば、彼は驚いたように私の顔を見た。
その瞳は何故か揺れている。
答えに詰まる彼は苦虫を噛み潰したような顔で、私と薔薇を交互に見つめた。
カウンターにあるハサミを持ち、私は彼が触れていた赤薔薇をバケツの中から取り出す。
ぱたた、と音を立てて水滴が床に落ちる。
刺を全てなくした薔薇は扱いやすい。
美しい薔薇だからこそ棘があるんだろうけれど。
その薔薇を適当な長さに切って、たった一本の花を包む。
薄桃色の包装紙に包まれた赤薔薇を彼はぼんやりと見つめる。
そのまま私はその赤薔薇を彼に無理矢理もたせた。
触れた彼の手はひんやりと冷たかった。
「…お代は結構です」
私がそう言うと彼は財布を取り出して、私にお金を手渡そうとしてくる。
私はその手を押し返して笑う。
「これも何かの縁ということで、お花を買う時はウチの店をご利用ください」
お金の握られた彼の手に一枚の紙を一緒に握らせる。
お店の名刺だ。
もう雨の音は聞こえない。
また、会いましょう。
また、来てください。
その言葉を飲み込んで、赤薔薇を一輪持った彼の背を見つめていた。