第九章 邂逅(2)
コアとマイルが馬を返しに行っている間、リリィとクロムは宿の一室で旅の疲れを癒していた。そこへ戻って来たコアとマイルが一様に青い顔をしていたのでリリィは首を傾げる。
「重要な話がある」
重々しく告げ、コアは腰の煙管に手を伸ばした。だが思い直したように手を止め、コアは小さく舌打ちをする。コアの不可解な動作が気になったリリィは疑問を口にした。
「吸わないの?」
コアが苦い表情で頷いたのでリリィはますます首をひねる。煙が出る合図とともにリリィはコアから離れ、クロムは窓を開けたのだが、一連の動作は無駄となった。リリィとクロムの素早い動きを目の当たりにしたコアは大きく息を吐いてから言葉を紡ぐ。
「金がない」
ため息とともに吐き出されたコアの言葉が何を意味するのか、リリィには分からなかった。説明を求めるためにリリィはマイルを振り返る。
「金がないんだ」
マイルから返ってきた答えもコアと同じものであり、リリィはクロムと顔を見合わせた。しかしそうしていても何も解決しないので、リリィは再びコアとマイルに視線を転じる。
「それって、どういうこと?」
「何も出来ない、ってことだな」
コアの説明は短く、また分かり辛いものであった。疑問を挟まない方が賢明であると察したリリィは黙り込む。今度はマイルがため息をつきながら話を始めた。
「稼ぎがなければ金がなくなるのは自然の成り行きだ。今までがおかしかったんだな」
コアは大聖堂に所属しているので大聖堂領内であれば大抵のことは金をかけずに片がつく。また手持ちがなくなれば本拠地へ行かずとも請求が出来る仕組みもあるが、これも大聖堂領内の話である。そうした大聖堂の恩恵とコアの特殊な存在自体のおかげで、今まで金銭的な問題が発生したことはなかった。その場凌ぎで見過ごされてきた問題が今になって表面化してしまったのだとマイルは語る。
「まさか大聖堂本部に顔出さない皺寄せがこんな形で表れるとはな」
うんざりしながら空を仰ぐコアの手に煙管がないことの意味を、リリィはようやく理解した。しかし金がないということがどういうことなのか本質的に理解していないリリィにはコアやマイルのような悲観はない。
「じゃあ、これからどうするの?」
「そう、そこだ」
コアは諦めきれずに腰から引き抜いた煙管をリリィに向けた。リリィはコアの迫力に押され、一歩後退する。結局コアは煙管に葉を入れ、火をつけてから口を開いた。
「マイルも金ねえって言うしよ。俺が一度大聖堂に戻るしかねえな」
室内に充満した煙を気にした素振りもなく、マイルはコアに頷いて見せた。
「別行動はもう避けた方がいい。俺たちも一緒に行こう」
「面倒くせえ世の中だよな。ちょっと戦場で小遣い稼ぎ、なんてことやってた時代が懐かしいぜ」
コアが横柄に紫煙をくゆらせながら回顧するのでリリィは呆れた。マイルはコアの不謹慎な発言には何も言わず、リリィとクロムを振り返る。
「ここの宿代を払ったらもう金がないんだ。いつでも出発できるようにしておいてくれ」
マイルの真剣な表情から事態が深刻であることを察したリリィは荷物をまとめておくため隣室へと戻った。
宿代を払ったら一文無しになるため、一行は食事も出来ないまま夜を迎えた。山中であれば狩りという手段もあるがイレースは海に面した町であるため近くに山はない。海へ漁に出るには相応の技術と道具が必要であり、一行は仕方なく夕食を断念したのである。
月明かりのない海辺の夜、コアは忍ばせた足音を聞きつけて目を覚ました。上掛けを剥いで硬いベッドから音もなく飛び降り、コアは外から見えないよう壁に背を貼り付ける。そうして覗いた窓からは、篝火に映し出されている武装した者達が窺えた。
「……どうした」
マイルが低く囁いたのでコアは窓辺を離れてベッドに寄る。マイルは床上の黒い塊でしかなかったがコアには深刻な表情が見て取れた。
「武装した連中が下にいる。通報されたかもしれないな」
コアはフリングスではお尋ね者である。その理由はコアが大聖堂の人間であることや、フリングス領内に入る時に偽造した通行許可証を使用したことなどが挙げられる。前述の事柄に加えてコアはティレントの町で暴れており、フリングス軍に目をつけられないはずがなかったのである。馬を賃借りしたことは金銭的にも立場的にも軽率であったと、コアは小さく舌打ちをした。だが今は現状を打破することが先決であり、コアはクロムを起こしてからマイルを振り向いた。
「リリィを連れてくる」
短く言い置いた後、マイルは足音に気を配りながら去って行った。コアは装備を確認しながらふらふらとベッドから降りてきたクロムに目をやる。
「寝ぼけてんじゃねーぞ。準備体操でもしとけ」
「何事ですか?」
まだ事態を把握出来ていないクロムはのんびりと問う。コアは窓の外に気を配りながら話に応じた。
「下に武装した連中がいる。突破すっから気を引き締めろ」
「突破って……ここ、二階ですよ?」
クロムが困惑気味にそう言ったのでコアは口元に手を添えて考えを巡らせた。二階へ上がる階段は一つだけであり、敵の数によっては正面から逃げるのは危険である。
「……とにかく、窓から見られないように準備しとけ」
クロムに言い聞かせてからコアは再び窓辺へ寄った。篝火の数も人数も先程と変わらず、窓から見える範囲にいる者達には動く気配がない。つまり彼らは見張りであり、そうなってくると突入部隊はすでに宿の正面に集結している可能性が高い。状況を推察したコアは音を立てずに廊下へと移動した。
「コア」
廊下の突き当たりにある窓の下からマイルが呼んだのでコアはそちらへ移動した。
「リリィは?」
「状況は伝えた」
マイルと短く会話した後、コアは窓の下から少しだけ顔を覗かせて周囲を窺った。そこには室内から見たものと同じ光景があり、コアは再び体を沈ませながら息を吐く。
「こりゃ完全に包囲されてるな」
しゃがみこんだ体勢で壁に背を預け、コアは空を仰いだ。マイルが口を開くより先にリリィが部屋から出てきたので、コアは移動を促す。クロムがいる部屋へ戻ってからコアは腕を組んで口火を切った。
「まず、組合に行って馬を盗む」
コアの提案は強攻策であったが時間がないことは誰もが承知していたので異論は出なかった。馬を強奪した後は北へ走れとだけ伝え、コアは開け放したままの扉へ寄る。階下には人の動いているような気配はなく、まだ突入されていないと踏んだコアは剣を抜きながら階段を下った。
一階には客室はなく、食堂があるのみである。宿の正面出入口である二枚扉の横にリリィ、マイル、クロムを移動させ、コアは窓から外の様子を窺った。すでに正面出入口の前は占拠され、武装した者達は突入の合図を待っている。篝火に照らし出された様相から宿を包囲しているのがフリングス軍であることを察したコアは腰をかがめたまま扉の脇まで移動した。
軍人が相手では一人で対処するには荷が重く、コアはそれぞれ武器を持つよう指示を出した。突入された後に脱出することを伝え、コアは黙って外の気配を窺う。ほどなくして扉は破られ、フリングス軍が突入してきた。一目散に二階へと上がって行く一団を見送った後、コアは素早く外へ飛び出す。目についた篝火を始末しているうちに同行者達が追い抜いて行ったのでコアも踵を返して走り出した。
町中であることや月明かりのない夜であることを考慮すれば、矢は使われないであろう。ならば目前の敵だけを見据えていればいいと、コアは闇雲に襲い掛かってくる者達を蹴散らしながら進んだ。
(フリングス軍ってこんなに弱かったか?)
兵たちは篝火を失ったことで目標を見失い、見当外れの場所に武器を振り下ろす者が少なくない。過去にフリングス軍と剣を交えた経験のあるコアは呆れと訝しさを同居させながら人波を縫って走った。そのうちに前方を走るリリィの姿が目に留まったので、コアは左右から迫る白刃を躱しながら観察する。体に錘をつけていることにも慣れてきたようで、リリィの足取りは思いの外しっかりしていた。だが緊張により体が堅くなっており、リリィが敵の攻撃を避ける仕種はまだぎこちなさを残している。それでも進歩が見られたのでコアは満足しながら斬りかかってきた兵をあしらった。
馬屋の場所を知っているマイルが先頭に立って包囲を抜け、その後にクロム、リリィと続いて突破した。しんがりを務めていたコアは最後に、腰に下げている小袋から仕掛け玉を取り出して敵陣に放る。勢いよく弾けた玉から白煙が立ち込めたことを横目で確認し、コアは煙を吸わないよう全速力で走った。
「あ、あれ、何?」
コアに追いつかれたリリィは背後を振り返りながら途切れ途切れに言葉を搾り出す。コアはリリィと並走しながら答えた。
「あれな、小麦粉と胡椒とその他だ。吸い込むと死ぬほど苦しいから無駄口叩いてないで走れ」
「何で、そんな、色々、持ってんのよ」
「備え有れば患いなし、ってな。それより、まだ話せるなんて余裕じゃねーか」
人間は緊張すれば必要以上に力が入り、必要以上に疲労する。リリィの様子から極度の緊張を察していたコアは意外な面持ちを向けた。だがリリィにはもう口を開く余裕はないようで返答はない。
「さっきの動きも緊張してるわりには良かったしな。そろそろ攻撃を避けること以外もやってみるか?」
「そんな、今……」
荒い呼吸のせいでリリィの言葉は聞き取り辛かったが、大方の内容を掴んだコアは笑みを浮かべる。
「今話すことじゃねーよな? 分かったらもっと早く走れ」
軽快に笑いながら言い置いた後、コアはリリィを置き去りにして走り去った。




