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第八章 英雄と呼ばれた男(12)

 大聖堂(ルシード)の属国である赤月帝国は大陸の東北に位置している。この国の王城は城下街のほぼ中央に位置しており、王の執務室からは街を一望することが可能である。赤月帝国の新国王クローゼは大きく取られた窓から己の支配下に置いた街を眺めていたが、彼はやがて視線を転じた。クローゼが振り向いた先には一人の老人の姿があり、彼の者は両腕を背後で拘束されて佇んでいる。罪人の名はサイゲートといい、彼は五十年ほど前、大聖堂との争いにおいて戦うことを知らなかった国民を奮い立たせた赤月帝国の英雄である。

 クローゼが王位を勝ち取るために起こした内乱の折、サイゲートはクローゼの対抗勢力であった白影の里に加担した。長年教育係を勤めてきた老人はクローゼの敵となり、牢に幽閉されていたのである。だが、クローゼの実妹にあたる(なずな)が彼を逃した。その罪を問われた薺は処刑されてしまったが、サイゲートは彼女との約束に殉じるために赤月帝国へ舞い戻ったのであった。

 衰えてもかつての英雄の面影を残しているサイゲートは未だクローゼにある種の畏怖を抱かせる。複雑な胸中を悟られないようため息をつき、クローゼは沈黙を破った。

「薺は、死んだ」

「知っております。これで残された血は陛下だけですな」

 陛下という名称はクローゼが王位に就いてから幾度となく使用されてきたものであるが、サイゲートが口にすれば痛烈な皮肉でしかない。サイゲートの威圧するような眼差しは老いても変わらず、クローゼは思わず目を伏せた。

「何故、戻って来たのだ」

 今の状況で赤月帝国へ戻ることが何を意味するか、サイゲートに解らないはずがない。だが独白を発したクローゼ自身、サイゲートは必ず戻って来るという確信さえ抱いていた。クローゼがサイゲートという人物をどう捉えていたかはクローゼを教育してきたサイゲートこそが理解しているはずである。そのため戻って来た理由を問うなど白々しくさえあったがサイゲートは屹然として応じた。

「陛下にお尋ねしたいことがありましたので戻って参りました」

「……許す。言ってみろ」

「はい。国王となられたのは何のためですか?」

 サイゲートの揺るぎない瞳には強い非難が顔を覗かせている。一瞥しただけで見るに耐えず、クローゼは顔を背けて唇を噛んだ。

 サイゲートのような英雄にはクローゼの気持ちなど解るはずもない。そのようなことのためにと、彼は嘆くであろう。あまつさえ、クローゼが幼い頃からそうであったように叱るかもしれない。だが、彼は死ぬのだ。そう思った時、クローゼは重い口を割った。

「国が、欲しかった」

 その想いを、クローゼは長いこと胸に秘めてきた。語ってはならないことなのだと誰に言われずとも知っていたのでクローゼは固く心を閉ざしてきたのである。初めて他者に真意を明かしたことが自身の心に沁み入り、クローゼは嘆息してからサイゲートを見つめた。

「サイゲート、お前も見ていただろう? 私の父がどのような扱いを受けていたか」

 クローゼの父であるユリウスは赤月帝国の第二王子として生まれた。そのため王位に就く可能性はなく、大臣の一人として王である兄に仕えていたのである。兄弟間の争いもなく、平和な統治時代であった。だが兄王より先に男児を授かると、ユリウスは行動を起こしたのである。

「反旗を翻すなどと大袈裟なものではなかった。ただ、少し夢を見ただけだったのだ」

 ユリウスの兄であるレクス前国王にはなかなか男児が生まれなかった。そのためユリウスは王家断絶の危機を説き、王統の子であるクローゼを太子としたのである。己の可能性を生まれた時に断たれてしまったユリウスは息子に望みを託したのだが王夫妻の間にも男児が誕生し、一度はクローゼが手にした王位継承権は王の子であるアーロンのものとなった。この一件により兄弟の間には溝が深まり、反乱を恐れた兄は弟を隔離したのである。

 性根が大人しい人物であったユリウスは兄の決断に甘んじていた。いつも寂しそうに笑っていた父の姿を瞼に焼き付けているクローゼは無念の思いに拳を握る。

「たった一度、父は私に言った。悔しい、と」

 お前を王にしてやりたかった。誰にも憚らない自分の国が欲しかった。そうした父の無言の声を、クローゼは確かに聞いたのである。

「……血は争えませんな」

 それまで黙っていたサイゲートがぽつりと、呟いた。クローゼはいつの間にか閉ざしていた目を開け、サイゲートを見据える。寂静を表情に滲ませているサイゲートはクローゼを見つめながらゆっくりと言葉を紡いだ。

「クローゼ様、クロス様のことを覚えておいでですか?」

 サイゲートはもう、陛下とは呼んでいなかった。険が取れた老人の声に幾らかの安堵を覚えたクローゼは眉根を寄せる。

 クロスとはクローゼの祖父にあたる人物である。何故祖父が話題に上るのか、クローゼはサイゲートの真意が解らぬまま曖昧に頷いた。サイゲートは柔らかな日差しが差し込む窓へ視線を転じ、遠い目をしながら語り出す。

「先の大戦の後、クロス様は赤月帝国とフリングスの結びつきを強めるために婿入りされました。クローゼ様がお生まれになる、何十年も前の出来事ですな」

 サイゲートが始めた昔話にどのような意図があるのか汲み取れないでいるクローゼは沈黙を保った。サイゲートは視線を傾け、今度は真っ直ぐにクローゼを見据えながら話を続ける。

「クロス様もまた第二王子として生まれ、現在はお亡くなりになりました先のフリングス王がいらっしゃる間は王位に就けないお方でした。先のフリングス王は強硬なお方で頑として大聖堂との敵対を表明しておりましたがクロス様はどちらかといえば穏健派で、お優しいお方でした」

「……それが何だと言うのだ」

「野心などない、それがクロス様とお会いになった者が抱く大概の感想です。大聖堂に口実を与えない為にはそういった顔の出来る人間が必要でした。その点、クロス様は実に赤月帝国の再建に貢献してくださいました。ですが一度だけ、私は彼の本音を聞いたことがあります」

 クローゼには祖父とサイゲートがどのような間柄であったのか知る由もないが、祖父の真意はサイゲートにのみ明かされたのであろうと察することは出来た。サイゲートは再び回顧の表情を浮かべ、故人を偲ぶようにしながら言葉を紡ぐ。

「国が欲しかった。クロス様はそう、仰いました」

 クロスはフリングスの第二王子として生まれ、祖国で不自由なく暮らしていた。王位に就くことがないので教育も厳しくなく、統率力のある兄に任せておけば国も安泰だろうと心も満ち足りていたのである。だがクロスは赤月帝国からの要請を受けて王になった。他国の王になるという話を聞いた時に初めて己の内にあった気持ちに気がついたのだと、クロスはサイゲートに語ったのだった。

「恵まれなかったわけではない、まして望んでいたわけでもない。それなのに国を欲している己に気付き愕然としたと、クロス様は仰っておりました」

 王族に生まれた者の性なのかもしれないと、他国へ婿入りした若き王は寂しそうに呟いていた。クロスをしてそう言わしめたのは彼の義父であった当時の赤月帝国王と、クロスが婿入りした際には亡くなっていた王子の存在があった。彼らは王族に生まれながらも王位を望んではおらず、その姿を目の当たりにしたクロスは己の考えをあさましいと恥じたのである。先立った誠実な者の血を受け継ぐクローゼを見つめ、サイゲートは静かに言葉を重ねた。

「高貴な生まれではないので私にはその気持ちを理解することは出来ません。ですが王位とは、そういったものなのでしょう」

 サイゲートがわざわざ祖父を引き合いに出した意図を理解したクローゼは激しい憤りを感じた。震える拳を握り締め、クローゼはサイゲートを睨み見る。

「そうやって、私を非難するのだな。非難しながら死んでいくのか、サイゲート!」

「非難はしておりません。赤月帝国が普通の国になった、それだけのことです」

「お前は望んでいなかったのだろう!? 私には目もくれなかった海雲(かいうん)もそうだ!!」

 海雲とは赤月帝国の軍隊であった白影の里の棟梁だった男である。サイゲートがクローゼの教育係であったのに対し、海雲は王子アーロンの教育係を勤めていた。サイゲートは厳しくも人情的な一面を持っていたが海雲は冷徹であり、クローゼには王位に見放された人間を蔑んでいるかのように感じられたのである。

 やるせない表情を見せたサイゲートに怒りは募り、クローゼは激昂のあまり言葉を失う。クローゼの怒りを静かに受け止めたサイゲートは思いの丈を言の葉に託した。

「私は、赤月帝国を愛しています。海雲もそうでした」

「時代があなた方を望んでいないのですよ」

 不意に第三者の声が沸いたのでクローゼはハッとして顔を向けた。いつの間にか開かれた扉の前にはヴァイスと衛兵の姿があり、クローゼは感情を押し殺して表情を改める。ヴァイスは一切の情を感じさせない声音でクローゼに告げた。

「陛下、お時間です」

 頷くことも出来ずに立ち尽くしているクローゼを尻目にヴァイスは衛兵に指示を送った。抵抗をすることもなく、サイゲートは衛兵に連れられて歩き出す。執務室の扉が閉ざされた時が永久の別れであることを知っているクローゼはサイゲートの姿が見えなくなるまで食い入るように睨み付けていた。

「……ヴァイス、何故ここにいる?」

 執務室の扉が閉ざされてから、クローゼは静かに問いかけた。クローゼの声音は冷え切っていたがヴァイスは臆した様子もなく応じる。

「サイゲートが戻って来たと報告を受けたから。あなたに決断を任せるのは酷であると思って、急いで来たの」

 ヴァイスの動かない表情に苛立ったクローゼは彼女の腕を掴んで荒々しく引き寄せた。きつく女の体を抱きながらクローゼは堅く目を閉ざす。クローゼの脳裏にははっきりと、無念を見せることもなく去って行った英雄の姿が焼きついていた。

「辛かったわね。もう、大丈夫よ」

 ヴァイスは赤子をあやすかのようにクローゼの背を撫で、優しく語りかける。人肌の温もりが凝り固まったクローゼの心を少しずつ融かし、彼の頬には涙が伝った。こうして赤月帝国新王の涙とともに旧史の英雄は去り、一つの時代が幕を下ろしたのであった。

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