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第八章 英雄と呼ばれた男(6)

 ティレントの町で朝を迎えたリリィはまだ整理のつかない心苦しさを残しながらコアと向き合っていた。場所はサイゲート達が使っていた小屋から少し離れた殺風景な広場である。リリィの顔を見るなりコアは大きくため息を吐いた。

「ひでえ顔。お前、女なら顔くらい気遣えや」

「……うるさいわね」

 腫れぼったい瞼を精一杯上げ、目の下に隈をつくったリリィはコアを睨み見る。コアは目を細めて口元だけで笑った。

「ちったぁ元気になったみたいじゃねーか。考えすぎは良くないぜ」

 コアの軽口に付き合うほど気持ちに余裕はなく、リリィはむっつりと口を噤んだ。だが次の瞬間、鎖骨に下に激しい痛みを覚えたリリィは体を丸める。リリィに打撃を与えた張本人は悪びれもせず軽口を叩いた。

「んな寝不足のフラフラで訓練になると思ってんのか? 舐めてんじゃねーぞ」

「この……!」

 日頃から鬱憤が溜まっていたリリィは痛みに我を忘れてコアに殴りかかった。だがコアはわずかに身を引いただけで躱し、リリィの足を払う。両足が宙に浮いたリリィはそのまま、背中から地に倒れた。

「誰が攻撃していいって言ったよ? 師匠(・・)の言い付けは守れよな」

 コアの無情な言葉を聞き流しながら、リリィはぼんやりと空を眺めていた。高い天には雲があり、ゆっくりと東へ移動している。

「……おい」

 怪訝そうなコアの顔に視界を遮られたのでリリィは倒れたまま目だけを傾けた。コアはため息をついてからリリィの傍に腰を下ろす。

「一つ、教えてやるよ」

 煙の臭いが漂ってきたのでリリィは上体を起こした。隣に座すコアは煙管を片手に空を仰いでおり、リリィは黙って次の言葉を待つ。コアはゆっくりと煙を吐いてから再び口を開いた。

「自分から命を捨てに行こうって連中はな、大概命よりも大切なものがあるとか言いやがる。家族や恋人、誇り(プライド)、忠誠なんかが多いか。そういう風に考えれば、ちったぁ納得出来んじゃねーの?」

「大切なもの……」

「例えば、お前の同郷の女」

 大切なものと言われた時、リリィの頭には真っ先に同郷の少女が浮かんでいた。コアの言葉がまるで心を読んだかのようなタイミングだったのでリリィは驚きながら目を向ける。

「カレンのこと、よね?」

「そうそう、カレンだったな。例えば、カレンが人質にとられて今にも殺されそうだ。お前の命を差し出せば人質は助けてやる、そう言われたらどうする?」

 返答に窮したリリィは口を噤んだがコアは容赦なく話を続ける。

「カレンはお前が死ねば悲しむだろ。そんな奴を前にしてお前は死ぬことを選ぶか? それともカレンを見殺しにするか?」

「……どっちも嫌よ」

 リリィが苦し紛れに発した言葉は選択をしたとは言えないものであった。そのことは自身でも解っていたのでリリィはまたコアに馬鹿にされると身構えたが、コアの表情にはそのような色は浮かんでいなかった。

「ま、当たり前だな。でもこの例えが現実だったら、どうなるか解ってんだろ?」

 リリィもカレンも間違いなく、命を落とす。コアがそう言っているのだと心得ていたのでリリィは黙って頷いた。コアは煙を吐いてから言葉を次ぐ。

「サイゲートの場合は大切なものがもう少し複雑だが、要はそういうことだ。現実はお前が考えてるより厳しいんだよ」

 一方を選ぶということは一方を犠牲にするということである。サイゲートにとって優先すべきは自身の命でもマイル達でもなく赤月帝国という国だった、ただそれだけのことなのだとコアは語った。命や悲しみといったものは目に見えて解りやすいが国という無機的なものの実体は傍目からは掴み辛く、リリィは小さく首を振る。

「理解出来ないわ」

「理屈は解ってんだろ? だったら死にたがる奴の気持ちなんか解る必要もねえよ」

 コアはあっさりと、そう言ってのけた。ある程度の理解は示すが共感は一切しないというコアの態度を不思議に思ったリリィは首を傾げながら問いを口にしてみる。

「ねえ、コアならどうするの?」

「あ? 何がだ?」

 煙管を逆さにして灰を落とし、コアは怪訝そうな面持ちでリリィを振り返る。リリィは先程コアにぶつけられた質問をそのまま返した。

「俺は人質をとられるような失敗はしねえ」

 問い自体が心外だとでも言うようにコアは眉間に皺を寄せながら断言する。リリィは呆れながら話を続けた。

「それじゃ例え話にならないじゃない。ちゃんと答えてよ」

「そうだな……お前にゃ出来ない芸当だが、隙を見て人質を解放する。それも出来ない時は人質の命を諦めるな」

「それって、自分の命が一番大切ってこと?」

「当たり前だろ」

 至極当然のことのように、コアは微塵の迷いも見せず即答した。コアの態度があまりに潔かったのでリリィは小さく吹き出す。しかしコアは笑わず、小さくため息をついた。

「お前、ほんと呑気な奴だな」

 空気が急変したのでリリィは訝りながらコアを見上げた。コアはすでに立ち上がっており、どこか哀れみを孕ませた瞳をリリィに向けている。

「場合によっちゃ俺はお前を見殺しにするぜ。そこんとこ自覚しとけ」

 リリィの額を人差し指で小突いた後、コアは己の正面に顔を据える。額を押さえて立ち上がったリリィは文句を言う前に、こちらに歩み寄って来る人物に気がついた。

「いつでも逃げられるように準備しとけ」

 コアの小声が警戒を露わにしていたのでリリィも状況を察した。リリィはコアを仰いだが、コアはすでに来訪者に向かって歩き出していた。

「探したぜ。あんた、乱世の至宝だろ?」

 褐色の肌をした青年が嫌な笑みを浮かべながらコアに話しかける。コアはあしらうように軽く肩を竦めた。

「名が通っているのは自負してるがお前みたいな野郎に探されるのは迷惑だ」

「……ふざけた野郎だな」

 笑みを懐疑に変え、褐色の青年は拍子抜けしたことを態度で示した。青年の心理には興味がないようで、コアはすぐさま剣を抜く。リリィは突然のことに目を見張り、呆然と成り行きを見守っていた。

 地を蹴ったコアは青年に向けて剣を突き出す。青年はコアの剣を躱そうともせずに腰から刃を抜き、順手に持った得物を振り上げた。コアの剣と青年の刃がぶつかる硬質な音が響き、火花が散る。力任せに青年の刃を退けたコアはそのまま、リリィの方へ踵を返した。

「逃げるぞ」

 剣を収めたコアはすれ違いざまに告げ、同時にリリィの腕を引く。リリィは足をもつれさせながら急な方向転換をした。コアは走り出してすぐにリリィの手を離し、ものすごい速度で遠ざかって行く。リリィは必死になってコアを追いながら声を荒げた。

「ちょ、速いって!!」

「もっと速く走れ!」

 コアに怒鳴り返されたのでリリィは無我夢中で駆ける。しばらくすると少し速度を落としたコアが隣に並んだのでリリィは荒い息の下から言葉を搾り出した。

「何、で、逃げる、の」

「あいつ、べらぼうに強いわ。相手したくねえ」

 リリィと同じ距離をリリィよりも早く駆けながら、コアは息も切らさず応えた。コアが常勝と言われるのは強い者とは戦わないからなのではないかと、リリィは酸欠で余裕のない頭の片隅で思う。

「腰抜け! 逃げんな!」

 背後から怒声が届いたのでリリィは思考を捨てて足を速める。追われる恐怖と緊張にリリィの精神が限界に達しようとした頃、リリィとコアの前方に知己の姿が現れた。

「逃げろ!」

 マイルと、もう一人リリィには見覚えのない小柄な少年に向けてコアが叫ぶ。コアに続いてマイルの脇を駆け抜けた直後、リリィは背後に悲鳴を聞いた。

(るい)!!」

 前を行くコアが足を止めたのでリリィも自然と振り返る。そして目にした光景に、リリィは呼吸も忘れて息を呑んだ。倒れている少年に駆け寄ったマイルに褐色の青年が血色に染まった刃を向ける。だが青年の目は真っ直ぐにコアを見ていた。

「まだ逃げるか?」

 勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる青年の言葉を受けてコアがゆっくりと歩き出す。青年はマイルから刃を遠ざけ、一振りして血糊を飛ばした。コアは頬に浴びた血飛沫を拭ってから口を開く。

「……餓鬼が、つけあがりやがって」

 再び剣を抜いたコアは青年に斬りかかっていく。刃を交えながらコアと青年の姿は次第に遠ざかって行った。リリィは為す術なく立ち尽くしていたが倒れた少年に必死で呼びかけているマイルに気がつき、慌てて傍へ寄る。

「耒、しっかりしろ!」

 マイルの腕の中にいる少年は痛みに顔を歪めていた。その右腕は肩口からなくなっており、切断面では骨が露わになっている。惨状を目の当たりにしたリリィは血の気が引くのを自覚しながら再び立ち尽くした。

「耒!! お前にまで逝かれたら、俺は……」

 涙を流しながら少年に縋るマイルの姿を何も出来ずに見つめていたリリィの脇を、颯爽と人影が通り抜けた。茶褐色の髪をした小柄な少女は足早にマイルと少年に歩み寄る。

「退いて」

 半狂乱になっているマイルを冷静に押し退け、少女は傷の具合を調べているようであった。マイルが呆然と、突如出現した少女の名を呟く。

(すずめ)……」

紫焔(しえん)は腕を持って来て。早く処置すれば接合出来るかもしれない」

 話をしている間にも、雀は応急処置を始める。少年の肩口はあっという間に布で覆われたがマイルはまだ動けずにいた。

「早く!」

 雀に一喝されたマイルは我に返った様子で立ち上がる。雀は少年の残っている腕を己の首に回し、歩き出した。

「……リリィ、行こう」

 少年と少女の姿が遠ざかるのを見つめていたリリィはマイルに声をかけられたので目を向ける。ひどく沈んだ表情をしたマイルの手には切り落とされた腕があり、リリィは狼狽えながら身を引いた。

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