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第八章 英雄と呼ばれた男(4)

 フリングス王都への玄関口であるニズベールの街を後にした一行が辿り着いたのはフリングス領の東南に位置するティレントという小さな町であった。短い旅路のあいだ頑ななまでに沈黙を保っていた雀は目的地へ辿り着くなり姿を消し、一行は一軒の家の前で立ち止まっていた。

「サイゲートは王都にいるんじゃなかったのか?」

 コアが発した問いに対し、マイルは困惑気味に首を傾げた。予定が狂ってきているのだと察したリリィは黙ってマイルの行動を待つ。

「とにかく、中に入ってみよう」

 そう告げ、マイルは小屋に寄って扉を叩いた。小屋の内部からはすぐに応答があり、若い女が顔を覗かせる。女はマイルの知己のようで、すぐに一行を招き入れた。

「老師、マイルが来ました」

 一行への対応に出て来た女がテーブルを前に座している老人に声をかける。室内には他に若い男が一人おり、三人で暮らしている様子であった。

「お久しぶりです。お元気そうで何より」

 マイルが老人に向かって一礼したのでリリィも倣う。クロムも頭を下げたがコアだけは半眼で老人を観察していた。コアの失礼な態度にも気分を害した素振りもなく、老人は薄っすらと笑みを浮かべる。

「初めて見る顔が多いな」

 老人の一言を受けたマイルが名前のみの簡単な紹介をした。マイルに名を呼ばれたので軽く会釈をするリリィに老人は穏やかな笑みを見せる。英雄という響きから鹿爪らしい姿を想像していたリリィは意外な思いを抱いたが口は開かなかった。

「こちらの老人がサイゲートだ。女の方はクラリス、男の方はワイトという」

 サイゲート達とは親しい間柄にあるのか、マイルの言葉はぞんざいであった。クラリスとワイトと呼ばれた若い男女は苦笑したが、どこか無礼なマイルの態度にも慣れているのか文句は零さない。

(るい)はいないのか?」

 周囲を見回し、誰にともなくマイルが問う。答えたのはクラリスであった。

「居づらいみたいであんまり顔出さないのよ」

「……そうか」

「あなた達が来ることは伝えておいたから。そのうち来るんじゃないかしら」

 クラリスに頷くことで話を切ったマイルはサイゲートに顔を向ける。サイゲートはまず、己の対面に空いている席を勧めた。小さなテーブルには四つしか椅子がなく、一行の向かい側ではサイゲートのみが座していたのでリリィは一歩後退する。傍観を決め込んだコアは座ろうとせず、マイルがクロムを促してサイゲートと向かい合った。

「率直に訊きます。あなたは愚者の情報を持っていますか?」

 マイルの言葉は宣言通りの率直なものであり、リリィは思わず息を呑む。後方に控えているクラリスとワイトは首を傾げたがサイゲートは笑みを浮かべた。

「なるほど。それを聞きたくてわざわざフリングスまで来たということか」

 サイゲートの口調は明らかに愚者の存在を知っているものであり、リリィは期待に胸を膨らませた。しかしサイゲートが明かした内容は、すでにリリィ達が承知しているものでしかなかった。

「それ以上のことは知らない」

「……そうですか」

 何かを隠している素振りもなくサイゲートが話を終わらせたのでマイルが気落ちした声を出した。マイルにつられたリリィは人知れず息を吐く。

「あからさまにガッカリすんじゃねーよ」

 話の邪魔にならないようコアが小声で囁いたのでリリィは顔を傾けて苦笑を返した。

「力になれなくてすまないが、今のうちに会うことが出来て良かった」

 サイゲートの声が物悲しさを漂わせていたのでリリィはテーブルの方へ視線を戻す。サイゲートを見据えているマイルが怪訝そうに口を開いた。

「どういう意味ですか?」

「近いうち、赤月帝国へ戻ろうと考えていた」

 サイゲートの静かな言葉を聞いたマイルは椅子を倒して立ち上がった。ワイトとクラリスも血相を変え、サイゲートに詰め寄る。

「老師! どういうことですか!?」

 クラリスが悲鳴に近い声を上げるのを、リリィは呆然と見つめていた。サイゲートはワイト、クラリス、マイルをそれぞれ見据え、宥めるように言葉を紡ぐ。

「俺は、あるお方と約束をした。その約束を果たすために赤月帝国へ帰らなければならない」

 発言の真意を語ったサイゲートは頑なな意志を漲らせていた。誰が何を言おうと決意を変えることはないと、サイゲートは全身で主張している。ワイトとクラリスは閉口したがマイルがおずおずと容喙した。

「だが、赤月帝国へ戻れば……」

「死ぬだろうな。間違いなく」

 サイゲートを思い止まらせようと粘ったマイルも言葉を失う。サイゲートは目を閉ざし、ゆっくりと語り始めた。

「赤月帝国へ戻らずとも、そう長くは生きられないだろう。ならば先に逝った方々に恥じぬよう為すべきことを果たしたいのだ」

 サイゲートの口調は自身の死というものに対して微塵の恐れも感じさせず、その表情も穏やかなものであった。静まり返る室内とは裏腹にリリィの心はざわめく。

 きつく唇を噛み、俯くクラリス。頬を伝う涙を拭おうともせずに立ち尽くすワイト。そして拳を握りしめ、肩を震わせているマイル。彼らはやるせないながらもサイゲートの決断を受け入れ、すでに心を決している。この場にはサイゲートを留めようとする者は誰もいない。自ら死へ向かおうとする者を制する言葉は、存在しない。そう感じた時、リリィは声を荒げていた。

「そんなの間違ってる!!」

 静かな室内に突然怒声が生まれたので、その場の視線はリリィに集中した。リリィは構わず、サイゲートだけを見据えて言葉を紡ぐ。

「あなたを失って悲しむ人がここにいるのにどうしてそんなこと言うの!? どうして自分から死にに行かなきゃいけないの! どうして生きようとしないの!!」

 ただ衝動的に、リリィはサイゲートを怒鳴りつけていた。それまで一言も発さず佇んでいたコアが動き出し、リリィの首に腕を絡ませて歩き出す。

「どうしてよ……!」

 コアに引きずられながらもリリィはサイゲートを見つめ、恨みにも似た気持ちを口にし続けた。







 コアに引きずられたリリィが屋外に姿を消した後、クロムもそっと席を立った。残されたマイルは呆然としているクラリスとワイトに目を留め、苦笑しながらサイゲートに侘びを入れる。

「すまない。彼女は緑青(ろくしょう)が死んだとき傍にいたんだ。きっと、その時のことを思い出したんだろう」

「馬鹿なことは自覚している。耳が痛いな」

 サイゲートはリリィの唐突な行動にも動じた様子もなく、ただ苦笑を浮かべた。マイルは倒した椅子を戻してから改めてサイゲートを見据える。

「誰が何を言っても、心は変わらないんだろう?」

 サイゲートが無言で頷いたのでマイルは複雑な思いを抱いた。白影の里で感じた憤りが湧いてこないのはリリィが先に怒ってくれたからだと、マイルは密かに感謝しながら息を吐く。

「何故、今なんだ?」

 マイルが問うとサイゲートは哀しげに顔を歪めて答えた。

「この国は、もう終わりだ。フリングスが壊滅すれば俺が生きている間にすべきことは何もない」

「フリングスが壊滅? どういうことだ」

 再び腰を浮かしかけていた己に気がつき、マイルは座り直してからサイゲートを直視した。サイゲートは老人らしくゆったりとした動作で腕を組んだ後、静かに語り出す。

「フリングス王の心は死んでいる。傀儡を繰っているのは一人の女だ」

 傀儡という言葉を聞いた時、マイルはローズマリーの秘薬を思い浮かべた。シネラリアが陥落した際にコアから聞いた話を連想したマイルは急いて口を開く。

「まさか、その女とは赤月帝国の王妃か?」

「何故、そこで王妃が出てくる?」

「……違うのか」

 サイゲートの反応に安堵したものの、シネラリアの一件を知っているマイルには赤月帝国の王妃が無関係であるとは思えなかった。シネラリアが陥落した事情を簡潔に説明してからマイルはサイゲートに問う。

「その女は何者なんだ?」

「赤月帝国の内乱以前からいる側女(そばめ)らしい。それ以上のことは分からなかった」

「……そうか」

「現在のフリングスに王の権威はなく、有力貴族も分裂している。いずれ、内乱が起こるだろう」

 仕組まれた内乱であると分かっていても止める手立てがない。だからこそサイゲートは王都を離れたのだろうと思い、マイルは息を吐いた。

「止められないんだな」

「俺の力ではな。だが未来は誰にも分からない」

 話を終わらせたサイゲートは組んでいた腕を解き、ゆっくり立ち上がった。

「ワイト、クラリス」

 サイゲートに名を呼ばれたワイトとクラリスが姿勢を正す。サイゲートは彼らに、穏やかな笑みを向けた。

「今までよくやってくれた。そして、これからはお前達が未来を切り開いてゆく番だ」

 これが別れの言葉であることを悟っているワイトとクラリスは咽び泣いた。彼らが家族として過ごしてきた歳月を思えばやりきれない別れであり、マイルは静かに席を立つ。

「マイル」

 マイルはその場を去ろうとしていたが、強い呼び声を受けて体を強張らせながらサイゲートを振り返った。サイゲートはまるで、壮年のような精悍さで力強く言葉を紡ぐ。

「すでに決まっている未来などない。全ては己次第だ」

 腹の底からこみ上げる嗚咽を唇を噛むことで殺し、マイルはサイゲートに深く頭を下げた。

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