第八章 英雄と呼ばれた男(3)
フリングス領を西進していた一行は王都への玄関口であるニズベールという街に辿り着いた。ニズベールは商業で繁栄している街であり、フリングス領においても王都に次ぐ大規模な都市である。世界を放浪するなかで見てきたどの場所よりも華やいでいる街を、リリィはあ然と眺めていた。
「すごい人……」
到着時が昼であったことも手伝って市には溢れんばかりの人間がひしめきあっていた。ぽかんと口を開けて市を眺めているリリィの頭を軽く小突き、コアはマイルを振り返る。リリィは恨めしい思いでコアを睨んだが相手にされず、仕方なくマイルに視線を移した。
「で、どうすんだ?」
すでに今後の行動は決まっているようで、マイルはコアの問いに迷いなく答えた。
「ひとまず宿をとろう」
告げるなり、マイルは慣れた足取りで市とは反対の方向へ歩き出す。ざわめきに背を向けたリリィは足早にマイルの隣に並んだ。リリィの行動に気がついたマイルは平素と変わらぬ様子で顔を傾ける。
「どうした?」
マイルの口ぶりは至って自然であり、リリィはやるせなさを感じた。伏目がちに、リリィは口火を切る。
「あの、この間はごめんなさい」
リリィが呟いた声は市の賑わいにかき消されてしまいそうなほど小さなものであった。ちゃんと声が届いたかと不安に思い、リリィは恐る恐る目を上げる。リリィの言葉が届いていることを示唆し、しかしマイルは何も言わなかった。しばらく考えるような間を置いた後、マイルはリリィに目を据える。
「気にするなと言っても無理なんだろう?」
問い返されるとは思っていなかったリリィは言葉に詰まった。だが頷くわけにもいかず、リリィは為す術なく沈黙を守る。マイルは苦笑しながら再び口を開いた。
「真面目だな」
マイルの反応は想定していた流れとは異なるものであり、リリィは思わず首を傾げた。独白の真意は口にせず、マイルは明るく笑う。
「少なくとも俺は気にしていない。あまり落ち込むな」
それだけを言うとマイルは周囲を見回しながらリリィから離れて行った。取り残されて足を止めたリリィには追いついたコアが声をかける。
「あいつ、変だよな?」
「なんか、変わった?」
リリィは困惑しながらコアを仰いだ。コアは眉根を寄せて不服そうに唇を尖らせている。
「何があったか知らねえが急に素直になっちまってよ、気味悪いぜ」
「悪いことじゃないと思いますけど」
クロムが容喙したのでコアは不満顔のまま振り返る。リリィはクロムの意見をもっともだと思い、苦笑して肩を竦めた。
ニズベールの街で宿をとった一行に来訪者があったのは夜になってからであった。マイルが対応に出たことから予定されていた展開であることを察し、コアは来訪者を観察する。
気の強さを体現しているかのような厳かな面立ちではあるが、来訪者は小柄な少女であった。十七、八歳と思しき少女は茶褐色の髪を無造作に束ね、瞳の色はマイルと同じ青である。フリングスの庶民の出で立ちをしているが足の裏を浮かさない歩き方から、コアは少女が間者であることを見抜いた。
「お前、森で俺に襲いかかってきた奴だろ?」
頭まで覆面で隠していたので顔は確認していないが、体型や動きから間違いないとコアは思っていた。現れてから一言も発していない少女は表情を動かすこともなくコアを一瞥する。
「そうなのか?」
目を見張ったまま、マイルは困惑気味にコアを振り返る。コアはマイルに頷き返し、佇む少女へ目を向けた。
「殺そうとしてた相手を訪ねたにしちゃ無用心だな。顔は隠さなくていいのか?」
腰掛けていたベッドを離れ、コアはゆっくりと少女に歩み寄った。少女は無機的に目を上げたが沈黙を保っていたのでコアは言葉を次ぐ。
「それとも、俺が気づかないとでも思ったのか?」
「今ここで、あなたを殺す気はありません」
初めて口を開いた少女の言葉は、やはり事務的なものであった。コアは口元に笑みを浮かべ、少女に顔を近づける。
「俺が聞きたいのは、お前が俺を殺そうとした理由なんだけど?」
「大聖堂の間諜を始末する、それが私の仕事ですから」
可愛げのない少女の反応に舌打ちをし、コアは少女から離れてマイルを振り返った。だがマイルは眉根を寄せて少女を見つめていたので、コアは口を挟まず引き下がる。
「……雀?」
マイルはやがて、半信半疑な面持ちで少女に呼びかけた。途端に少女の無表情が歪み、彼女はマイルを睨み見る。その少女の反応からマイルは確信を抱いた様子であった。
「雀、なのか……」
苦虫を噛み潰したように独白したマイルは短く息を吐いた。あまり好ましくないであろう再会を目撃したコアは首を傾げる。
「誰だ?」
「ああ、雀は耒の……」
「紫焔!」
雀と呼ばれた少女の鋭い声が飛び、マイルは我に返った様子で気まずそうに口を噤む。コアはさらに首をひねった。
「耒の何だ?」
「シエン?」
「ルイって誰?」
険悪な空気だったので成り行きを見守っていたクロムとリリィも首を傾げて口を挟む。マイルは弱り果てたように苦しい笑みを浮かべた。
「紫焔は、俺の名だ。耒のことは……後で説明する」
ひとまずの説明を加えてから、マイルは雀の元へ向かう。
「何故、雀がここにいるんだ?」
マイルが問うと雀は不愉快を隠そうともせず口を開いた。
「雇い主にあなた方を連れて来いと命じられました。すぐ発ちます」
有無を言わせぬ調子で話を打ち切り、雀はすぐさま歩き出す。コアは雀の強硬な態度に呆れながらマイルに視線を傾けた。
「せっかちな使者だな。着いてった方がいいのか?」
「あ、ああ……彼女の雇い主はおそらくサイゲートだ」
「んじゃま、移動しますか」
マイルの返事を受けたコアは荷物を取るために歩き出す。コアは荷物を手にしてから立ち尽くしているリリィとクロムに声をかけた。
「出発するから支度しろ」
「……何なの?」
「道ながらマイルが説明してくれるぜ、たぶんな」
困惑顔のリリィを隣室へ追い立ててから、コアはクロムとマイルにも支度をするよう促した。
先導役の雀がニズベールの街を出たので一行は到着早々にして郊外へと移動する羽目になった。夜が更けると雀が姿をくらましたので、一行は仕方なく街道脇の林で焚き火を囲っている。
「目付け役もいなくなったことだし、そろそろ説明してもらおうか?」
コアが放った一言により、その場の視線はマイルに集中した。マイルは頭を悩ませ、まずは故郷の話から始めることにした。
「もうみんな知っていると思うが、俺の故郷はビルという村だ。紫焔というのは親から授かった名で、村を出て情報屋になった時に改名したんだ」
「へえ。じゃあ、マイルってのは異名か」
「紫焔は捨て名だ。マイルが本名だと思ってくれていい」
口を挟んだコアだけでなくリリィとクロムに向けても言い置き、マイルは息を吐く。次に何を話すかマイルが思案しているとコアが再び口を開いた。
「お前さんの昔の名前を知ってるってことは、あの生意気な嬢ちゃんも同郷の奴なんだろ?」
マイルはコアに頷いて見せ、加えて耒と緑青も同郷であることを説明した。
「耒と緑青は村を出たが雀はビルに属している間者だ。ウィレラが存在していた頃に派遣され、フリングスで仕事をしていたんだろう」
ウィレラは間者の情報交換機関であり、ビルはウィレラを介して間者の派遣を行っていた。その仕組み自体が消失してしまった現在でも雀が動いている理由は分からないが、彼女がサイゲートに雇われていることは間違いない。そこまで説明したところでマイルは一度話を切り上げた。それまで黙って話を聞いていたリリィがふと、首を傾げる。
「サイゲートって誰?」
リリィの疑問を受けたマイルは納得して頷いた。リリィは白影の里を訪れたことはあるがサイゲートに会ったことはなく、おそらく初めて聞いた名であったのだろう。マイルは簡潔に説明できる言葉を探して空を仰いだ。
「クロムは知ってるか?」
マイルが考えあぐねているとコアが助け舟を出した。表層的な説明をするにはコアの方が適切かと思い、マイルは黙したまま成り行きを見守る。記憶を探るように考えこんでいたクロムはやがて口を開いた。
「赤月帝国の英雄、ですよね?」
「ああ。お前、博識だな」
コアはクロムに賛辞を投げてからリリィを振り返った。
「赤月帝国と大聖堂の戦争の話は覚えてるか?」
「……なんとなくは」
「そうか。サイゲートはその時の英雄って呼ばれてる老人だ」
赤月帝国は長く白影の里という軍隊を独立させて存在してきたので国民は戦うことを知らなかった。そうした国民を奮い立たせて戦ったのがサイゲートという人物なのである。その功績が評価され、また敗戦の後もサイゲートは国民の面倒を真摯に看てきたので現在も英雄と呼ばれている。そこまで話したところでコアはリリィの様子を窺った。
「なんとなく分かったか?」
「うん……なんとなくは」
「とにかく、赤月帝国にはサイゲートって奴がいるってことを覚えておけばいい。後は任せた」
コアから話を引き受けたマイルはリリィとクロムに向けてさらなる説明を加えた。
「ウォーレ湖での出来事の後、サイゲートはフリングスに身を寄せた。サイゲートに話を聞くために、今回フリングスに来たんだ」
「話って、何の?」
リリィがまだ首を捻っていたのでマイルは説明すべきことを選んで聞かせた。マイルは直接的な単語は避けたが愚者の調査に関する行動であることを察したリリィは口を噤む。一通り話したと感じたマイルは、最後に耒という少年について言及した。
「耒は個人でやってる間者なんだ。今はサイゲートの傍にいるはずだから、サイゲートの元へ行けば顔を合わせることになると思う。これで大体のことは説明したか?」
リリィとクロムが頷いたのでマイルは話を終わらせた。だがコアが、まだ一つ疑問が残っていると言う。
「で、あの雀って女は耒の何なんだ?」
「ああ、雀は耒の……」
答えかけたマイルの顔の横を、風が吹き抜けた。言葉を途切れさせたマイルに代わり、コアが地に突き刺さった物の回収に向かう。
「……毒、塗ってあるぜ」
飛苦無を手にしたコアは不着している粘着質な液を指しながら苦笑する。話したら殺すという脅しだと受け止めたマイルは貝のように口を閉ざした。




