表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/147

第八章 英雄と呼ばれた男(2)

 東の大国大聖堂(ルシード)と比肩する軍事大国フリングスの王都は大陸のほぼ真西、髑髏の額と呼ばれる平地に存在している。大陸を縦断している河を渡って少し西進すればそこはもうフリングス領であり、一行は露宿を重ねながら慎重に人里を目指していた。

「リリィ」

 森の中にある開けた場所で夕食の準備をしていたリリィはコアの声に顔を上げた。コアが無言で装備を外したので訓練だと察したリリィは頷き、クロムに後を任せて立ち上がる。コアは体をほぐしながら口を開いた。

「礼拝堂で俺が言ったこと、覚えてるか?」

 リリィは記憶を辿ったが該当する事柄は見つけられず、小さく首を振る。気分を害した様子もなく、コアは頷いて見せた。

「お前、おかしかったからな。覚えてねーか」

 コアが言っているのは熱が出た時のことだと察したリリィはすぐに謝った。コアは軽く手を振って見せるだけでリリィをいなし、話を始める。

「大雑把に言うとだな、正面からの攻撃は相手の腕の外側に出て躱せってことだ。間違っても後ろに下がるんじゃねーぞ」

「はい」

「よし。じゃあ、実戦だ」

 コアが軽いフットワークで上下に跳ねるのを見て、リリィは右足を引いた。跳躍(ジャンプ)を止め、コアは握った手を顔の横に掲げる。

「行くぞ」

 短い言葉と同時にコアが地を蹴ったので、リリィはその動きを目で追った。コアが左に回りこんだのでリリィは正面から向かうように体を捻る。リリィは伸びてきたコアの腕を躱すために上体だけを右にひねったが、躱しきれずに胸部を痛みが貫いた。リリィが痛む胸部を押さえて膝をつくとコアは戦闘態勢を解除する。

「うーん、反射神経は悪くねえんだけどな」

 リリィにはコアの独白に耳を傾ける余裕はなく、止まってしまった呼吸を回復させるため激しく咳き込んだ。荒い深呼吸を幾度か繰り返した後、リリィはコアに拳を当てられた胸部を押さえながら立ち上がる。コアはリリィの様子を平然と眺めながら口火を切った。

「やっぱり筋肉が足りないな。目で追ってはいるが体が反応出来てねえ」

「どう、すれば、いいの?」

 喋ると胸部が痛むのでリリィは途切れ途切れに言葉を搾り出す。コアは腕組みをしながら考えこんでいたが、やがてリリィに視線を戻した。

「例えば右に避ける場合、左足で地を蹴るだろ? そうすると左足に体重が残るから移動が遅くなる。右足を地に着いたまま、膝を折って体重を傾けてみろ」

 コアに言われるがままリリィは一度直立に戻った後に足を開き、右足を折って体重をかけてみた。不均衡(アンバランス)な上体は自然と右に傾き、リリィは倒れないために左足を引きずりながら横へ移動する。その姿は不恰好に右によろけたという感じであり、移動速度に変化があったのかリリィには分からなかった。

「軽く打つ。まずは左足で蹴って移動してみろ」

 言い置くなり、コアはリリィの正面から拳を突き出した。左足で地を蹴って右に移動したものの、リリィの左胸の辺りを再び痛みが襲う。

(軽くないじゃない!)

 痛みにのた打ち回ったリリィは太い樹の幹を足げにした。だが文句は口には出さず、痛みが落ち着いたところでリリィはコアの元へ戻る。

「……次、膝を折って移動してみろ」

 呆れたような顔をしながらコアは再び身構えた。リリィも足を開いて構え、コアの攻撃を待つ。

 二度目の攻撃を、リリィは右足を折ることで躱した。だが調和(バランス)の崩れたリリィの体は横滑りに倒れる。摩擦は衣服の上からでも熱く、リリィは下敷きになった右肘をさすりながら体を起こした。

「……避けられた」

 コアの攻撃を避けたということが徐々に沁みてきたリリィは呆然と呟く。コアは満足そうに頷いて見せた。

「膝を折った方が確実に避けられるが、その後の対処が難しい。緊急の時以外は使うなよ」

「はい」

「よし、いい返事だ。もう一度……」

 言葉を切り、コアは唐突に動いた。突然後頭部の痛みが走ったリリィはしばし呆けていたが、仰向けに倒されて尚且つコアが圧し掛かっていることに気がついて悲鳴を上げる。

「何……」

「黙ってろ」

 リリィの抗議を一言で制し、コアは険しい顔つきで周囲を窺っている。やがてコアは上体を起こし、刹那、仰向けに倒れているリリィを丸太のように転がして自身は跳躍して後方へ退いた。体の回転と共にあちこちに傷をつくったリリィは呻きながら体を起こす。

「お前、何処の者だ」

 暮れ行く森の中、コアは対峙している濃紺の装束を纏った者に話しかけている。コアと対峙している人物は覆面をしているので顔を窺うことは出来ないが、リリィはその出で立ちに覚えがあった。

 コアの問いには応じず、濃紺の人影は短刀を抜く。白刃が夕陽に照って生々しい光を放ったのでリリィはぞっとした。座り込んだまま後退するリリィには目もくれず、濃紺の人影はコアへ向け刃を突き出す。紙一重で躱し、時に反撃を加えながら、コアは素手で応戦していた。

「リリィ、大丈夫か?」

 背後から声をかけられてリリィは我に返った。振り返るとマイルが傍にいたので、リリィは慌ててコアの方を指す。

「コアが……」

「落ち着け。コアなら大丈夫だ」

 マイルが冷静だったのでリリィも落ち着きを取り戻してコアと濃紺の人物を顧みた。怪我をしている様子もなく、コアは悠々と相手の力量を測っているかのように動いている。

「こちらに見向きもしないということは、コアを怨んでいる者だろう」

 リリィに状況を説明するマイルの言葉は淡白であった。訝ったリリィは眉をひそめてマイルを仰ぐ。

「こういうことって珍しくないの?」

「コアはあちこちで恨みを買っているからな」

「そ、そう……」

 顔を引きつらせたリリィが広場に視線を戻した時にはすでに濃紺の装束をまとった者の姿はなく、コアが気怠そうな足取りで歩み寄ってくるところであった。目を離した隙に何が起こったのかリリィには見当もつかなかったが、マイルは確認のような言葉をコアに投げかける。

「間者だな」

 コアは頷き、しかし何事かを考えているような表情をしながら口を開いた。

「ウィレラが瓦解したってのにまだ活動してんだな」

「任務ではなく個人的な恨みという可能性もある。心当たりを訊くのは野暮だな」

 心当たりがありすぎるのかコアはマイルの言葉に苦笑した。それから思い付いたように、コアはリリィに視線を傾ける。

「悪かったな。顔、傷だらけにしちまって」

「顔?」

 コアに指摘されるまで自覚のなかったリリィは自分の顔に触れてみた。ざらっとした土と少量の血液が指に付着したのを見たリリィは途端に青褪める。

「手当てをしよう。痕が残ると大変だ」

 平素より早口で告げ、マイルはリリィの腕を引いた。生理的な恐怖に襲われたリリィはマイルの手を振り払って瞠目する。

「あ、ご、ごめん」

 過剰な拒絶に自分でも驚き、リリィは反射的に謝罪をした。マイルは一瞬困惑を見せたがすぐに真顔に戻り、納得したように頷く。

「いや、不用意なことをした俺が悪かった。とにかく、手当てを」

「う、うん……」

 マイルに促され、リリィは押し潰されそうな罪悪感に苛まれながら歩き出した。







 春とはいえまだ露宿に適した季節ではないので、一行は火を絶やさないよう順番で見張ることにして休むことにした。まとまった睡眠時間がとれるよう火の番はリリィが一番手であり、二番目はクロム、三番目はマイル、最後にコアが夜明けまでを担当することが露宿の決まりとなっている。厚手の毛織物に包まって炎を見つめていたマイルは、コアが起き出してきたので欠伸を噛み殺してから話しかけた。

「少し、早くないか?」

 コアは寝起きの空気は微塵も感じさせず、腰から煙管を引き抜いてマイルの隣に座り込む。

「体が警戒しちまって寝るに寝らんねえんだ。眠いなら寝ていいぜ」

 フリングス領で襲われたということがコアを神経質にしているようであった。マイルが返答を考えているとコアが再び口を開く。

「気にしてたりするか?」

「何をだ?」

 脈絡のないコアの問いを訝ったマイルは首を傾げる。マイルから顔を背けて煙を吐き、コアは焚き火に視線を据えながら話を続けた。

「リリィに思いっきり拒否られたこと。お前、何気にすぐ凹むみたいだからな」

 まるで気遣うように目だけを傾けたコアの態度がおかしかったのでマイルは小さく吹き出した。

「いや、気にしていない。あんなことがあったんだ、無理もないだろう」

 リリィは以前、同郷の少年に襲われたことがある。その時の傷が癒えていないのだろうとマイルは解釈していた。コアは乱れている髪をさらに乱しながら言葉を紡ぐ。

「お前が来る前に俺が、思い出させるようなことしちまったんだ」

 苦い口調で言い、コアは濃紺の装束をまとった間者に襲われた時の状況を語った。マイルは納得して頷いたがコアは大袈裟なまでにため息をついて見せる。

「年頃の女ってのは扱いが難しいな。っつーか面倒くせえ」

「彼女なりに頑張っている。少しくらい認めてやったらどうだ?」

「確かにアイツは頑張ってる。必死すぎてたまに引くけどな」

 コアは呆れを交えながら苦笑し、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。澄んだ夜の大気に溶けてゆく煙を見つめながらマイルは感じたことを言葉にしてみる。

「珍しいな。そんな風に他人を気遣うなんて」

「苦手なんだよな。だからあんまり気遣わせるなよ」

「心に留めておこう」

 数年前であれば聞くことが出来なかったであろうコアの言葉を真面目に受け止めたマイルは空から視線を転じた。まだ血の気が多いところはあるがだいぶ穏やかになったコアの横顔を見たマイルはふと、彼を変えたのは聖女という存在なのではないかと思いを巡らせてみる。

「変わったな」

「変わったのはお前だ」

 コアが即座に切り返したのでマイルは苦笑を浮かべた。自身が変わった自覚もあるだけに反論はせず、マイルは音を立てないように立ち上がる。

「火の番、よろしくな」

 コアが素っ気なく「任せとけ」と言ったのでマイルは火の傍を離れて外套に包まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ