第七章 古の武器庫(10)
大聖堂の本拠地がある神山は冬の時期になると雪に閉ざされ、時折雪崩れの音が聞こえるだけの無音に近い世界となる。世界情勢から隔絶された静謐の中、奥の院の一室では長老衆の筆頭であるアベルが目前に佇む軍服姿の女を見据えていた。
「戻ったか」
アベルは現状確認と多少の労いを含めた短い言葉を女に告げる。腰まであった黒髪をばっさり切り落としたヴァイスは深く一礼し、能面のような顔を上げた。
ヴァイスはシネラリアを落とした後、すぐに大聖堂軍の再編を行った。シネラリアで得た人員を各地の隊に組み込み、反乱を起させないようシネラリアの戦力を分散したのである。そのため帰還が遅くなったことをアベルはすでに承知していたので、詫びるヴァイスには儀礼的な言葉を投げるのみで済ませた。
「オラデルヘルはどうするべきだと思う?」
アベルは剣呑なまなざしを向け、ヴァイスの力量を問う。ヴァイスはアベルの思惑など意に介した素振りもなく即答した。
「オラデルヘルには自衛の手段がありません。しばらくは放置しておいても問題はないかと思われます」
「フリングスの動向を窺う、という訳か」
アベルは真意を引き出そうと確認をしたがヴァイスは答えなかった。
今回の一件で大聖堂軍にはシネラリアの国民が加わることとなった。シネラリアとオラデルヘルは関係が深いので、すぐにオラデルヘルを攻めることは得策ではない。ヴァイスが無言を貫いたのでそこまでの考えを巡らせていたのかは判明しなかったが、放置という結論は同じだったのでアベルは話題を転じた。
「では今後、どのように動く?」
ヴァイスの漆黒の瞳が、微かに揺らぐ。わずかに置かれた間はこちらの真意を探っているのだと、軍人らしく堅固なまなざしに戻ったヴァイスを見つめながらアベルは思った。
「組織的な訓練こそしていませんでしたがシネラリアの民は軍人のようなものです。半年もすれば戦力となるでしょう」
「半年の後、どこを攻める?」
「南方諸国連合がよろしいかと存じます。赤月帝国から兵を出しましょう」
「無難だな」
南方諸国連合は元々、対フリングス用に結ばれた同盟である。現在ではフリングス寄りの勢力と成り果てているが、情勢が変化すれば南方のあり方も変わらざるを得ない。南方は一つの国ではないので潰しやすく、またフリングスとの決戦に向けて懸念を残しておかないことは定石である。だがそれは、アベルが求めた解ではなかった。
真の思惑は口外しないヴァイスの態度にアベルは不信感を募らせた。だが顔には出さず、アベルは肚の探り合いを打ち切った。
「もういい。下がれ」
邪険に手を振るアベルに一礼し、ヴァイスは静かに退出した。入れ替わりに室内の奥にある扉から男が姿を現したので、アベルはそちらに顔を傾ける。
奥から出てきた人物の名はゼノンといい、彼も長老衆の一人である。そして彼の老人は、長年アベルの参謀を務めてきた。そのような人物の目に若き軍事責任者がどう映ったのか興味が沸き、アベルは狐のような顔をしたゼノンが口を開くのを待った。
「あの女の素性が割れた」
ゼノンが発した言葉はアベルにとって意外なものであった。初めて顔を合わせた時からヴァイスの身元を探っていたのだと明かし、ゼノンは話を続ける。
「あの女は大陸の西を拠点とする地下組織、カーディナルの一員だ。そしてカーディナルの首領はサンザニア王家の生き残りだという噂がある」
ゼノンが口にしたサンザニア王国とは、かつて大陸の西南に存在していた小国である。フリングスの勢力拡大とともに滅びた懐かしい国名を聞き、アベルは薄ら笑いを浮かべた。
「噂が事実であれば組織の目的はフリングスの転覆だな」
愉快であると態度で示すアベルに対し、ゼノンは無表情を保って応じた。
「亡国の野心には覚えがある、か?」
「ありふれた話だ、珍しくもない。だがあの女が復讐のために動いているとは思えないな」
笑いを収めたアベルの発言を聞き、ゼノンは考えを巡らせる様子を見せた。
赤月帝国は大聖堂の属国でありながらフリングスと同盟関係にあった。そのためフリングスを滅ぼすのであれば赤月帝国は煩わしい存在であり、先手を打っておくのは当然である。だがヴァイスは大聖堂に所属する身であり、自らが赤月帝国の王妃ともなればいらぬ疑念を抱かれることも容易に想像がつくであろう。にもかかわらず、彼女は望んで大聖堂の軍事責任者となった。
ヴァイスは長老衆を軽視した、とはアベルは思わなかった。疑念を抱かれることは承知でヴァイスは何かをしようとしている、そうアベルが告げるとゼノンは狡猾な笑みを浮かべた。
「面白い。是が非でも目的を探り当ててやる」
昔の血が騒ぐのか、ゼノンは若々しい足取りで姿を消す。歳の割りに伸びたゼノンの背中を見送り、アベルは椅子に背を預けて愉悦の息を吐いた。
アベルとの接見を終えた後、ヴァイスは奥の院を出て宿舎へと向かっていた。奥の院から宿舎へ行くにはホールを通り抜けて神殿の外へ出なければならないが、ヴァイスはホールに佇む少女の姿を見つけたので列車の発着場へと足を向けた。使用を許されている時刻ではないので発着場には誰もいないが、人間が侵入したことを感知して自動で明りが灯る。仄かな明るさの中で周囲を窺い、ヴァイスは足を止めて赤髪の少女を振り返った。
「お帰りなさいませ」
一礼し、エルザは軍服から取り出した紙片をヴァイスに差し出す。紙片を受け取って一読したヴァイスは微かに口元を歪めた。
紙片の内容は長老衆の素性に関する報告である。五人全員とはいかずとも筆頭の経歴が判明しただけで良しとし、ヴァイスは笑いを収めてエルザを見据えた。
「調教は進んでいる?」
「終了しました。いつでも、使えます」
「そう。では、赤月帝国へ行きましょう」
ヴァイスはそう告げるなり歩き出したが沈んだエルザの声が制した。エルザはその場で跪いて頭を垂れたのでヴァイスは足を止めて次の言葉を待つ。
「情報提供者の始末に失敗しました。申し訳ございません」
沈鬱な声音ながらも澱みなく告げ、エルザはそれきり黙した。断罪を待っているエルザをヴァイスは興味深く見下ろす。
「状況を詳しく聞かせなさい」
「……はい」
苦い表情で顔を上げた後、エルザは失敗に到るまでの経緯を詳細に語った。無言のまま話を聞いていたヴァイスは聞き知った名が話題に上ったことで笑みを浮かべる。
「エルザ、あなたの判断は正しい」
目を伏せ、再び沈鬱な表情になっていたエルザは眉根を寄せた。問いを口にすることこそなかったがエルザの顔色が不可解を露わにしていたのでヴァイスは真顔に戻ってから口火を切る。
「乱世の至宝。ドーアの奸雄。百人斬りの悪鬼。軍神の申し子。一つくらい、聞いたことがあるでしょう?」
ヴァイスが口にした名称はすべて、ある男の異名である。戦場に身を置く者であれば一度は聞いたことのある名に、エルザは瞠目した。
「まさか、あの男が……」
「大聖堂調査部第一隊所属、コア。それが現在の彼の肩書き」
ヴァイスが補足するとエルザはありありと驚愕を浮かべて言葉を失った。ヴァイスは顎に手を添えて考えを巡らせる。
エルザの存在がコアの目に触れてしまったのであれば、探りを入れられることは確実である。だが彼の弱みがまだ大聖堂の手中にある以上、大々的な動きを見せるのはもう少し後になるであろう。そう結論づけたヴァイスはエルザに視線を落とした。
「立ちなさい、エルザ」
跪いたまま放心していたエルザは我に返り、姿勢を改めた。抹殺の失敗は不運であり、エルザに過失がないことを明言してヴァイスはコアの話を終わらせる。
「少し、用事ができた。あなたは先に赤月帝国へ行きなさい」
エルザに言い置いた後、ヴァイスは踵を返す。コアの弱みを手懐けておくべくヴァイスは再び奥の院へと向かった。




