第七章 古の武器庫(7)
大聖堂の本拠地がある神山から西進したコアが率いる一行は、オラデルヘル傘下の街であるネオンに辿り着いた。到着時にはまだ太陽が高かったので街は閑散としており、コアは迷った挙句に全員を引き連れてネオンの街を支配する女の屋敷を訪れた。
「なんだい、この大所帯は」
昼の健全さに似つかわしくないスリップドレスで姿を現したネオンは奇怪な集団を見て不機嫌そうに眉根を寄せる。苦笑するしかなかったコアはすぐさま、ネオンに詫びた。
「すまん。ちょっと事情があって、こいつらを置いて来る訳にいかなかったんだ」
ネオンの街へ入った途端、それまで大人しくしていた辰巳が暴れ出したのである。舌を噛み切っての自害まで試みられては拘束するしかなく、辰巳は猿轡をかませられたうえ縄で縛られるという有り様を呈している。決して顔を上げようとしない辰巳は一瞥するに留め、ネオンはうんざりした様子でコアに視線を移した。
「それで、何の用だい?」
ネオンの口調には『早く済ませろ』という響きが強かったのでコアは本題から口にした。
「ローズマリーの秘薬って聞いたことあるか?」
「知らないね」
素っ気なく答え、ネオンは豪奢なソファに腰を下ろす。透明なテーブルの上に置いてあった葉巻をくわえ、スリップドレスから覗く白い脚を組み、ネオンは紫煙を吐き出してからコアに視線を固定した。
「それで、ローズマリーの秘薬ってのはどんなものなんだい?」
「昔、西の国で使われていた媚薬らしい。心当たりがありそうな誰か、知らないか?」
「媚薬ねえ……」
ネオンは空を仰ぎ、何事かを考えている様子であった。思案の邪魔をしないよう、コアは黙ってネオンの反応を待つ。しばらくの沈黙の後、立ち上がったネオンは棚から紙とペンを取り出して再びソファに腰を下ろした。テーブルの上で紙に簡単な地図が書きこまれていく光景を、コアはじっと見つめる。
「ここに行ってみな」
ネオンから手渡された地図に視線を走らせながらコアは口を開いた。
「誰がいるんだ?」
「先代のネオン」
「へえ」
「連絡は入れておいてやるからさっさと消えな」
まだ半分以上残っている葉巻を揉み消し、ネオンは立ち上がる。欠伸をしながら踵を返すネオンに謝意を伝えてから連れを振り返り、コアは眉をひそめた。
「あいつが気になるのか?」
ネオンが扉の向こうへ消えてから、コアは一点を見つめている辰巳に声を投げた。ネオンの後ろ姿を食い入るように追っていた辰巳はコアを見ることはせず、再び俯く。辰巳の反応は不可解であったが答えは求めず、コアは所在無く視線を泳がせるクロムに目を向けた。
「とりあえず、宿へ行くぞ」
縛り上げられた辰巳を強引に促し、コアは歩き出した。
早馬でオラデルヘルを目指しているマイルとリリィは大聖堂領の西北に位置する小さな町で宿をとっていた。移動は順調であり、このまま馬を飛ばせば翌日中にはオラデルヘル領へと辿り着く位置である。
「コアたちはネオンの街にいるそうだ」
外出から宿に戻って来たマイルがそう告げたのでリリィは眉根を寄せた。
「そういうのって、何で分かるの?」
リリィの疑問を受けたマイルは少し考えるような素振りを見せてから口を開いた。
「そうだな、説明しておいた方がいいかもしれないな」
「もし、言い辛いことだったら無理には聞かないけど……」
考えなしで発言をしたことを悔やみながらリリィは言葉を濁した。マイルは笑みを浮かべ、室内に備え付けられている小さな椅子に腰を落ち着ける。リリィはベッドに座ったまま、マイルからの返事を待った。
「間者、という言葉を知っているか?」
マイルの第一声が問いの形をとっていたのでリリィはすぐに首を振った。
「そうか。間者というのは敵の様子を密かに探る者のことだ。白影の里の者達も間者だった」
説明をするには、リリィが実際に目の当たりにしたものを引き合いに出すことが手っ取り早い。マイルにはおそらくそれ以上の意図はなかったのであろうが、リリィは表情を消した。
「続けて」
動揺をマイルに悟られないため、リリィは間を置かずに口を挟む。だが自身でも分かるほどにリリィの声は硬質であり、マイルは苦笑しながら話を続けた。
「間者とは情報収集に長けている者達だと思えばいい。おおまかに分けると彼らには二つの種類がある。一つは、それぞれの国が育成している者達。一つは、個人や集落単位の者達だ」
国家に育成されている者達は国に忠誠を誓い国の利益につながるよう動くが、個人または集落単位の者達は報酬と引き換えに仕事をこなす。後者の者達を支援する目的で成立したのが間者の情報交換機関ウィレラなのである。そこまで説明をしたところでマイルは一度話を切った。
「ここまでは解るか?」
「……なんとなく」
マイルの言っている内容は理解していたがリリィには国家規模の話は実感が湧かなかった。そのためリリィの返答は曖昧な響きを伴ったがマイルは言及せずに先を続けた。
「俺もコアも、個人的に間者を使っている。彼らが情報を運んでくれるおかげでお互いの居場所を把握できるという訳だ」
「……そうなんだ」
初めて明かされた内容は一つの疑念を払拭したが、同時に新たな疑問をリリィに抱かせた。マイルに頷き返しながらも思考を巡らせ、リリィは躊躇しながら目を上げる。
「マイルは、何か情報を集めているの?」
別行動をとる時にお互いの動向を報せることのみを目的としてマイルが間者を雇っているのだと、リリィは思わなかった。リリィの発言は個人的な情報を聞き出そうとするものであったが、マイルは軽い笑みを浮かべる。
「リリィ、俺が情報屋だということを忘れていないか?」
初対面の時に触れられて以来の話題を、リリィは失念していた。至極当たり前のことを疑問に感じた己を恥じ、リリィは自己嫌悪に顔を歪ませる。マイルは苦笑していたがふと、思い直したように表情を改めた。
「……いや、建前だな」
唐突に脈絡のない発言をしたマイルを訝り、リリィは首を傾げる。リリィの視線に気がついたマイルは伏せていた目を上げ、表情を和らげた。
「確かに俺は情報を売ることを生業にしている。だが情報を集めているのは自身のためだ」
「……マイル?」
「少し、聞いてくれるか?」
マイルが胸の内を語ろうとしていることを察したリリィは困惑を隠せなかった。リリィが頷くことも出来ずにいるとマイルは淡々と言葉を紡ぎ出す。
「俺が情報を集めているのは緑青のためだった。ひいては、赤月帝国のためだな」
不意に出た緑青の名に、リリィは小さく体を震わせた。同時に震えてしまった心を叱咤し、リリィは歯を食いしばってマイルの横顔を見つめる。マイルは自嘲に口元を歪めながらリリィに視線を傾けた。
「モルドに雇われながら大聖堂の情勢を探り、白影の里へ情報を流す。俺はそういったことをしてきた。望んで情報屋になった訳じゃないからな。同じように汚いことをするのなら、せめて緑青の力になりたかった」
マイルが明かしたことは飾り立てのない本心だと、事情をあまり知らないリリィにも理解が出来た。だからこそ余計にマイルの真意が解らず、リリィは眉間に皺を寄せる。
「どうして今、そんな話を?」
「自分にまで嘘をついてどうすると、リリィは言っていたな。覚えているか?」
まだ旅を始めて間もない頃、リリィはマイルの優柔不断さを責めたことがあった。その時のことは覚えていたのでリリィは苦い思いで頷く。マイルは無表情のまま話を続けた。
「自分に嘘をつかないと出来ないこともある。だから俺は、リリィの意見を手放しで受け入れるつもりはない」
「……うん」
深く考えることもせず感情のままに発した言葉は愚かであったと、リリィは過去の自分を恥じながら俯いた。マイルは回顧の表情を改め、リリィを見つめながら言葉を続ける。
「緑青のことでリリィが負い目を感じている以上、俺の言葉をそのまま受け入れることは出来ないかもしれない。だがもう一度だけ言わせてくれ。俺はリリィに感謝している。その気持ちに嘘はない」
マイルが立ち上がる気配を感じたが目を伏せてしまったリリィには顔を上げることが出来なかった。
「今更だが、怒鳴って悪かった」
扉が閉ざされる前に聞こえたマイルの一言に、リリィは膝の上に置いた拳を強く握った。




