第七章 古の武器庫(3)
リリィと別れた後、マイルとクロムは客間へと案内された。腰を絞ったローブを身につけた中年の女性があれこれと世話を焼いてくれたので、内心では少々うんざりしていたマイルは丁重に女性を追い払った。
「旅をしている方が気楽だな」
ベッドに腰を下ろしながら独白したマイルを見てクロムが苦笑を浮かべる。
「でも、屋根のある所で寝られるのは嬉しいですよ」
夏ならば堅苦しい礼拝堂へは入らず野外へ留まるが冬ではそうもいかないと、マイルはクロムの意見に同意した。
「それにしてもリリィさん、再会がよっぽど嬉しかったんですね」
クロムが何気なく、リリィのことに言及した。同じことを考えていたようだと苦笑し、マイルはクロムに視線を転じる。
「彼女は同郷なんだそうだ。きっと、肉親のようなものなのだろう」
クロムに説明をしながらもマイルは一抹の寂しさを感じていた。
リリィは平素、誰かを頼ろうとはしない。しかし年端もゆかぬ少女には辛い旅であることは間違いがなく、傍目にも分かるほどにリリィは必死で強がっていた。同郷の少女の前では、リリィには気を張る必要がないのであろう。だがそれは旅の同行者に心を許していないという問題ではないと、マイルは思った。
ため息を払い、マイルはベッドを下りて窓辺へ寄る。地が近い室内の窓からは白く彩られた木々が寒風に晒されている姿が映っていた。
「コアさんが戻って来るまでは特にすることはなさそうですね」
クロムが話を続けたのでマイルは表情を消して振り返った。
「そうだな。何か、やりたいことがあるのか?」
「荷物の整理をしようと思っていたんです。少し、散らかしてもいいですか?」
「最終的に片付いていれば問題ないだろう」
マイルの返事を得たクロムはさっそく荷物の中身を取り出し始めた。マイルは本やら紙片やらが乱雑に床を埋めていく様を眺めていたが、背にしている窓を叩いた小さな音に体をひねる。視線を傾けた先に人影を確認し、マイルはクロムに向き直った。
「少し出てくる」
床に座りこんで紙片を並べていたクロムが顔を上げて頷いたので、マイルは周囲を窺いながら客間を後にした。
カレンとの再会を果たした後、あまりにみすぼらしい姿をしていたリリィは湯あみをさせられていた。湯桶には座った状態で胸の下まで湯があり、リリィは時々肩に湯をかけながら手首をさすっていた。
(やっぱり、赤くなってる)
擦れるのかかぶれているのか、篭手と脛当てを装備するようになったリリィの両手首と足にはくっきりと跡が残っていた。だがそれ以上に目立つのは、何と言っても腹部の青痣である。生傷だらけの自分の体を見下ろし、リリィは重くため息をついた。
「リリィ、入るわよ」
仕切りの外側からカレンの声が届いたのでリリィはしばし考えを巡らせた。手首を見つめながらコアの言葉を反芻し、しかしカレンにならば明かしてもいいだろうと、リリィは承諾を伝える。そこで初めて、カレンは浴室に姿を現した。
平素は胸元へ垂らしているチョコレート色の髪を完全に縛り上げ、ローブではなくシャツと膝丈のズボンという出で立ちのカレンはリリィの姿を見て目を丸くした。
「どうしたの、その傷」
カレンに問われるであろうことが分かっていても、リリィには簡潔に説明する言葉がなかった。他に術がなく、リリィは苦笑する。
「ちょっと、色々あってね」
「後でちゃんと手当てしましょう」
手当てをしてもすぐに新たな傷が増えるだけであることを分かっていながらもリリィはひとまず頷いておいた。カレンが髪を洗ってくれると言うのでリリィは背中を向ける。湯に触れないよう束ねていたイエローブラウンの髪が頬にかかり、リリィは毛先を指で弄んだ。ろくに手入れもしていない髪は、ともすれば邪魔にさえなりかねない。
「……切ろうかな」
意識して伸ばしていた訳ではないのでリリィは自然と独白した。だがすぐに、カレンから叱りが飛んでくる。
「もったいないわよ。髪はすぐには伸びないのよ?」
「そうだけど……気にしてる余裕がないから」
「……髪にすら気をつけていられない生活なのね」
不意にカレンの口調がしんみりとしたものになった。改めて自分に余裕がなかったことに気がついたリリィは小さく息を吐く。カレンには伝えなければならないことが多くあり、リリィは何から話そうかと考えを巡らせながら口火を切った。
「ビリーに会ったの」
リリィがそう言うとカレンは驚いて声を上げた。だがリリィにとってビリーとの再会は苦い記憶となってしまっている。一度話を切り出してしまうと溢れ出した言葉が止まらず、リリィは忘れた振りをして胸中に溜め込んでいた嫌な気持ちを洗い浚い吐き出した。
嫌な体験を口にするうちに、リリィは涙ぐんでしまっていた。湯桶の中で膝を抱いて縮こまったリリィの肩にそっと手を置き、カレンはゆっくり言葉を紡ぐ。
「私たちが離れ離れになってから、もう十年くらいになるわね。それだけの歳月が経てば誰でも変わるわ。性格だけじゃなく、それぞれの関係もね」
お互いに、もう子供ではいられない。カレンがそう言っていることを察したリリィは無言で頷いた。だがカレンは表情を改め、諭すような口調から一転して憤りを露わにする。
「それにしてもビリーは卑怯だわ。相手の同意も得ず一方的に想いを押し付けるなんて最低よ」
「……カレン?」
豹変したカレンの態度に驚き、リリィは湯桶の中で振り返る。しかしリリィが目にしたものは穏やかな笑みを浮かべるカレンの姿であった。
「リリィ、そういう時は怒っていいのよ?」
カレンの明言を聞いた時、リリィはコアに言われたことを思い出していた。怯えは敵意にすり替えろというコアの教えとカレンが言っていることは本質が同じような気がして、リリィは思わず苦笑する。
「そろそろ上がりましょう。湯ざめしちゃうわ」
リリィの髪を洗いあげたカレンはそう言い置いてから浴室を去って行く。リリィは涙を拭い、カレンに深い感謝を示した。
モルドとの話を終えて客間へ向かおうとしていたコアは小雪の中に佇むマイルの姿を見つけた。マイルの真顔が「話がある」と言外のうちに告げていたのでコアは頷いてから歩き出す。青の間と呼ばれる貴人の客間に侵入して人気がないことを確認した後、マイルが口火を切った。
「シネラリアが陥落したそうだな」
シネラリアは北方独立国群の東に存在する女人禁制の国である。コアはマイルの情報収集能力に感心しながら話を始めた。
「らしいな。さっき、オッサンから聞いた。そっちはどこから得た情報だ?」
「情報を運んで来たのは耒の手の者だが、情報源はウィレラだろう」
ウィレラとは間者の情報交換機関の通称であり、世界の情報が集まる場所である。ウィレラは直接的な情報の売買もするが主だった機能は間者への仕事の仲介である。耒はマイルの影として動いている間者の少年であり、彼はウィレラから情報を買ったのだろうとコアは思った。
「こっちも同じだ。オッサンが雇ってるウィレラの者が運んできた情報らしい」
シネラリアを陥落させたのは大聖堂であるが戦が行われた形跡はない。マイルがそのことに言及したのでコアは豪奢なベッドに腰を下ろしながら話を続けた。
「ローズマリーの秘薬って知ってるか?」
込み入った話をする時の癖で、コアは腰に伸ばしかけた。だが思い直して自身の動きを制し、コアはマイルを窺う。マイルが首を傾げていたのでコアは話を続けた。
「むかーし西の国で使われていた媚薬なんだと。そいつが今回のシネラリア陥落に関係してるらしいぜ」
「どういうことだ?」
マイルが眉根を寄せたのでコアはモルドから聞いた話を思い返しながら説明をした。
フリングスが建国される以前から、大陸の西では貴族文化が根付いていた。そこで生まれたのが閨房の術であり、上流階級の女性は媚薬の使い方を心得ていた。だが女絡みの争いで盛衰する国家を目の当たりにするうち、次第に閨房の術は忌避されるようになった。媚薬狩りというものが行われ生成する術すら廃棄された後、閨房の術は世界から姿を消したのである。
「媚薬ってのは本来、性欲を促す薬を指す。だがな、なかには頭をおかしくさせるような強力な物があったんだと。そいつを使って国王を操り、実質一国を手中に収めていた女もいたらしいぜ」
マイルは思わぬ話に困惑しているようであったが、やがて口を開いた。
「つまり、ローズマリーの秘薬とは強力な媚薬なんだな? 大聖堂の誰かがその媚薬を使ってシネラリアの王を誑かしたという訳か」
「いつの時代も男ってやつは馬鹿だねぇ」
コアは大袈裟に肩を竦めて嘲笑を漏らしたがマイルは笑わなかった。何事かを考えているようだったのでコアは笑いを収めてマイルの言葉を待つ。
「シネラリアはその教訓を生かし、女人禁制を貫いていたんじゃなかったのか?」
ひとしきり黙した後、マイルは呆れと諦めを滲ませて首を振った。コアは目を細め、唇の端を皮肉げに持ち上げる。
「もはや習慣だった、ってことだな。意味なんかなかったんだよ」
政権もしきたりも、長く続けば膿むものである。ましてシネラリアは軍事訓練こそしていたが外敵に対する用意は何もしていなかった。半ば当然の結果だと思いながらも、さすがに無血陥落ではコアも呆れが募っていた。
「シネラリアが陥落したということは、オラデルヘルはどうなるんだ」
マイルが思い立ったように独白したのでコアも表情を改めて空を仰いだ。大陸の北西に位置する娯楽都市オラデルヘルはシネラリアと関係が深いのである。
「実情はどうか知らないが、世間にはシネラリアはオラデルヘルの後ろ盾だと映っていたはずだ。そいつがなくなっちまったんだから、まあ、どっかが欲しがるかもな」
自衛が不可能である以上、オラデルヘルは名乗りを上げた国に屈するしかなく、立地から見ればフリングスか大聖堂の傘下に入るであろう。そうコアが告げるとマイルは目に見えて肩を落とした。
「ま、あんま悲観的になんなよ。さっき俺が言ったことはあくまで推測だ。どう転ぶかなんて終わってみなくちゃわからねーよ」
嘆くマイルを軽く励ましてからコアは話を続ける。
「遺跡のこともあるし、とにかくオラデルヘルに行ってみようぜ」
コアの提案に頷いたところでマイルが何かに気がついたように首をひねった。
「そういえば、誰がシネラリア陥落を実行したんだ?」
マイルの疑問に答えるためにコアは真顔に戻り、少し間を置いてから口火を切った。
「捨山に行ってる時にな、赤月帝国の王妃が消息を絶ったとの連絡があった」
「……ヴァイス、という名だったな」
「出身は西、というところまでは判明してる。可能性は高い」
マイルはあからさまに不快の表情をつくって顔を背ける。マイルの顔に悔しさが滲む様子を、コアは口を閉ざして眺めていた。




