第二章 六白の聖女(1)
宗教的な要素、残酷な表現を含みます。苦手な方はご注意を。
東の大国大聖堂の本拠地に近い川辺の小さな集落、その酒場にコアは一人でいた。周囲の何気ない会話に聞き耳を立ててしまうのはもう癖になっていて、聞くともなく内容が頭に入ってくる。
酒場の賑わいは大方が漁や生活に関することだったが時折、戦の話も聞こえてきた。西の大国フリングスの領土までは少し距離があるが、それでも戦になればこの辺りも荒らされるだろう。
「陸の孤島に?」
ざわめきの中、気になる名称が耳を突きコアはさりげなく顔を傾けた。そこには若い男が二人でテーブルを囲っており、身なりからすると地元の人間ではない。
(情報屋か?)
コアはそう思ったが男達は売買をしている素振りもなく、通常の音量で会話を続けている。傍へ寄らずとも聞き取れそうだったので、コアはカウンターへ体を戻しグラスを傾けた。
「行ったって言うんだよ。信じられるか?」
「どうやって?」
「漁に出たら船が沈没して、気付いたら陸に打ち上げられてたんだと」
「それが陸の孤島かなんて判らないじゃないか」
「聞いた、って言うんだよ」
「誰に? あそこは人間なんか住んでないはずだろ」
「女、って言ってたな」
「女ねぇ……夢でも見たんじゃないのか?」
「かもしれねぇな。でも、あの湖に流されて戻って来れたのは奇跡だぜ」
「まったくだ」
陸の孤島のことを少しでも知っている者ならば、とても信じられない内容であった。男達もまったく本気にしていないようで、早々とその話題を切り上げて雑談を始める。
「勘定、ここに置いてくな」
夕暮れから酒場に入り浸って、もう夜は更けている。そろそろ酔っ払いが増えてまともな話は出ない時間帯なので、コアは店を後にした。
(陸の孤島……流刑人の行き着く島、か)
大陸の南西に位置するウォーレ湖は水流が独特で、螺旋のように渦を巻き流れている。ひとたび流せば二度と戻って来ないことから、昔は罪人を流したと伝えられているが真偽は定かではない。大聖堂の情報によれば島には監獄があったとされているが、こちらも確証のない話である。
いつの頃からか霧がかかり運航も困難になったため、放置されて幾年月か。記録も少ないので詳しいことは何も判っていない未開の地、それが陸の孤島なのである。
ウォーレ湖は巨大なためフリングス、南方諸国連合、大聖堂の領土を跨いで存在している。何年か前に大聖堂が独自に調査船を出したが、ものの見事に乗組員ごと消失したという事例をコアは思い出した。
(女……気になる科白だな)
考え込んだ格好のまま宿へ戻り、コアは宿泊している部屋の扉を開けた。すぐにリリィとマイルの視線が刺さり、不穏な空気を察したコアは眉根を寄せる。
「……顔が赤いな」
独白して、マイルがリリィを振り返った。
「言った通りだろう?」
「呆れた」
露骨に顔にも出し、リリィがため息を吐いた。不可解に、コアは眉間の皺を深くする。
「何だ? 何の話だ?」
「酒場で一杯、イイ女はいたか?」
マイルの軽い口調に納得し、コアは笑みを浮かべた。
「おう。とびっきりのがいたぜ」
最初から話に付き合う気はなかったらしく、リリィが無言で出て行く。リリィの後ろ姿を見送ってから、コアは真顔でマイルを顧みた。
「俺の居ぬ間に随分仲良しになったじゃん」
「頭は悪くない。話して聞かせれば大方は理解しているようだな」
「何、話したんだ?」
「お前の昔話を少しな」
嫌な表情をつくってコアはマイルを睨み付けた。
「妙なこと吹き込んでないだろうな」
「数多の異名を持つことや色っぽい女学者さんに惚れこまれてることか?」
「……わかってて言うな」
「冗談だ」
真顔で言ってのけるマイルにコアは酔いも手伝って眩暈を覚えた。
「それで、とびっきりとはどのくらい上等な話なんだ?」
マイルが本題を口にしたのでコアは煙管に火を入れながらベッドに腰を落ち着けた。
「陸の孤島って、知ってるだろ?」
「髑髏の左目か」
厄介な名称に、マイルが少し眉をひそめた。煙を吐きながらコアはゆったりと頷く。
世界地図を開いた時、全ては地続きで大陸は一つしかない。大陸のやや西北と西南に二つの湖が存在していて、地図の向きを変えると髑髏の目のように見えることからその名が付いた。
「そこにな、女がいるって話だ」
「とびっきりの美女、か」
マイルが空を仰いだのでコアは煙管を遠ざけながら訊いてみた。
「脈有りだと思うか?」
「おそらくな。だが移動手段がなければ調査も出来ないだろう」
「無駄だとは思うが一応、大聖堂で調べてくる」
「そうだな。どのみち一度行かなければならないのなら、調べてみるのもいい」
「少し時間がかかっちまうかもしれないが、お守りは引き受けてもらえるんだろ?」
「安心しろ。一般教養くらいなら叩き込んでおいてやる」
コアは本気で眉をひそめた。発言自体に問題はないのだが、マイルに言わせると不安が募る。
「余計な事まで教えるなよ」
「お前の言う余計な事とやらが具体的に提示されるのなら、その件については黙認してやってもいい」
「とりあえず、俺の個人情報は死守しろ」
「それが原因でまた惚れられたらたまらない、か?」
「……お前という奴は……」
真面目に相手をしている方がおかしくなってくるマイルの言い草にコアは灰を捨ててから煙管を腰に差し、荷物を抱えた。
「行くのか?」
打って変わったマイルの声に、コアは扉の前で振り返る。マイルは真顔のまま真っ直ぐ視線をぶつけてきていた。
「行きたくないけどな」
「なら、もっと楽にやれる方法を教えてやろうか?」
今までにも幾度か聞かされてきたマイルの忠告にコアは微苦笑を浮かべて答える。
「流れ者に戻れって言いたいんだろ?」
「ご名答。大聖堂はお前にとって枷でしかないだろう?」
マイルはある事情から大聖堂を嫌っている。また大聖堂に属してから彼と行動しにくくなっているのも事実だったがコアは笑ってごまかした。
「今更、だぜ。んじゃ、あの娘っ子よろしくな」
これ以上苦言を聞くのはお互いのためにならないと、コアは別れを告げ扉を閉めた。
川辺の小さな集落で一夜を明かした朝、男二人が宿泊している隣室へ行ってみるとコアの姿がなかった。窓辺に佇み外を眺めていたマイルが顔を向けてきたので、リリィは興味薄ながら尋ねる。
「アイツは?」
「昨夜のうちに大聖堂へ発った」
「……一人で?」
「大聖堂は秘密主義が徹底している。コアは一応大聖堂の人間だけど、俺達は関係ない一般人だから」
連れて行く訳にはいかないのだと、マイルは言った。昔馴染みと聞いただけで同類だと思い込んでいたリリィは少し意外な思いを抱いた。
「あなたは違うの?」
「組織に属するのは好きじゃない」
組織は面倒だと言ってのけたマイルの態度を、リリィは気に入った。なにより彼はコアのように棘のある物言いをしない。
「それで、どうするの? アイツが戻って来るまでここで待つの?」
「それを考えていたんだが……ずっとここで待つのも時間の無駄と思わないか?」
「思うわ」
即答したリリィに、マイルは笑みで返した。
「じゃあ、ちょっと用事に付き合ってくれ」
用事という単語の内に含まれた密かな笑みに、リリィは首を傾げた。




