第五章 五黄の聖都(11)
一行がハンセン族の集落に滞在することになってから約二月が経過し、賊の討伐に出陣する日がやって来た。出立の朝、平素は静かな集落は慌しさに包まれている。目的地までは馬で移動するので、リリィは馬具をつけた黒鹿毛の馬に跨って出発の時を待っていた。
「リリィ」
足下から声がしたので遠くを見ていたリリィは目線を下げる。馬の腹の辺りにはセンが佇んでいた。
「肩の傷、どう? もう痛くない?」
センがすまなさそうに問うのでリリィは笑って答えた。
「大丈夫。色々ありがとね、セン」
「ううん。また、遊びに来てね」
果たして、再会があるのか否か。再会することがあるのだとしてもいつになるか見当もつかなかったのでリリィは返答に困った。だが真っ直ぐリリィを見上げているセンの表情は、そのようなことは承知の上だと言っている。センと同じ気持ちでいることを感じたリリィは迷いを振り切って頷いて見せた。
準備が整ったのかセンの背後からコアが歩み寄って来る。リリィはセンから視線を転じ、コアを見据えた。
「達者で暮らせよ」
振り向きざまのセンの髪をかき回した後、コアは軽々と乗馬した。体を覆うように背後から伸びるコアの腕を下げさせ、リリィはセンに向かう。
「またね」
「うん、また会おうね」
センは満面の笑顔で大きく手を振った。コアが手綱を引き馬がゆっくりと歩き出したのでセンの姿が次第に遠ざかる。リリィは後方に体を傾けセンの姿を見つめていたが、すぐに見えなくなった。
「寂しいか?」
コアが問いかけてきたのでリリィは前方に体を戻しながら頷く。
「そうか。縁は大切にしろよ」
「……うん」
「よし、飛ばすぞ」
リリィの返事を待たずコアは馬の腹を蹴った。走り出した黒鹿毛に続き、戦士たちが馬を繰る。間もなく冬を迎える北の大地を、馬群は乱れず疾走した。
大陸の最北、北海に面する賊の根城までは時折馬を休めながらの行軍となった。途中でハンが率いる部隊と分かれ、コアが率いる百人弱の集団はひたすら北進という道筋を辿った。三日ほどかけて山道を移動し、マイルと合流したのは出発から四日目の朝のことだった。
「マイルのとこへ行け」
コアに指示されるがまま馬を下り、リリィはマイルの傍へ寄った。同行していたクロムも馬群から離れ、マイルとの短い打ち合わせを終えたコアは若者達を率いて去って行く。蹄の音が遠くなってから、リリィはマイルを仰いだ。
「ひとまず移動しよう」
マイルに先導され、リリィとクロムは山道を移動した。やがて樹木が途切れ、突然峡谷が姿を現したのでリリィは息を呑む。
「何、ここ」
「工作隊の拠点だ」
簡潔な説明を加えた後、マイルはテントが乱立している場所へ向け歩き出す。リリィとクロムは無言でマイルに従い、荷物をテントに置いてから改めて拠点を案内してもらうことにした。
約二百名から成る工作隊は峡谷の上に展開している。拠点には岩が並べられている場所があり、リリィは首を傾げた。
「あれ、何?」
「作戦を説明しておこう」
リリィと同じく首を捻っているクロムにも向き直り、マイルは説明を始めた。
賊の根城は平坦な場所にあるが馬で侵攻するには谷底の一本道を行くより他ない。かつては川であったであろう谷底は隘路であり、少数ずつしか進攻できないうえ挟撃される恐れもある。一丸となって正面から攻め入ったのでは賊より数が勝っているという利点を生かせない。そこで、軍を三つ隊に分けた。一つは崖上の工作班、一つはハンが率いる別働隊、一つはコアが率いている囮部隊である。
作戦はまず、囮部隊が正面から攻め入り敵を誘い出す。誘いに乗った敵が峡谷に侵入した後、工作班は崖上から岩を放るのである。
「落石、という計だ。全てを押し潰すには至らないが分断することは出来る。コアの部隊はそこで反転して攻めに転じる、という訳だ」
リリィは説明を聞きながら訓練の様子を思い描く。コアの部隊はひたすら、馬を走らせてから反転させるという動作を繰り返していた。
コアが手解きしていた訓練の意味を理解したリリィは全身に鳥肌が立った。青褪めたリリィを一瞥した後、マイルは説明を続ける。
「峡谷で分断された根城側の敵には、さらに上から岩や矢を降らせる。出てきた連中は逃げ帰るだろう。同時に、ハンの部隊は別の侵入口から攻撃をかけるというのが作戦の流れだ」
別働隊であるハンの部隊では馬は移動手段に過ぎない。白兵戦の訓練を積んでいるハンの部隊は市街戦と残党狩りを担当するのである。半数以上が工作隊に駆り出されたのは重い岩を動かすためであった。
「うまく、いきますかね?」
それまで黙って話を聞いていたクロムが疑わしげに口を挟む。マイルは苦笑して答えた。
「さあな。だが俺は、コアの策略が破れるのを見たことはない」
マイルの発言はほぼ断言に近く、クロムは呆れた様子で閉口する。外気とは違う寒さを感じながら、リリィは積まれた岩を眺めていた。
賊の根城へと続く峡谷の手前で四十名という小規模な軍を止めたコアは夜営を指示した。足並みを揃えるため、作戦決行は明朝である。
ハンセン族と敵対している賊は規模こそ大きくはないが軍事的なまとまりを感じさせる。その理由はおそらく、中央での戦いを経験している者が賊の内にいるからであろう。敵に軍事的な知識があるのであれば容赦はしない方が安全だと思い、コアは奇襲作戦を立ててみたのだった。
今夜のうちに敵が斥候を放っていれば、こちらが夜営していることはすぐに知れるであろう。だが気取られたのであればハンの部隊から目を逸らすことが出来、尚且つ誘い出しも容易なものになる。例え挟撃されようと退ける自信があったのでコアはそれほど深く気にしてはいなかった。
(厄介なのは工作隊が奇襲されることだな)
ハンの部隊に目をつけられるようであれば、その時はこちらが本隊となって突入すればいい。だが工作隊だけは配置が離れすぎているのでコアもハンも加勢に向かうことは不可能である。工作隊に全軍の半数以上を割いたのはそういった事態をも考慮した結果であった。
(マイルもいるし、何とかなるだろ)
マイルは軍人ではないが幾つもの戦場を潜り抜けた経験がある。指揮をして戦うことは出来ないだろうが壊滅させるようなことはないと、コアは思っていた。
(あとは……俺をどの程度に評価したか、だな)
コアは常に、こちらが目論んでいることは相手に知れているものとして考えている。よって、こちらが偵察をしたのであれば敵にもある程度の情報は漏れているはずなのだ。賊がどの程度の情報を把握しているかは探りようがないが、ここまで来れば後は個人の力量の問題である。
敵の反応が楽しみだと思いながらコアは黒鹿毛の馬を振り返った。
「おい、戦だぜ。びびるなよ」
馬も人間も初めての経験は臆するものである。馬は一見涼しげな態度であったが、コアは不敵に笑って首を撫でてやった。
寝付けない夜を過ごしたリリィはテントの中で目を覚ました。マイルとクロムの姿はなく、リリィは頭を振りながら出入り口の布を押し上げ外へ出る。すでに太陽は昇っていたが吐き出す息は白く、しかし周囲は慌しい熱気に包まれていた。
「おはようございます」
丁寧な挨拶はクロムのものであり、リリィ目をこすりながら振り向いた。
「おはよう……」
「あっちに水場がありますよ」
森を指すクロムに礼を言い、リリィはのっそりと歩き出した。リリィの気分と足取りが重いのは戦特有の高揚感が肌に合わないからである。
戦場では人間が塵芥のように扱われる。命を落とした者達は捨て置かれ、死体がひどく臭うのだ。正気ではいられない高揚感が感情を麻痺させ、無意味な笑いがこみあげてくる。そういったことを体験として知っているリリィは口元を覆いながら歩を早めた。
(……気持ち悪い)
二度と、戦場など見たくはない。死臭にまとわりつかれるのも御免だ。そう思いながらもリリィは逃れられないことを知っていた。自ら戦場に立たずとも世界を放浪する限り、いちいち心を揺さぶられていてはならないものなのである。
水場に達したリリィは胃液が上がってきたように酸っぱくなった口内を洗浄した。口に含んだ水を捨て何度も顔を洗い、リリィは額に張り付いた前髪を掻き上げる。
(大丈夫。大丈夫よね)
自分に言い聞かせてから頭を振って水気を飛ばし、リリィは凍てつきそうな顔を上げた。そして大きく深呼吸をした後、戻るために歩き出す。
リリィが野営地へ戻るとすでにテントは片付けられていた。マイルの姿は見当たらず、人混みから少し離れた場所にクロムの姿を見つけたのでリリィは傍へ寄る。
「もう作戦が始まっているみたいです」
そう告げたクロムに頷き、リリィは戦場が見える位置まで移動した。足を滑らせないよう縁からは少し距離を置き、地面に腹這いになって峡谷の底を見下ろす。谷底では隘路を追われて逃げる一団と追尾する集団が乾いた土煙を立てていた。
「土煙でよく見えませんね」
傍でクロムの声がしたがリリィは眼下の光景に集中していた。もうもうと立ち込める煙の内部から、馬群が飛び出す。最後尾の黒い馬が土煙を抜けたことを合図に、崖の上からは一斉に巨岩が放られた。
落下した巨岩が道を塞ぎ、隘路の人間たちは岩を中心に左右に分断された。二列縦隊で横幅に余裕を持たせていた集団が反転して攻めに転じる。それは集団が一つの生き物であるかのように、息の合った動きであった。
粟立ったリリィは腕をさすりながら立ち上がった。晴れ渡った空に立ち上っている赤い烽火に気がつき、リリィは天を仰ぐ。
「クロム、リリィ」
工作班の一団からマイルが走り寄って来たのでリリィは視線を戻した。マイルは移動する旨を伝え足早に歩き出す。
「ねえ、あれは?」
揺らめく赤い煙を指しながらリリィは尋ねる。マイルは足を止めずに視線を傾け、答えを口にした。
「あれは別働隊への合図だ。ハンの部隊が賊の根城へ突入する」
加えて、投げる物が尽きたら工作班もハンの部隊へ合流するのだとマイルは語った。
「コアの部隊も掃討を終えたら根城へ向かうが、その頃にはもう終わっているだろうな」
ここまではコアの思惑通りに事が運んでいる、マイルは皮肉な口調でそう独白した。リリィは足を止めず崖を振り向いてから、マイルに追いつくために歩を早めた。




