第五章 五黄の聖都(4)
マイルとクロムが出立する朝、コアと共に集落の外まで見送りに赴いたリリィはセンの姿を見つけた。センの横にはハンの姿もあり、リリィは距離を置いて立ち止まる。
「どのくらいかかる?」
平素のように話しかけるコアの問いにハンも何事もなかったかのように答えた。
「親交がある部族は十を超える。すべて巡るのなら一月はかかるだろうな」
「だってさ。どうする、マイル?」
その場の視線を一手に浴びながらマイルは思案に沈んだ。しばしの沈黙の後、マイルはコアに問う。
「訓練はどのくらいかかるんだ?」
「二月で終わらせるつもりだ。三月後には雪がくるらしいからな」
「それなら一月かけて巡ってこよう」
「りょーかい。んじゃ、頼んだぜ」
コアの言葉に送られたマイルとクロムは案内役であるハンセン族の若者に続き歩き出す。その姿が消えぬうちからコアはハンを振り向いた。
「案内してくれ」
コアの申し出に頷いたハンが先頭に立って歩き出す。コアに着いて来るよう言われたリリィは一定の距離を保ちながら従った。
「ねえねえ、昨日お父さんを張り倒したんだって?」
歩き出すなりリリィの傍へ来たセンが楽しそうに、しかし小声で話しかける。視界に入るハンの巨体に重い気持ちを抱きながらリリィも小声で応じた。
「怒ってた?」
「ううん、覚えてないみたい。アゴが痛いって言ってたけど」
自分の言葉に吹き出したセンは口元を手で覆って笑い出す。ハンが何も覚えていないと知ったリリィは少し気が楽になった。
「ごめんね。お父さん、殴っちゃって」
リリィは本当にすまないことをしたと思っていたがセンはあっけらかんと応えた。
「いいのよ。お酒を飲んだお父さんは嫌いだわ。それよりね、お母さんにリリィの話をしたら連れて来なさいって言われたの。今度遊びに来てよ」
「……怒られる?」
「違うわよ。お母さんもお酒を飲んだお父さんが嫌いなの。だからリリィのこと気に入っちゃったのよ」
「そ、そう……」
反応に困ったリリィは曖昧に笑んだ。センは変わらず、楽しそうに笑っている。曇りのないセンの笑顔は懐かしい感覚を思い出させ、リリィは胸に手を当てた。
(なんか、変な感じ……)
故郷を失ってから十年余り、リリィには同年代の女の子と何も気にせず話を楽しむという機会がなかった。半ば忘れかけていた「楽しい」と思う時間が穏やかすぎてむず痒く、リリィはセンにどう接していいか分からずにいた。
「何だ? やけに楽しそうじゃねーか」
センの笑い声が聞こえたのか、前方を歩いていたコアが振り向いた。返す言葉も見当たらずリリィは苦笑したがセンは喜々としてコアの傍へ寄る。
「コアさんっておいくつなんですか?」
「忘れたな。アンタより上なのは確かだが」
「もしかして、何処かの国に仕えていたりします?」
「何でそう思う?」
「だって、すごく強いじゃないですか。将軍様かな、って」
「んな大層なもんじゃねーよ」
興味津々なセンを軽くあしらいながらもコアは少々うんざりしてきているようであった。リリィにはコアの気持ちを汲むことが出来たがセンは気がつかず、目をキラキラと輝かせている。一見すると楽しそうな男女の様子はラーミラが見たら怒りそうな光景だと、リリィは思った。
「セン、その辺りにしておけ。着いたぞ」
先頭を歩いていたハンが足を止めて振り返ったのでセンは素直に引き下がった。着いたというハンの言葉を受け、リリィは前方へ目を移す。
いつの間にか一変していた光景に、リリィは思わず感嘆の息を洩らした。草原を柵で切り取った四角い空間では馬が悠々と草を食んでいる。
「すごいな。何頭くらいいるんだ?」
牧場を見渡しながらコアがハンに問う。ハンはコアの横へ並んでから答えた。
「ここにいるのは五百頭だ。もう一つ、別の牧場がある。合わせると千頭弱だな」
「この規模を守り抜くのは骨が折れるな」
胸の辺りまである柵を軽々と越し、コアは牧場の内で振り返った。コアに来いと言われたのでリリィは横木の隙間から体を侵入させる。コアは品定めをしているように周囲を見回していたがやがて、一頭の馬に目を留めた。
「あいつは?」
コアが指差したのは黒鹿毛の馬であった。コアがどの馬を指しているのか確認したハンが小さく首を振る。
「あれは気性が荒い。足は速いがやめた方がいい」
「じゃじゃ馬って訳ね。上等だ」
ハンの忠告に耳を貸さず、コアは真っ直ぐ黒鹿毛の馬へ向かった。馬も真っ直ぐ、コアを見つめている。馬の正面から近付いたコアは首筋へ手を伸ばした。触れられることを嫌がる素振りも見せず、馬は撫でられるがままに大人しくしている。
「乗せてくれよ」
コアがふてぶてしい口調で話しかけた刹那、馬は首を明後日の方角へ傾けた。
「……いい性格してるぜ」
馬から目を離し振り向いたコアは大袈裟に肩を竦めて見せる。リリィもつられて苦笑いを返したがハンとセンが同時に声を上げた。
「危ない!!」
コアが振り向いたところを狙い澄ましたかのように、馬は体の向きを変えていた。後ろ足をコアへ向けて突き出したためハンとセンが叫んだのだが、コアは緩やかに蹴りを躱し横方から馬に飛び乗る。コアに背を許した馬は、振り落とそうと前足を上げもがいた。コアはたてがみを掴み、落とされないようしがみつく。そうした攻防がしばらく続いたが、馬が先に音を上げた。
「まだ完全には服従してねーな。落とそうと狙ってやがる」
馬を繰って柵の方へ寄って来たコアは口元を皮肉に歪めながら言う。一連の出来事を呆然と眺めていたリリィは、ぽかんと口を開けたまま馬上のコアを見上げた。
「マイルたちが戻って来るまでにお前は馬に乗れるようになれ。いいな?」
コアが何を言っているのかも理解出来ぬまま、リリィは反射的に頷いた。馬の首筋を撫でていたコアは我慢がならないといった様子でハンに視線を移す。
「ひとっ走りしてくるわ。人を乗せるってのがどういうことか、こいつに教えてくる」
言い置いたコアはハンの返事を待たずに馬の脇腹を蹴る。たてがみを引っ張ることで方向転換を馬に示し、コアは颯爽と走り去って行った。
「……すごい」
コアの姿が柵を越えた先にある森に消えた頃、ハンが独白を零した。我に返ったリリィは恐る恐るハンを振り返り、そこで驚愕の表情を目の当たりにした。
「あの馬はお父さんもカギも乗りこなせなかったのに。あんな、簡単に……」
センもまた、コアが去った後を呆然と見つめながら言う。だがリリィには、彼らほどコアの凄さが分からなかった。
「ハミも使わず繰っていたな」
「鞍もなしよ。やっぱりすごい……」
お互いを見ることもなく父と娘はコアを賞賛している。立ち入ることは憚られる空気であったが疑問の方が勝り、リリィは口を挟んだ。
「あの……ハミって何ですか?」
すっかり第三者と化しているリリィに疑問を投げかけられたことにより我に返ったハンは表情を改めて答える。
「ハミとは馬の前歯と奥歯の間に入れる金属製の棒のことだ。普通は手綱につけ、馬を繰る」
丁寧に説明をしてもらったものの実物を知らないリリィにはうまく想像することができなかった。だが疑問の答えは得たので、リリィはひとまず頷く。
「ねえ……あの人、何者なの?」
センが深刻な表情でリリィを振り返ったのでハンの興味も注がれる。父と娘は真顔で答えを待っていたが答えようがなく、リリィは無言で首を振った。
ハンの家に招かれての夕食を済ませ、コアとリリィは早めに退散した。集落の夜は早く、丸い月が天に昇っている頃合には外を出歩いている者の姿はない。コアが煙管を引き抜いたのでリリィが顔をしかめながら遠ざかった。
「ちょっと、歩きながらはやめてよ」
リリィの嫌そうな声を聞き流し、コアは深く吸い込んだ煙をくゆらせる。一息ついてからコアは横目にリリィを盗み見た。
(……元気じゃねーか)
ハンを殴り倒した一件で数日は落ち込むかと思われたがリリィの立ち直りは意外に早かった。楽しそうに話していた同年代の少女のおかげかと、コアは思考を巡らせてみる。
「……ねえ」
煙に巻かれないよう少し先を歩いていたリリィが振り返った。月を背にしているので顔は影になっているが、その声音は真面目な話題であることを匂わせている。コアはゆっくりと煙を吐いてから応じた。
「何だ?」
「コアって、武器は使わないの?」
ルーデル遺跡の時も草原の時も、コアは素手で戦っていたとリリィは指摘した。唐突な疑問に対する驚きが収まると笑いが堪えられなくなり、コアは唇の端を引く。
(なかなかいいとこに目をつけるじゃねーか)
立ち止まっているリリィは無言でコアの答えを待っている。コアは白煙を上げる煙管を片手にリリィの傍へ寄り、歩くよう促しながら首に腕を回した。
「痛い! 何!?」
コアの腕が顎に当たったリリィは悲鳴を上げて遠ざかる。リリィに振り払われた腕を所在無く振り、コアは悠然と煙をくゆらせた。
「仕掛けがな、色々あんだよ。草原の時はこれを使った」
煙管を逆さにして灰を捨て、コアはリリィの目前に掲げた。不思議そうに首を傾げ、リリィはまじまじと煙管を観察している。
「頭部の葉を入れる所と吸い口を結ぶ部分をラウっつってな。本来は竹で作るんだがこいつは特注品だ。ちょっと持ち上げてみろよ」
説明を加えながら煙管を持つ手を下げ、コアはリリィの方へ押し出した。リリィは警戒しているようでしばらく動かなかったが、やがて煙管に手を伸ばす。
「……重い」
「巧く使えば剣くらいならなんとかなる、って訳だ」
「腕は? なんか、すごく痛かったんだけど」
煙管を放したリリィは急いて問う。指では回せないので手のひらで回転させ煙管を腰に差してから、コアは苦笑いを浮かべた。
「手の内はあんまり見せるもんじゃねえよ。それとも、俺に弟子入りでもするか?」
「……わかった」
渋々頷いたリリィは踵を返して歩き出す。蒸し返すか迷った末、結局コアは口火を切った。
「おい、ちょっと聞けや」
「何?」
再び足を止めたリリィが何の気なしに振り返る。コアは軽く頭を掻きながら言葉を続けた。
「お前、マイルに感情的にならないって宣言したんだってな」
途端にそれまでの空気は崩れ、リリィが緊張を漲らせた。黙して顔を伏せるリリィの姿にため息をつきながらもコアは話を続ける。
「感情的になるのはお前の悪い癖だ。だが人間、いつでも冷静でいられる奴なんかいないだろ」
「慰めてるつもりならほっといて」
「慰めてねーよ。お前の感情的な行動が人間一人の命を奪ったんだ、責任を感じるのは当然だからな。というか、責任を感じないことの方が問題だろ。お前はちゃんと自分のしたことを反省してるし、その点は褒めてやってもいい」
「……何の話?」
「……つまりだな、お前が落ち込むのも少しは解るって話だ」
次第に話が逸れていくことを感じながらコアは一度言葉を切った。しばらく頭をひねり整理をつけてから、コアは再び口を開く。
「根深い問題だ、どうしようもねえ。だけど無意味に自分を痛めつけるような真似はするな。本当に悪いと思ってるなら顔に出さないように努めろ」
リリィはいつになく素直に頷いた。その態度こそが自虐のように思え、コアは眉根を寄せながら言葉を続ける。
「素直なことは、いいことだ。だが従順である必要はない」
「ジュウジュン?」
「逆らわない、ってことだ」
「それって悪いことなの?」
「誰でも自分の正義ってやつを持ってる。そいつに逆らってまで他人の正義に合わせる必要はない、ってことだな」
「……よく、わからないわ」
「……わからねーか」
易しく説明しようとして行き詰まり、コアは空を仰いだ。リリィに真意を伝えるためにはもっと端的な言葉を探さなければならない。
「つまりだな、感情的になるのはお前の短所であり長所だ。好きに生きろ」
コアが言い出したことは極論であり、リリィは小さく吹き出したのち声を上げて笑った。
「アンタ、ほんっと説明下手ね」
「うるせーな。こういうことは苦手なんだよ」
「でも、なんとなく解った。 ……ありがとう」
「よし、そういうとこは素直でいいぞ」
コアは手荒にリリィの頭を撫でたが文句は返ってこなかった。最後にリリィの頭を軽くはたき、コアは手を離す。
「早く馬に乗れるようになる。今、お前が考えなきゃならんのはそれだけだ。頑張れよ」
いやに殊勝な態度でリリィは頷いて見せる。コアはあまり素直なのも気持ちが悪いと思ったが言葉にはしなかった。




