第四章 再見(11)
北から吹き寄せた冷たい風が大聖堂の本拠地である神山に季節はずれの雪を降らせた。小雪が舞い始めると同時に旅支度を整えたコアは奥の院を駆け回っていたテルを廊下で捕まえた。
「もう行くんですか?」
コアの出で立ちを見たテルは驚いた表情を浮かべた。
大聖堂には特殊な移動手段があるので雪山に閉じ込められることはないがあまり長居もしていられないので不意の雪は出発の頃合であった。テルに頷いて見せ、コアは周囲を気にしてから声をひそめる。
「お前がついてれば滅多なことはないと思うが万が一ということもある。それは常に頭に入れておけ」
「はい。あんな空気は久しぶりに味わいました」
テルはヴァイスとの遭遇を思い出し己の甘さを恥じているようであった。コアは口元に笑みを浮かべ、軽くテルの肩を叩く。
「あんまり出現しないみたいだがもう片方にも気を配っておいてくれよ」
本質的には大聖堂の人間ではないかもしれないが一度でも奥の院に姿を現したのであれば赤月帝国王も要注意人物である。コアの示唆を正確に把握したテルは力強く頷いて見せた。
「はい。わかりました」
「俺はしばらくオラデルヘルにいると思う。また移動するようなら連絡する」
「アリストロメリア様には会って行かれないのですか?」
アリストロメリアの姿を思い浮かべたコアは後ろ髪を引かれる思いではあったがテルに苦笑を返した。
「風邪をひくなとアリアに言っておいてくれ」
「わかりました。では、お気をつけて」
テルに別れを告げ歩き出しながらコアは煙管に火を入れた。コアの振る舞いは無作法であり誰かに見付かれば文句を言われることは必至であるが大聖堂の外に出てしまえばうるさい者達も追っては来ない。
神殿の廊下を歩いていたコアは前方に嫌な後ろ姿を発見し、足を止めた。長老衆の所からの帰りなのだろう、ヴァイスが同じ方角へ向かって歩いている。
「今帰りか?」
投げやりな気持ちでコアはヴァイスに声をかけた。振り向いたヴァイスは笑みを作ってコアを迎える。
「宿舎へ帰るところです。コア様は次の『列車』ですか?」
「ああ。仕事に出掛けるところだ」
並んで歩き出しながらもコアはうんざりしていた。
大聖堂は遺跡である神殿を本拠地として使用している。神殿の奥には長老衆の居室やアリストロメリアの私室などがあり、表の入り口付近には会議室や『列車』の発着場がある。幹部階級の宿舎は現在コアたちがいる神殿とは別の場所にあり、そこへ戻るというのであれば向かう先は同じである。
「調査の方はいかがです? 捗っていますか?」
大聖堂が愚者の調査に本腰を入れるのは世界を手中に収めた後である。そのことを承知していながら話題を切り出したヴァイスに、コアは鼻白みながら答えた。
「長老衆に顔が利くんなら調査員と予算を増やせと言ってくれや。今のところ成果を上げてるのは俺とラーミラだけだからな」
「現在、古代文字を解読出来る者を育てる施設を検討中です。解読が進めば調査は捗るでしょう。施設開設の折には言語学の第一人者であるラーミラ様に講義をお願いしたいものです」
「調査部隊も育成してくれや。いくら言語学者がいたって遺物が発見出来なきゃ意味がない」
「それもそうですね。検討してみます」
考えこむように口元に手を当てたヴァイスの姿をコアは横目に観察した。
ヴァイスは軍事部の人間であるが内政にまで口を出している。それは長老衆に近い権限を持っているということであり、ヴァイスはたった一つ内乱を鎮圧しただけで要人への道を歩み始めているのだ。
(たかだか二十歳前後の女が、ねえ……)
ヴァイス側にある手を口元へ運び、コアは煙を吐き出しながら皮肉に唇を歪めた。煙を気にした素振りもなく、ヴァイスは正面入り口のホールへ着くと足を止めた。
「次の『列車』は間もなくです。お気をつけて」
軍人らしく整った礼をするヴァイスを尻目にコアは煙管を逆さにして灰を捨てた。ヴァイスは磨かれた石の床に無造作に廃棄された灰を一瞥するに留め、コアの振る舞いを咎める様子はない。コアは真顔でヴァイスを見据えた後、歩き出した。
「アリストロメリア様のことはご心配なく。お体が弱い方なので私どもも気を配ります」
余計な一言が聞こえてきたのでコアは舌打ちをしてから振り返る。ヴァイスはすでに正面入り口へと向かっておりコアからは後ろ姿が見えるだけであった。
(……狸女が)
大聖堂と訣別する日はそう遠くはない。忌々しい思いを抱きながらコアはその場を後にした。
大陸の西北、ポードレール湖に浮かぶオラデルヘルでは空飛ぶ艇の目撃情報が多いと言われているがリリィが滞在するようになってから一度も艇が現れたことはなかった。バルコニーから変わらぬ夜空を眺めていたリリィは知らず知らずのうちにため息を零す。
リリィが探しているキールは神を殺したとされる愚者であり、空を飛ぶような得体の知れない者なのである。そう簡単に事が運ぶことはないと思いながらも、陸の孤島での出来事がリリィの心を贅沢にさせていた。
(求めれば再会する、か……)
大陸の西南、ウォーレ湖に浮かぶ陸の孤島でリリィは愚者と思しき女に出逢った。セレンと名乗った隠者からかけられた言葉を思い返しながら、気持ちばかりが先走っても仕方がないとリリィは己を戒める。
気分を変えるためにリリィは湖に視線を転じた。風は心地よく、鋭い月に照らされて光る湖面は美しい。闇は深く、静かにリリィの眼前に存在していた。引き込まれないようにリリィは胸に手を当てて深呼吸をする。
「月見ですか?」
背後から声をかけられたのでリリィはゆっくりと振り返った。そこにはクレルが佇んでおり、休むところなのか形式ばらない服装をしている。気取らない格好をしているクレルはリリィの目に同年代の少年として映った。
月見が目的ではなかったがリリィは頷いて見せる。クレルは外衣を脱ぎ、差し出しながらリリィの傍へ寄った。
「夜は冷えますよ。どうぞ」
夜風が冷たいと感じていたのでリリィは素直に受け取った。だがそうすると、クレルはよほど薄着に見える。
「……ありがとう」
人によって態度や言葉遣いを使い分けるクレルに、リリィはどう接していいか分からなかった。リリィには必要以上の会話をするつもりがなかったがクレルは気さくに口を開く。
「訊いてもいいですか?」
親切にしてもらって邪険にするのは悪いと思い、リリィは頷いた。欄干に手をかけたクレルは顔だけリリィの方へ傾け問いを口にする。
「どうして彼等と一緒に旅を? 特にコアなんかといたら大変じゃないですか?」
クレルの言い回しがおかしかったのでリリィは自然に笑った。
「コアのこと、よく知ってるのね」
「短い付き合いではないですから。それより、やっと笑ってくれましたね」
湖に向けていた体ごとリリィへ向け、クレルは柔らかく微笑む。それでまた、リリィはどうしていいか分からなくなってしまった。クレルの甘い言葉は、続く。
「化粧をして着飾っている時より、ありのままの貴女の方がステキです」
「……どうも」
強張った会釈を返し、リリィは心底困り果てた。
「クレル、それじゃ口説き文句だ」
救いの声が降ってきたのでリリィはホッとして振り返った。マイルの姿を認めたクレルはがらっと態度を変えて応じる。
「社交辞令だ、気にするな」
「……それはそれで失礼だ」
マイルが傾けてきた顔が苦笑を孕んでいたのでリリィは失礼なことを言われたのだと知った。だが関心がないのでリリィは軽く受け流す。
「二人とも、そんな薄着でいたら風邪をひく。中へ入ろう」
マイルの提案を受けたクレルはすぐに頷いた。上着は貸してもらったが肌寒くなってきたので、リリィも従う。だが次の瞬間、マイルが目を剥いた。何事かと振り返り、リリィは硬直する。
紅蓮に染まる空。その彼方に浮かぶ、小さな船影。記憶と同じ光景を再び目にしたとき、リリィは必然的に身を乗り出した。
北からやって来た艇は湖面に向け斜めに降下して行った。だが墜落するかと思われた刹那、白い光があふれる。
「……リィ、リリィ!!」
肩を掴まれ、リリィは我に返った。すでに空は元の暗闇を取り戻し、虚空には月が浮かんでいる。
指先を痛みが襲い、リリィは目を落とした。いつの間にか欄干に爪を立てており、握ったままの手が驚くほど白い。
「大丈夫か?」
己の意思ではなく体の向きを変えられ、リリィの瞳はマイルの顔を映した。途端に罪悪感に襲われ、リリィは頷きながら俯く。
「手当てをした方がいい」
マイルの言葉は優しく、その分リリィは自分の行動が許せなくなった。一度唇を噛んでから顔を上げ、リリィはマイルの手を振り解く。
「……ごめん、大丈夫だから」
一方的に告げ、リリィはその場を立ち去った。一人きりになってから、リリィは拳を握りしめる。
これでは、意味がない。反省も、コアの忠告も、緑青の死さえも。目先の復讐心に目がくらみ衝動的に行動した自分を罵りながら、リリィは耐えるために唇を噛んだ。
「気性の激しい娘だな。驚いた」
リリィが去った後を見つめながら呆けたようにクレルが独白する。マイルは平静を装いながらクレルを振り返った。
「親の敵が目の前にいれば誰でもあんなものだろう」
「親の敵?」
「ああ。厳密には違うかもしれないが、可能性があるということだ」
「……そうか。苦労してるんだな」
「こんなご時世だ、珍しい話でもない」
クレルが愚者についてどの程度知っているか分からないのでマイルは早々に口を噤んだ。クレルも言及しなかったのでマイルは湖に視線を転じる。白い光は収まっているがマイルの目には先程の光景が焼きついていた。
(すさまじいな……)
情報屋として依頼を受け、マイルは空飛ぶ艇の情報を得るために世界を渡り歩いた。目撃談は腐るほど聞いてきたが直接見るのは、初めてのことであった。
艇がやって来た北を仰ぎ、それからマイルは湖に視線を転じた。クレルに聞いた話では艇は西へ去って行くということだったが、先程の光景はどう見ても落下である。
(それに、あの光)
白く眩しい、突然の閃光。それは、ウォーレ湖畔でリリィが戻って来た時に生じたものと同じであるように思われた。それは陸の孤島の女も愚者、キールも愚者、という証明になるかもしれない。だが確かめようもなく、マイルは小さく首を振った。
「あれを見たのは初めてか?」
見慣れているらしくクレルは平然と問いかけてきた。クレルに頷いて見せてからマイルは息を吐く。
人間には理解の及ばない存在の彼らは、確かに『神』と呼ばれるものなのかもしれない。だが『神』は平等ではなく、気まぐれである。マイルは複雑な気持ちで光を失った湖面に視線を転じた。
 




