第四章 再見(10)
モルドが管轄する礼拝堂を出たコアは馬を乗り潰しながら大聖堂の本拠地がある神山へと向かった。昼間のうちに到着するよう急いだが間に合わず、コアが神殿へ辿り着いたのは夜分であった。寝静まっている居住区を足音を殺しながら進み、コアは聖女の私室に程近い一室の前で足を止める。あいさつもなしに扉を開け、コアはわずかな隙間から体を差し入れた。
「悪い、俺だ」
侵入した途端に突きつけられた白刃に微苦笑を浮かべながらコアは素性を告げる。声と口調で侵入者が誰であるかを確認したテルは素早く短刀を下ろした。コアは今一度周囲を窺い、聞き耳を立てている者がいないか目を配ってから口火を切る。
「灯りはつけなくていい。そのまま聞いてくれ」
テルは察しが良い少年であり、無言で応じた。小柄な影が頷く動作を見たコアは極限まで声を押し殺して話を始める。
「クローゼとヴァイスを知っているか?」
「はい。赤月帝国王と軍事部の女性ですね」
「そうだ。その二人の最近の様子を教えてくれ」
「ヴァイス様は赤月帝国の一件で長老衆に気に入られたようで、よく奥の院に姿を見せます」
聖女や長老衆の住いがある神殿の奥の院は出入りが厳しく制限されており、足を踏み入れることが出来る者はそれだけで大聖堂内における存在の重さを物語っている。コアは眉根を寄せ問いを重ねた。
「何のためだ?」
「長老衆と頻繁に話し合いをしているようです。内容までは分かりませんが」
「そうか」
「アリストロメリア様の所にも幾度か。長老衆などよりアリストロメリア様を気遣ってくれています」
テルもまだヴァイスの性根を掴みきれていないらしく返答はのんびりしたものであった。早いうちに訪れて良かったと思いながらコアは口調を強める。
「そいつらは危険だ。あまりアリアに近付けるな」
コアの言葉は短いものであったがこのような無防備な場所で余計な説明をすることがどれだけ危険であるかテルは承知しているので理由を質すことなく頷く。コアは手短に続けた。
「動向に気を配ってくれ。もちろん、他の不穏分子もだ」
「わかりました」
テルとの密談を終えたコアはこの夜の訪問を悟られないよう足音を忍ばせながら退出した。
オラデルヘルで暇になってしまってからマイルは所在無く湖を眺め続けていた。今日は湖面に雨が落ちているので室内からである。主人代理であるクレルは忙しいようで共に夜明けを迎えた日から顔を合わせてすらいなかった。
「マイルさん? 何処ですか?」
室外からクロムの声が聞こえてきたのでマイルは重い腰を持ち上げた。扉を開け、マイルは去って行こうとしていたクロムに背後から声をかける。クロムは踵を返してマイルの傍へ寄った。
「クレルさんから伝言です。今夜は時間が取れるそうなので話したいと言っていましたよ」
「そうか。ありがとう」
「いえ。じゃあ、僕はこれで」
軽く会釈をし、クロムは去って行った。何をしているのかは分からないがクロムはよくオラデルヘルを歩き回っている。たまにカジノの方へも足を運んでいる様子であった。
クロムは彼なりに余暇を楽しんでいる。マイルがそのことに気がついたのはコアが去ってからだいぶ経ってのことであった。
(……周りが見えていないな)
ため息を吐き、マイルはあてがわされている室内へ戻った。窓から見えるポードレール湖は静かに雨を湛えている。
感情を殺すことに長けているとまでは言わないまでも慣れているはずだった。それなのに、最近は出来ないでいる。
クロムが去ってからも佇んでいたことに気付き、窓辺へ戻る。目を閉じると雨が水面を打つ音が静かに心に染み入り、マイルはため息を呑みこんだ。
大聖堂へ到着したのは夜半であったので、太陽が昇ってからコアはアリストロメリアの元を訪れた。
「お早いお戻りですね」
コアを迎えるアリストロメリアは常の無表情である。だが彼女は無感情ではなく、そのことを知っているコアは大袈裟に苦笑して見せた。
「ちょっとばかし旅費がかさんでな。催促に来た訳だ」
アリストロメリアはしばしコアの話に耳を傾けていたがやがて、自ら問いを口にした。
「どうですか、外は?」
アリストロメリアは大聖堂の本拠地である神殿の奥の院と呼ばれる深奥に幽閉されているため外の世界との接触はまったくない。大聖堂へ戻って来た時、コアは可能な限りアリストロメリアに土産話を聞かせることにしていた。コアからひとしきり話を聞いたアリストロメリアは静かに語りかける。
「お体には気をつけてくださいね」
「大丈夫だ。アリアの方はどうだ?」
「悪くはありません。庭に花が咲いたのでテルとよく散歩に行きます」
アリストロメリアは幽閉されている身であるが監視が常駐している訳ではない。その理由は幾つかあるが、大聖堂の本拠地である神殿が神山の八合目付近にあり特殊な移動手段を用いなければ下山に時間がかかることが要因として挙げられる。つまり、監視などいなくとも逃げられる環境にないのである。
アリストロメリアの言葉を聞いたコアは窓辺へ寄った。
「そういや、テルが何か撒いてたな」
「キレイな花を咲かせていますよ」
「テルのことだから食用植物でも植えたんじゃないか?」
コアが軽い冗談を口にしたとき、ちょうど所用で出ていたテルが戻って来た。テルはコアを見据えており、話を聞かれていたようである。
「食べられる物でも花はキレイなんですよ」
テルがしれっと言ってのけたのでコアは吹き出した。アリストロメリアも仄かな表情を浮かべており、彼女の笑みを見たテルは嬉しそうに傍へ寄る。
「アリストロメリア様、今日は外も暖かいようですし庭を歩きませんか?」
アリストロメリアは答えなかった。促すために、コアはテルの話に乗って見せる。
「そりゃあいい。俺も案内してくれや」
「ちょうど、収穫出来そうな果実があります。後で食べてみませんか?」
「だってさ。アリア、楽しみだな」
コアが振り返りながら同意を求めるとアリストロメリアは腰を浮かせた。アリストロメリアの上着をとりにテルが慌てて走って行く。並んでゆっくりと歩き出しながらコアはアリストロメリアに尋ねた。
「アリアはどんな花が好きなんだ?」
アリストロメリアは考えるような間を置いた後、静かに口を開く。
「ここでは大輪の花は育ちません。それでも、小さな花が咲き乱れているのは美しいですね」
「そっか。じゃあ、今度の土産は大きな花にするか」
「お気持ちだけで十分です。持って来ていただいても、おそらく寒さに耐えられないでしょうから」
花をも哀れむアリストロメリアの心に、コアは感じ入りながら頷いた。コアが無闇な殺生をしなくなったのはアリストロメリアと出逢って後のことである。
アリストロメリアの私室を後にし廊下を歩いていたコアはふと、テルのものとは違う足音を聞きつけ立ち止まった。後方には若い女の姿があり、彼女はこちらへ向けて歩を進めている。
「お出掛けですか?」
コアとアリストロメリアの傍で歩みを止め、軍服姿の若い女は一礼してから口を開いた。女の容貌は腰まである黒い髪に同色の瞳というものであり、コアにとっては見覚えのある顔であった。
「ええ。庭まで」
特に表情を変えることなくアリストロメリアが答える。コアは様子を見ていたが女の方が視線を傾けてきた。
「コア様ですね? 私は軍事部所属のヴァイスと申します」
「はじめまして。ご丁寧な挨拶どうも」
白々しい初対面の挨拶に微笑みながらコアは女の顔を見据えた。ウォーレ湖畔で大聖堂軍を指揮していたのは間違いなく、この女である。
「アリストロメリア様、コア様」
ぴりぴりとした空気を破る、テルの間延びした声が廊下に響いた。緊張は解かず、コアは振り返る。
「何やってたんだ? 遅かったな」
「今日のアリストロメリア様のお召し物に合う物を探していたら時間がかかってしまいました」
「ったく、お前さんも細かいね」
和やかな雰囲気を演出しつつ、テルの目も笑ってはいない。テルから受け取った上着を手にコアは表情を改めてアリストロメリアを顧みた。
「ほら、アリア。せっかくテルが選んできたんだ」
寒さに触れる前に着込んでおいた方がいいとコアが促すとアリストロメリアは上着を受け取った。表面上はにこやかにテルがヴァイスに話しかける。
「こんにちは、ヴァイス様。長老衆にご用ですか?」
「ええ。軍の編成で話があってね」
「クローゼ様はご一緒ではないのですね」
「あの人はあれでも赤月帝国の国王だから。色々と忙しいのよ」
世間話をするテルとヴァイスの様子をコアは視線を傾けずに窺った。
ウォーレ湖畔で対峙した時、こちらは顔を確認することが出来た。それは即ちこちらの顔も見られたということだがヴァイスがそのことを口にする気配はなかった。アリストロメリアの手前穏便に済ませたかったので、コアは自然を装いテルに声をかける。
「テル、そろそろ行くぞ。日が傾いたら散歩どころじゃなくなる」
「そうですね。それではヴァイス様、失礼します」
ヴァイスに軽く会釈をしたテルが歩き出したのでコアも続いた。
「アリストロメリア様、ちゃんと着ました? 前も閉めないと駄目ですよ」
前を行くテルの声に耳を傾けながらコアは後方を振り返る。コアが目にしたものは一礼したヴァイスが踵を返し、立ち去って行く姿であった。
時間が取れるとは言っていたものの遅くなるだろうと予想していたマイルにとってクレルのやって来た速さは意外なものであった。まだ夕刻を少し過ぎたばかりであり、カジノの営業はこれからが本番である。
「驚いた。こんなに早いとは」
マイルが率直に驚きを表現すると礼服姿のクレルは頭を下げた。
「こちらから呼び止めたくせに待たせたままですまない」
「いいさ。俺は今、雇い主に暇を出されている」
頭を上げたクレルは疲れた顔で笑った。クレルの表情からはこの時間を作るために無理をしたことが窺えたのでマイルは悟られないように息を吐く。
「飲もう。この時のためにしばらく酒も絶っていた」
言うが早いかクレルは棚からグラスと酒を取り出した。お互いソファに身を沈め、マイルは湖に視線を転じる。雨はまだ続いていた。
「今宵は月が見えないな。水上の月は絶景なんだが」
「月見酒といきたいところだが、そろそろ月ごもりだ。雨が降らずとも今宵は見えていたか判らない」
クレルの言葉を聞いたマイルは昨夜の尖った月を思い浮かべた。商売の基本である暦すら失念していたことに、マイルは少し己を恥じてからグラスを傾ける。まだ酔うほどの量ではなかったがマイルは穏やかな心持ちで雨が湖を打つ音に聞き入った。
「雨も、いいものだな」
「雨の日は静かだ。客も濡れるのを嫌ってあまり来ない」
カジノの華やかな喧騒は遠く、クレルが口を閉ざすと静寂が訪れた。マイルも話題を失って無言を貫いていたがやがて、クレルが口火を切った。
「困ったな。話したいのに何を言えばいいのかわからない」
そう言ったかと思うとクレルは一気にグラスを干した。
マイルが無言でいたのもクレルと同じ考えからであった。だがきっと、これでいい。胸の内を言葉にするのは一度で十分であると、マイルは仄かな笑みをクレルへ向けた。
「他愛のない話をすればいい。酔いが回ってきた頃、話したい言葉があれば口をついて出るだろう」
「……そうだな。今は、この時間を楽しもう」
泳がせていた視線をマイルに固定し、クレルは晴れやかに笑って見せる。クレルの少年らしい笑みを見たマイルは口元だけで笑んでグラスを傾けた。
 




