第四章 再見(9)
オラデルヘルで朝を迎えたリリィは身支度を整えてから隣室へと移動した。そこは男性陣が宿泊している場所であるが室内にはコアの姿がなく、マイルとクロムが言葉を交わしていた。二人からそれぞれあいさつを受け取ったリリィは無駄に豪奢なソファに腰を下ろしながら尋ねる。
「コアは?」
「大聖堂へ行った」
マイルの答えはいつかと同じものであった。コアが単独行動をするのはこれが初めてではなく、マイルもさして気にしていない様子であったのでリリィは早々に話題を変える。
「これからどうするの?」
「コアが戻って来るまではここでライトハウスの帰りを待つ」
異議がなかったのでリリィはマイルに頷いて見せた。特に口を挟むことはなかったがクロムにも異論はないようである。マイルも呑気さを漂わせながら休暇と思って好きに過ごせばいいとだけ言った。
一度大聖堂領に入ってしまえば交通はある程度整備されているのでコアは大聖堂領最西端の町から速馬に乗り、一路モルドのいる礼拝堂を目指した。山道に馬は不要なので麓の里で預かってもらい、そこからは徒歩で山を登る。大聖堂所有の小さな礼拝堂へ辿り着いた時にはすでに日が暮れており、侵入するなり知った人物と顔を合わせたのでコアは引き抜きかけた煙管をベルトに戻した。
「コア様」
驚いたような声を上げたのはチョコレート色の髪を一つに結んだ少女である。リリィの同郷であるこの少女には一度痛い思いをさせられているのでコアは愛想笑いをつくって迎えた。
「よ、よお。久しぶりだな」
コアのぎこちなさが漂う声音を聞いたカレンは少女らしく笑った。
「リリィは元気でやっていますか?」
「ああ、まあ……元気だ」
カレンの興味は妹分であるリリィの様子に尽きるのでコアは曖昧に聞き流し、痛い腹を探られないうちに本題を口にした。
「ところで、モルドのオッサンが何処にいるか知ってるか?」
「もうお休みになられたと思います」
「自室か。行ってみる」
「コア様」
立ち去ろうとしていたコアはカレンの呼び声に恐る恐る振り返った。カレンの顔には柔らかな微笑が浮かんでおり、彼女は深々と一礼して見せる。
「リリィのこと、よろしくお願いしますね」
「お、おう」
後ろめたいので「任せろ」とは言えず、コアは足早に立ち去った。モルドの自室へと続く人気のない石畳を歩きながらコアは人知れずため息をつく。
(死にかけた、なんっつったら俺の方が死にそうだよな……)
役目を果たしリリィと別れた後、彼女らには決して会うまい。そう心に秘め、コアはモルドの自室の扉を叩いた。
「オッサン、俺だ」
内部からはすぐに返答があったのでコアは扉を開けて侵入する。後ろ手に扉を閉め盗み聞く気配がないことを確認してからコアはモルドの傍へ寄った。
「伝令もなしに訪れるとは珍しいな」
コアが訪れた理由を至急のものであると察したモルドは微かに眉をひそめながら言う。平素であれば軽い挨拶から会話に入るところであるがコアは単刀直入に告げた。
「リリィが愚者の一人と思われる女に遭った」
平素、モルドはあまり表情を動かさないがこの報告にはおもむろに驚いて見せた。モルドが驚きを収めるのを待ってコアは報告を続ける。
「ラーミラがレゾール遺跡で発掘した文書は読んでるだろ? どうも、そいつらしい」
「では、陸の孤島か」
「ああ。セレンと名乗ったと言っていた」
モルドはすでに真顔に戻っていたがまだ驚きの余韻を引きずっている気配があった。コアは深刻な様相を崩し、軽く頭を掻きながら言葉を続ける。
「正直言うと信じられないが、事実だとは思ってる」
胸中を率直な言葉にした後、コアはリリィがセレンと遭遇するまでの一部始終を語った。モルドは口を開かず、コアの言葉を咀嚼しながら慎重に頷いて見せる。リリィから又聞いた内容を一通り話してからコアは話題を変えた。
「大聖堂には伏せておこうと思ってる。厄介なことにはしたくない」
「ああ。それがいいだろう」
「それと、一応謝っておく。すまなかった」
「わたしに謝罪する必要はない。謝るのであればカレンにであろうな」
「……それは怖いからやめとくぜ」
コアが大袈裟に肩を竦めて見せるとモルドは笑みを零した。モルドの表情が緩んだのを見たコアはおどけた口調で話を続ける。
「あのお嬢さんには参るぜ。解ってるつもりでも無鉄砲なことやられると先読みがうまくいかねえ」
「危険に遭うことは本人も承知だろう。例えあの娘が死ぬことになっても、わたしには何も言う資格はない」
「……それ、圧力かけてるだろ?」
「人間は誰しもいつか死ぬ、そういう話だ」
モルドが口にした内容は生命の理だけを説いたものである。しかしモルドはみすみす若い命を失わせたくないと思ったからこそコアにリリィを託したのである。そのことは、コアも解っているつもりであった。
「運、というものがあるんだろうな。絶望的な状況下でもあの娘は生きて戻って来た」
「そして愚者にも会った、か」
「気をつけなきゃならんのは大聖堂の人間だな。リリィの存在を知ったら間違いなく殺すだろ」
「護ってやってくれるのだろう?」
「……しょーがねーな」
コアとモルドは短く笑い交わした。だが話はまだ終わりではなく、モルドは真顔に戻って口火を切った。
「白影の里が滅びたそうだな」
「……ああ。大聖堂の仕業なんだろ?」
「不穏な動きがある」
険しい口調で告げた後、モルドはさらに声を潜めて話を始めた。
「早い時期にお前の耳に入れておこうと思っていた。通達の準備をしていたのだが訪れてくれて良かった」
「ずいぶん慎重だな。そんなにヤバイ話なのか?」
「ヴァイス、という人物を知っているか?」
「いや、聞いたことない名だな」
「赤月帝国の現国王、クローゼの正室だ」
赤月帝国の王妃と聞きコアはウォーレ湖畔で見た黒髪の女を思い浮かべた。だが確証がなかったのでモルドにヴァイスの特徴を訊き、思い浮かべている人物と同一であることを確認してからコアは頷いて見せる。モルドは淡々とした口調で話を先へ進めた。
「長い間手を焼いていた赤月帝国を大人しくさせたという理由で長老衆のお気に召したらしい。近衛軍団長の地位を与えられたという話だ」
「……事実上の軍事責任者じゃねーか」
長老衆の近衛軍団長は軍事部の最高位である。近衛軍団長は長老衆の意に従い軍を動かすことの出来る権限を有し、また長老衆の代弁者としての側面もある。即ち、ヴァイスという女が長老衆に次ぐ権力を手に入れたということであった。
「また危なっかしい人事をしたもんだな」
モルドが不穏と言った理由を理解し、コアは考えに沈んだ。
確かに、大聖堂は長年赤月帝国に頭を悩ませてきた。だがたった一つ内乱を鎮圧しただけで軍事部の最高位まで上りつめるというのはおかしな話である。長老衆は大聖堂を強国へと仕立て上げた者達であり、よく知りもしない人物に全軍を預けるなどという無謀なことをするとは考えにくい。そこまで考えたところでコアはモルドに目を向けた。
「何か、他にもあるのか?」
赤月帝国を平定したこと以外にも何かがあるはずである。コアはそう思ったのだがモルドもそこまでは分からないと言った。
「ヴァイスは大聖堂の権力者と赤月帝国の王妃という二束の草鞋を履いている。これがどういうことなのか、長老衆に分からないはずがないと思うのだが……」
モルドが疑念を抱いている箇所はコアがもっとも不可解であると感じている部分であった。コアは首を捻りながら腕も組み、頭を整理しながらモルドに問う。
「赤月帝国での一件は仕組まれていたと考えていいのか?」
「政略結婚とも取れなくはないが、二人の関係については長老衆の意思は介在していない」
「……どういうことだ?」
「ヴァイスは軍事部の人間だが長老衆が気に止めるほどの人物ではなかったようだ。そして大聖堂に入る前から、赤月帝国の現国王とは親密な仲だったらしい」
「キナくさい臭いがしやがるな」
「長老衆が次の聖女に掲げるのは彼女ではないかとの噂だ。一部の間で、囁かれている」
「……傲慢な」
露骨に顔を歪め、コアは吐き捨てた。コアが不快を露わにしたのでモルドは聖女の話題を離れ、話を元に戻す。
「長老達に圧力をかけられる者など今の大聖堂には存在しない。ただ、取引はあっただろうな」
モルドの声音はいたって冷静であり、コアは怒りを殺いで眉根を寄せた。
「取引というと?」
「赤月帝国とだよ」
「じゃあ、こういうことか? 赤月帝国で王位継承を絶望視されていた若様と大聖堂の軍事部に所属する目立たない女、この二人は恋仲でした。若様は目立たない彼女を出世させるために大聖堂と組んで内乱を巻き起こしました。その過程で自分もちゃっかり王位に納まり、女も長老衆に気に入られましたとさ。めでたしめでたし?」
「大方そうではないかと、わたしは見ている」
「赤月帝国の新しい王様は計算高いな」
コアは皮肉混じりに言い放ち口元を歪めたが、彼が問題とするのは別の部分である。嘲笑を収め、コアは真顔でモルドに尋ねた。
「内政が落ち着けばアリアに危害が及ばないか?」
大聖堂の方針は大陸統一である。だが赤月帝国の煩わしさがなくなった以上、内部の問題に目が向けられるのは必至であろう。そうなると必然的にアリストロメリアに対する風当たりも強くなる。
コアの意を汲んだモルドは否定も肯定もせず、ただ事実を述べた。
「今のところ何事もない。だがこの先は分からないな」
「……オッサン、」
「今、事を起こすのは望ましくない」
コアは願望を口にしかけたがモルドが制することも分かっていた。コアは長老衆の顔を思い浮かべ忌々しい思いで唇を引く。
「早く死んでくれねえかな、あのクソジジイども」
「焦らないことだ。先走れば成功するものも失敗する」
「……ああ。テルにだけはよく言っておく」
「一度、自分の目で確かめた方がいい。今の大聖堂がどうなっているのか」
「そのつもりだ」
訪れたばかりではあったが別れを告げ、コアはモルドの自室を後にする。その足で礼拝堂も後にし、コアは大聖堂の本拠がある西へと向かった。
オラデルヘルの夜、マイルはバルコニーへ出て闇に染められたポードレール湖を眺めていた。他に何もすることがないので風に身を委ね、マイルは重く息を吐く。己以外に聞く者のないため息は風に流され虚しく消えて行った。
ただ待つという行為は心の襞に膿を溜め思考を侵していく。腐ってしまわぬよう軽く頭を振り、マイルは必然的にクレルの姿を思い浮かべた。
マイルが抱いたクレルの第一印象は『不快な奴』である。理由は幾つかあったが優男を演じ周囲をたぶらかす手法がマイルの好みではなかったことが要因に挙げられる。だが実際に話をしてみるとクレルにはマイルが考えていたような軟派さはなかった。むしろクレルの性根は堅い男であり、素顔と第一印象が重ならないのは彼の出自のせいである。
(……好きなのか?)
気持ちが定まらなかったのでマイルは自身に問いかけてみた。だが自問に返る言葉は、ない。
二人で酒を酌み交わした日から、マイルはクレルの告白まがいの言葉を聞き自らも郷里の話をした意味を考え続けていた。クレルの自嘲する姿を見た時に抱いた哀れみに似た感情が何であったのか、マイルは思考を巡らせる。
(同情、なのか)
脳裏に浮かんだ言葉をマイルはすぐに否定した。
マイルは同情や慰めというものが無意味であると身をもって知っているので軽々しく同調することを己に禁じてきた。皮肉げに口元を歪めていたクレルの考え方は、おそらくマイルと大差ない。その彼が何故、不名誉な過去を自ら語り出したのかマイルには分からなかった。
(……他人のことは訊いてみなければ分からない、か)
ため息をつき、マイルは無意味な思案を夜空へ投げた。自分のことも分からないのに他人の心の内を思い描いていても仕方がないのである。
(人間は誰しも傷を負う。生きていれば当然のこと、だよな)
懐中にある首飾りに手を当て、マイルはゆっくりと瞼を下ろした。
 




