第四章 再見(4)
グラスに注がれた琥珀色の液体を控えめに含んだリリィは目を剥いた。
(つ、強すぎる……)
口の中から鼻までアルコールに満たされ、刺激された喉は拒絶を示している。酒というものを飲んだことがない訳ではなかったがこれは異常であると、リリィは片手をテーブルに突き体を支えた。
「お嬢ちゃんにはまだ早かったかしら?」
硝子テーブルを挟んでリリィと向かい合っているネオンは笑い、平然と杯を重ねてゆく。顔を上げたリリィはあ然としながらネオンが傾けるグラスを注視していた。ネオンは空になったグラスを置き、リリィに挑戦的な笑みを向ける。
「横になってもいいのよ? 大丈夫、何もしないから」
「大丈夫です!」
「まだ全然いけるのね? もっと飲みなさいよ」
まだ半分以上残っていたリリィのグラスにネオンはなみなみ酒を注ぐ。乗せられたことに気がついたリリィは後悔したがすでに後の祭りであった。ネオンは甘い臭いのする葉巻に火をつけ、優雅に足を組みながら唇を開く。
「あんた、何処の出身なの?」
「……オキシドル」
「オキシドル? 何処にあんの、それ?」
ネオンが知らないのは当然のことであったが明るく投げられた疑問はリリィの気分を重くさせた。
オキシドルとは大聖堂内で使われている遺跡の名称である。リリィの故郷は遺跡に近い場所にあり名もない集落であったため、便宜上「オキシドル遺跡の村」などと呼ばれている。オキシドル遺跡は髑髏の顎と呼ばれる大陸の最東に連なる山の中に存在し、リリィの故郷は地図にも載らない代物だったのである。
リリィが表情を曇らせたことを察したネオンはすぐさま話題を変えた。
「あんた、この街嫌いでしょ?」
微塵の躊躇もなく頷いたリリィの態度がおかしかったようでネオンは声を上げて笑った。
「田舎者の典型。そこまで行くと天然記念物ね」
「……どうせ田舎者の子供よ」
「拗ねたの? ほんっとガキね」
気遣ってみたり笑いものにしてみたりとネオンの態度はころころ変わる。初めは戸惑っていたリリィもこの頃になると確信していた。
(絶対憂さ晴らしに利用されてる)
そうは思うもののネオンの笑顔には憎みきれない親しみがあった。なにより宿に戻る気にはなれなかったのでリリィは甘んじてネオンの玩具になることを選択した。
「連れってどんな奴なのよ? イイ男?」
ネオンの話の逸らし方はすさまじく、酒を舐めていたリリィは吹きそうになった。答えようもなかったリリィは口元を拭ってからネオンを見る。ネオンは色素の薄いブラウンの髪を無造作に掻き上げながら気怠そうな表情をつくった。
「アタシも馬鹿な男にふられてさ、癪だから今夜の客全部断ったの」
「ふられるって……本気ってこと?」
「なに馬鹿なこと言ってんの? 決まってんじゃん」
「……意外」
リリィが思わず本音を零すとネオンは険のある顔つきになった。
「あんた、何か勘違いしてない?」
ネオンに鋭い視線を向けられたリリィは失言をしたことを知った。ネオンは顔に怒気を表したまま興奮気味に言葉を続ける。
「娼婦は本気になっちゃいけないっての?」
「そんなことは……」
「だったら意外ってどういう意味?」
深く考えてした発言ではないので問い詰められるとリリィには返す言葉がなかった。黙りこくったリリィを見たネオンはわざとらしく、大きく息を吐く。
「仕事と私生活は別。どんな仕事してようが同じでしょ」
「……ごめんなさい」
「さてはあんた、働いたことないわね?」
ネオンの言葉は的確であり、リリィは苦い気持ちで頷いた。
養父母の元で生活していた頃はただ養ってもらい、モルドの元では共同生活に必要な勤めを果たしていただけである。そして現在はコアを頼っているリリィにはネオンの言うような「働いた経験」はないのである。
「恋もしたことないでしょ?」
出会って間もない人物に次々と言い当てられたリリィは返す言葉が見当たらなかった。リリィが閉口したままでいるとネオンは立ち上がり、棚から何かを手にして戻って来た。
「これ、あげる」
ネオンの白い腕が目前に下げられたのでリリィは座ったまま仰ぎ見る。彼女の手には二枚貝が乗っており、リリィは怪訝に眉根を寄せた。
「……何?」
「口紅。恋でもしてもうちょっと大人になったら、それつけてまた来な」
ネオンが強引に握らせるのでリリィは戸惑いながらも受け取った。満足そうな笑みを浮かべ、ネオンは再びソファに腰を下ろして足を組む。
「イイ女になりたかったら色んな男を見ることね」
「私、別に……」
「いいから。もっと飲みなさいよ」
上機嫌なネオンの勧めを断れず、リリィは少しずつグラスを傾けた。
ネオンの街を探し回っても誰に尋ねてもリリィの行方が知れなかったのでコアは仕方なく、再びネオンの屋敷を訪ねた。するとそこには探していた姿があり、コアは呆れながら惨状を眺めた。
室内にはネオンとリリィの姿があり、ガラス製のテーブルには酒瓶とグラスが置かれている。すでに酔い潰れているリリィはソファにだらしなく肢体を投げ出しており、コアは痛むこめかみを押さえながら悠然とグラスを傾けているネオンを見た。
「まだ何か用? 見ての通り今忙しいの」
横たわるリリィを顎で指しながら葉巻をくわえるネオンへ向け、コアは頭を下げた。
「すまん、そいつ俺の連れだ」
夜の街をうろついていたリリィは不法労働者に間違われてネオンの元へ連れて来られたのであろう。そこまではすぐに察したがコアにはその後の展開がまったく読めなかった。コアがその旨を尋ねるとネオンは愉快そうに口元を緩める。
「ケンカした馬鹿な男ってあんたのことだったのかい。相変わらずモテるね」
「よしてくれ。子供にゃ興味ない」
「このくらいの歳の子なんてあっという間に大人になるよ」
「だから、そうじゃないんだって」
「同じだよ」
口元に笑みを残したままネオンは干したグラスを置いた。ネオンに葉巻を差し出されたコアはありがたく受け取り、火をつけて一息つく。ネオンは柔らかな表情のままリリィを見た。
「馬鹿な娘だね。でも、嫌いじゃないよ」
ネオンは娼婦ではあるが洗練された都会の女である。田舎娘であるリリィのようなタイプは嫌いだろうと思っていたコアは意外に思い、ネオンを見つめた。だがネオン自身のことには言及せず、コアは醜態を晒しているリリィへと視線を転じる。
「こいつは馬鹿正直な子供でな。相手してると疲れる」
愚痴のようなコアの言葉を聞いたネオンは唇の端を引き、葉巻でコアを指した。
「大方、その首でも見られてケンカになったんだろ?」
「ったく、どうしてどいつもこいつもそういう考え方するかね?」
「女ってのはあんたが考えてる以上に繊細なのさ」
「繊細? ネオンの言葉とは思えないな」
「だからあんたは馬鹿な男って言われるんだよ」
「なんだよそれ」
コアは呆れながら真意を訊いたがネオンは返事をしなかった。ただ笑むだけのネオンの様子に眉をひそめながらコアはリリィの傍へ寄る。
「迷惑かけたな」
「楽しかったよ。約束忘れんなって、起きたら言っといて」
「約束?」
「女同士の話だよ」
ネオンの言葉は難解であり理解することを諦めたコアは曖昧に頷きながらリリィを担ぎ上げる。それから改めて、コアはネオンを振り返った。
「今度はもっとマシな土産持って来るわ」
「期待しないで待ってるさ」
物分りのいいことを言ってのけ、ネオンは空のグラスに酒を注ぐ。一人で晩酌をしている女の姿に哀愁を感じたコアは慰めようかとも思ったがすぐに思い直した。
以前なら、そういったことはキス一つで済んだ。だがあの頃とは違うのだと苦笑し、コアは軽く手を振るだけで踵を返した。
ネオンの宿の一室でリリィは吐き気を催して目を覚ました。最悪の目覚めの後洗面所に駆けこみ、リリィはふらつきながら客室へと戻る。そこにはマイルとクロムの姿があり、リリィはベッドに腰を落ち着けてから彼らを迎えた。
「大丈夫ですか?」
リリィを気遣いながらもクロムの顔は蒼白であった。座っているのもやっとの状態ではあったがリリィは眉をひそめる。
「そっちこそ、顔真っ青なんだけど」
「クロム、いいから戻ってろ」
マイルが容喙し、促されたクロムは大人しく退散して行った。痛む頭を片手で支えながらリリィはマイルを見上げる。
「クロム、どうしたの?」
「コアにさんざん連れまわされたんだ。可哀相に」
「そ、うっ……」
頷いたところで吐き気が再来し、リリィは洗面所へと走る。呼吸を整えようと息を吸うたび目眩が増し、リリィは前後不覚に陥った。後を追ってきたマイルに支えられながらベッドに戻り、リリィは枕に頭を沈めながら問う。
「……私、何でこんな気持ち悪いの?」
「ネオンという女性に会ったことは覚えているか?」
マイルがネオンの名を出したことでリリィはおぼろげながら不調の理由に思い当たった。納得すると同時に申し訳なさが生まれ、リリィは寝転がったままマイルを仰ぐ。
「ごめん、大丈夫だから」
「薬をもらってくる。ゆっくり休むんだな」
淡白に言い置き、マイルは去って行く。瞼を下ろすと吐気に襲われるという状況では眠ることも出来ず、リリィは口元を覆って横向きに転がった。
全ての原因が己にあるにもかかわらず、ほったらかしで寝ていたコアも昼過ぎには目を覚ました。換気のため開けていた窓を閉め、マイルは起き上がったコアの傍へ寄る。
「出発は少なくとも明後日以降だな」
「なんだ、連中まだ死んでんのか」
体を起こすなり煙管に手を伸ばすコアを窓辺に追いやり、ようやく一息ついたマイルは空いているベッドに腰を下ろした。寝起きの乱れた頭を掻きながら煙を立ち上らせるコアの態度は横柄であり、マイルは非難の視線を注ぐ。
「いくら無料とはいえ加減をわきまえろ」
「リリィのは俺のせいじゃないぜ。クロムだって最後は自分の意思で飲んでたんだから、これも俺のせいじゃない」
「屁理屈はよせ。事の発端は全てお前だろう」
「まあ、いいじゃねーか。たまには」
「そういうことは二日酔いの看病までしてやってから言え」
「そうやって自分の適量ってもんを量るんだよな」
あくまで屁理屈で躱そうとするコアに見切りをつけたマイルは深々とため息を吐いた。
「時間の無駄だとは思わないのか?」
「それは思うな」
「だったら無意味な行動はやめろ。大体、この街に来てから何の収穫もないんだぞ」
「これはオラデルヘルに着くまで伏せておこうと思ったんだが」
コアが突然真顔に戻ったのでマイルも表情を改める。コアはもったいぶるように煙を吐いてから口を開いた。
「オラデルヘルには遺跡があるらしい」
「……何故、そういうことを先に言わない?」
怒りすら湧かない脱力感に見舞われたマイルは呆れて息を吐く。コアは真面目な表情のまま話を続けた。
「これは赤月帝国も大聖堂も管轄外の物なんだ。存在すら知らないだろうな」
「お前は何故知っているんだ?」
「昔、オラデルヘルの主人から聞き出した」
「赤月帝国も大聖堂も知らないということは外観からは分らないということだろう? 地下遺跡なのか?」
「詳しいことは何も教えてくれねーんだよ。ずっと頼み込んでるんだけどダメの一点張り」
コアの返答を聞いたマイルはある危惧を抱いた。
遺跡は必ずしも愚者の情報に結びつくとは限らない。だが隠そうとしている態度は不可解である。もしオラデルヘルの主人が愚者の存在を正しく理解しているのであれば空飛ぶ艇を目撃しようなどという冒涜まがいの真似はしないであろうとマイルは思っていたのだが、コアの話から憶測を巡らせると少々事態が変わることとなる。
「まさか、オラデルヘルの主人も愚者の存在を知っているのか?」
オラデルヘルの主人が愚者の存在を知っており、さらには求めているのであれば不可解な行動には一応の説明がつく。マイルはそう思ったがコアは眉根を寄せるに留めた。
「存在を知っているかどうかは微妙だな。だがまあ、利用しようとしていることは確かだろ」
「……それは放置していて大丈夫なものなのか?」
「あのオヤッサンはさ、神秘の力とかは眼中にねえんだよ。得体の知れないもんが空を飛んでる、この珍しいもんを集客に利用しない手はねえってことだな」
「それはつまり、金儲けの道具として利用しているという話か?」
「罰当たりだよなぁ。そういうことを平気でやってのける奴が神さんを信じてるとは思えないから大丈夫なんじゃねえ?」
コアの不真面目な発言も罰当たりに相当するのではないかとマイルは思ったが、そのことについては言及を避けた。世界には数多の神がいるが存在を信じていないのはコアもマイルも同じである。コアと見解が一致したのでマイルはひとまず憂慮を忘れることにした。
「まあ、いい。そういう事実があるのならこの街で過ごした時間も無意味ではないと感じる」
「さっさとオラデルヘルに行こうぜ」
損な役回りを押し付けられたマイルは気楽なコアの発言に不満を抱いたが言っても仕方がないことであったので折れることにした。




