第四章 再見(2)
娼婦街ネオンは朝を迎えると夜の賑わいが嘘のように静まりかえる。閉店まで酒場で情報収集をしていたコアは欠伸を噛み殺しながら宿へと戻った。
豪奢な宿ではマイル名義で二部屋が借りられており、コアは部屋の番号だけ確認して扉を開けた。そこには寝ているクロムだけしかいなかったので隣の部屋も覗いて見る。だが隣は無人であったのでコアはクロムがいる部屋へと戻った。
「おい、起きろ」
コアに揺すり起こされたクロムは寝ぼけた顔をしながら起き上がった。のっそりとベッドの上に座るクロムの姿を横目にコアは煙管を引き抜きながら声をかける。
「マイルとリリィはどうした?」
「昨夜のうちに何処かへ行ってしまいました」
「はあ? 何処行ったんだ?」
「聞きこみ調査をしてくるからニ、三日戻らないとか」
「なんだよそれ」
ポードレール湖に浮かぶオラデルヘルに行くには舟に乗らなければならず、そのために一行はネオンへ立ち寄ったのである。すぐにでもオラデルヘルに行くものと思っていたコアは身勝手なマイルとリリィの行動に気分を害したがクロムの白けた視線に気がついたので眉根を寄せる。
「……なんだよ」
「それ、落としておいた方がいいですよ。リリィさんが嫌がるでしょうから」
「あ?」
「キスマーク、でしょう?」
「馬鹿、勘違いすんな。これはな……」
コアは首筋に残る口紅の意味を説明しようとしたがクロムはふいっと顔を背ける。その態度は聞く耳持たずといった風でありコアは立腹した。
「ちょっと来い! せっかくだからこの街での楽しみ方を教えてやる」
「僕はいいですよ……」
「ガタガタぬかすな! いいから来い!!」
嫌がるクロムを強引に着替えさせ、コアは眠ったばかりの街へ再びくり出した。
昇ったばかりの太陽が眩しく辺りを照らしている。汗ばんだ体の芯まで届くような温かい光を浴び、リリィは膝に手をついて顔を上げた。
荒い呼吸を整えながらリリィは朝日に煌く湖に視線を転じる。湖には小島が浮かんでおり、そこが娯楽都市オラデルヘルである。
「朝から精が出るな」
背後から声をかけられたリリィは慌てて振り返った。マイルの姿を認めたリリィは気忙しく朝の挨拶を口にする。マイルは穏やかな笑みを浮かべ湖岸を指した。
「向こうに水場がある。人が来ないうちに汗を流してくるといい」
「うん、そうする」
マイルに短く別れを告げ、リリィは歩き出した。平然を装ったがリリィの胸には重く沈んでいる事柄がある。
先のウォーレ湖での一件でリリィはマイルの友人を死に追いやった。ネオンの街があまりに肌に合わなかったのでそのことを失念していたリリィは今になって気まずさを感じていた。しかしマイルにはもう、気にする素振りは見られない。
(……あんまり私ばかりこだわるのも良くない、か)
冷たい水に体を浸しながらリリィは左手を見つめた。そこは旅立つ前に自身で傷つけ、緑青に手当てをしてもらった場所である。
リリィは左手でつくった拳を胸の前に置き、右手でそっと包み込んだ。
(私が、奪ったんだわ)
大切な人を失うことの辛さをリリィは体験として知っている。にもかかわらずマイルに同じ痛みを味あわせた己を、リリィは許せなかった。
だがマイルは、許そうとしている。何事もなかったかのようなマイルの言動からそう察したリリィは罪悪感を顔に出さないことを決めた。
(強く、なりたい)
透明な水をすくいあげ、リリィは勢い良く顔に飛ばした。
ネオンの街で三日三晩、コアに連れまわされたクロムは宿に戻るなり倒れるように眠りに落ちた。クロムの様子を尻目にコアは窓辺に佇み煙管に火を入れる。
クロムはうつ伏せに倒れたきりぴくりとも動かない。だがそのまま窒息死するほど人間は愚かではないだろうとコアは放置を決め込んだ。
(揃いも揃って子供だな)
コアが紫煙と共にため息を吐き出すと扉が開いてマイルが姿を現した。マイルは死んだように眠るクロムに眉をひそめながらコアの傍へ寄る。
「あまり羽目を外しすぎるなよ。何から何まで高くつく」
マイルの開口一番が嫌味であったのでコアは鼻で笑った。
「俺はお得意様だから問題ねえよ」
「笑えない冗談だな。大体、ここの宿代だけでいくらになると思ってるんだ?」
「お前らが勝手な行動とるからだろ?」
「もう少し気を遣ってやれ、何度言わせる気だ?」
「はいはい。俺が悪かったよ」
無意味な言い争いに終止符を打つべくコアは口先だけで謝罪した。不満そうにしながらもマイルは話題を変える。
「何か目新しい情報はあったか?」
「いや、さっぱりだな」
「こちらも進展はなしだ」
「さっさとオラデルヘルに行くぞ。リリィは隣か?」
灰を窓から捨てたのち煙管を腰に戻し、コアは話しながら歩き出す。マイルが非難の視線でコアを制した。
「……何だよ?」
クロムに向けられたような白けた視線を感じたコアは顔をしかめながらマイルを顧みる。マイルは小さくため息をついてから口火を切った。
「お前とは顔を合わせたくないようだ。この意味が解るだろう?」
「……なんだってそう目の敵にするかね?」
「お前の行動は派手すぎるんだ。もう少し目立たないようにやれ」
マイルの目線が首元へ注がれたことを察したコアは大袈裟に肩を竦めて見せた。
「何故そういう解釈しか出来ないんだ?」
「この街でそういうものを見れば誰でも同じように思うだろう」
「俺のこと誤解しすぎじゃねえ?」
「俺達はいいとしてもリリィは女の子だぞ。しかも年頃のな」
「……わかったよ。もうこの街を出るなら関係ないしな」
「念のために聞いておくが、いくら使った?」
「だから、一銭も使ってないっつーの! 金を使わないためにわざわざコレをもらいに行ったんだ!」
首に残る口紅を指しながらコアはいきり立った。だがネオンの仕組みを知らないマイルは首をひねる。
「どういう理屈になるんだ?」
コアは一から説明しなければならない面倒さにうんざりしながら口を開いた。
「ネオンって女がいてな。娼婦達を仕切ってる奴で、この街で一番偉い。この色の口紅はネオンしか使えない、んでもって気に入った奴にしかネオンはコレをつけてくれない。フリーパスみたいなもんでな、コレがあればどの店でも無料にしてくれる」
「そんなに都合のいいものなのか」
「だからここの宿代もかかってないんだよ」
「それは俺が悪かった。有意義な働きをしてくれていたんだな」
マイルが理解を示したのでコアはため息をついた。だがマイルはすぐ真顔に戻り、苦言を続ける。
「だがな、誤解される方にも問題はある」
「問題?」
「クロムもリリィも、お前が女遊びをしてきたと思っている」
マイルがベッドに伏しているクロムに視線を傾けたのでコアも従った。だが一瞥するに留め、コアは再びマイルを見る。
「コイツには三日かけて違うってことを教えてきた。問題ない」
「……だから倒れてるのか」
「卒倒だったな」
マイルは呆れたように息を吐いたが険は薄れていなかった。
「リリィはまだ誤解したままだぞ」
マイルは暗にきちんと説明をしろと言っており、コアはため息を吐きながら頭を掻いた。
夜の装いをしたネオンの街へ戻ったリリィは改めて嫌悪を感じていた。
リリィには己が抱いている嫌悪がどのような感情からくるものなのか理解するだけの知識がなかったが理屈ではないのである。生理的な嫌気を解消する術を見出せなかったリリィはさっさと寝てしまおうとベッドに寄ったが、そこへコアが姿を現した。あまり会いたくなかった人物の来訪をリリィは顔をしかめて迎える。
「何か用?」
リリィが露骨に不機嫌を表すとコアは困ったように頭を掻いた。
「あのな、誤解されてるようだから説明しに来たんだよ」
「別に、説明なんていらないわ」
夜の街に姿をくらませたコアが何をしてきたのか、そのような説明をリリィは聞く気になれなかった。顔を背けたリリィの態度に眉根を寄せ、コアは話を続けようとする。
「聞けよ」
「あんたが何処で何してようと勝手じゃない。わざわざ私に説明する必要なんてないわよ」
「……おい」
「私、もう寝たいんだけど」
あからさまな拒絶を示し、リリィはコアを睨み見る。コアは先程までの少し弱ったような表情を消し無言でリリィの傍へ寄った。
コアに腕を掴まれた次の瞬間、リリィは床に体をぶつけていた。反射的に上体を起こしたリリィは怒気を孕んだ瞳で佇んでいるコアを見上げる。
「なにすんのよ!!」
リリィは声を荒げたがコアは微動だにしない。見下げてくるコアの顔があまりに冷たいものであったのでリリィは息を呑んだ。
「思い上がるのもいいかげんにしろよ」
コアの声音は一切の感情を消し去ったものであった。怒りすら窺えない冷徹さが恐ろしく、リリィは思わず目を背ける。コアはすっと目を細め、リリィを見下したまま言葉を続けた。
「子供に理解してもらおうなんざ最初から思っちゃいねえ。だけどな、お前何様のつもりだ?」
「……何様のつもりでもないわ。思ったままを言っただけよ」
リリィは顔を向けることが出来なかったがコアから放たれる尋常ではない重圧を感じていた。体は小刻みに震え出したが罵りたい気持ちは止まらず、リリィは恨み言のように言葉を紡ぐ。
「この街は嫌い。居たくない。あんたの顔も見たくない」
「なら、出て行けばいいだろ」
コアが本気で言っていることが分ったのでリリィは息が詰まる思いで顔を上げた。顎で扉を指しているコアの首元に目を留め、リリィは立ち上がって拳を握る。
「言われなくたってそうするわよ!!」
リリィは扉を蹴り開け、そのまま夜の街へ飛び出した。
 




